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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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碁
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
新郷村
曖昧さ回避 この項目では、青森県にある村について説明しています。その他の村については「新郷村 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
しんごうむら
新郷村
国 日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 青森県
郡 三戸郡
団体コード 02450-3
法人番号 5000020024503
面積 150.77 km²
総人口 2,444人
(推計人口、2017年5月1日)
人口密度 16.2人/km²
隣接自治体 十和田市、鹿角市、
三戸郡南部町、三戸町、五戸町
村の木 トチ
村の花 ミズバショウ
村の鳥 なし
新郷村役場
村長 [編集] 櫻井雅洋
所在地 〒039-0801
青森県三戸郡新郷村大字戸来字風呂前10
北緯40度27分56.7秒東経141度10分24.3秒
2009年(平成21年)3月撮影
外部リンク 新郷村ホームページ
新郷村位置図
■ ― 市 / ■ ― 町・村
地理院地図 Googleマップ Bing GeoHack
MapFan Mapion Yahoo! NAVITIME ゼンリン
表示・ノート・編集・履歴 ウィキプロジェクト
三ッ岳
新郷村(しんごうむら)は、青森県東南部の南部地方に所在する村。
キリストの墓伝説やユダヤにまつわると言われる祭礼・遺跡があり、神秘の村としても知られるが、その発祥は1935年以降である(後述)。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
2.1 平成の合併協議以降の経緯
3 行政
4 産業
4.1 特産品
4.2 郵便
5 地域
5.1 人口
5.2 所轄警察署
5.3 所轄消防署
6 教育
6.1 中学校
6.2 小学校
6.3 保育園
6.4 金融機関
7 交通
7.1 路線バス
7.2 道路
8 名所・旧跡・観光スポット
9 祭事・催事
10 伝説・習俗
11 脚注
12 外部リンク
地理[編集]
十和田湖の東側に位置する。村の西端は秋田県鹿角市との境を接する。十和田湖外輪山の一つである戸来岳(大駒ヶ岳、三ッ岳)に面し、山や森林に恵まれている。八戸と十和田湖を結ぶ国道454号沿いに村域が伸びており、東北新幹線八戸駅から村役場への直線距離は22kmである。
山 : 大駒ヶ岳 (1,144 m) 、三ッ岳 (1,159 m)(総称は戸来岳)
河川 : 三川目川、五戸川、浅水川
歴史[編集]
南部氏の軍馬育成地として古くより放牧地として利用されてきた。南部藩時代には、戸来地区に戸来氏が、西越地区に西越氏が治めていた。江戸後期、明治時代に入ると酪農が盛んとなった。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、近世以来の戸来村が単独で地方自治体として発足。西越村・手倉橋村と合併して野沢村が発足。
1955年(昭和30年)7月29日 - 戸来村、野沢村の一部(西越)の合併により新郷村が発足。昭和32年第2回定例議会において、この日が合併記念日と制定される。
1956年(昭和31年)4月1日 - 五戸町の一部(手倉橋の一部)を編入。
1965年(昭和40年) - 八戸から五戸経由の十和田湖線のバスが開通。
1974年(昭和49年) - 十和田湖に隣接する迷ケ平高原が、自然休養林に指定される。
平成の合併協議以降の経緯[編集]
2000年(平成12年)
1月31日 - 五戸地方振興会合併研究会(五戸町、倉石村、新郷村)が設置。
12月28日 - 五戸地方の合併を主題に新郷村職員全員研究会が開催される。
2001年(平成13年)
2月21日 - 五戸地方振興会合併研究会が五戸町役場で最終会合を開催。「まずは三町村の組み合わせによる合併の検討を優先。任意の協議会を設置すべきだ」との報告案を承認した。しかし任意協設置については、五戸町長から慎重意見が出され、正式決定を持ち越した。
6月1日 - 五戸地方合併協議会(五戸町、倉石村、新郷村)設立。
2002年(平成14年)
6月27日 - 五戸地方合併協議会第7回会議において、細川潤八郎新郷村長が「設立当初と財政事情が変化してきた」とし三町村合併の問題点を指摘した。[1]
7月22日 - 五戸地方合併協議会最終となる第8回会議が開催。三町村の合併を想定した将来構想を承認した。しかし八戸市との大同合併を唱えた細川潤八郎新郷村長は「この協議会で八戸論も検討し、三町村が共通認識に立つべきだ」と述べる[2]。
10月7日 - 村議会が全員協議会を開き、八戸地域と合併を進める方向で意見集約した。
10月9日 - 細川村長は八戸市長に、同市など七市町村で作る合併協議会への参加を申し入れた。これにより八戸地域での合併を目指すことになる。
10月31日 - 五戸地方合併協議会が解散。新郷村は八戸市との合併を目指す。一方、五戸町と倉石村は合併協議を継続した(2004年7月1日に合併し、新「五戸町」が誕生)。
2003年(平成15年)4月1日 - 八戸市、田子町、名川町、南部町、階上町、福地村、南郷村及び新郷村の8市町村による「八戸地域合併協議会」 に参加する。
2004年(平成16年)
6月30日 - 階上町が「八戸地域合併協議会」を離脱。その後八戸市側が協議会の存続を拒否し、合併協議会は解散。[3][4][5]
7月19日 - 村議会議員選挙が行われた。当時の議員定数14名に対し立候補届出も同じく14名となった為、全員無投票当選。
8月6日 - 八戸市が八戸地域の合併について、福地村、南部町、名川町、南郷村の4町村との合併を正式決定。水道改修の必要な田子町と新郷村が外れる形となった(枠組みはさらに変わり、2005年3月31日に八戸市と南郷村が合併し、新「八戸市」が誕生)。
11月16日 - 細川は五戸地方の合併協議離脱を陳謝した上で五戸町長に町村合併協議の開始を改めて申し入れた[6]。11月25日に五戸町議会全員協が新郷村長からの要請を拒否している。
2005年(平成17年)
4月5日 - 住民団体が村選挙管理委員会に提出した細川村長解職請求(リコール)の有効署名数が、有権者の1/3に達し成立[7]。この請求に対して細川村長はようやく自ら辞職した。
5月29日 - 前村長、前助役を含む3人が立候補し、村長選が行われた。解職請求による村長選挙は村政史上初。結果は新人で前助役の須藤良美が五戸町との合併実現を公約に掲げて1,208票を獲得し、初当選を果たした。
10月30日 - 任期満了に伴う八戸市長選が行われ、これまで八戸広域合併を主張していた現職市長が敗れた。この結果により、八戸広域合併は新たなスタートを切ることになり、これまでの枠組みはなくなった。
2006年(平成18年)
1月1日 - 三戸郡の南部町(なんぶまち)と名川町、福地村が新設合併し南部町(なんぶちょう)となった。
7月27日 - 村議会が五戸町に合併協議を申し入れるべきだとの意見集約。
11月20日 - 新郷村が五戸町に対して行った合併協議要請に関し、五戸町は「機運の醸成次第」として村に要請を断る回答をした。[8]
2008年(平成20年)
4月1日 - 新郷村商工会が五戸町商工会に編入。新五戸町商工会誕生。自治体合併を越えての合併は稀との報道。
6月12日 - 村長が五戸町役場を訪れ、五戸町長に合併協議を申し入れた。五戸町長は議会と検討の上で決定したいと留保した。[9]
7月13日 - 定数14から8に削減された村議選の結果、現職6人、新人2人が当選。[10]
9月4日 - 五戸町議会は非公開で行われた全員協議会で、新郷村議会が改選によって合併慎重派が多数となったと確認。五戸町長の意向で6月12日に申し入れされた件は要請自体が失効をしたとみなした。対して新郷村長は「合併の可能性が完全に消えたわけではない。」と強調し、合併推進の意欲を見せた。[11]
2012年(平成24年)7月8日 - 村議選の結果、現職6人、新人2人が当選。[12]
行政[編集]
村長
須藤良美 - 1940年(昭和15年)3月29日生(3期目)
村議会
議員定数8名
産業[編集]
農業:長芋、ニンニク、椎茸など。
特産品[編集]
清酒「キリストの里」
新郷黒飴
紅葉みそ
アマランサス煎餅
新郷漬物
山菜
なにゃどやらわいん
キリストラーメン
キリストおでん
キリストのハッカ飴
キリストの遺言書手ぬぐい
ジーザスひっつみ
ドラキュラアイス
郵便[編集]
新郷郵便局(集配局) (84026)
