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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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篠山鉄道
曖昧さ回避 「篠山線」とは異なります。
篠山鉄道
篠山町駅で出発を待つ列車 1934年頃
篠山町駅で出発を待つ列車
1934年頃
概要
現況 廃止
起終点 起点:篠山駅
終点:篠山町駅
駅数 5駅
運営
開業 1915年9月12日
廃止 1944年3月21日
所有者 篠山鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 4.9 km (3.0 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
国鉄:福知山線
STRq
篠山口
exSTRlg
0.0 篠山
exBHF
? 弁天 -1925
exBHF
2.5 東吹
exBHF
3.1 岡野
exSTRrg exABZrf
exSTR exKBHFe
3.9 篠山町 (I) -1921
exBHF
3.9 西町
exBHF
4.3 魚の棚
exKBHFe
4.9 篠山町 (II) 1921-
篠山鉄道(ささやまてつどう)は、かつて兵庫県多紀郡味間村(丹南町を経て、現在の篠山市)と同郡篠山町(同)の間を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。
国鉄篠山駅(現在の篠山口駅)が、篠山町の中心市街地から遠く離れた場所に位置したため、同駅と中心市街地を結ぶ交通機関として建設、1915年(大正4年)に開通した。しかし戦時中の1944年(昭和19年)、同じく篠山口駅を起点として篠山町を通る国鉄篠山線が開通したのと同時に廃止された。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 蒸気機関車
7.2 客車
8 バス事業
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):4.9km
軌間:1067mm
駅数:5駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:不明
運行形態[編集]
1942年11月15日改正当時
列車本数:篠山 - 篠山町間11往復半
所要時間:全線13分
歴史[編集]
1911年(明治44年)6月12日 坊ケ内安治郎ほか6人に鉄道免許状下付(篠山-大澤間)[1]
1913年(大正2年)4月27日 篠山軽便鉄道として会社設立[2][3][4]
1915年(大正4年)9月12日 弁天 - 篠山町間開業[5][6][7]。同年度中に国鉄との連帯運輸を開始[8]
1919年(大正8年)5月 伊藤英一の株買占めにより伊藤の親戚にあたる末正盛治[9]が社長に就任[10]
1921年(大正10年)2月15日 篠山町駅を町中心部に移転し路線延長。西町駅開業[6][11]
1923年(大正12年)2月17日 鉄道免許状下付(多紀郡篠山町-同郡福住村間)[12]
1925年(大正14年)
11月18日[2]または11月26日[5][6][13] 篠山鉄道に社名変更
12月10日 篠山駅構内まで線路を延長し、福知山線と接続。同時に弁天駅は廃止[6][14][15]
1926年(大正15年)4月24日 鉄道免許失効(多紀郡日置村-同郡福住村間 指定ノ期限マテニ工事施行認可申請ヲ為ササルタメ)[16]
1935年(昭和10年)1月16日 瓦斯倫動力併用実施[3]
1935年(昭和10年)2月15日 魚の棚駅開業[6]
1937年(昭和12年)10月13日 鉄道免許失効(多紀郡篠山町-同郡日置村 工事施行ノ認可ヲ受ケサルタメ)[17]
1944年(昭和19年)
3月1日 国鉄篠山駅が篠山口駅に改称
3月21日 全線廃止[5][6][18]
駅一覧[編集]
1915年時点
弁天駅 - 東吹駅 - 岡野駅 - 篠山町駅
1944年時点
篠山駅 - 東吹駅 - 岡野駅 - 西町駅 - 魚の棚駅 - 篠山町駅
接続路線[編集]
篠山駅:福知山線篠山駅(現・篠山口駅)
※開業当初の起点であった弁天駅は、篠山駅から徒歩圏内であったが、少し離れていた。
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1915 50,392 138 4,533 4,958 ▲ 425 検査結果改算78,862 2,631
1916 102,412 1,313 8,457 10,605 ▲ 2,148 3,118 4,542
1917 130,658 1,111 10,604 14,260 ▲ 3,656 雑損99 2,932 5,546
1918 167,213 942 20,136 18,078 2,058 2,748 1,982
1919 189,463 1,290 31,755 20,711 11,044 会計検査改算45 2,836
1920 205,435 1,260 47,230 35,041 12,189 13,119 3,545
1921 221,908 3,593 48,342 35,473 12,869 4,716
1922 228,541 4,150 54,564 37,503 17,061 2,024
