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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
山鹿温泉鉄道
山鹿駅前の鉄道記念碑
山鹿駅前の鉄道記念碑
概要
現況 廃止
起終点 起点:植木駅
終点:山鹿駅
駅数 17駅
運営
開業 1917年12月22日
廃止 1965年2月4日
所有者 山鹿温泉鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 20.3 km (12.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
HST
熊本
STR
国鉄:鹿児島本線
ABZl+xl BHFq
0.0 植木
exTUNNEL1
exBHF
2.1 植木町
exBHF
3.3 一ツ木
exBHF
4.5 今古閑
exBHF
5.8 山本橋
exBHF
7.9 今藤
exBHF
9.0 肥後豊田
exBHF
9.8 舟島
exBHF
10.5 伊知坊
exBHF
10.9 平島温泉
exBHF
11.7 山城
exBHF
12.9 宮原
exBHF
13.5 奥永
exBHF
14.7 分田
exWBRÜCKE
菊池川橋梁 菊池川
exBHF
16.3 来民
exBHF
18.2 肥後白石
exBHF
19.0 肥後大道
exKBHFe
20.3 山鹿
山鹿温泉鉄道(やまがおんせんてつどう)は、かつて熊本県植木町(現・熊本市)の植木駅と同県山鹿市の山鹿駅の間を通っていた鉄道路線、およびその運営事業者である。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
3.1 年表
3.2 鉄道廃止後の経過
4 駅一覧
5 輸送・収支実績
6 車両
6.1 総説
6.2 蒸気機関車
6.3 気動車
6.3.1 車両数の推移
7 廃線跡の現況
8 未成線
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
概要[編集]
当初の名称を鹿本鉄道(かもとてつどう)と称した。温泉地として知られる山鹿を通る唯一の鉄道路線であったが、開業間もなく昭和恐慌の影響を受け、さらに山鹿と熊本市を結ぶバス路線が相次いで開設されたこともあって営業面では終始振るわなかった。このため競合バス会社の買収等の手段で山鹿 - 熊本間にバス路線を開設し、鉄道は貨物輸送に重点を置いて旅客輸送を減量するなどの手段で収支の安定化を図ったが、バス部門は戦時中の交通統合により九州産業交通への譲渡を余儀なくされた。
戦後の1950年(昭和25年)12月に中型気動車を導入し、国鉄鹿児島本線への乗り入れ運行を開始して熊本への直通を実現したが、1957年(昭和32年)に水害により植木 - 植木町間の築堤が崩壊し、直通運行が不可能になった。植木町 - 山鹿間は復旧したものの、植木 - 植木町間は復旧を断念し休止し、バス代行輸送とした。
二度の水害による打撃もあったことに加え、熊本 - 山鹿間のバス路線に比し著しく利便性を欠いて鉄道の利用は低下、末期的な経営状態となったことから、1960年(昭和35年)に全区間が休止、1965年(昭和40年)に廃止された。
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):20.3km
軌間:1067mm
駅数:17駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:
運行形態[編集]
1953年(昭和28年)6月15日当時
運行本数:日11往復(6時 - 21時台)、うち熊本発着4往復
所要時間:全線約45分(自社線内)
1956年(昭和31年)5月2日当時[1]
運行本数:日13往復(6時 - 21時台)、うち熊本発着4往復
所要時間:全線41分(自社線内)
歴史[編集]
年表[編集]
1915年(大正4年)11月28日[2] 鹿本軌道の名で会社設立[3]
1916年(大正5年)
3月24日 大日本軌道より軌道特許(熊本市西唐人町-鹿本郡山鹿町間[4])譲受[5][6]
12月10日 軽便鉄道法に準拠し鹿本鉄道に社名変更
12月14日 鉄道免許状下付(鹿本郡桜井町-同郡山鹿町間)[7]
1917年(大正6年)
3月8日 軌道特許失効[8]
12月22日 植木 - 肥後豊田間を開業[9]
1918年(大正7年)12月26日 肥後豊田 - 宮原間を開業[10]
1921年(大正10年)12月2日 宮原 - 来民間を開業[11]
1922年(大正11年)5月10日 鉄道免許状下付(鹿本郡山鹿町-同郡三岳村間)[12]
1923年(大正12年)12月31日 来民 - 山鹿間を開業[13]
1927年(昭和2年)12月23日 ガソリン動力併用認可。翌年より気動車を導入
1928年(昭和3年)
長浦(植木町) - 熊本間連絡バスの運行を開始[14]
8月15日 肥後大本駅、肥後大道駅を開業