西越郵便局 (84169)
地域[編集]
人口[編集]
Demography02450.svg
新郷村と全国の年齢別人口分布(2005年) 新郷村の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 新郷村
■緑色 ― 日本全国
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
新郷村(に相当する地域)の人口の推移
1970年 4,754人
1975年 4,448人
1980年 4,332人
1985年 4,134人
1990年 3,724人
1995年 3,498人
2000年 3,343人
2005年 3,143人
2010年 2,851人
2015年 2,509人
総務省統計局 国勢調査より
所轄警察署[編集]
五戸警察署戸来駐在所
所轄消防署[編集]
八戸地域広域市町村圏事務組合五戸消防署西分遣所
教育[編集]
中学校[編集]
新郷村立新郷中学校
新郷村立野沢中学校
小学校[編集]
新郷村立戸来小学校
新郷村立西越小学校
保育園[編集]
しんごう保育園
金融機関[編集]
青森県信用組合三戸支店戸来出張所
八戸農業協同組合新郷支店
交通[編集]
路線バス[編集]
南部バス
新郷村営バス
道路[編集]
村内に高速道路は通っていない。最寄りのインターチェンジは八戸自動車道南郷インターチェンジ。
一般国道:国道454号(道の駅しんごう(11月 - 翌4月(GW前)は休業)
県道
主要地方道:青森県道45号十和田三戸線
一般県道:青森県道145号戸来十和田線、青森県道216号戸来岳貝守線、青森県道218号栃棚手倉橋線、青森県道220号石無坂鹿田線
名所・旧跡・観光スポット[編集]
キリストの墓
『竹内文書』で知られる竹内巨麿(皇祖皇太神宮天津教の開祖)らが1935年8月に戸来村(当時)を訪れ、笹に埋もれていた塚をキリストの墓と主張し、伝説が生まれた。竹内文書は、ゴルゴタの丘にて磔刑に処されたのは実はキリストの弟イスキリで、本物のキリストは密かに日本に逃れ、天寿を全うして亡くなったという説を唱える(実際は戸来村の農民の墓と考えられている)。この主張は、観光客誘致など地域興しのために村民ら関係者にある程度受け入れられている(キリストにちなんだ上記の特産品・土産物はその表れである)。塚には十字架が建てられ、6月の第一日曜日に「キリスト祭」が開かれているが、取り仕切るのは村で最も由緒がある三嶽(みたけ)神社の宮司である[1]。塚近くには竹内文書写本や「キリストの遺書」(資料館解説によれば1936年考古学者の一団により発見)など関連資料を展示する資料館「キリストの里伝承館」が建つ。2004年(平成16年)6月6日の第41回キリスト祭にはイスラエル駐日大使が出席し、エルサレム・ストーン(エルサレム市街の建築物外壁に使われる白い石灰岩)を寄贈した。
大石神ピラミッド
太陽石、星座石、方位石、鏡石で構成される。
三嶽神社(新郷村西越)
野沢温泉 鷲の湯
野沢温泉 新郷温泉館
間木ノ平グリーンパーク
祭事・催事[編集]
キリスト祭
6月第1日曜日に行われる。形態は神道式の慰霊祭。フィナーレは出席者全員がエルサレムの方角を向き、ナニャドヤラワインで乾杯する。
戸来三嶽神社大祭
8月19日 県指定無形民俗文化財の金ヶ沢鶏舞(かねがさわけいばい)が行われる。
西越三嶽神社大祭
8月16日
新郷ふるさと祭
10月第2日曜日
クリスマスカーニバル
12月中旬の日曜日
伝説・習俗[編集]
詳細は「キリストの墓#キリストの墓についての諸説」を参照
新郷村戸来(へらい)地区(旧戸来村)には上記の経緯から、キリストとその弟イスキリの墓とされた墳墓が二つある。キリストにまつわる仮説と、村の風習が結び付けられて語られるようになった。例えば、「へらい」の名は「ヘブライ」が訛ったものといわれており、村で行われるキリスト祭で行われる盆踊りナニャドヤラで唱えられる意味不詳とされる文句「ナニャドヤラ、ナニャドナサレテ、ナニャドヤラ」は古代ヘブライ語で「汝の聖名を褒め称えん、汝に毛人を掃蕩して、汝の聖名を褒め称えん」という意味だとされる。
また、ユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家があり(旧家沢口家)、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書いたり、足が痺れた時は人差し指につばをたっぷり付けて足に十字を三回書く。
脚注[編集]
^ “(みちのものがたり)キリスト街道・青森県/神の子イエスここに眠る!?”. 『朝日新聞Be』. (2017年7月15日)
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、新郷村に関連するカテゴリがあります。
新郷村ホームページ
間木ノ平グリーンパーク
五戸地方合併協議会
[隠す]
表 話 編 歴
青森県の旗 青森県の自治体
市部
青森市 弘前市 八戸市 黒石市 五所川原市 十和田市 三沢市 むつ市 つがる市 平川市
東津軽郡
平内町 今別町 蓬田村 外ヶ浜町
西津軽郡
鰺ヶ沢町 深浦町
中津軽郡
西目屋村
南津軽郡
藤崎町 大鰐町 田舎館村
北津軽郡
板柳町 鶴田町 中泊町
上北郡
野辺地町 七戸町 六戸町 横浜町 東北町 六ヶ所村 おいらせ町
下北郡
大間町 東通村 風間浦村 佐井村
三戸郡
三戸町 五戸町 田子町 南部町 階上町 新郷村
宮古市
みやこし
宮古市
Miyako city montage.JPG
とどヶ崎 宮古湾
早池峰山
浄土ヶ浜 三王岩
田老港 ローソク岩
Flag of Miyako Iwate.svg
宮古市旗
Emblem of Miyako, Iwate.svg
宮古市章
1942年6月20日制定
国 日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 岩手県
団体コード 03202-6
法人番号 6000020032026
面積 1,259.15km2
総人口 55,121人
(推計人口、2017年5月1日)
人口密度 43.8人/km2
隣接自治体 盛岡市、花巻市、遠野市、
下閉伊郡岩泉町、山田町、
上閉伊郡大槌町
市の木 アカマツ[1]
市の花 ハマギク[1]
市の鳥
市の魚 ウミネコ[1]
サケ[1]
宮古市役所
所在地 〒027-8501
岩手県宮古市新川町2番1号
北緯39度38分29.1秒東経141度57分25.7秒
宮古市役所(2009年10月撮影)
外部リンク 宮古市
宮古市位置図
■ ― 市 / ■ ― 町 / ■ ― 村
地理院地図 Googleマップ Bing GeoHack
MapFan Mapion Yahoo! NAVITIME ゼンリン
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宮古市中心部周辺の空中写真。1977年撮影の10枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
キャトル宮古(宮古駅前のショッピングセンター)(2013年6月1日)
宮古駅前(2013年6月1日)
宮古駅前通りの津波到達碑(2013年6月1日)
宮古市中心街(2013年6月1日)
宮古湾(ランドサット衛星画像)
宮古市(みやこし)は、岩手県の三陸海岸に面する市。本州最東端の地である魹ヶ崎を擁する。
目次 [非表示]
1 概要
2 地理
2.1 位置
2.2 自然
2.3 隣接する自治体
2.4 主要都市までの概算距離
2.5 地名の由来
2.6 気候
3 歴史
3.1 概要
3.2 盛岡藩の外港
3.3 陸の孤島、海の幸と災害
3.4 歴代の支配者
3.5 三閉伊一揆
3.6 宮古湾海戦
3.7 宮古空襲
3.8 年表
3.8.1 縄文時代 - 中世
3.8.2 江戸時代
3.8.3 明治 - 大正時代
3.8.4 昭和戦前期
3.8.5 戦後
3.8.6 平成時代
3.9 行政区域の変遷(市町村制施行以後)
4 行政
5 姉妹都市・友好都市
6 人口
7 経済
7.1 産業
7.2 震災による影響
7.3 市内金融機関
7.4 市内に支店、営業所等を置く主な企業
7.5 商業
7.5.1 市内の主な宿泊施設
7.5.2 市内の主なチェーン店等
7.5.3 市内の主な外食産業
7.5.4 娯楽施設など
8 漁港
9 公的機関
9.1 官公庁等
9.2 主な市の施設
10 メディア
11 郵便
12 学校
12.1 短期大学
12.2 高等学校
12.3 中学校
12.4 小学校
12.5 特別支援学校
12.6 学校教育以外の施設
13 交通
13.1 鉄道
13.1.1 東日本旅客鉄道(JR東日本)
13.1.2 三陸鉄道
13.2 都市間バス
13.3 路線バス
13.4 道路
13.4.1 高速道路
13.4.2 地域高規格道路
13.4.3 一般国道