1923 234,665 4,970 59,736 37,725 22,011 雑損439 9,788 1,901
1924 161,648 5,239 45,853 39,169 6,684 27,166 雑損27,211 7,540 12,353
1925 176,570 6,327 50,146 31,996 18,150 7,289 4,634
1926 186,433 11,330 51,837 37,143 14,694 10,493
1927 179,573 20,091 57,749 34,303 23,446 自動車1,050 16,351
1928 151,092 29,554 58,495 33,876 24,619 損失補助金1,539 償却金1,539 15,740
1929 152,003 34,943 62,578 34,545 28,033 自動車2,459 15,846
1930 141,159 27,889 52,936 38,926 14,010 損失補填金5,790 雑損償却金9,904自動車1,775 14,307
1931 148,917 20,035 46,817 26,871 19,946 雑損816償却金12,922自動車688 14,054
1932 145,629 23,010 44,902 24,604 20,298 雑損償却金2,333自動車1,826 13,194
1933 145,399 33,063 48,356 27,991 20,365 雑損3,313自動車169 12,856
1934 160,182 28,993 45,786 30,981 14,805 雑損1,881自動車53 11,332
1935 175,196 27,087 47,115 30,416 16,699 償却金1,600自動車834 8,172
1936 199,011 25,658 47,664 36,344 11,320 償却金2,400自動車1,236 7,236
1937 277,372 23,201 57,793 35,509 22,284 雑損償却金9,240自動車5,860 5,531
1939 469,562 44,022
1941 467,877 51,796
1943 694,328 53,293
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
車両[編集]
蒸気機関車[編集]
1(2代) ← 2(初代)
1903年、英W・G・バグナル製の車軸配置0-4-0(B)型10t級タンク機関車。旧鉄道院1形(1)。1915年12月17日に2から改称。1943年に神戸製鋼所へ譲渡され6となった。
2(2代) ← 1(初代)
1914年9月、石川鐵工所製の車軸配置0-4-0(B)型10t級タンク機関車。1915年12月17日に1から改称。1919年6月に泉工業へ譲渡された。
2(3代)
1926年、日本車輌製造製の車軸配置0-6-0(C)型20t級タンク機関車(製造番号154)。路線廃止後の1944年8月に、宮崎交通へ譲渡され6となった。
608
1888年、英ナスミス・ウィルソン製の車軸配置2-4-2(1B1)型37t級タンク機関車。旧鉄道院600形(608)で、京都市を経て1937年に入線した。路線廃止後の1945年4月に高知鉄道へ譲渡された。
客車[編集]
ハフ1・2
1915年梅鉢鉄工所製(定員34名)1945年湊鉄道に譲渡。
ハ4
1923年大阪鉄道 より購入した1900年東京月島車両製造所製の木製2軸客車ハ6(定員50名)。1945年湊鉄道に譲渡。
ロハ5
1923年大阪鉄道より購入した1900年東京月島車両製造所製の木製2軸客車ロハ3(定員二等14、三等30名)。後に二等は廃止されてハ5に変更された。1945年に上信電気鉄道に譲渡。
ハブ6・7
1926年に南海より購入した木製2軸客車(定員50名)。1945年に上信電気鉄道に譲渡。高野鉄道が出自で1899年日本車輌製南海ろブ16←は16、1898年井上製南海ろブ11←は11
バス事業[編集]
1934年時点で1路線、使用車両(常用1予備1)[19]。
脚注[編集]
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^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年6月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『篠山町75年史』
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第23回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c 和久田『私鉄史ハンドブック』p. 139
^ a b c d e f 今尾『日本鉄道旅行地図帳』p. 46
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年9月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『大正四年度鉄道院年報』p. 10