1930年(昭和5年)7月18日 鉄道免許失効(1922年5月10日免許鹿本郡山鹿町-同郡三岳村間 指定ノ期限マテニ工事ニ着手セサルタメ)[15]
1932年(昭和7年) バス事業を一時廃止[16]
1933年(昭和8年)
7月24日 バス事業を再開。シボレーバス20台を導入し、沿線各地から熊本市内直通便を運行[16][17]
8月 肥後大本駅を休止
1935年(昭和10年) 郵便専用自動車を導入し、郵便物の輸送を鉄道から自動車に転換[18]
1936年(昭和11年) 熊本市中心部の花畑町にバス待合所を設置[16]
1937年(昭和12年)4月 肥後大道駅・肥後大本駅を廃止
1940年(昭和15年) 郵便物の輸送を再び自動車から鉄道に転換。有蓋緩急車2両に郵便室を設置[18]
1943年(昭和18年)10月26日 バス事業を九州産業交通に譲渡
1949年(昭和24年)7月30日 平島を平島温泉に改称
1950年(昭和25年)12月 ディーゼル動車2両を導入。熊本直通運転を開始
1952年(昭和27年)
6月4日 社名を山鹿温泉鉄道に改称
8月 肥後大道駅を復活
1953年(昭和28年)6月26日 集中豪雨(熊本6.26大水害)により被害を受け、約4か月間不通
1954年(昭和29年)6月1日 肥後大本駅を今藤駅として復活
1955年(昭和30年)4月1日 一ツ木駅・舟島駅・伊知坊駅・奥永駅・白石駅を開業
1957年(昭和32年)7月26日 集中豪雨により被害を受ける。植木 - 植木町間では築堤が崩壊し復旧不可能となり休止(植木町 - 山鹿間は約1か月後に復旧)
1960年(昭和35年)12月1日 全線休止
1965年(昭和40年)2月4日 全線廃止
鉄道廃止後の経過[編集]
鉄道廃止に伴い、1965年(昭和40年)2月に社名を鹿鉄バス(株)に改称し、貸切バス事業者となった[19]。その後1971年(昭和46年)に至って貸切バス事業を縁故会社の鹿鉄停車場(株)に移管[19]。一時解散手続きに移行したが後に中止して、線路跡地への自転車道(熊本県道。後述)建設のための用地保全を目的とする法人となり、1974年(昭和49年)に山鹿自転車道(株)に改称[20]。1992年(平成4年)の自転車道完成後は駅跡の用地での駐輪場運営などを行っている[20]。
鹿鉄停車場(株)は、鉄道廃止・事業整理に伴って必要となった資金の調達などを行うことを目的に1960年(昭和35年)11月に設立された法人で、鉄道廃止後は山鹿駅の用地を取得して自動車教習所を設置し、運営を行うこととなった[20]。1971年(昭和46年)には鹿鉄バス(株)から貸切バス事業の移管を受け、鹿鉄交通(株)に改称した[20]。自動車教習所・貸切バス事業とも1992年(平成4年)の時点では健在であった[21]が、その後いずれの事業も廃止となる。尚、法人そのものは不動産管理会社として2017年(平成29年)現在も存続している。
駅一覧[編集]
全駅熊本県に所在。
接続路線の事業者名・所在地の自治体名は当線廃止時点のもの。植木町は2010年(平成22年)に熊本市の一部、鹿央町・鹿本町は2005年(平成17年)に山鹿市の一部となった。
駅名 よみ 駅間キロ 累計キロ 開業日 接続路線・備考 所在地
植木駅 うえき - 0.0 1917年12月22日 日本国有鉄道:鹿児島本線 鹿本郡植木町
植木町駅 うえきまち 2.1 2.1 1917年12月22日 旧駅名:長浦(ながうら)
1949年7月30日変更
一ツ木駅 ひとつぎ 1.2 3.3 1955年4月1日
今古閑駅 いまこが 1.2 4.5 1955年4月1日
山本橋駅 やまもとばし 1.3 5.8 1917年12月22日
今藤駅 いまふじ 2.1 7.9 1928年8月 旧駅名:肥後大本(ひごおおもと)
(1937年4月廃止)
1954年6月1日復活
肥後豊田駅 ひごとよだ 1.1 9.0 1917年12月22日
舟島駅 ふなじま 0.8 9.8 1955年4月1日
伊知坊駅 いちぼう 0.7 10.5 1955年4月1日
平島温泉駅 ひらしまおんせん 0.4 10.9 1918年12月26日 旧駅名:平島(ひらしま)
1949年7月30日変更
山城駅 やましろ 0.8 11.7 1955年4月1日
宮原駅 みやばる 1.2 12.9 1918年12月26日
奥永駅 おくなが 0.6 13.5 1955年4月1日 鹿本郡鹿央町
分田駅 ぶんだ 1.2 14.7 1921年12月1日 鹿本郡鹿本町
来民駅 くたみ 1.6 16.3 1921年12月1日
肥後白石駅 ひごしらいし 1.9 18.2 1955年4月1日 山鹿市
肥後大道駅 ひごだいどう 0.8 19.0 1928年8月 1937年4月廃止
1952年8月復活
山鹿駅 やまが 1.3 20.3 1923年12月31日
廃止時、分田駅 - 来民駅間で山鹿市を通っていた。
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1917 2,421 26 2,454 330 2,124 雑損金2,660