13.4.4 道の駅
13.4.5 都道府県道
13.4.5.1 主要地方道
13.4.5.2 一般県道
13.5 港湾
14 名所・旧跡・観光施設、等
14.1 景勝
14.2 旧跡
14.3 観光施設・多目的施設
14.4 他の名所・施設
14.5 祭り
14.6 伝統芸能
15 宮古を舞台とした作品
16 出身著名人
17 その他の関連事象
18 脚注
19 出典
20 関連項目
21 外部リンク
概要[編集]
三陸海岸を代表する都市の一つであり、「本州最東端のまち」を掲げ、三陸沖の豊かな漁業資源と、三陸復興国立公園・浄土ヶ浜や早池峰国定公園を代表とする森・川・海の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。
1941年に市制を敷き[注 1]、2005年に田老町と新里村を編入し、2010年の川井村の編入によって県内一の面積を有する自治体となった。市域は山間部の川井・新里地区と、北部の田老地区、旧・宮古市部に大きく分けられる。人口は岩手県沿岸部の市町村の中では最も多い。面積は岩手県内で1位の大きさ、全国の市町村でもランキング11位の大きさを有する。
県庁所在地である盛岡市からは北上山地を隔てて約100km離れている為、盛岡を初めとする北上盆地とは独立した地域圏を形成している。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、田老地区を始め沿岸の集落は壊滅的被害となった。
地理[編集]
位置[編集]
宮古市は三陸海岸におけるリアス式海岸の北端に位置しており、宮古を境にして南がリアス式海岸、北が海岸段丘になっている。又、内陸や対岸との位置関係では、盛岡市(北上盆地)と秋田市(日本海沿岸)から真東に位置している。
2010年1月の川井村の編入により、市の面積は696.82km2から1,259.89km2に拡大し、一関市を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった[2]。これは東北では鶴岡市に次いで2番目、全国でも11番目の大きさである。(2011年現在)しかしその8割は山林であるため、可住地面積は約117km2と、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は小さいものの、可住地面積当たりの人口密度は約490(人/km2)と県内平均を上回る。
市域中央部を西から東に閉伊川が貫流し、市街地のある宮古湾へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんど無く、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には早池峰山と青松葉山がある。北部の新里地区には刈屋川が南へ流れ、茂市(もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、国道106号(旧・閉伊街道)と国道340号が並走する。市の南東部から北に向かって津軽石川が流れ、宮古湾に注いでいる。
市街地を覆うように重茂半島が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、月山(標高455.9m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。山道口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎は本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する山田町との境に位置する十二神山には、自衛隊の通信施設があるため、入山に制限が設けられている。
鼻曲がり鮭が新巻鮭として正月に食される。
自然[編集]
山地:早池峰山、青松葉山(あおまつばやま)、十二神山(じゅうにじんざん)、月山(がっさん、別名:御殿山)
河川系:閉伊川、刈屋川、津軽石川(つがるいしがわ)
沿岸地形:宮古湾、重茂半島、魹ヶ崎、浄土ヶ浜、真崎海岸(まさきかいがん)
隣接する自治体[編集]
cf. 岩手県の市町村全図 :≪外部リンク≫ “県内各市町村”. (公式ウェブサイト). 岩手県. 2011年5月14日閲覧。
下閉伊郡
岩泉町:北部で幅広く隣接。
山田町:南部で隣接。
盛岡市:西部で隣接。
花巻市:南西部で一部が隣接。
遠野市:南部で隣接。
上閉伊郡
大槌町:南部で一部が隣接。
主要都市までの概算距離[編集]
北方向(沿岸)
久慈 - 95km
八戸 - 150km
青森 - 245km
南方向(沿岸)
気仙沼 - 133km
石巻 - 214km
仙台 - 264km
相馬 - 320km
いわき - 415km
水戸 - 510km
銚子 - 600km
東京 - 618km
西方向(山側)
盛岡 - 100km
角館 - 165km
秋田 - 220km
地名の由来[編集]
以下の諸説がある。
「港」の転訛
貿易物としての「都物」が収められる場所
「宮」のある「処」であること
閉伊郡の政治、経済の中心地で都のように栄える場所
ミヤ(野原)コ(土地)
また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする、和泉式部や源義経に関連する伝説が存在する。
いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。鎌倉時代においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、元和4年(1618年)に、盛岡藩の船員の名前を記した『浜田家文書』(岩手大学所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。
少なくとも宮古の地名が公的な領地名として広まったのは、領内統一した南部氏が新たに町を制定し、宮古村及び宮古代官所を置いた慶長年間以後の事である。
気候[編集]
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候だが最暖月が22.2度と日本ではかなり涼しく、西岸海洋性気候に近いような気候である。
[隠す]宮古市(宮古)(1981-2010)の気候
月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年
平均最高気温 °C (°F) 4.9
(40.8) 5.1
(41.2) 8.3
(46.9) 14.3
(57.7) 18.4
(65.1) 20.5
(68.9) 23.9
(75) 26.4
(79.5) 23.1
(73.6) 18.5
(65.3) 13.2
(55.8) 7.2
(45) 15.4
(59.7)
日平均気温 °C (°F) 0.3
(32.5) 0.4
(32.7) 3.3
(37.9) 8.7
(47.7) 13.0
(55.4) 16.0
(60.8) 19.8
(67.6) 22.2
(72) 18.8
(65.8) 13.3
(55.9) 7.8
(46) 3.1
(37.6) 10.6
(51.1)
平均最低気温 °C (°F) −3.8
(25.2) −3.8
(25.2) −1.1
(30) 3.8
(38.8) 8.5
(47.3) 12.7
(54.9) 17.0
(62.6) 19.2
(66.6) 15.2
(59.4) 8.7
(47.7) 2.8
(37) −1.2
(29.8) 6.5
(43.7)
降雪量 cm (inch) 33
(13) 55
(21.7) 40
(15.7) 3
(1.2) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 0
(0) 16
(6.3) 148
(58.3)
平均月間日照時間 161.0 152.9 178.6 189.3 181.2 149.4 133.8 160.6 128.0 155.2 147.3 147.4 1,882.6
出典 1: 気象庁[3]
出典 2: 気象庁[4]
歴史[編集]
概要[編集]
江戸時代初期に盛岡藩主・南部利直により藩港として開かれると、宮古街道を通じて盛岡城下と結ばれる藩の拠点となるとともに、三陸海岸の漁獲物などを江戸や上方へ移出し、また東廻り海運の要所として発展した。明治時代になると三陸汽船により仙台・塩釜方面や北海道、東京とも結ばれ、山間部では製糸業が勃興し、生産された生糸は宮古港から横浜港へと出荷され海外へ輸出された。昭和時代に入ると国鉄山田線の開通とラサ工業の進出により近代港湾都市として発展。山間部では閉伊川筋の電力資源の開発に伴い、窯業・鉱業・木材工業関連の企業が相次いで設立された。戦後高度経済成長期には北洋漁業やサンマ漁船の基地として賑わった。また木材港の整備により合板企業の集積が進んだ。1970年代には国道45号・国道106号線の全線開通と、宮古港の公共埠頭の整備により三陸海岸の拠点都市としての地位を高め、1980年代にかけてゴルフ場や国民休暇村・グリーンピアの設置などレジャーや観光業の発展がみられた。また1974年のヒロセ電機の進出により、コネクタ関連の日本有数の産業集積地となった。1984年には第三セクター鉄道の三陸鉄道が開業した。1992年にはJAPAN EXPO(地方博覧会)として三陸・海の博覧会が開催され、藤原地区にパビリオンが設置された。2011年には東日本大震災津波により甚大な被害を受け、被災した市街地の再開発と、復興道路として三陸自動車道や宮古盛岡横断道路の高速交通インフラの整備が進められている。