^ 『人事興信録. 6版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第27回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始並停留場設置」『官報』1921年2月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1923年2月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 11月26日登記『鉄道省鉄道統計資料. 大正14年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 弁天から篠山へ改称扱い「地方鉄道駅名改称」『官報』1926年2月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 国鉄篠山駅への乗り入れは『篠山町75年史』では1918年となっているが、篠山町駅移転時の1921年の『大正十年兵庫県統計書』ではまだ「篠山町辨天間」となっている。
^ 「鉄道免許失効」『官報』1926年4月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許失効」『官報』1937年10月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道運輸営業廃止」『官報』1944年6月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『全国乗合自動車総覧』1934
参考文献[編集]
安保彰夫「篠山鉄道始末記」『鉄道ファン』No.250
「交通・通信」『篠山町75年史』 篠山町役場、1955年。2010年6月6日閲覧。
中川浩一「失われた鉄道・軌道を訪ねて〔5〕失われた鉄道・軌道を調べるには」、『鉄道ピクトリアル』140号、電気車研究会、1963年1月。
和久田康雄 『私鉄史ハンドブック』 電気車研究会、1993年。
沖田祐作 編 『機関車表 私設企業』 滄茫会、1993年。
小川功「地方公益企業の乗取失敗と関与銀行家の苦悩--篠山軽便鉄道を事例として」、『彦根論叢』第321号。
鉄道院 『大正四年度鉄道院年報』国有鉄道之部。(国立国会図書館デジタルコレクション)
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』9 関西2、新潮社、2009年。
『大正十年兵庫県統計書』第13・14編。(国立国会図書館デジタルコレクション)
関連項目[編集]
廃線
外部リンク[編集]
丹波篠山インターネットテレビ - 以下の記録映像がある。
「篠山軽便鉄道」(1930年/1分36秒)
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 篠山鉄道近畿地方の鉄道路線 (廃止)篠山市の交通篠山市の歴史兵庫県の交通史かつて存在した日本の鉄道事業者かつて存在した日本のバス事業者
日本無軌道電車
日本無軌道電車線
走行中のトロリーバス(日本地理風俗大系第8巻(1931)より)
走行中のトロリーバス
(日本地理風俗大系第8巻(1931)より)
基本情報
現況 廃止
国 日本の旗 日本
所在地 兵庫県
種類 無軌条電車
起点 花屋敷停留所
終点 新花屋敷停留所[1]
停留所数 3停留所
開業 1928年8月1日
休止 1932年1月
廃止 1932年4月
所有者 日本無軌道電車
運営者 日本無軌道電車
路線諸元
路線距離 1.3 km[2]
電化方式 直流 600 V[3] 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停留所・施設・接続路線
凡例
阪急宝塚本線
0.0 花屋敷[4]
uexDST
0.6 つつじが丘
uexBHF
1.3 新花屋敷[1]
uexWSLe
折り返し設備
日本無軌道電車(にほんむきどうでんしゃ)は、兵庫県にかつてあった、阪神急行電鉄(阪急電鉄の前身)宝塚本線の花屋敷駅(後に雲雀丘駅と統合され廃止)近くの花屋敷停留所[4]と新花屋敷[1](現在の川西市満願寺町付近。満願寺町は川西市の飛地)の間を結んでいた無軌条電車(トロリーバス)路線。日本初のトロリーバス路線として開業したが、開業してから4年で廃線となった。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 沿革
4 停留所一覧
5 補注
6 参考文献
7 外部リンク
概要[編集]
宝塚線花屋敷駅から2km離れた山奥には、かつて温泉が湧いていた。大正時代、大阪心斎橋で呉服店経営に成功した田中数之助[5]がこの地の開発を行うため、すでに設立していた「能勢口土地」という会社を新花屋敷温泉土地と改め、温泉場と遊園地を整備した。しかしここは花屋敷から2km離れている上、坂が続くため湯治客・行楽客は難儀を強いられた。これらの客のために新花屋敷温泉土地はフォードのオープンカーを運転していたのだが、より輸送力の大きい交通手段が求められた。
しかし当時のバスは性能が悪く、厳しい上り坂を登れるだけの力を持っているかどうか定かではなかった。路面電車も鉄車輪のため坂には弱い。そのため一部の国で導入されており、急勾配に強いと考えられていたトロリーバスを建設することにしたのである。田中自身は運輸業の知識に疎かったため、高野登山鉄道の経営に参加していた宇喜多秀穂を経営陣に迎えている。
