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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
美祢線
JR logo (west).svg 美祢線
美祢線を走るキハ120形
美祢線を走るキハ120形
基本情報
国 日本の旗 日本
所在地 山口県
起点 厚狭駅
終点 長門市駅
駅数 12駅
開業 1905年9月13日(初開業)
1924年3月23日(全通)
所有者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道
運営者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道
使用車両 キハ120形
路線諸元
路線距離 46.0 km
軌間 1,067 mm
線路数 単線
電化方式 非電化
最高速度 85 km/h
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線
凡例
WBRÜCKEq KRZu STRq
山陽新幹線
WASSER STRlf ABZq+l
0.0 厚狭駅 山陽本線
WASSERl WASSER+r STR
WASSER DST
2.0 鴨ノ庄信号場
WASSER BHF
4.2 湯ノ峠駅
WASSER eDST
6.6 松ヶ瀬信号場 -1997
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
厚狭川
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSER TUNNEL1
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
TUNNEL1 WASSER
BHF WASSER
10.2 厚保駅
TUNNEL1 WASSER
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
TUNNEL1 WASSER
BHF WASSER
13.2 四郎ケ原駅
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
TUNNEL1 WASSER
四郎ケ原トンネル 140m
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSER BHF
16.9
0.0
南大嶺駅
WASSER eABZlf exKBHFr
-
2.8
大嶺駅 -1997
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSER BHF
19.4 美祢駅
KBSTl WBRÜCKEq ABZlg
宇部興産 専用線
WASSER eBHF
20.8 上領駅 -1920
WASSER BHF
22.3 重安駅
WASSERl WBRÜCKE WASSER+r
BHF WASSER
27.2 於福駅
WASSER+l WBRÜCKE WASSERr
WASSERr TUNNEL2
BHF
37.1 渋木駅
TUNNEL2
BHF
41.0 長門湯本駅
BHF
43.3 板持駅
WBRÜCKE
音信川
KDSTa STR
長門鉄道部
STRlf ABZg+lr
山陰本線
BHF
46.0 長門市駅
ABZrf
山陰本線
STR
山陰本線仙崎支線
美祢線(みねせん)は、山口県山陽小野田市の厚狭駅から山口県長門市の長門市駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 運行形態
2.1 旅客列車
2.2 貨物列車
3 2010年の水害およびその状況
4 使用車両
4.1 現在の使用車両
4.2 過去の使用車両
5 歴史
5.1 山陽鉄道→大嶺線
5.2 美祢軽便鉄道→美禰線
5.3 全通以後
6 駅一覧
6.1 廃止区間(大嶺支線)
6.2 廃駅・廃止信号場
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
概要[編集]
山口県を南北に貫く地域輸送路線であり、沿線には秋吉台・秋芳洞への玄関口美祢市や海上アルプスと呼ばれる青海島がある長門市などを控えている。かつては石灰石などの貨物輸送が多かったため、運賃設定上は幹線に指定された。
広島支社の下関地域鉄道部が管轄する厚狭駅をのぞいて、全線を長門鉄道部が管理している[1]。車内路線図[2]や駅掲示時刻表のシンボルで使用されているラインカラーは濃いピンク(■)。
路線データ[編集]
管轄(事業種別):西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
管轄・路線距離(営業キロ):46.0km
軌間:1067mm
駅数:12(起終点駅含む)
美祢線所属駅に限定した場合、山陽本線所属の厚狭駅および、山陰本線所属の長門市駅[3]が除外され、10駅となる。