盛岡藩の外港[編集]
現在の宮古市の発祥は、盛岡藩主・南部利直によって盛岡藩(盛岡城下町)の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する代官所(北閉伊代官所、寛文年間からは宮古代官所。小本 - 豊間根に管轄区域も変更)が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に東北と江戸とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸部で産出される俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの三陸の水産物を取り扱う豪商や、廻船問屋の活動が活発となった。また宮古は東廻り航路の要港であり、松前・東北諸藩が江戸へ米や材木などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊郭が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。
陸の孤島、海の幸と災害[編集]
宮古は海岸の西にすぐ山地が峙えているため、平野部が狭く、また、周囲を山と海に囲まれているために「陸の孤島」になりやすく、古来、内陸からの物資輸送がとどこおることの多い土地柄であった。飢饉ともなると、この地理的制約がゆえに被害は周辺地域と比べてもひときわ大きなものとなった(江戸四大飢饉等)。
僧・牧庵鞭牛に代表されるような、陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力する人材が現れた江戸時代中期には、盛岡などとの往路の大規模整備を推し進められ、これらの功績は今もって賛えられている(cf. 閉伊街道など)。
宮古はまた、V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている(「三陸沖地震」、「三陸海岸」の「津波」の項を参照のこと)。
また、戦後もカスリーン台風やアイオン台風、三陸フェーン大火、平成28年台風第10号などの自然災害に悩まされた。
歴代の支配者[編集]
市内の遺跡からは、8世紀のものと見られる蕨手刀や和同開珎が出土しており、それまでは須賀君古麻比留のような蝦夷の有力者が地域を治めていたと考えられている。9世紀初めの征夷大将軍坂上田村麻呂や、文屋綿麻呂による蝦夷征伐は閉伊地方にも及んだ。しかしながら、鎮守府の置かれた胆沢城の勢力下にあったのは奥六郡と呼ばれた北上盆地周辺の地域が主であり、北上山地を隔てた辺境の地である閉伊地方への影響力は少なかった。
そのため11世紀後半になると、蝦夷の完全制圧を目指した後三条天皇により源頼俊、清原貞衡が派遣され延久蝦夷合戦が開始される事となる。そして「閉伊七村山徒」は制圧されたと伝わる。これにより力を付けた出羽清原氏であったが内紛による後三年の役で滅亡。以後の統治は清原氏の養子で戦いに勝ち残った藤原清衡に任せられることとなる。
平泉に本拠地を移した清衡は中尊寺金色堂などを建立し、四代に渡る奥州藤原氏による統治が始まる。 江戸期の盛岡藩の文書『奥南落穂集』には、奥州藤原氏の配下に「閉伊右衛門太郎武国」という武将の一族が居たと記している。
源頼朝による平泉侵攻(奥州合戦)で藤原泰衡が倒されると、閉伊地方は鎌倉幕府の御家人である閉伊氏の領地となる。閉伊氏は地頭として鎌倉時代を通して地域を支配し、建武の新政後は鎮守府将軍北畠顕家から所領を安堵されている。
閉伊氏は南北朝時代には、北畠顕家に従い奥州武士団の一人として足利尊氏らの軍勢と戦ったが、石津の戦いに敗れ敗走した。その後は北朝側に転じ、奥州総大将石塔義房に従った。
室町時代から戦国時代になると南部氏の勢力が進出し、南部家の武将櫻庭光康らの攻撃を受けて閉伊氏系の一族は衰退していく。
豊臣秀吉から領地を安堵された南部信直は反乱分子であった九戸政実を倒して領内統治を進めていった。当地の有力豪族だった田鎖氏や一戸千徳氏らもこれに従い、文禄の役に従軍した。その後閉伊地方の領地の一部は櫻庭、野田、楢山氏などの南部家の武将やその家臣に与えられ支配された。
慶長年間には南部利直に任命された最初の宮古代官である小本正吉が派遣され、以後約260年の間、盛岡藩の統治下となる。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わった盛岡藩が敗れると、南部氏は仙台白石に転封(白石藩)となり、閉伊郡は松代藩の取締地となる。
半年後、盛岡に復帰した南部利恭は1870年(明治3年)、廃藩置県に先立ち廃藩を願い出て盛岡藩知事を辞任した。その後閉伊郡は江刺県の管轄となり、江刺県廃止後は盛岡県に編入される。盛岡県はその後岩手県と改称し、磐井県の一部を編入して現在の形となる。
三閉伊一揆[編集]
江戸時代末期には、東北地方最大の一揆である三閉伊一揆が勃発した。これは、盛岡藩の失政のツケを宮古を始めとする閉伊郡に対して重税を課して住民から搾取しようとしたことが直接の原因であり、話の流れ自体は平凡だが、非常に大規模な一揆であった。弘化4年(1847年)、圧制に耐えかねた一揆団は1万数千人という他に例を見ないほどの人数で、遠野城下に押しかけ、藩側に要求を呑ませた。ただし、藩側はのちにこの要求も破り、さらなる人数での一揆へと発展する。
宮古湾海戦[編集]
宮古湾海戦の一場面を描いた挿絵
戊辰戦争当時の日本で唯一の装甲艦であった明治政府軍艦隊主力艦「CSS Stonewall」(東艦)を奪い取ろうと、蝦夷共和国軍艦隊旗艦「回天丸」(右手前)が接舷攻撃を試みる。
幕末から明治にかけての戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚・土方歳三らの旧幕府軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall (ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)」を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行する、いわゆる、宮古湾海戦が勃発した[5]。
宮古空襲[編集]
太平洋戦争末期の1945年8月9日、10日、宮古は米第3艦隊の空母エセックス及びランドルフの艦載機(F6F、TBF等)による空襲を受けた。ラサ工業宮古製錬所、同田老鉱山、岩手窯業宮古工場、三井造船の木造船造船所、鉄道関連施設、湾内停泊中の輸送船、湾岸の倉庫群などが標的となった。特に藤原地区は倉庫内の燃料に引火し燃え広がったため焼け野原となった。
年表[編集]
縄文時代 - 中世[編集]
縄文時代前期初頭 - 後期前半(約6000 - 約3500年前。cf.):崎山貝塚の形成期(約2500年間)[6]。
白鳳9年(680年):横山に八幡宮(横山八幡宮)が創建されたと伝えられる。
貞観11年5月26日(869年7月9日):東北地方を貞観地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。
江戸時代[編集]
慶長16年10月28日(1611年12月2日):東北地方を慶長三陸地震が襲い、三陸は主に津波によって大きな被害が出た。
元和元年(1615年):南部藩主・南部利直が鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)を盛岡の外港とする[7]。
元和2年(1616年):南部利直治世下で鍬ヶ崎湊が藩船2隻(宮古丸、虎丸)を常備する商港兼軍港となる[7]。
寛永20年(1643年):ブレスケンス号事件が起きる。オランダ船員を誘き出すため宮古鍬ヶ崎の遊女が派遣される。
承応3年(1654年):古道・閉伊街道(別名:宮古街道。現在の国道106号の前身)の大改修なる。
延宝5年(1677年):延宝十勝沖地震津波により数十軒の家屋が流出。
元禄13年(1700年):カスケード地震津波により数十軒の家屋が流出。
宝暦5年(1755年):日本全国を大飢饉(宝暦の飢饉。1753 - 1757年)が襲い、東北地方にも大きな被害が出る。