当時の軌道事業を管轄していた内務省は、初の例ということで困惑したと言われる[6]。しかし1927年には認可が下り[7]、翌年開業させた。社名もこのとき日本無軌道電車[8]と改められた。トロリーバスは新花屋敷の約700m手前のところまでの運行で、途中のつつじが丘(現在の宝塚市花屋敷つつじガ丘)が行き違いを行う交換所となっていた。方向転換は起点の花屋敷停留所ではスペースの関係で転車台を用い、終点の新花屋敷停留所ではループ線を使用し、終点には他に待合室と車庫があったという。道路は未舗装であったため、トロリーバスの通る中央部のみ舗装された。電力は親交の深かった阪神急行電鉄から供給を受けた。車両は日本輸送機製作所(現在のニチユ三菱フォークリフト)製の箱型のものが2両で、車体長5.5m、車幅1.89m、車高3.0m、定員28名、奥村電機製の20馬力(PSかHPかまでは不明)直流電動機を2基と、2段変速機を装備しており、タイヤとボールベアリング以外はすべて国産だった。当時の記録によると車体色はワインレッドで屋根が白色、窓下と裾部分に黄色の細い帯が巻かれていたという。
当初は延長も考えられており、第二期区間として満願寺山門まで、最終的には多田神社を経て能勢電鉄多田駅まで達する計画であった。
しかし実際に運行してみると、車体の重さのために舗装に亀裂が入り、それによりソリッドタイヤから振動が伝わって乗り心地が悪いだけでなく、その振動が元で故障も多発するようになる。
その上運賃が高いため、下り坂となる帰路はトロリーバスに乗らずに歩く者もあった。更には昭和恐慌のあおりで来客自体が減ったことから、成績は思わしくなかった。借金に追われた田中は失意のまま1929年に他界し[9]、トロリーバスも1932年1月には運休し、4月に廃線となった。なおこの年、京都市で日本初の都市トロリーバス(京都市営トロリーバス)が開業している。
車両はその後、釣鐘山登山口における公衆便所に転用され、戦後に至るまでしばらく使用された。また軌道跡と架線柱も戦後まで放置されていたが、いずれも現在は撤去された。
路線データ[編集]
路線距離:花屋敷 - 新花屋敷[1]間1.3km[2]
電化方式:直流600V[3](変電所を持たず、阪急より受電)
沿革[編集]
1927年(昭和2年)
11月14日 無軌条電車敷設認可
12月15日 兵庫県知事より無軌道電車敷設許可
1928年(昭和3年)
4月18日 起工式
7月10日 敷設工事竣成
7月31日 兵庫県知事より無軌道電車線路変更工事と運転開始認可
8月1日 開業
1932年(昭和7年)
1月 休止
4月 廃止
停留所一覧[編集]
花屋敷 - つつじが丘 - 新花屋敷[1]
補注[編集]
^ a b c d e 吉川 (1994)に掲載されている路線勾配図および1927年11月15日付時事新報(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)では本社前、森 (2012)では長尾台
^ a b 吉川 (1994)に掲載されている路線勾配図では1,327m
^ a b 今尾 (2009)では500V
^ a b 森 (2012)によると、阪急花屋敷駅付近の私有地の使用承認が得られなかったため、阪急花屋敷駅から北に130m離れたところに花屋敷停留所を設置している。
^ 『人事興信録. 7版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 従来、軌道法を管轄する内務省と鉄道省の協議では、無軌道電車の出願に対して却下する方針であった。
^ 1927年11月15日付時事新報(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)。また、認可にあたっては内務省の現地視察などの結果、乗合自動車営業取締規則を参考とした。
^ 『帝国銀行会社要録. 第17版(昭和4年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 田中は1929年11月21日から出社後行方不明となっていたが、当日に南海電車の大和川踏切での事故で轢死していたことが約一か月後に判明した。
参考文献[編集]
小川功 「不動産観光業の融合温泉土地会社の破滅」『虚構ビジネスモデル』 日本経済評論社、2009年、11-37頁。
森五宏「新花屋敷無軌道電車」、『関西の鉄道』1995年、 73-80頁。
吉川文夫 『日本のトロリーバス』 電気車研究会、1994年、68-75頁。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』9 関西2、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790027-2。
森五宏 『トロリーバスが街を変える 都市交通システム革命』、2001年。ISBN 4-89797-454-2。
森五宏 「日本初に賭けた三人の男たち 我が国最初の無軌道電車、花屋敷を走る」『新なにわ塾叢書4 熱き男たちの鉄道物語 関西の鉄道草創期にみる栄光と挫折』 ブレーンセンター、2012年、41-84頁。ISBN 978-4-8339-0704-0。
外部リンク[編集]
「本邦最初の無軌道電車 愈よ来月15日試運転」『国民新聞』昭和3年4月25日。(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
カテゴリ: 近畿地方の鉄道路線 (廃止)日本のトロリーバス兵庫県の交通史川西市の交通川西市の歴史