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:自動閉塞式(特殊)
最高速度:85km/h
運転指令所:広島総合指令所厚狭派出
運行形態[編集]
旅客列車[編集]
2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正時点では、旅客列車はすべて各駅に停車する普通列車で、1 - 2時間に1本程度運転されている。すべての列車が厚狭駅 - 長門市駅間の全区間で運行され、区間運転の列車は特定日の昼に運行される美祢発長門市行き1本のみとなっている。2015年3月13日までは、登校日(月曜日 - 金曜日:学校長期休暇期間および祝日は除く)の朝に美祢発長門市行きが運行されていた。約半数が山陰本線仙崎支線まで直通し、厚狭駅 - 長門市駅 - 仙崎駅間折り返し運転を行っている。保守工事のため、日中の上下2本の列車は月に1度月曜日(週は不定、2012年9月まで休日にあたる場合をのぞく奇数月の第4水曜日上下3本の列車だった)に運休し、バス代行となる。全列車において車内精算型のワンマン運転を実施している。
かつては線内を運行する急行列車として「あきよし」や「さんべ」が運行されていた(美祢線内は美祢駅と長門湯本駅に停車)。いずれも山陰本線益田方面から美祢線・山陽本線を経て九州に至る列車であるが、美祢線を経由する列車・編成は1985年に廃止されている。急行「さんべ」には益田駅で山口線経由の編成と分割、あるいは長門市駅で山陰本線経由の編成と分割後下関駅で併結するという変わった運行形態のものがあった。そのため、実質的に最短経路で運賃を計算できるように選択乗車の制度があった。なお、急行「さんべ」にグリーン車が連結されていたときは山陰本線経由ではなく美祢線経由の編成がグリーン車付きとなっていた。
また、急行列車の運転終了後、「北長門」(厚狭駅 - 長門市駅 - 東萩駅間)[4]・「金子みすゞ号」(厚狭駅 - 長門市駅 - 仙崎駅間)・「萩・津和野号」(厚狭駅 - 長門市駅 - 益田駅 - 津和野駅間)といった臨時快速列車も運転されていたが、いずれも運転が終了した。2015年3月28日より、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』放送に合わせ、厚狭駅から長門市駅経由で山陰本線に乗り入れ東萩駅までを結ぶ臨時快速列車「幕末ISHIN号」が土日・祝日に1本運転されている。
貨物列車[編集]
かつて運行されていた炭酸カルシウム専用貨物列車
2013年度までは日本貨物鉄道(JR貨物)による貨物列車も運行されていた。
かつては美祢駅から宇部線宇部港駅との間で石炭・石灰石運搬の専用貨物列車(DD51形牽引、貨車は石炭車のセキ6000形・セキ8000形)が昼夜を問わず多数運転され、旅客輸送以上に収益をもたらし、当線が運賃設定上「幹線」とされていた所以であった。しかし主たる顧客であった宇部興産が自社の専用道路を開通させ、石灰石輸送をトラック輸送に移行させたのに伴い、宇部港駅向けの石灰石列車は1998年(平成10年)に廃止となった。美祢線南部の各駅が十分な有効長を持つ行き違い施設を備えていることと、松ヶ瀬・鴨ノ庄の両信号場の存在は、石灰石輸送全盛時の設備増強に由来している部分が大きい。
近年まで運行されていた系統として、重安駅と宇部線宇部岬駅との間で1日1往復運転される専用貨物列車が存在した。牽引機はDD51形・DE10形ディーゼル機関車、貨車はホキ9500形で、太平洋セメント重安鉱業所で生産される塊石灰石をセントラル硝子宇部工場へ輸送するものであった。これについては、ホキ9500形の老朽化に伴い2009年10月18日の運行をもって廃止となった[5]。
このほか、美祢駅と山陰本線岡見駅との間を山陽本線・山口線経由で専用貨物列車(通称:岡見貨物)が1日1往復運転されていた。牽引機はDD51形ディーゼル機関車[6]、貨車はすべてタキ1100形であった。これは、宇部興産伊佐セメント工場で生産される炭酸カルシウムと中国電力三隅発電所で発生するフライアッシュを相互に輸送するものであった。2013年7月の水害に伴う山口線の運休により、この列車は運行休止となりトラックによる代替輸送がおこなわれた。さらに同年10月に発生した三隅発電所のトラブルなどの影響もあり、そのまま運行再開されることなく2013年度末をもってこの貨物列車は廃止となった。
これをもって、美祢線におけるJR貨物の第二種鉄道事業は2014年4月1日付で廃止となった[7]。
2010年の水害およびその状況[編集]
2010年(平成22年)7月12日から15日にかけて、山陽小野田市・美祢市では激しい豪雨に見舞われ、美祢線でも大きな被害を受けた。厚狭川の氾濫に伴い、湯ノ峠駅 - 厚保駅間の第3厚狭川橋梁が流失したほか、別箇所でも路盤が流失したため、7月15日に全線不通になった[8]。JR西日本の佐々木隆之社長は7月22日の定例会見の席で美祢線の復旧の目処が立っていない旨を明らかにし[9]、広島支社の杉木孝行支社長は28日の記者会見で、復旧には1年以上を要し、美祢線全線を集中制御しているケーブルが断線したため、被害が比較的少なかった区間を含めた部分的な再開が難しいとの見解を示した[10]。