1918 211,774 9,831 30,476 19,794 10,682 6,029 8,197
1919 311,368 26,427 72,890 39,249 33,641 雑損金1,000 10,590
1920 343,245 37,270 109,058 50,367 58,691 13,240
1921 317,752 32,320 109,601 77,035 32,566
1922 307,738 40,677 120,876 97,079 23,797
1923 317,941 42,143 124,604 102,436 22,168 23,852 36,678
1924 543,417 45,748 185,941 127,623 58,318 293 57,349 40,184
1925 509,985 51,385 189,974 112,378 77,596 雑損1,482 54,628 29,196
1926 437,901 48,983 170,326 106,291 64,035 雑損237 45,217 40,344
1927 390,962 46,127 159,657 89,878 69,779 雑損94 42,024 43,431
1928 341,537 42,572 139,218 101,164 38,054 自動車業903雑損358 38,177 47,479
1929 341,961 40,160 132,650 101,453 31,197 自動車業1,987雑損91 35,668 44,127
1930 281,139 40,054 118,233 85,288 32,945 自動車業271 雑損860 32,066 44,156
1931 241,153 37,529 104,873 76,213 28,660 自動車業1,962 雑損3,877 27,901 42,142
1932 183,001 34,408 73,022 63,253 9,769 雑損8自動車3,415 22,801 16,437
1933 153,601 35,585 63,419 55,663 7,756 自動車業8,061 18,703
1934 70,010 37,963 56,443 27,207 29,236 雑損2自動車業9,998 17,990
1935 87,896 41,047 64,885 36,963 27,922 自動車業8,773 雑損2 16,722
1936 82,622 40,456 60,627 34,007 26,620 自動車業9,603 償却金18,267 13,833
1937 92,262 41,476 61,211 39,856 21,355 自動車業11,079 雑損372 13,348
1939 231,416 48,460
1941 401,448 69,084
1943 444,189 74,209
1945 1,012,538 41,127
1949 706,396 76,088
1952 749,754 39,112
1958 450千 -
鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
総説[編集]
開業時は蒸気機関車(大日本軌道鉄工部製のタンク機関車)2両と客車(岡部鉄工所(福岡)製ボギー客車)3両で旅客営業をはじめた。1928年(昭和3年)にバスの台頭に対抗して合理化・列車増発のため気動車の導入を図り、丸山車輌と梅鉢鐵工所(のちの帝国車輌)で合計3両のガソリンカーを新造した。丸山製の2両は片運転台で一方のみ進行する単端式であり、日本の気動車としては初めて独立した郵袋置場を設置した車両であった。また梅鉢製の1両は当時最先端の両側運転台車だったが、フリクション変速機による動力伝達等に欠陥があり、早期に改修された。
気動車導入により列車増発が図られたが、これら3両は何れも簡易な木造車なうえ、日本でもごく初期の気動車で未熟な欠陥も多く、数年間のうちに全体の老朽化が進行して長期の使用に耐えなくなった。同時期に旅客輸送はバス重視とする方針転換が為され、1934年(昭和9年)12月には気動車列車が廃止されて旅客列車は蒸気機関車牽引列車4往復のみという大幅減量ダイヤとなった。不要となった気動車3両は1935年(昭和10年)に佐賀電気軌道に売却処分、相前後して客車3両をも熊延鉄道や南薩鉄道に売却してまで経営立て直しを図った。同年5月に当局からガソリン動力廃止認可を受けている。
戦後再び内燃動力併用認可を得て国鉄キハ41500形類似の気動車2両を導入し、熊本乗り入れに充当した。並行する九州産交バスとの対抗上極力運行本数を多くする必要があり、エンジン、車軸などに予備品を備えた上で常時2両使用予備車無しという異例の状態での国鉄直通運転が行われた[22]。
続いて帝国車輌に当時のトレンドである正面二枚窓の「湘南型」スタイルを持つ大型の気動車を発注したが、この車両を導入しないうちに1953年(昭和28年)の水害による大被害を受け、新車をキャンセルせねばならなくなった(注文流れの湘南型気動車は、有田鉄道と茨城交通に引き取られ、それぞれ有田鉄道キハ250と、茨城交通ケハ401となった)。
