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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。
碁を知りたい。
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相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。
『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。
対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。
一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。
一局の碁をお楽しみください。
当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
初心者の方も、対局できるようになっております。
ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。
囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。
入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。
「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。
オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
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・サポートの充実
・コンテンツの充実
これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。
推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
幽玄の間サイト
KGSの口コミ
KGS
パンダネット
当サイトも、及ばずながら、がんばります。
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
大分交通豊州線
豊州線
概要
現況 廃止
起終点 起点:豊前善光寺駅
終点:豊前二日市駅
駅数 9駅
運営
開業 1914年5月23日
廃止 1953年9月30日
所有者 日出生鉄道→豊州鉄道→大分交通
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 15.5 km (9.6 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STRq
国鉄:日豊本線
exSTRlg
0.0 豊前善光寺駅
exBHF
2.2 城駅
exBHF
4.1 豊前四日市駅
exBHF
5.9 新豊川駅
exWBRÜCKE
第1駅館川橋梁 駅館川
exBHF
7.7 拝田駅 [1][2]
exBHF
8.3 鷹栖観音駅
exWBRÜCKE
第2駅館川橋梁
exBHF
10.7 三又川駅
exBHF
12.0 香下神社前駅
exBHF
香下駅
exWBRÜCKE1
第3駅館川橋梁
exBHF
14.4 円座駅 [1][2]
exKBHFe
15.5 豊前二日市駅
豊州線(ほうしゅうせん)は、かつて大分県宇佐郡高家村の日本国有鉄道(国鉄)日豊本線豊前善光寺駅から同郡四日市町の豊前四日市駅を経て同郡東院内村の豊前二日市駅までの間(走行区間はすべて現・宇佐市)を結んでいた、大分交通の鉄道路線である。当初から経営は苦しく、少ない客貨の輸送量の上に自動車の攻勢と久大本線の開通で収入は減少、さらに自然災害にも苦しめられた。元々、玖珠郡玖珠町まで路線を延ばす予定であったが、経済的理由から放棄された。累積赤字を抱えバス代行にした矢先のルース台風の被害により廃止を迎えた。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行概要
3 歴史
3.1 年表
4 駅一覧
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
8 代替交通
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
路線データ[編集]
1932年(昭和7年)12月当時
路線距離:15.5km
駅数:9
軌間:762mm(特殊狭軌線)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
運行概要[編集]
1932年12月改正当時
列車本数:豊前善光寺 - 豊前二日市間11往復(他、朝に豊前善光寺 - 豊前四日市間1往復)
所要時間:全線55 - 69分
1950年(昭和25年)5月改正当時
列車本数:豊前善光寺 - 円座間6往復
所要時間:全線76 - 78分
歴史[編集]
豊州線は国鉄四日市駅(豊前善光寺駅)を起点とし高家、八幡、四日市町、豊川、両川を経て安心院村までの軽便鉄道を敷設し将来は日出生台陸軍演習場[3]に延長することを地元有志が立案したことがはじまりであった。1911年(明治44年)7月に鉄道免許状が下付されたので会社設立に向け株式募集をすすめた。1912年(明治45年)5月28日創立総会を開催し、名称を日出生鉄道、資本金を30万円として初代社長には水之江文二郎[注釈 1]が就任することになった。1913年(大正2年)2月15日に着工となり、1914年(大正3年)3月に注文していた機関車2両、客車2両、貨車8両が到着すると工事列車に使用した。3月31日に新豊川まで完成したので鉄道院の竣工監査を合格すると5月に四日市- 新豊川間が開業となった。その後延伸開業を繰り返し1922年(大正11年)2月に豊前二日市まで開通したが安心院村までの敷設免許は失効した。しかし経営は苦しく[注釈 2]社長交替や減資を繰り返した。1926年(大正15年)に乗合自動車に対抗するべくガソリンカーを導入し増発するもの経営は好転せず、さらに1929年(昭和4年)12月久大線豊後森駅開業により日出生台行きの貨物は皆無となった。