全線で早期の運転再開の目処が立たなかったため、JR西日本は7月21日からバス代行を開始した。バス代行による運行ルートは、当初は一部区間で平行する県道下関美祢線が同時に被災したため、厚狭駅 - 美祢駅間は美祢線から離れた国道316号を直行し途中駅を経由しなかった(26日以降は、美祢市が厚保駅 - 美祢駅間を結ぶ無料シャトルバスを県道復旧まで運行)が、県道の一部復旧に伴い8月7日から県道経由(厚保駅・四郎ケ原駅・南大嶺駅停車)と国道経由(湯ノ峠駅停車)の2系統で運行された[11]。
二井関成山口県知事は2010年(平成22年)8月11日の記者会見での質疑応答で、8月6日に西村亘副知事がJR西日本本社に早期復旧の要望を行った際に、「美祢線は近年の利用状況から、本来的には廃止をしたい路線と位置付けている」というような指摘がJR西日本の副社長からあったことを明らかにしており、早期復旧のために沿線の山陽小野田市・美祢市・長門市とともに利用促進対策を検討する場を設けることとともに、厚狭川の災害復旧事業と連携して美祢線の復旧をJRとともに進める意向を表明している[12]。これに対しJR西日本広報部は「廃線はあり得ない。副知事との面会でもあくまで復旧が前提だった」とコメントしている[13]。
その後の山口県とJRとの調整で、山口県は「JRの復旧対策を支援する観点」に基づき、河川管理上必要な河川改修事業費として2年全体で5億3千万円程度の予算措置を行うことを決め、初年度分として9月議会に補正予算として2億8千万円の予算案を計上し[14]可決された。美祢線復旧事業のスキームとしては、2004年の福井豪雨で足羽川にかかる橋梁が被災し、国と県が復旧事業費の一部を直接負担した越美北線のケースと類似しており、JRの復旧工事費の一部を直接補填するのではなく、本来山口県が河川管理者として実施すべき事業の一部(河道の拡幅、護岸の復旧及びかさ上げなど)を山口県からの委託によりJR西日本が一体的に施工し、橋梁のグレードアップ分(3径間ガーダー橋から単径間トラス橋への変更)および河川改修費用相当分として、当該箇所の全体事業費(約6億6,773万円)の約4分の3を国および山口県が負担するものである[15]。なお、そのほかの区間を含めた全線復旧に要する費用についてはJR西日本広島支社の小南雅彦次長が総額で約13億3,400万円かかる見通しを明らかにしており[16]、協定分以外の6億6,700万円についてはJR西日本が全額負担する予定としている。
復旧時期については二井山口県知事は「おいでませ!山口国体(2011年10月)の前には復旧をしてもらいたい」との希望を述べ[14]、JR西日本広島支社の小南次長は2010年12月の時点で「当社としても工事をなるべく短縮し、全力を挙げて復旧工事に取り組みたい」と強調する一方で、全線復旧の時期については「まだ申し上げられる状況にない」と述べていた[16]。2011年2月末の時点では広島支社の杉木支社長が前年秋に仮設道路が4回流された事を明らかにし「(天候が順調に推移するなど)理想的な状況が続けば間に合う可能性はゼロではないが、それはあり得ないし自信がない」「通常、災害発生から(復旧まで)3年かかるところを1年余りでやろうとしていることを、山口県にもご理解いただきたい」と述べ、国体までの復旧が難しいことを示唆していたが[17]、同年9月26日始発より全線で運転を再開した[18]。
使用車両[編集]
キハ120形(2011年7月)
キハ30系(1993年11月 大嶺駅)
キハ58系(1999年5月 臨時快速北長門)
すべて気動車で運転されている。かつて運行されていた貨物列車はディーゼル機関車牽引で運転されていた。
現在の使用車両[編集]
キハ120形
過去の使用車両[編集]
蒸気機関車
1918年の厚狭機関庫には2900形と3300形が配置され、2900形は厚狭-徳山間で、3300形は厚狭-大嶺間で使用された。
1930年12月の正明市機関庫には8620形が12両配置され、続いて9600形4両が配置され、正明市-厚狭間で使用されていた。8620形は増備され続け1941年には20両となった。9600形は戦時供出され、代わりに1938年にC58形が配置され、D51形も1948年ころから配置されるようになった。
一方厚狭機関庫は1930年に正明市機関庫厚狭分庫となり8550形が配置され、厚狭-大嶺間で使用されていたが、1933年に厚狭駐泊所に格下げとなり、やがて機関車無配置となった。1948年2月に8620形が配置されると正明市区厚狭支区に戻り、1959年に厚狭機関区に昇格。同年10月にはじめてD51形が4両配置され8620形を置き換えていき、その後は宇部・小野田線用のC58形やC12形も配置された。1972年3月時点でD51の配置は26両を数え大嶺地区の石炭、重安、美禰地区の石灰石のピストン輸送に使用されたが、1971年11月以降DE10形等が配置されD51形他を置き換え始めると1972年2月末で美祢線が、同年3月末で宇部・小野田線の仕業が無煙化された。