切羽詰まった山鹿温泉鉄道は、1955年(昭和30年)に大阪市交通局から中古ボンネットバスの払い下げを受け、これを改造した単端式気動車2両を導入するという奇策に出た。このバスは元々戦後の車両不足を補うため、進駐軍から放出されたGMCウェポンキャリア(軍用トラック)のシャーシにバスボディを架装したという代物で、その車輪を鉄道用車輪に取り替えて文字通りの「レールバス」としたものである(実車の側面窓下には「レールバス」という表記がなされていた)。日本で自動車を一般旅客輸送用の気動車に改造した前例は、大正時代の試作車両や軽便鉄道などに少数例があったが、戦後ではデュアル・モード・ビークルを除くと山鹿温泉鉄道がほぼ唯一であり、末期の同社がいかに経営的に窮迫していたかを物語る事例とされる。ところが1957年の水害により熊本への連絡が絶たれると植木町 - 山鹿間だけでは2両で十分でわずか2年で使用休止となってしまった[1]。
同線で使用されていたコッペル製の蒸気機関車が現在、千葉県習志野市の袖ヶ浦東小学校に保存されている。同機は茨城交通茨城線で使用されていたのを一時期借りていたもの。茨城鉄道時代は「3」、茨城交通時代は14。1951年(昭和26年)に川崎製鉄に移籍し、「NUS2」になる。川鉄時代には蘇我駅から川崎製鉄千葉製鉄所の間の千葉専用線で資材を運ぶために使用されていたが、ディーゼル機関車に置き換えられ廃車された。
蒸気機関車[編集]
のべ8両が在籍。
3・4
1922年ドイツ・コッペル製。運転整備重量は28.5t、弁装置ワルシャート式、軸配置はC,動輪直径1000mmである。4は当社で最後に残った蒸気機関車であった。[23]
気動車[編集]
キハ1・2
1951年10月17日付竣功。新潟鐵工所製で、津軽鉄道キハ2402、2403とほぼ同型の車両である。自重は約20t、定員は100名うち座席定員52名、機関はDA55Aを採用した。営業廃止まで在籍し、津軽鉄道へ譲渡され、1965年8月から使用される予定で新潟鉄工所へ送られ、ステップ1段化改造がなされたが、結局現地へは送られず入籍もしなかった。[24]
車両数の推移[編集]
年度 機関車 ガソリンカー 客車 貨車
1917-1922 2 3 5
1923-1927 4 5 8
1928-1934 4 3 5 8
1935 2 4 7
1936-1941 2 2 7
1942-1946 2 1 4 7
1947-1949 4 1 4 11
1950 2 2 4 11
1951-1954 2 2 2 9
1955 2 4 2 8
和久田康雄「山鹿温泉鉄道」59頁
廃線跡の現況[編集]
廃線跡は県に譲渡され、自転車道(熊本県道330号熊本山鹿自転車道線、愛称名「ゆうかファミリーロード」)として整備された。なお、2000年の時点で植木町、肥後豊田と終点の山鹿の3駅の駅舎が残存していたが、2012年までに植木町、山鹿両駅は解体された。
未成線[編集]
1921年4月に山鹿町-三岳村間(約3哩)の延長敷設願いを提出した。構想では久留米(約24哩)までの延長でありその一部であった。1922年5月免許状が下付されたが山鹿までの建設で余裕がなく再三工事延長願いを出していたが[25]、1930年7月失効となった[26]。
脚注[編集]
^ a b 林春一「山鹿温泉鉄道」『RAILFAN』No.286
^ 和久田は27日
^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道院年報. 明治42年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』6頁
^ 備考欄『鉄道院年報. 大正4年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1916年12月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道院鉄道統計資料. 大正5年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1918年1月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1918年12月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年12月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年5月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年1月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.14
^ 「鉄道免許失効」『官報』1930年7月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.16