そんな状況のなか社長に就任したのは当時相模鉄道の社長であった南俊二であった。南は1929年(昭和4年)4月に社長に就任すると豊州鉄道と社名を変更し、軌間を国鉄と同じ1067mmにするため資本金を50万円[注釈 3]にして再建に乗り出すことになった。じつは南俊二の狙いは「ハイリスクを承知で不振企業に照準を合わせ、最安値で株式を取得し経営権を握り、強引に整理を推進し株価急回復後に売り抜けて短期間に極大の利鞘を狙う[5]」ことであった。ところが不況で思うようにはいかず南の投資は失敗に終わり、1931年(昭和6年)1月に社長を退任[注釈 4]。豊州鉄道は同年上期に債務不履行のため債権者である日本勧業銀行より競売に付せられることになった。ところがわずか11万円と評定されたため整理を図り[注釈 5]、勧銀の債務額を除き借入金及び未払金を桐田益夫ら旧重役3人で弁済することになった。前任の日出生鉄道社長の桐田が復帰したがまもなく過労と心労から死亡し、後任社長は京王電気軌道取締役で四日市町出身の渡辺孝が就くことになった。
年表[編集]
1911年(明治44年)7月18日 鉄道免許状下付(高家-安心院間)[6]。
1912年(明治45年)5月28日 日出生鉄道株式会社設立[7][8]。
1914年(大正3年)5月23日 日出生鉄道(ひじゅうてつどう)により、四日市(後の豊前善光寺) - 新豊川間開業[9]。
1915年(大正4年)
2月2日 城井駅を城駅に改称届出[10]。
12月6日 新豊川 - 三又川間開業[11]。
1918年(大正7年)6月10日 鉄道免許取消(宇佐郡東院内村 - 同郡安心院村間)[12]。
1919年(大正8年)4月26日 三又川 - 円座間開業[13]。
1921年(大正10年)6月16日 鉄道免許状下付(宇佐郡東院内村 - 同郡安心院村間)[14]。
1922年(大正11年)2月4日 円座 - 豊前二日市間開業[15]。
1923年(大正12年)7月19日 鉄道免許失効官報掲載(指定の期限内に宇佐郡東院内村 - 同郡安心院村間の工事施工認可申請を為さざるため)[16]。
1924年(大正13年)2月1日 四日市駅を豊前善光寺駅に改称[17]。
1925年(大正14年)1月1日 四日市町駅を豊前四日市駅に改称[18]。
1929年(昭和4年)
4月22日 相模鉄道社長南俊二が社長に就任[19]。
4月24日 豊州鉄道と改称[20]。
1929年(昭和4年)5月13日 競売期日決定[21][注釈 6]。
1931年(昭和6年)12月9日 四日市町出身の京王電気軌道取締役[23]の渡辺孝が社長に就任。1941年に死去するまで現職[24]。
1945年(昭和20年)4月20日 大分交通へ合同。大分交通豊州線となる。
1951年(昭和26年)
1月10日 混合列車1往復としバス代行とする。
8月11日 トラック便により貨物代行となる。
10月14日 ルース台風により拝田 - 三又川間の第2駅館川橋梁の橋脚が倒壊し全線休止。
1953年(昭和28年)9月30日 全線廃止。
駅一覧[編集]
豊前善光寺駅 - 城駅 - 豊前四日市駅 - 新豊川駅 - 拝田駅[1][2] - 鷹栖観音駅 - 三又川駅 - 香下神社前駅 - 香下駅 - 円座駅[1][2] - 豊前二日市駅
接続路線[編集]
豊前善光寺駅:国鉄日豊本線
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1914 63,597 1,179 5,550 6,355 ▲ 805
1915 106,625 1,698 14,605 8,222 6,383 検査の結果7,919 1,559
1916 128,765 4,847 15,955 13,269 2,686 31,823 18,292
1917 156,647 8,777 24,616 21,924 2,692 28,673 14,073
1918 141,194 8,528 39,407 17,983 21,424 不明借受金206 16,766 9,218
1919 206,204 10,680 49,386 40,222 9,164 雑損金705 21,978 16,499
1920 236,850 10,757 70,102 67,382 2,720 雑損金337 22,455 16,629
1921 247,708 12,694 78,422 55,153 23,269 9,439
1922 254,617 15,221 86,281 58,818 27,463 15,059
1923 250,892 15,067 83,863 52,195 31,668 雑損3,607 61,540 24,472
1924 237,351 14,414 80,099 48,468 31,631 雑損45 63,829 8,161
1925 197,388 11,625 65,115 53,610 11,505 雑損2,200 27,503 22,836
1926 149,110 13,214 56,001 51,961 4,040 雑損2,650 32,746 7,414
1927 166,422 12,149 50,226 44,609 5,617 雑損1,373 19,251
1928 163,322 11,382 47,803 41,230 6,573 雑損10,519 19,564 13,587
1929 158,374 10,965 54,887 38,577 16,310 雑損35,418 4,092 6,659
1930 123,433 8,262 34,631 33,857 774 1,093
1931 124,003 7,536 31,109 27,501 3,608 雑損500 1,132
1932 114,011 6,132 27,220 24,034 3,186 自動車305 1,014
1933 113,089 6,312 27,047 25,286 1,761 自動車465 163
1934 161,780 8,811 36,083 30,282 5,801 自動車3,393 23
1935 208,973 13,131 50,297 36,491 13,806 自動車2,614 8,845
1936 171,247 12,719 41,910 26,943 14,967 自動車3,882 9,133
1937 222,768 13,934 56,006 36,335 19,671 自動車8,478 9,053
1939 285,896 14,201 71,361 45,840 25,521 自動車1,154償却金12,100 9,622
1945 388,064 4,737
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
車両[編集]
機関車
A1・A2 1913年ドイツハノマーグ製。1931年A2廃車
A3 1922年枝光鉄工所製1931年廃車
A10 1938年に耶馬渓鉄道2を購入。1913年ドイツコッペル製。当初はA15と付番されていた。
C159 1947年に釜石製鉄所より購入。1935年本江機械製作所(立山重工業)製