ディーゼル機関車
DD51形
DE10形
DE11形
気動車
キハ23系
キハ30系
キハ58系(急行「あきよし」「さんべ」)
貨車
タキ1100形
歴史[編集]
厚狭駅 - 南大嶺駅 - 大嶺駅間は、大嶺炭田から産出される石炭を運ぶために山陽鉄道が1905年(明治38年)に開業した。翌年国有化され大嶺線となった。
南大嶺駅 - 重安駅間は、美祢軽便鉄道により1916年(大正5年)に開業した。のちに国有化され美禰軽便線となり、軽便鉄道法の廃止に伴い1922年(大正11年)に軽便線の呼称が廃止され美禰線となった。
重安駅 - 長門市駅間は、国鉄線として延伸された区間である。正明市(現在の長門市)駅までは1924年に開通した。その後、美禰線として東は宇田郷駅、西は阿川駅、北は仙崎駅まで延伸されるが、1933年(昭和8年)に正明市駅から先は山陰本線に編入された。なお、美祢線の表記となったのは1963年(昭和38年)のことである。
美祢線に編入後、大嶺支線と呼ばれていた南大嶺 - 大嶺間は1997年(平成9年)に廃止された[19]。
山陽鉄道→大嶺線[編集]
1905年(明治38年)9月13日:山陽鉄道 厚狭駅 - 大嶺駅間(12.2M≒19.63km)が開業。厚保駅・四郎ケ原駅・伊佐駅(現在の南大嶺駅)・大嶺駅が開業。
1906年(明治39年)12月1日:山陽鉄道が国有化。
1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定。厚狭駅 - 大嶺駅間を大嶺線とする。
1921年(大正10年)2月10日:湯ノ峠駅が開業。
美祢軽便鉄道→美禰線[編集]
1914年(大正3年)1月29日:鉄道免許状下付(美禰郡大嶺村大字大嶺北分-同郡同村大字大嶺西分間)[20]
1916年(大正5年)9月15日:美祢軽便鉄道 伊佐駅 - 重安駅間(3.4M≒5.47km)が開業。吉則停留場(現在の美祢駅)・上領停留場・重安駅が開業[21]。
1920年(大正9年)
6月1日:美祢軽便鉄道が国有化され、美禰軽便線となる[22]。吉則停留場を吉則駅に格上げ。上領停留場が廃止。機関車2両、客車2両、貨車2両を引継ぐ[23]。
10月30日:重安駅 - 於福駅間(3.0M≒4.83km)が延伸開業。於福駅が開業[24]。
1922年(大正11年)9月2日:軽便線の呼称廃止に伴い美禰線に改称。
全通以後[編集]
山陰本線編入区間の新設駅については「山陰本線」を参照
1924年(大正13年)
3月23日:於福駅 - 正明市駅間(11.7M≒18.83km)が延伸開業し全通。大嶺線が美禰線と新規開業区間を編入し美禰線に改称。渋木駅・長門湯本駅・板持駅・正明市駅(現在の長門市駅)開業。
11月3日:正明市駅 - 長門三隅駅間が延伸開業。
1925年(大正14年)
4月3日:長門三隅駅 - 萩駅間が延伸開業。
11月1日:萩駅 - 東萩駅間が延伸開業。
1928年(昭和3年)12月9日:支線 正明市駅 - 黄波戸駅間が開業。
1929年(昭和4年)
4月24日:東萩駅 - 奈古駅間が延伸開業。
10月13日:支線 黄波戸駅 - 長門古市駅間が延伸開業。
1930年(昭和5年)
4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(厚狭駅 - 正明市駅間 28.6M→46.0km、伊佐駅 - 大嶺駅間 1.7M→2.8km)。
5月15日:貨物支線 正明市駅 - 仙崎駅間が開業。
12月7日:支線 長門古市駅 - 阿川駅間が延伸開業。
1931年(昭和6年)11月15日:奈古駅 - 宇田郷駅間が延伸開業。
1933年(昭和8年)2月24日:山陰本線全通に伴い、本線 正明市駅 - 宇田郷駅間、支線 正明市駅 - 阿川駅間、貨物支線 正明市駅 - 仙崎駅間を山陰本線に編入。
1949年(昭和24年)1月1日:伊佐駅が南大嶺駅に改称。
1958年(昭和33年)7月25日:板持駅が開業。
1962年(昭和37年)11月1日:正明市駅が長門市駅に改称。
1963年(昭和38年)10月1日:美祢線に改称。吉則駅が美祢駅に改称。湯ノ峠駅 - 厚保駅間に松ヶ瀬信号場が開設。
1969年(昭和44年)3月29日:厚狭駅 - 湯ノ峠駅間に鴨ノ庄信号場が開設。
1973年(昭和48年)2月19日:蒸気機関車による厚狭 - 宇部間のピストン運転終了[25]
1984年(昭和59年)2月1日:南大嶺駅 - 大嶺駅間の貨物営業が廃止(大嶺駅の貨物営業は同年1月1日に廃止済み)。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が厚狭駅 - 重安駅間の第二種鉄道事業者となる。重安駅 - 長門市駅間の貨物営業廃止。
1988年(昭和63年)3月13日:南大嶺駅 - 大嶺駅間でワンマン運転開始[26]。
1989年(平成元年)10月2日:厚狭駅 - 長門市駅間でワンマン運転開始[26]。
1991年(平成3年)4月1日:長門鉄道部発足に伴い、広島支社直轄から長門鉄道部管轄に変更[26]。