^ 1934年時の路線『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.46
^ a b 和久田康雄「山鹿温泉鉄道」『鉄道ピクトリアル』NO.253
^ a b c d 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』pp.22-23
^ 中村良成「山鹿温泉鉄道の廃線跡を歩く」『鉄道ピクトリアル』NO.557
^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』p.40
^ 高井薫平(2012)『小型蒸気機関車全記録』(講談社)126pp.
^ 湯口徹(2006)『RMライブラリー88.戦後生まれの私鉄機械式気動車』(ネコパブリッシング)pp20-pp24.
^ 1926年1月に失効(「鉄道免許失効」『官報』1926年1月16日)されたが失効取消
^ 田尻弘行『山鹿温泉鉄道』10-11頁
参考文献[編集]
田尻弘行『山鹿温泉鉄道』 RM LIBRARY 57、ネコ・パブリッシング、2004年
和久田康雄「山鹿温泉鉄道」『鉄道ピクトリアル』NO.253、電気車研究会、1971年、pp.51-61
中村良成「山鹿温泉鉄道の廃線跡を歩く」『鉄道ピクトリアル』NO.557、電気車研究会、1992年、pp.157-163
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
九州肥筑鉄道
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カテゴリ: 山鹿温泉鉄道九州地方の鉄道路線 (廃止)かつて存在した日本の鉄道事業者かつて存在した日本のバス事業者
熊延鉄道
熊延鉄道
佐俣 - 釈迦院間に残る第二津留川橋梁の橋脚
佐俣 - 釈迦院間に残る第二津留川橋梁の橋脚
概要
現況 廃止
起終点 起点:南熊本駅
終点:砥用駅
駅数 17駅
運営
開業 1915年4月6日
廃止 1964年3月31日
所有者 熊延鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 28.6 km (17.8 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
HST
水前寺
国鉄:豊肥本線
0.0 南熊本
POINTERg
exSTRlg
熊本市電:春竹線
exBHF
2.5 田迎
exBHF
3.3 良町
exBHF
4.7 中ノ瀬
exWBRÜCKE
加勢川橋梁 加勢川
exBHF
6.3 鯰
exBHF
7.6 上島
exBHF
9.2 六嘉
exBHF
11.0 小坂村
exBHF
12.6 御船
exBHF
13.4 辺田見
exWBRÜCKE
御船川橋梁 御船川
exTUNNEL1
exBHF
15.7 下早川
exBHF
18.0 浅井
exBHF
20.4 甲佐
exBHF
21.5 南甲佐
exWBRÜCKE
緑川橋梁 緑川
exWBRÜCKE
第一津留川橋梁 津留川
exBHF
24.9 佐俣
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第二津留川橋梁
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第三津留川橋梁
exWBRÜCKE1
第四津留川橋梁
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第五津留川橋梁
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26.6 釈迦院
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第六津留川橋梁
exKBHFe
28.6 砥用
熊延鉄道(ゆうえんてつどう)は、かつて熊本県熊本市の南熊本駅から同県下益城郡砥用町(現・美里町)の砥用駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。1964年(昭和39年)に廃止された。
熊延鉄道という社名は熊本と延岡(宮崎県)を結ぶ鉄道を計画していたことに由来する。しかし実現には至らなかった。会社は現在、熊本バスとしてバス事業を営んでいる。
同地区では日本国有鉄道(国鉄)が宇土から浜町(現・上益城郡山都町)を経由して高千穂で国鉄高千穂線に接続する路線(延宇線)を計画していたが、宇土 - 佐俣 - 砥用間で路線バス(佐俣線)を運行しただけで着工には至らなかった。
なお、熊延鉄道線で使用されていた気動車は江若鉄道と玉野市営電気鉄道へ、ディーゼル機関車は江若鉄道へ譲渡された。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 車両
5.1 蒸気機関車
5.2 車両数の変遷