宝暦8年(1758年):先の大飢饉を契機として、僧・牧庵鞭牛が閉伊街道最大の難所である蟇目 - 平津戸間の改修・新道開発に着手し、これ以降、閉伊地方と周辺地域の間にある陸上輸送の難を取り除くべく生涯を賭けて尽力する。
明和9年(1772年):南部領に大地震。揺れによる落石、土砂崩れで宮古通の百姓数人も死亡。
天明3年(1783年):天明の大飢饉による米騒動が起きる。
享和元年(1801年):伊能忠敬一行が宮古に到着。豪商盛合家の屋敷及び鍬ヶ崎泉屋に宿泊。
文政6年(1823年):三戸郡五戸村(現・五戸町五戸)出身の豪商・藤田武兵らが閉伊街道を改修・新道開発する。
弘化4年(1847年):閉伊郡で三閉伊一揆(東北地方最大の一揆)が勃発。
明治 - 大正時代[編集]
明治2年3月25日(1869年5月6日):宮古湾で宮古湾海戦が勃発。
1888年(明治21年):民営による宮古 - 塩釜間の定期航路が開かれる[7]。
1896年(明治29年)6月15日:東北地方を明治三陸地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。津波遡上高は重茂村(おもえむら。現在の宮古市重茂)で18.9mを記録した。下閉伊郡田老村(現在の宮古市田老地区)では死者・行方不明者1,859人を出し、浸水した平坦地での生存者はわずかに36人であった[8]。
1902年(明治35年)3月1日:魹ヶ埼灯台に初めて灯りが点る。
1924年(大正13年):崎山貝塚で初めて発掘調査が行われる[6]。
昭和戦前期[編集]
1927年(昭和2年)10月:宮古港が第二種重要港湾に指定される[7]。
1928年(昭和3年)9月25日:国鉄山田線(JR山田線の前身)で区界駅が開業。
1930年(昭和5年)10月31日:国鉄山田線で松草駅が開業。
1931年(昭和6年)10月31日:国鉄山田線で平津戸駅が開業。
1933年(昭和8年)
3月3日:東北地方を昭和三陸地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。特に下閉伊郡田老村(現・宮古市田老地区)では、人口の42%にあたる911人[8] が死亡、家屋の98%が全壊し、壊滅状態となった。東日本大震災(2011年)の折、先人訓として活きた大津浪記念碑はこの後に建立された。
11月30日:国鉄山田線で川内駅・箱石駅・陸中川井駅が開業。
1934年(昭和9年)11月6日:国鉄山田線で腹帯駅・茂市駅・蟇目駅・千徳駅・宮古駅が開業。
1935年(昭和10年)11月17日:国鉄山田線で磯鶏駅と津軽石駅が開業。
1939年(昭和14年)
6月:ラサ工業宮古工場が操業開始(これに先立ち、ラサの煙突も竣工)。
9月7日:潮吹穴が国の天然記念物に指定される。
1942年 (昭和17年)
6月20日:市章を制定する[9]。
6月25日:国鉄小本線(JR岩泉線の前身)で岩手刈屋駅・岩手刈屋駅・岩手和井内駅が開業。
1944年(昭和19年)7月20日:国鉄小本線の貨物駅として押角駅が開業。
戦後[編集]
1947年(昭和22年)9月16日:カスリーン台風が東北地方を襲い、三陸は大きな被害を出す。国鉄山田線は茂市 - 蟇目間と平津戸 - 松草間が不通となる。
1948年(昭和23年)9月17日頃:アイオン台風が東北地方を襲い、前年の台風被害からの復旧途上にあった三陸は重ねて被害を受ける。国鉄山田線は松草 - 蟇目間も不通となり、復旧工事がなされなかったその後の6年間は江戸中期以前と変わらない「陸の孤島」と化した。
1950年(昭和25年)6月:太平洋戦争の終戦間際に焼失していた魹ヶ埼灯台が再建される。
1951年(昭和26年)1月19日:宮古港が重要港湾に指定される[7]。
1953年(昭和28年)5月18日:旧・閉伊街道が県道から二級国道106号宮古盛岡線に昇格。
1954年(昭和29年)4月5日:浄土ヶ浜が岩手県指定名勝(第1号)となる[10]。
1955年(昭和30年)5月2日:浄土ヶ浜を中心として、北は下閉伊郡普代村から南は釜石市に到る三陸海岸地域が国立公園に指定される(陸中海岸国立公園・現三陸復興国立公園)[11]。
1958年(昭和33年):旧・田老町で、巨大防潮堤(堤高10m超。のち「田老万里の長城」と雅称される)の1期工事が竣工。
1960年(昭和35年)5月24日未明:チリ地震による津波の襲来を受けるも、田老の防潮堤が被害を最小限に食い止め、人的被害は皆無。これにより、防災の分野で国際的知名度を高める。
1961年(昭和36年)12月20日:国鉄山田線で花原市駅が開業。
1965年(昭和40年)4月1日:二級国道106号が国道106号に昇格。国道45号が市域で開通(同時に全線開通)。
1966年(昭和41年)
4月1日:旧・宮古市が青森県の黒石市と姉妹都市提携。
10月1日:国鉄小本線で中里駅開業。
1972年(昭和47年)2月27日:国鉄宮古線(のち、三陸鉄道北リアス線に移管)の駅として一の渡駅・佐羽根駅・田老駅が開業。
1982年(昭和57年):旧・田老町で、この頃までに海抜10m・総延長2,433mの巨大防潮堤(田老の防潮堤、別称:田老万里の長城)が完成する。
1984年(昭和59年)4月1日:三陸鉄道北リアス線の開業に伴い、摂待駅が開業。
1986年(昭和61年)10月1日:旧・田老町が岩手県の旧・松尾村(現・八幡平市松尾)と姉妹都市提携。
平成時代[編集]
1992年(平成4年)
7月4日 - 9月15日:地方博覧会「JAPAN EXPO」の第2回として「三陸・海の博覧会」を釜石市および山田町と共同開催する[12]。
8月7日:旧・新里村(現・宮古市新里)がフィリピン共和国ベンゲット州のラ・トリニダッド市 (en) と友好交流都市提携。
1993年(平成5年)10月26日:旧・宮古市が中華人民共和国山東省の烟台市と友好協力都市提携。
1996年(平成8年)2月6日:旧・宮古市が沖縄県宮古郡の多良間村と姉妹市村提携。
2003年(平成15年)
2月20日:川井地区(旧・川井村)で収集された伝統的な生産用具のコレクションが、「生産・生業」の分野にて「北上山地川井村の山村生産用具コレクション」の名称で国の重要有形民俗文化財に指定される[13]。
3月3日:旧・田老町(現・田老地区)が「津波防災の町」を宣言する[14]。
11月1日:出崎埠頭で複合施設「シートピアなあど」(広域総合交流促進施設およびタラソテラピー〈海洋療法〉施設)が開業する[15]。
2004年(平成16年)12月:合併して市制を施行するにあたって新たな市の名称を「宮古市」に決定した沖縄県宮古列島の5市町村に対し、岩手県宮古市が抗議する。その後の2005年(平成17年)3月、沖縄県の5市町村は新市に付ける名称を「宮古島市」に改めた。cf. 宮古列島の「宮古市」命名問題。
2005年(平成17年)7月18日(海の日):「シートピアなあど」を中心とする地域が「みなとオアシス」の登録地となり、「みなとオアシスみやこ」として開業[12][16]。
2006年(平成18年)3月15日:黒森神楽が国の重要無形民俗文化財に指定される。
2008年(平成20年)10月1日:オランダ船籍の大型クルーズ客船「アムステルダム」が宮古港に寄港(当時で岩手県寄港史上最大)[17]。
2010年(平成22年)3月21日:宮古道路が開通し、宮古南インターチェンジと宮古中央インターチェンジが供用を開始する。
東北地方太平洋沖地震に伴い発生した津波によって甚大な被害を受けた田老地区で、観光ホテル付近の瓦礫を捜索する日本の救難捜索隊。アメリカ合衆国海兵隊による2011年3月15日の航空写真。
同じく、津波によって壊滅した宮古市港町地区。陸に打ち揚げられたフェリー1隻と漁船2隻も見える。アメリカ合衆国海兵隊による3月20日の航空写真。
2011年(平成23年)3月11日午後2時46分:東北地方太平洋沖地震が発生し、宮古市全域が震度5(茂市地区で震度5強、川井地区・田老地区・五月町地区・長沢地区・鍬ヶ崎地区・門馬田代地区で震度5弱を観測)で被災[18][19]。さらに、この地震に伴って発生した大津波にも襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った[20](東日本大震災)。
津波の高さは地震発生から約40分後の午後3時26分頃に襲来した第2波が最大で、8.5m以上(気象庁発表)[18]。遡上高(陸を駆け上って到達した高さ)は、重茂半島にある姉吉地区が全被災地中で最も高い38.9mに達していたことが東京海洋大学教授・岡安章夫(沿岸域工学)の調査で判明し、4月15日に公表された[21][22]。海岸線より400 - 450m離れた重茂半島の姉吉漁港近くの山の斜面に津波で倒された木が発見されており、斜面を駆け上がった津波の遡上高において明治三陸地震(1896年)で記録された気仙郡綾里村(現・大船渡市綾里地区。cf. 三陸町)の遡上高38.2mを日本の観測史上初めて上回った[21][22]。また、姉吉地区を流れる川の上流で津波によって海岸から流されたと見られる材木等が発見されていることから、実際の津波の到達点はさらに高い所であった可能性もある[22]。なお、田老地区の小堀内漁港近くでも遡上高37.9mが確認されており[21][22]、日本最大規模を誇った防潮堤(田老万里の長城)も破壊された[8] (a/b)。