1993年(平成5年)12月1日:キハ120形が運用開始[27]。
1997年(平成9年)
3月22日:松ヶ瀬信号場が廃止[28]。
4月1日:南大嶺駅 - 大嶺駅間 (2.8km) および、大嶺駅が廃止[19]。
2009年(平成21年)10月18日:重安駅 - 宇部線宇部岬駅間の石灰石貨物列車がこの日を最後に廃止[5]。
2010年(平成22年)7月15日:大雨で橋梁や路盤が流失し、全線が不通になる[8]。
2011年(平成23年)9月26日:全線で営業運転再開[18]。
2014年(平成26年)4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(厚狭駅 - 重安駅間 22.3km)が廃止される[7]。
駅一覧[編集]
全列車普通列車(すべての旅客駅に停車)※臨時列車を除く
線路(全線単線) … ◇・∨・∧:列車交換可、|:列車交換不可
全駅山口県内に所在
駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 接続路線 線路 所在地
厚狭駅 - 0.0 西日本旅客鉄道:山陽新幹線・山陽本線 ∨ 山陽小野田市
鴨ノ庄信号場 - 2.0 ◇
湯ノ峠駅 4.2 4.2 ◇
厚保駅 6.0 10.2 ◇ 美祢市
四郎ケ原駅 3.0 13.2 ◇
南大嶺駅 3.7 16.9 ◇
美祢駅 2.5 19.4 ◇
重安駅 2.9 22.3 ◇
於福駅 4.9 27.2 ◇
渋木駅 9.9 37.1 ◇ 長門市
長門湯本駅 3.9 41.0 |
板持駅 2.3 43.3 |
長門市駅 2.7 46.0 西日本旅客鉄道:山陰本線・山陰本線仙崎支線 ∧
厚狭駅と長門市駅をのぞいてJR西日本直営駅は存在しない。中間駅のうち、美祢駅のみジェイアール西日本広島メンテックによる業務委託駅であり、残りの9駅は簡易委託駅または無人駅である(簡易委託駅も全て個人商店への発券委託のみで、窓口業務はない)。
廃止区間(大嶺支線)[編集]
全線山口県美祢市に所在。南大嶺駅構内も含め大嶺支線の列車同士の交換不可。
駅名 営業キロ 接続路線
南大嶺駅 0.0 西日本旅客鉄道:美祢線本線
大嶺駅 2.8
廃駅・廃止信号場[編集]
廃止区間のものをのぞく。( )内は厚狭駅起点の営業キロ。
松ヶ瀬信号場:1997年廃止、湯ノ峠駅 - 厚保駅間 (6.6km)
上領停留場:1920年廃止、美祢駅 - 重安駅間 (約20.8km)
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ データで見るJR西日本 - 西日本旅客鉄道
^ 広島エリア路線図 (PDF) - JRおでかけネット、2016年3月28日閲覧
^ 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB、1998年。ISBN ISBN 978-4-533-02980-6。
^ 平成11年【春】の臨時列車の運転について(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年1月14日
^ a b “さよなら石灰石列車 美祢線、ファンら惜しむ”. 山口新聞/ニュース. 山口新聞 (2009年10月19日). 2009年10月19日閲覧。
^ 鉄道ファン2012年7月号「JR車両ファイル2012 JR貨物」p.66
^ a b 『平成二十六年度 鉄道要覧』電気車研究会
^ a b JR美祢線 国体までに復旧へ - 山口新聞 2011年7月14日
^ 2010年7月定例社長会見(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年7月21日
^ 「美祢線の復旧、1年以上かかる」 山口豪雨でJR広島支社長(インターネット・アーカイブ)- 産経新聞 2010年7月29日
^ 大雨災害による公共交通機関不通に関するお知らせ[リンク切れ] - 山陽小野田市
^ “知事記者会見録(平成22年8月11日実施分)”. 山口県公式ウエブサイト. 山口県広報広聴課 (2010年8月13日). 2010年8月27日閲覧。
^ JR美祢線:「廃止」発言で食い違い JRが廃止したい/廃線はあり得ない /山口(インターネット・アーカイブ)- 毎日新聞 2010年8月12日
^ a b “知事記者会見録(平成22年9月15日実施分)”. 山口県公式ウエブサイト. 山口県広報広聴課 (2010年9月17日). 2010年10月24日閲覧。
^ “JR美祢線復旧工事に係る工事協定の締結について” (プレスリリース), 山口県砂防課, (2010年11月19日) 2010年11月30日閲覧。
^ a b “美祢線復旧費用13億円 JR西見通し”. 山口新聞. みなと山口合同新聞社 (2010年12月18日). 2010年12月22日閲覧。
^ “JR美祢線 国体までに復旧困難”. 山口新聞. みなと山口合同新聞社 (2011年3月4日). 2011年3月18日閲覧。