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):28.6km
軌間:1067mm
駅数:17駅(廃止時点、起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:
交換可能駅:8(鯰・上島・御船・下早川・浅井・甲佐・砥用)
運行形態[編集]
1961年(昭和36年)9月当時
運行本数:南熊本 - 砥用間直通列車12往復(内2往復は国鉄豊肥本線水前寺駅から直通)、南熊本 - 甲佐間区間列車3往復
所要時間:全線1時間10分 - 20分程度
歴史[編集]
1912年(明治45年)1月10日 熊本軽便鉄道[1]に対し鉄道免許状下付(春日-瀧川間 軌間762mm)[2]
1912年(大正元年)11月10日 御船鉄道株式会社設立(取締役大淵龍太郎)[3][4]
1913年(大正2年)5月31日 鉄道免許状下付(上益城郡瀧川村-同郡濱町間)[5]
1915年(大正4年)
4月6日 春竹(現・南熊本) - 鯰間を新規開業[6]
11月7日 鯰 - 小坂村間が開業[7]
1916年(大正5年)3月1日 小坂村 - 御船間が開業[8]
1923年(大正12年)4月28日 御船 - 甲佐間が開業[9]
1924年(大正13年)2月2日 鉄道免許状下付(上益城郡甲佐町-同郡宮内村間)[10]
1925年(大正14年)3月11日 鉄道免許失効(上益城郡甲佐町-同郡宮内村間 指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[11]
1927年(昭和2年)
1月27日 御船鉄道が熊延鉄道に社名変更
12月28日 鉄道免許取消(原町-濱町間 指定ノ期限マテニ工事竣工セサルタメ)[12]
1928年(昭和3年)7月15日 瓦斯倫動力併用[4]
1932年(昭和7年)12月25日 甲佐 - 砥用間が開業[13]
1940年(昭和15年)5月1日 国鉄駅の改称に合わせ、春竹駅を南熊本駅に改称
1960年(昭和35年)5月1日 国鉄豊肥本線の水前寺駅まで、乗り入れを開始
1964年(昭和39年)3月31日[14] 南熊本 - 砥用間が廃止。ただし、廃止日当日にも運賃無料の廃止記念列車を1往復運行している。
駅一覧[編集]
駅名・所在地の自治体名は廃止時点のもの。全駅熊本県に所在。
駅名 読み 駅間キロ 営業キロ 開業日 接続路線・備考 廃止当時の所在地 2012年の所在地
南熊本駅 みなみくまもと - 0.0 1915年4月6日 日本国有鉄道:豊肥本線
旧駅名:春竹(はるたけ)
(1940年5月1日変更)
熊本市電:春竹線 熊本市 熊本市中央区
田迎駅 たむかえ 2.5 2.5 1915年4月6日 熊本市南区
良町駅 ややまち 0.8 3.3 1960年7月1日
中ノ瀬駅 なかのせ 1.4 4.7 1915年4月6日 熊本市東区
鯰駅 なまず 1.6 6.3 1915年4月6日 上益城郡嘉島村 上益城郡嘉島町
上島駅 うえじま 1.3 7.6 1915年11月7日
六嘉駅 ろっか 1.6 9.2 1915年11月7日
小坂村駅 おさかむら 1.8 11.0 1915年11月7日 上益城郡御船町 上益城郡御船町
御船駅 みふね 1.6 12.6 1916年3月1日
辺田見駅 へたみ 0.8 13.4 1923年4月28日
下早川駅 しもそうがわ 2.3 15.7 1923年4月28日 旧駅名:早川(そうがわ)
(1923年5月1日変更) 上益城郡甲佐町 上益城郡甲佐町
浅井駅 あさい 2.3 18.0 1923年4月28日
甲佐駅 こうさ 2.4 20.4 1923年4月28日 内大臣森林鉄道と接続
南甲佐駅 みなみこうさ 1.1 21.5 1956年12月10日
佐俣駅 さまた 3.4 24.9 1932年12月25日 下益城郡中央村 下益城郡美里町
釈迦院駅 しゃかいん 1.7 26.6 1932年12月25日 下益城郡砥用町
砥用駅 ともち 2.0 28.6 1932年12月25日
車両[編集]
開業時に用意された車両は蒸気機関車2両、客車4両、貨車10両。すべて大淵龍太郎が取締役を務める大日本軌道鉄工部製であった。
蒸気機関車[編集]
1, 2(初代)
開業用に用意された1913年大日本軌道鉄工部製の15t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。1は1941年に宇佐参宮鉄道へ譲渡、2は1936年に廃車。
3, 4
甲佐延伸開業時に増備された、1923年雨宮製作所製の18t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。3は1941年に名古屋鉄道へ譲渡、4は1950年に廃車。
5
砥用延伸開業時に増備された、1932年日本車輌製造製の25t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。1964年の廃線まで在籍し、廃止記念列車を牽いた。運転整備重量は25t、弁装置ワルシャート式、軸配置はC,動輪直径800mmである。[15]