重茂半島にある姉吉地区では、漁港(姉吉漁港)から約800m内陸で海抜約60mの高所にある大津浪記念碑が津波から12世帯約40人の住民の命を守った。「此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた先人訓に従って住民全員がそこよりも高い場所に居を構えていた[23][24]。
3月11日午後2時49分:市民5,277世帯・12,842人を対象に、市が避難指示を発令(避難者数:最大時8,889人)[18]。
2013年2月28日時点の県の調査では死者420人、行方不明者94人、負傷者33人、家屋倒壊4005棟となっている[25]。
2016年(平成28年)8月30日:平成28年台風第10号により住宅、公共土木施設、農地等に甚大な被害。宮古市は局地激甚災害の指定を受ける[26]。
行政区域の変遷(市町村制施行以後)[編集]
cf. 宮古地方の大字小字名 :“宮古の大字小字名”. みやこ百科事典@みやこわが町ミヤペディア(非公式ウェブサイト). タウン情報社. 2011年5月16日閲覧。
旧・宮古市、県内位置図
1889年(明治22年)4月1日:東閉伊郡で町村制が施行される[注 2][注 3]。
宮古村と浦鍬ケ崎村(うらくわがさきむら)がそれぞれ単独で町制を施行し、宮古町と鍬ケ崎町(くわがさきちょう)が成立。
旧制度の山口村・近内村(ちかないむら)・田代村が合併した上で村制を施行し、新生の山口村が成立。
旧制度の千徳村(せんとくむら)・根市村(ねいちむら)・花原市村(けばらいちむら)が合併し、新生の千徳村が成立。
旧制度の磯鶏村(そけいむら)・高浜村・金浜村(かねはまむら)・小山田村(こやまだむら)・八木沢村が合併し、新生の磯鶏村が成立。
旧制度の崎山村と崎鍬ケ崎村(さきくわがさきむら)が合併し、新生の崎山村が成立。
旧制度の津軽石村と赤前村(あかまえむら)が合併し、新生の津軽石村が成立。
旧制度の重茂村(おもえむら)と音部村(おとべむら)が合併し、新生の重茂村が成立。
旧制度の花輪村・老木村(ろうきむら)・田鎖村(たくさりむら)・松山村・長沢村が合併し、新生の花輪村が成立。
旧制度の田老村(たろうむら)・乙部村(おとべむら)・末前村(すえまえむら)・摂待村(せったいむら)が合併し、新生の田老村が成立。
旧制度の茂市村(もいちむら)・蟇目村(ひきめむら)・腹帯村(はらたいむら)が合併し、新生の茂市村が成立。
旧制度の刈屋村と和井内村(わいないむら)が合併し、新生の刈屋村が成立。
1889年(明治22年)4月1日:中閉伊郡で町村制が施行される。
旧制度の門馬村(かどまむら)・田代村・平津戸村(ひらつとむら)が合併し、新生の門馬村が成立。
旧制度の小国村(こぐにむら)と江繋村(えつなぎむら)が合併し、新生の小国村が成立。
旧制度の川井村・川内村(かわうちむら)・箱石村(はこいしむら)・片巣村(かたすむら)・夏屋村(なつやむら)・鈴久名村(すずくなむら)・古田村(ふったむら)が合併し、新生の川井村が成立。
1889年(明治22年)3月29日:東閉伊郡・北閉伊郡・中閉伊郡が合併し、下閉伊郡となる。
1924年(大正13年)4月1日:宮古町と鍬ケ崎町が合併し、新生の宮古町が成立。
1941年(昭和16年)2月11日:宮古町・山口村・千徳村・磯鶏村が合併した上で市制を施行し、宮古市が誕生する。
1944年(昭和19年)4月1日:田老村が町制を施行し、田老町が成立。
1955年(昭和30年)2月1日:茂市村と刈屋村が合併し、新里村が成立。
1955年(昭和30年)4月1日:崎山村・津軽石村・重茂村・花輪村を編入する。
1955年(昭和30年)7月1日:川井村、小国村、門馬村が合併し、新生の川井村が成立。
2005年(平成17年)6月6日:宮古市、田老町、新里村が合併した上で市制を施行し、新生の宮古市が成立。
2010年(平成22年)1月1日:川井村を編入する。
行政[編集]
現市制下の歴代市長
初代:熊坂義裕(2005年7月3日 - 2009年7月2日)
現職:山本正徳(2009年7月3日就任)
姉妹都市・友好都市[編集]
日本国内
日本の旗 黒石市(青森県):旧・宮古市が、1966年(昭和41年)4月1日に姉妹都市提携。
日本の旗 八幡平市(岩手県):旧・田老町が旧・松尾村と1986年(昭和61年)10月1日に姉妹都市提携。
日本の旗 多良間村(沖縄県 宮古郡):旧・宮古市が1996年(平成8年)2月6日に姉妹市村提携。
日本国外
中華人民共和国の旗 烟台市(中華人民共和国山東省):旧・宮古市が1993年(平成5年)10月26日に友好協力都市提携。
フィリピンの旗 ラ・トリニダッド市(en。フィリピン共和国ベンゲット州) :旧・新里村が1992年(平成4年)8月7日に友好交流都市提携。
人口[編集]
Demography03202.svg
宮古市と全国の年齢別人口分布(2005年) 宮古市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 宮古市
■緑色 ― 日本全国
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
宮古市(に相当する地域)の人口の推移
1970年 79,805人
1975年 79,214人
1980年 78,617人
1985年 77,024人
1990年 72,538人
1995年 69,587人
2000年 66,986人
2005年 63,588人
2010年 59,430人
2015年 56,676人
総務省統計局 国勢調査より
平成22年国勢調査から27年調査にかけての人口増減率は4.63%の減少で、岩手県全体の3.80%を少し上回った。なお平成の大合併以前の区分では旧宮古市が東日本大震災に伴う津波で甚大な被害を受けながら2.23%と県全体を下回った一方で、同じく津波被害を受けた旧田老町が26.27%と27年時点の自治体区分で県内最大である大槌町の23.02%も上回る対照的な結果となった。また直接津波被害を受けていない旧川井村は10.62%と田老町程ではないにしろ大きく減少した[27]。
経済[編集]
産業[編集]
古来、水産業で栄え、特産品としては、サケ、イクラ、ウニ、アワビ、毛ガニ、ワカメなどが挙げられる。
平成22年の水揚高は48,897tと、全国主要港中15位である。特にサケやサンマ、マダラは全国屈指の水揚げを誇る。
工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場によるガリウムの生成、製造と同NCRI事業部による石油精製触媒の再生事業、片倉コープアグリ宮古工場による化学肥料製造やホクヨープライウッド(株)による合板加工などが主産業である。
宮古税関管内の平成22年の輸出入貿易額は13億66百万円で、そのほとんどがこれら工業に関わる木材とリン鉱石の輸入が占める。
輸出では対ロシア向けの水産加工物の輸出と、対中国向けの県産りんごの輸出が若干あるのみである。
平成22年の製造品出荷額は7,788(千万円)で、岩手県内で8位である。
平成24年度の一人当たり市町村民所得は230万円(県調査統計課)で、県内では平均レベルであるが、全国的に見ればかなり低い水準である。
震災による影響[編集]
宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。
また市内では1078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。
市内金融機関[編集]
ゆうちょ銀行
岩手銀行
東北銀行
北日本銀行
東北労働金庫
JAバンク岩手
JFマリンバンク岩手信漁連
宮古信用金庫
市内に支店、営業所等を置く主な企業[編集]
NTT東日本-岩手
JR東日本 盛岡運輸区
東北電力
ユアテック
カメイ
みちのくコカ・コーラボトリング
ニチモウ
東洋建設
あいおいニッセイ同和損害保険
朝日生命保険
住友生命保険
第一生命保険
日本生命保険
明治安田生命保険
ジブラルタ生命保険
小田島 (医薬品)
バイタルネット
本間組
佐川急便
日本通運
ヤマト運輸
TTK (建設)
吉田産業
鹿島道路
商業[編集]
市内の主な宿泊施設[編集]
公共の宿
国民休暇村 陸中宮古
グリーンピア三陸みやこ
ホテル
浄土ヶ浜パークホテル
ホテル近江屋
宮古ホテル沢田屋
ビジネス
ホテルルートイン宮古
ホテルビックウェーブ
宮古セントラルホテル熊安
ホテル宮古ヒルズ ステーション店(BBHホテルグループ)
幸プラザホテル
旅館
旅館末広館(ユースホステル)