^ a b JR美祢線が運行再開 豪雨災害から1年2カ月ぶり復旧 - 朝日新聞 2011年9月26日
^ a b 美祢線(南大嶺〜大嶺間)の廃止について(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年2月10日
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1914年1月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1916年9月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道省告示第15号」『官報』1920年5月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正9年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道省告示第101号」『官報』1920年10月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『世界の鉄道』1974年版、194頁
^ a b c ジェー・アール・アール編『JR気動車客車編成表 2010』交通新聞社、2010年、p.207。ISBN 978-4-330-14710-9。
^ 『JR気動車客車編成表 '94年版』ジェー・アール・アール、1994年。ISBN 4-88283-115-5。
^ 『JR気動車客車編成表 '97年版』ジェー・アール・アール、1997年。ISBN 4-88283-118-X。
参考文献[編集]
川島令三編著『山陽・山陰ライン 全線・全駅・全配線 (8) 山口エリア』講談社、2012年。ISBN 978-4-06-295158-6。
藤井浩三「中国地方ローカル線建設の歩みと蒸機」『蒸気機関車』NO.37、キネマ旬報社
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、美祢線に関連するメディアがあります。
日本の鉄道路線一覧
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表 話 編 歴
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カテゴリ: 中国地方の鉄道路線西日本旅客鉄道の鉄道路線日本国有鉄道の鉄道路線美祢軽便鉄道山陽鉄道山口県の交通部分廃止路線
伊佐軌道
伊佐軌道
概要
現況 廃止
起終点 起点:吉則駅(現・美祢駅)
終点:北川駅
駅数 3駅
運営
開業 1922年9月1日
廃止 1947年3月5日
所有者 伊佐軌道
路線諸元
路線総延長 2.6 km (1.6 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
国鉄:美禰線
0.0 吉則
uexBHF
? 下市
uexKBHFe
2.6 北川
伊佐軌道(いさきどう)は、かつて国鉄美禰線(現・美祢線)の吉則駅(現・美祢駅)から美祢郡伊佐村(現・美祢市)までの路線を保有した、馬車軌道およびその運営会社である。伊佐地区で産出される石灰石を輸送していた。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 歴史
2.1 大株主の動向
2.2 宇部興産の伊佐進出により専用側線へ
2.3 年表
3 輸送・収支実績・車両
4 脚注
5 参考文献
6 関連リンク
路線データ[編集]
路線距離:吉則 - 北川2.6km (中間駅 下市)
軌間:762mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
動力:馬力
歴史[編集]
伊佐地区に石灰工場ができたのは明治20年頃である。1905年(明治38年)山陽鉄道が厚狭駅 - 大嶺駅間を開通すると伊佐駅(現・南大嶺駅)[1]までの石灰石の輸送手段は馬車であったが、1日数百台に及ぶ通行量により道路の損壊、交通事故が問題となっていた。このため地元有志の発起により1921年(大正10年)伊佐軌道を設立[2]。1922年(大正11年)9月に馬車軌道を開通させた。しかし株式募集の申込は思わしくなく資金繰りに苦しみ、さらに開業初年度は貨物の輸送量が予想の半分に満たず、その後も1925年(大正14年)からの経済不況が長引き、石灰の需要が減少したため貨物量が低迷しさらに距離が短いこともあり自動車、荷馬車の影響も受けるようになり損失は増える一方であった。やがて減少し続けていた旅客輸送は1930年(昭和5年)3月で休止することになる。また事業低迷の挽回を図るため秋芳洞への連絡を計画し伊佐町 - 秋吉村間の軌道敷設の特許状が下付されたが実現されることはなかった[3][4]。
大株主の動向[編集]