6
1936年に大同電力大井ダム建設線から譲受けた、1921年日本車輌製造製の25t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。旧番号は1。1952年廃車。国鉄1225形と同形。
7
1941年3月に飯山鉄道から譲受けた、1922年日本車輌製造製の27t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。旧番号は3。1953年廃車。国鉄1225形と同形。
2(2代)
1942年1月に小倉鉄道から譲受けた、1915年ヘンシェル製の25t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。旧番号は4。1950年廃車。
1(2代)
1944年日本車輌製造製の28t級車軸配置0-6-0形タンク機関車。1959年廃車。国鉄1760形と同形。運転整備重量は28t、弁装置ワルシャート式、軸配置はC,動輪直径800mmである。[16]
8
戦時中に三角の海軍施設部から入った1919年日本車輌製造製の13t級車軸配置0-4-0形タンク機関車。1949年頃廃車されたと思われる。
10, 11,12
1949 - 1950年に国鉄から譲受けた43t級車軸配置2-6-2形タンク機関車で、旧番号は3410(2代)、3405、3415(3400形)。1896年および1898年、アメリカ・ピッツバーグ製。運転整備重量は44.39t、弁装置スチブンソン式、軸配置は1C1,動輪直径1370mmである。最後まで国鉄時代のナンバープレートのまま稼働していた。[17]
車両数の変遷[編集]
年度 機関車 ガソリンカー 客車 貨車
有蓋 無蓋
1915-1918 2 4 5 5
1919-1921 2 6 5 5
1922 2 8 5 8
1923-1924 4 8 5 8
1925 4 8 5 11
1926 4 10 5 11
1927 4 10 5 13
1928-1930 4 2 10 5 13
1931 4 3 10 5 13
1932 5 4 10 5 13
1933-1934 5 4 9 5 13
1935-1937 5 4 12 5 15
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
脚注[編集]
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^ 大日本軌道熊本支社になった熊本軽便鉄道とは別会社
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年1月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年6月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年4月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年11月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1916年3月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年5月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年2月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許失効」『官報』1925年3月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許取消」『官報』1928年1月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年12月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 和久田康雄 『私鉄史ハンドブック』 電気車研究会、1993年、p. 183。では3月31日を廃止日としている。
^ 高井薫平(2012)『小型蒸気機関車全記録』(講談社)127pp.
^ 高井薫平(2012)『小型蒸気機関車全記録』(講談社)127pp.
^ 高井薫平(2012)『小型蒸気機関車全記録』(講談社)127pp.
参考文献[編集]
田尻弘行 『熊延鉄道』 ネコ・パブリッシング〈RM LIBRARY 42〉、2003年。ISBN 4-87366-324-5。
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
外部リンク[編集]
熊延鉄道
「熊延鉄道」 田尻弘行著
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表 話 編 歴
熊本バスのバス営業所・出張所
カテゴリ: 熊延鉄道九州地方の鉄道路線 (廃止)かつて存在した日本の鉄道事業者熊本バス