山田屋旅館(別館)
市内の主なチェーン店等[編集]
ドコモショップ
auショップ
ソフトバンクショップ
ケーズデンキ
ホーマック
カメラのキタムラ
オートバックス
イエローハット
ダイソー
コナカ
洋服の青山
マックハウス
タケダスポーツ
薬王堂
ツルハドラッグ
西松屋
ジョイス
眼鏡市場
メガネのパリミキ
弐萬圓堂
As-meエステール
東京靴流通センター
TSUTAYA
ゲオ
ローソン
ファミリーマート
いわて生活協同組合
ヤマダ電機
市内の主な外食産業[編集]
マクドナルド
モスバーガー
ケンタッキーフライドチキン
ミスタードーナツ
サーティーワン
大戸屋
すき家
まるまつ
トマト&オニオン
つぼ八
ほっかほっか亭
娯楽施設など[編集]
宮古シネマリーン(映画館)
宮古カントリークラブ(ゴルフ場)
テレトラック宮古(場外勝馬投票券発売所)
漁港[編集]
漁港:田老漁港と重茂漁港は第2種漁港、他は全て第1種漁港である。[注 4]
田老地区の漁港
小堀内漁港(こぼりない ぎょこう)[注 5]
青野滝漁港(あおのたき ぎょこう)
小港漁港(こみなと ぎょこう)
田老漁港(たろう ぎょこう):田老地区の中心部にある、岩手県でも有数の漁港。周囲には田老の防潮堤が築かれ、津波防災において先進的な地域であったが、東日本大震災の津波は防ぎきれなかった[注 6]。
樫内漁港(かしない ぎょこう)
宮古地区の漁港
宿漁港(やど ぎょこう)
日出島漁港(ひでしま ぎょこう)
蛸の浜漁港(たこのはま ぎょこう):鍬ケ崎(くわがさき)平松に所在。宮古港(旧・鍬ケ崎湊)の基礎となった鍬ケ崎地区にあり、古くから磯漁業を行う。
白浜漁港(しらはま ぎょこう)
津軽石漁港(つがるいし ぎょこう):津軽石川が注ぐ宮古湾最奥部の、赤前地区・小堀内地区・堀内地区に所在。
重茂地区の漁港
浦の沢漁港(うらのさわ ぎょこう)
仲組漁港(なかくみ ぎょこう)
音部漁港(おとべ ぎょこう)
重茂漁港(おもえ ぎょこう)
姉吉漁港(あねよし ぎょこう)[注 7]
千鶏漁港(ちけい ぎょこう)
石浜漁港(いしはま ぎょこう)
川代漁港(かわしろ ぎょこう)
公的機関[編集]
官公庁等[編集]
復興庁
復興庁 岩手復興局 宮古支所
警察
岩手県警察 宮古警察署
消防
宮古地区広域行政組合消防本部
海上保安庁
第二管区海上保安本部釜石海上保安部 宮古海上保安署
防衛省
自衛隊岩手地方協力本部 宮古地域事務所
法務省
仙台法務局 盛岡地方法務局 宮古支局
地方検察庁
盛岡地方検察庁 宮古支部
宮古区検察庁
厚生労働省
岩手労働局 宮古労働基準監督署 宮古公共職業安定所
仙台検疫所 宮古出張所
財務省
函館税関 宮古税関支所
国税庁
仙台国税局 宮古税務署
国土交通省
東北地方整備局 三陸国道事務所
東北運輸局 岩手運輸支局宮古庁舎
農林水産省
横浜植物防疫所 塩釜支所宮古出張所
林野庁
東北森林管理局 三陸北部森林管理署
環境省
自然環境局 宮古自然保護官事務所
特殊法人
日本年金機構 宮古年金事務所
独立行政法人
水産研究・教育機構 東北区水産研究所宮古庁舎
海技教育機構 国立宮古海上技術短期大学校
岩手県
沿岸広域振興局(宮古)
救護施設 松山荘
主な市の施設[編集]
新里総合事務所
新里総合事務所
宮古市立図書館
宮古市立図書館
田老総合事務所
新里総合事務所
川井総合事務所
宮古市民総合体育館
宮古市民文化会館
宮古市立図書館
宮古市総合福祉センター
宮古運動公園
姉ヶ崎サン・スポーツランド
湯ったり館
へいがわ老木公園
メディア[編集]
岩手日報社 宮古支局
河北新報社 宮古支局
朝日新聞 宮古通信部
読売新聞 宮古通信部
テレビ・ラジオ等
NHK盛岡放送局 宮古報道室
テレビ岩手 宮古支局
岩手めんこいテレビ 宮古支局
宮古エフエム放送
郵便[編集]
郵便局
宮古郵便局(集配局)
川井郵便局(集配局)
門馬郵便局(集配局)
鍬ヶ崎郵便局
磯鶏郵便局
岩手花輪郵便局
宮古小山田郵便局
千徳郵便局
宮古田の神郵便局
宮古市役所前郵便局
宮古新町郵便局
宮古日の出郵便局
重茂郵便局
津軽石郵便局
田老郵便局
新里郵便局
刈屋郵便局
和井内郵便局
箱石郵便局
小国郵便局
陸中川内郵便局
簡易郵便局
高浜簡易郵便局
崎山簡易郵便局
攝待簡易郵便局
蟇目簡易郵便局
腹帯簡易郵便局
学校[編集]
短期大学[編集]
岩手県立大学宮古短期大学部
高等学校[編集]
岩手県立宮古高等学校
岩手県立宮古北高等学校
岩手県立宮古工業高等学校
岩手県立宮古商業高等学校
岩手県立宮古水産高等学校
鹿島学園高等学校宮古キャンパス
※岩手県立杜陵高等学校の宮古分室が宮古高校内に設置されている。
中学校[編集]
宮古市立第一中学校
宮古市立第二中学校
宮古市立河南中学校
宮古市立宮古西中学校
宮古市立花輪中学校
宮古市立津軽石中学校
宮古市立重茂中学校
宮古市立崎山中学校
宮古市立田老第一中学校
宮古市立新里中学校
宮古市立川井中学校
小学校[編集]
宮古市立宮古小学校
宮古市立山口小学校
宮古市立千徳小学校
宮古市立磯鶏小学校
宮古市立鍬ヶ崎小学校
宮古市立花輪小学校
宮古市立重茂小学校
宮古市立藤原小学校
宮古市立崎山小学校
宮古市立高浜小学校
宮古市立津軽石小学校
宮古市立赤前小学校
宮古市立亀岳小学校
宮古市立田老第一小学校
宮古市立田老第三小学校
宮古市立新里小学校
宮古市立川井小学校
宮古市立門馬小学校
特別支援学校[編集]
岩手県立宮古恵風支援学校
学校教育以外の施設[編集]
国立宮古海上技術短期大学校(独立行政法人海技教育機構)
交通[編集]
宮古は三陸沿岸の交通の一大拠点であり、陸路では南の仙台・水戸方面、北の八戸・青森方面、西の盛岡・秋田方面を結ぶ要衝になっている。
鉄道[編集]
摂待駅は津波に備えた堤防の役割を併せ持つ線路と駅施設の一例である。東日本大震災の津波は海岸より1.2kmの内陸部にあるこの駅付近にまで押し寄せた。
東日本旅客鉄道(JR東日本)[編集]
■山田線:区界駅 - 松草駅 - 平津戸駅 - 川内駅 - 箱石駅 - 陸中川井駅 - 腹帯駅 - 茂市駅 - 蟇目駅 - 花原市駅 - 千徳駅 - 宮古駅 - 磯鶏駅 - 津軽石駅
■岩泉線(2014年4月1日をもって正式に廃止):茂市駅 - 岩手刈屋駅 - 中里駅 - 岩手和井内駅 - 押角駅
三陸鉄道[編集]
北リアス線:宮古駅 - 山口団地駅 - 一の渡駅 - 佐羽根駅 - 田老駅 - 摂待駅
都市間バス[編集]
ビーム・1(岩手県北バス・羽田京急バス)
品川バスターミナル・浜松町バスターミナル ⇔ 宮古駅・浄土ヶ浜パークホテル前
106急行バス(岩手県北バス)
盛岡駅 - 区界 - 茂市 - 宮古駅・浄土ヶ浜パークホテル前・岩手船越駅
路線バス[編集]
岩手県北バス
川井地域バス(陸中川井駅 - 小国地区新田・大仁田)
道路[編集]
高速道路[編集]
高規格幹線道路(一般国道自動車専用道路)
三陸縦貫自動車道
一般国道45号宮古道路:宮古南IC - 宮古中央IC
地域高規格道路[編集]
宮古盛岡横断道路
一般国道[編集]
国道45号
国道106号:閉伊街道(宮古街道。cf. a,b. [注 8])を前身とする。
国道340号
道の駅[編集]
みやこ
たろう
区界高原
やまびこ館
都道府県道[編集]
主要地方道[編集]
岩手県道25号紫波江繋線
岩手県道26号大槌小国線
岩手県道40号宮古岩泉線
岩手県道41号重茂半島線
一般県道[編集]
岩手県道115号茂市停車場線
岩手県道138号宮古停車場線
岩手県道142号川内停車場線
岩手県道143号陸中川井停車場線
岩手県道163号津軽石停車場線
岩手県道170号松草停車場線
岩手県道171号大川松草線
岩手県道177号有芸田老線
岩手県道200号花輪千徳線
岩手県道201号千徳停車場線
岩手県道248号浄土ケ浜線
岩手県道259号崎山宮古線
岩手県道277号宮古港線
岩手県道290号宮古山田線
港湾[編集]
宮古港:1951年(昭和26年)1月19日指定の重要港湾。近代以前の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと)を前身として発展した。
名所・旧跡・観光施設、等[編集]
景勝[編集]
浄土ヶ浜
本州最東端の碑と魹ヶ埼灯台
三王岩
浄土ヶ浜
三陸復興国立公園の中心的な名勝(1955年指定)。岩手県指定名勝(第1号)(1954年指定)であり、日本の白砂青松100選(1987年)、および、かおり風景100選(環境省、2001年)の選定地[28] でもある[10]。浄土ヶ浜海水浴場については後述する。
魹ヶ崎:本州最東端の地。
本州最東端の碑
魹ヶ埼灯台:本州最東端の灯台。
臼木山
ローソク岩:cf.
潮吹穴
日出島
重茂の大ケヤキ
森の巨人たち百選に「『森林浴の森』の木」名義で選定されている。cf.
三王岩
真崎海岸
早池峰山:日本百名山に選定されている。
区界高原
旧跡[編集]
崎山貝塚:縄文時代の貝塚。cf. a,b.
横山八幡宮: cf. a.