会社設立時には株式総数2000株、株主は81人、筆頭株主は中村直三郎250株、続いて社長の小山田任風205株であった、筆頭株主になった中村直三郎は1919年(大正8年)に伊佐地区の石灰石山を買収し日本石灰株式会社[2][5]を設立した人物であるが軌道会社の設立では部外者で発起人には加われなかった。実は発起人総代の山田正一は運送業を営んでおり、その馬車輸送に変えての軌道計画であったため自前で馬車輸送をしていた中村の参加は考えられなかったのである。社長の小山田任風は山田とは同族であり、中村の処遇に苦慮したが1922年(大正11年)1月に中村を伊佐軌道監査役に就任させた。まもなく山田正一は取締役を辞任した。続いて中村は日本石灰の定款を変更して伊佐軌道の株式を所有することと一般運送業を目的に加えて伊佐軌道の経営に参画する意思を示したが、これには個人株主を同社の方針としていた伊佐軌道会社側の抵抗が強かったので6月には再度定款を変更しこの項目を削除した。その後中村は1923年(大正12年)8月に監査役を退任したが個人としては1924年(大正13年)6月まで筆頭株主におりその後1925年(大正14年)6月株主名簿から姿を消した[6][7]。
中村が伊佐軌道に対して起こした騒動により両社従業員の関係は険悪となり運送の際にもしばしば小競り合いをおこしていた。そこで1926年(大正15年)9月に藤川喜太郎が日本石灰の代表取締役に就任すると伊佐軌道の小山田社長宅を訪問し今後の協力を要請し、関係を修復した。そして処遇を一切求めない約束で伊佐軌道650株[8]を譲り受けることになった。この株式は社有にはせず役員に分配し個人の所有とすることになった。この譲渡された株式は年月を経て1936年に日本石灰工業組合が鮎川義介に買収された際、経営管理を委任された田辺譲[9]の名義となった。
宇部興産の伊佐進出により専用側線へ[編集]
戦時中も生き残った伊佐軌道であるが、転機が訪れることになったのは宇部興産の伊佐地区への進出である。
実は1921年(大正10年)渡辺祐策は伊佐町高ノ峯の石灰石鉱山を買収し[10]、1923年(大正12年)9月に前身の宇部セメント製造を設立し、いざ採掘しようとしたところ採掘権は山の中腹にあり麓には日本石灰工業の工場と伊佐軌道があった。当然日本石灰工業の私有地を通らねばならなかったので買収を申し出たところ。中村直三郎は拒否した。宇部政財界のトップに立つ渡辺祐策の力であっさり買収できるとおもっていた宇部セメント製造は一向に交渉が進まず困惑したが[11]、時間も迫っていたので中村の要求をことごとく受け入れようやく1924年(大正13年)4月道路用地と石灰工場売買に関する仮契約を結ぶことになったのだが、ここで福岡県恒見の石灰石山を利用することに方針を転換し、結果として伊佐町高ノ峯の石灰石鉱山は戦後まで放置されることになった。
しかし放置されている間も宇部セメントは日本石灰工業組合と1935年(昭和10年)9月に「日本石灰工業組合が所有する伊佐軌道株式を譲り受ける」「宇部セメントと日本石灰工業組合の共同で伊佐軌道を専用側線にする」ことの契約をし、伊佐軌道の役員を宇部セメントの関係者に交替するなど事前の準備はすすめていたのである。
やがて多年の採掘により恒見の石灰石山が枯渇してきたので1946年(昭和21年)9月伊佐採石所を発足させ10月から伊佐町高ノ峯の石灰石鉱山の開発に着手した。そして11月麓にある日本石灰工業所第二工場と伊佐軌道を買収することになりようやく1924年の仮契約が履行されることになったのである。伊佐軌道の全株式のうち宇部興産が1370株、日本石灰工業所が630株を所有することになった[12]。当然馬車軌道では輸送力に限界があったので輸送力増強を図るため国鉄と同等の規格の路線の敷設を計画した。そして宇部興産の中安閑一が専用側線敷設の認可を受けるため大阪鉄道管理局へ赴いたところ、たまたま旧知の佐藤栄作運輸省事務次官にであった。佐藤は中安の話を聞き全面的な協力を約束し、工事はすみやかにおこなわれたという。こうして1947年(昭和22年)8月12日に専用側線(現・伊佐セメント工場専用線)は開通し伊佐軌道は廃止となった。
年表[編集]
1920年(大正9年)12月21日 - 軌道敷設及運輸営業の特許[13]。
1921年(大正10年)4月15日 - 伊佐軌道株式会社設立[14]。
1922年(大正11年)9月1日 - 開業[14]。
1928年(昭和3年)5月19日 - 伊佐町-秋吉村間の軌道敷設及運輸営業の特許(動力蒸気、軌間1067mm)[3]。
1930年(昭和5年)8月 - 伊佐町-秋吉村間の軌道敷設及運輸営業の特許失効(指定の期限まで工事施工認可申請なきため)[4]。
1935年(昭和10年)3月10日 - 旅客運輸営業廃止[14]。
1947年(昭和22年)
3月5日 - 廃止。
8月12日 - 宇部興産専用側線開通。
輸送・収支実績・車両[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 客車 貨車
1922 10,693 3,595 3,635 4,395 ▲ 760 3 20
1923 35,922 17,720 14,748 12,331 2,417 6,727 3 30
1924 39,766 22,131 16,966 13,237 3,729 5,729 3 30