黒森神社
宮古港海戦記念碑
明治2年3月25日(1869年5月6日)に起こった宮古湾海戦の記念碑。
大津浪記念碑
1933年(昭和8年)の昭和三陸地震による津波の後で建てられた災害記念碑で、「此処より下に家を建てるな」との先人訓が東日本大震災の津波から現地・姉吉地区の住民の命を守った。
田鎖城
観光施設・多目的施設[編集]
土産物
宮古魚菜市場
海水浴場
浄土ヶ浜海水浴場:三陸復興国立公園内の景勝地「浄土ヶ浜」内にある海水浴場で、2001年(平成13年)に日本の水浴場88選(環境省)、2006年(平成18年)には「浄土ヶ浜の潮のかおり」名義で快水浴場百選(環境省)の選定地となった[29][10]。
女遊戸海水浴場
真崎海岸海水浴場
蛸の浜海水浴場
藤の川海水浴場
大須賀海水浴場
展示館など
岩手県立水産科学館
宮古市北上山地民俗資料館:cf.
薬師塗漆工芸館
西塔幸子記念館
寄生木展示室(山口公民館)
みなとオアシスみやこ:cf.
シートピアなあど:cf.
浄土ヶ浜ビジターセンター
浄土ヶ浜マリンハウス
浄土ヶ浜レストハウス
ラサの煙突
他の名所・施設[編集]
がっかり島:珍地名で知られる無人島。
ラサの煙突
ラサ工業宮古工場構内にある、日本で2番目に高い煙突(高さ160m)。小山田地区にある標高90mの山上に建ち、煙突本体と併せて250mの高さを誇る。1939年(昭和14年)6月の操業開始以来、長らく宮古のランドマークである。
田老の防潮堤
田老地区の沖合いに建設された防潮堤。cf. 田老の防潮堤は時代を追って巨大かつ堅牢なものとなり、高さ10m[注 9]・長さ2.4kmにも及ぶに至り、中国の万里の長城になぞらえて「田老万里の長城」「田老の万里の長城」などと雅称されるようになった。海側と陸側の2重構造になっている、日本最大規模の防潮堤であったが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、地震直後に20m級の津波が押し寄せたため、海側に面した堤防の半分が崩壊した。
ラサ工業田老鉱山跡
現在は明星大学の所有地である。
祭り[編集]
宮古鮭まつり
浄土ケ浜まつり
宮古夏祭り
宮古秋祭り
川井村郷土芸能祭
伝統芸能[編集]
黒森神楽:国の重要無形民俗文化財(2006年3月15日指定)[30][31]。
小沢獅子踊:市指定無形民俗文化財。
宮古を舞台とした作品[編集]
映画
大いなる旅路
喜びも悲しみも幾歳月:ロケ地。1957年(昭和32年)製。
トラック野郎・一番星北へ帰る:1978年(昭和53年)、東映。宮古港、浄土ヶ浜、国道106号。
あの夏、タイムマシーンにのって:宮古市民参加自主制作映画。2005年(平成17年)製。
漫画
こちら葛飾区亀有公園前派出所:第8巻収録。アドリブ旅行シリーズ。1978年(昭和53年)。
出身著名人[編集]
江戸時代
南部重信 - 第3代盛岡藩主
牧庵鞭牛 - 僧侶、土木技術者
明治生まれ
菊池長右衛門 (立憲政友会) - 政治家
菊池長右衛門 (日本自由党) - 政治家
高橋寿太郎 - 海軍少将、衆議院議員
鳥取春陽 - 演歌歌手、作曲家
大正生まれ
中居英太郎 - 政治家
吉田タキノ - 児童文学作家
昭和生まれ
愛彩(浅田りょう) - グラビアアイドル
天野こころ - AV女優
伊藤奏子 - ヴァイオリニスト
卯月妙子 - 漫画家
お船chan - 元女子プロレスラー
甲斐谷望 - アナウンサー(IBC岩手放送)
柏葉幸子 - 児童文学作家
金澤未咲 - 演歌歌手
菊池清麿 - 伝記作家
菊池長右ェ門 - 政治家
工藤章 - モントリオールオリンピック銅メダリスト
久保田茂 - アナウンサー(NHK)
佐香厚子 - 漫画家
高橋裕二 - アナウンサー(岩手めんこいテレビ)
玉澤徳一郎 - 政治家 元防衛庁長官、元農林水産大臣
中洞正 - 農業経営者
中村貴之 - ミュージシャン(NSP)
日蔭暢年 - 柔道家
藤原敏男 - キックボクサー
本田竹広 - ジャズピアニスト
茂市久美子 - 児童文学作家
宮錦浩 - 大相撲力士
LIKKLE MAI - 歌手
平成生まれ
みやさと奏 - 演歌歌手
生年非公表
木村雅子 - アナウンサー(エフエム岩手 → フリー)
その他の関連事象[編集]
義経北行伝説
三陸沿岸では古来、源義経の末路について、「平泉にて自刃したのは臣下の将であって、義経自身は逃げ延び、沿岸を北上していった」と語り継がれてきた[32](cf. 源義経#不死伝説)。岩手県から青森県の沿岸にはこの言い伝えを残す寺社が多く存在し、史実はどうあれ、郷土史研究家の好奇心をくすぐる格好の材料となっている。
目黒のさんま祭り
宮古市は、東京都品川区上大崎で1996年(平成8年)以来毎年9月開催される「目黒のさんま祭り」に、第4回に当たる1999年(平成11年)以降、水揚げされたサンマ数千匹を無償提供している[33](2007年は5千匹[34]、2008年は6千匹[35]、2009年・2010年は7千匹[36][37])。
宮古列島の「宮古市」命名問題
2004年(平成16年)12月、沖縄県宮古列島の5市町村が合併する際に合併協議会では新たな市の名称を「宮古市」に決めたが、これを受けて岩手県の宮古市は同じ市名が存在すると混乱する点と事前に岩手県の宮古市への照会が無かったことから猛反発し、宮古列島の協議会に抗議した。その後、宮古列島では住民アンケートの結果、「宮古島市」を希望する意見が多かったため、協議会は「宮古島市」を採用した。cf. 宮古島市#合併の経緯。
市外局番:市内全域で0193。
脚注[編集]
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^ 盛岡市、釜石市に次いで県内で三番目に市制移行した。
^ “宮古市(岩手県)の住所・地名の読み仮名”. 市町村.com. 2011年5月14日閲覧。
^ “川井村(下閉伊郡)(岩手県)の住所・地名の読み仮名”. 市町村.com. 2011年5月14日閲覧。
^ “漁港マップ”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月20日閲覧。
^ “小堀内漁港”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月20日閲覧。
^ “田老漁港”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月20日閲覧。
^ “姉吉漁港”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月20日閲覧。
^ “宮古街道”. いわての街道. 個人. 2011年5月20日閲覧。
^ 堤防そのものが10mではなく、海抜10m以上という意味である。
出典[編集]
^ a b c d “宮古市の花、木、鳥、魚”. 宮古市ホームページ. 2014年7月18日閲覧。
^ “03 岩手県 - 合併及び境界確定等による市区町村の面積”. (公式ウェブサイト). 国土地理院. 2011年5月14日閲覧。
^ “平年値(年・月ごとの値)”. 気象庁. 2011年6月22日閲覧。
^ “観測史上1~10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2010年4月23日閲覧。
^ “戊辰戦争・宮古港海戦”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2010年10月17日). 2011年5月15日閲覧。
^ a b “崎山貝塚の時代”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2012年8月14日). 2015年1月10日閲覧。
^ a b c d e “宮古港について 歴史 (1/2)”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月18日閲覧。
^ a b c “検証・大震災:砕かれた巨大防潮堤 (1) 高さ10メートル「長城」あっけなく”. 毎日jp (毎日新聞社). (2011年5月15日). オリジナルの2013年5月1日時点によるアーカイブ。 2011年5月15日閲覧。
^ 図典 日本の市町村章 p32
^ a b c “浄土ヶ浜”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2011年1月5日). 2011年5月15日閲覧。
^ “陸中海岸国立公園の概要”. 生物多様性情報システム(公式ウェブサイト). 環境省. 2011年5月14日閲覧。
^ a b “宮古港について 歴史 (2/2)”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月18日閲覧。
^ 北上山地川井村の山村生産用具コレクション(文化遺産オンライン)2015年1月10日閲覧
^ “検証・大震災:砕かれた巨大防潮堤(8止)伝承 祖母の行動に教えの重み知る”. 毎日jp (毎日新聞社). (2011年5月15日). オリジナルの2012年7月16日時点によるアーカイブ。 2011年5月15日閲覧。
^ “シートピアなあど(広域総合交流促進施設)”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2010年10月17日). 2011年5月18日閲覧。
^ “トピックス/2005(2/2)”. (公式ウェブサイト). 宮古市 (2008年1月4日). 2011年5月18日閲覧。
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関連項目[編集]
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閉伊郡
三陸復興国立公園 - 浄土ヶ浜
三陸沖漁場
宮古湾海戦
東日本大震災 / 大津浪記念碑
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