1925 36,436 19,424 15,817 13,960 1,857 5,967 2 30
1926 23,260 25,456 11,091 10,089 1,002 5,066 2 30
1927 14,234 11,714 9,837 7,466 2,371 8,773 2 30
1928 11,104 11,857 7,768 7,384 384 7,260 2 30
1929 5,361 16,527 7,985 8,027 ▲ 42 4,183 2 30
1930 380 16,988 6,772 4,341 2,431 4,754 2 30
1931 14,156 5,444 3,181 2,263 3,394 2 30
1932 12,761 4,808 3,051 1,757 3,640 2 30
1933 14,918 4,970 3,502 1,468 2,582 2 30
1934 20,349 6,662 5,508 1,154 1,822 2 30
1935 23,147 6,847 5,192 1,655 償却金453 1,202 30
1936 30,969 7,223 6,623 600 償却金600 30
1937 26,522 7,148 6,678 470 償却金470 30
1939 26,433 9,073 8,142 931 償却金931
1941 30,596 11,564 9,674 1,890 償却金1,890
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
脚注[編集]
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^ 当時吉則駅には貨物の取扱い設備がなかった
^ a b 『日本全国諸会社役員録. 第30回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 「軌道特許状下付」『官報』1928年5月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 「軌道特許状失効」『官報』1930年8月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 1919年日本石灰株式会社設立、1922年商号変更日本石灰工業株式会社、1927-1928年日本石灰工業株式会社解散し、日本石灰工業組合設立、1936年日産コンツエルンの鮎川義介が日本石灰工業組合の資産一切を買収。傘下の山陽無煙炭株式会社の所属事業所にし経営管理を田辺譲(鮎川の従兄)に委任。まもなく田辺譲が財産を引き継ぐ。1937年日本化学工業株式会社(日産化学に改称)の事業所となる。1941年日産化学の指導により株式会社日本石灰工業所設立。日産化学の傍系会社となる。1943年日産化学が日本鉱業に吸収合併。日本鉱業の傍系会社となる。1947年集中排除法により日本鉱業の傘下を離れる。1952年宇部興産が経営参加となるなど紆余曲折の上宇部マテリアルズとなる
^ 1926年6月時点の筆頭株主は小山田の160株
^ 1926年1月日本石灰工業社長及び取締役を退任した。
^ 1936年田辺譲名義になった時の明細では630株となっている
^ 『人事興信録. 第11版(昭和12年) 』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 宇部興産創業百年史45頁では中村の強い要請により購入した
^ おこった渡辺は空中ケーブルで石灰石をおろせといったという。
^ この保有する株式の比率により専用側線の建設費を負担し共同で実施するはずであったが日本石灰工業所は経営難であり後に宇部興産より救済を受け系列化に入ることになった
^ 「軌道特許状下付」『官報』1920年12月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
『宇部興産創業百年史』1999年、50-51、156-157頁
『社史日本石灰工業所』1986年、
『中安閑一伝』宇部興産株式会社、1984年、75、234 - 235、265 - 266頁
『美祢市史』1982年、852 - 855頁
帝国鉄道協会 『帝国鉄道年鑑』昭和3年版、帝国鉄道協会、1928年、537頁
今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 11号 中国四国』新潮社、2009年
宮脇俊三 『鉄道廃線跡を歩く6』JTBキャンブックス、1999年、146 - 147頁
和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、160頁
関連リンク[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
宇部興産専用道路
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