C11・12 1949年に栃尾鉄道より購入。1942-1943年本江機械製作所(立山重工業)製
ケ95 1949年国鉄から払下げられた1921年大日本軌道鉄工部製の元佐世保鉄道4。詳細は佐世保鉄道1号形蒸気機関車を参照。
G101 1931年にガソリン機関車を導入したが能力不足の上故障がちで1939年廃車
客車
ホハ1・2 1914年博多工作所製定員40人
ケホロハ1、ケホハ3 1914年梅鉢鉄工所製。履歴はケホロハ1→ケホハ3(2代目)、ケホハ3→ケホロハ2→ケホハ4
ケホハニ1 1917年梅鉢鉄工所製定員26人。1935年廃車
ケコハ490-493、497-499、ケコハニ880-883 これらは松浦線で使用されていた客車を国鉄から払下げられた。ケコハ490-493、497-499は元佐世保鉄道ハ10、ホハ12-14、ホハ18・19、フハ20。ケコハニ880・883は元宇和島鉄道の客車
ガソリンカー
ジ1-3 1926年丸山車両製の単端式気動車1931年ジ1廃車。ジ2・3は客車化され1949年廃車
ジ11・12 1931年雨宮製作所製
ジ13 1935年宮谷鉄工所製。
代替交通[編集]
大交北部バス(善光寺駅 - 乙女・糸口 - 四日市)
大交北部バス(四日市 - 円座 - 二日市 - 安心院)
脚注[編集]
注釈[編集]
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^ (1860年-1929年)1902-1903年衆議院議員。
^ 高利の借入金や株金払込金の延滞[4]。
^ 1928年6月に資本金3万円に減資していた。
^ 南は投資の失敗により相模鉄道株を手放し6月に相模鉄道社長も辞任している。
^ 機関車2両、ガソリンカー1両、客車2両、貨車10両を処分。
^ 3月にも掲載されている[22]。
出典[編集]
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^ a b c d 『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』12号 九州沖縄、新潮社、2009年、p.60
^ 『大分縣寫真帖』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『九州諸会社実勢. 第3次(大正8年刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 小川功「相模鉄道グループの系譜」『鉄道ピクトリアル』No.672、94頁
^ 『鉄道院年報. 明治44年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年6月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)、『鉄道院年報. 大正3年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道駅名改称」『官報』1915年2月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年12月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道免許一部取消」『官報』1918年6月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1919年5月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1921年6月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年2月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許失効」『官報』1923年7月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道駅名改称」『官報』1924年2月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年1月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 小川功「相模鉄道グループの系譜」『鉄道ピクトリアル』No.672、94頁
^ 『鉄道統計資料. 昭和4年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道財団競売期日」『官報』1929年5月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道財団競売期日」『官報』1929年3月23日
^ 『日本全国諸会社役員録. 第39回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 小川功「京王グループの系譜」『鉄道ピクトリアル』No.734、104頁
参考文献[編集]
『大分交通40年のあゆみ』大分交通、1985年、53-56頁
『大分県交通史』九州交通新聞社、1978年、99-100、112頁
『写真集 郷愁のローカル鉄道宇佐参宮線・豊州線』 大分合同新聞社
『鉄道廃線跡を歩くIV』pp.158 - 161所収 JTB 1997年
栗林宗人「大分交通豊州線廃止直前の客車について」「RAILFAN」No.575 2000年10月号
谷口良忠「帰らざる豊州鉄道」『鉄道ファン』No.207・208
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
外部リンク[編集]
大分交通豊州線を訪ねて
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カテゴリ: 九州地方の鉄道路線 (廃止)大分交通大分県の交通史
大分交通別大線
別大線
506号車 佐野植物公園 2009年
506号車
佐野植物公園 2009年
概要
現況 廃止
起終点 起点:大分駅前停留場
終点:亀川駅前停留場
運営
開業 1900年5月10日
廃止 1972年4月5日
所有者 豊州電気鉄道→豊後電気鉄道→
九州水力電気→別府大分電鉄→
大分交通
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 18.4 km (11.4 mi)
(1969年3月時点)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停留場・施設・接続路線
凡例
#は当線廃止後の設置
STR
久大本線
ABZql BHFq STRq STRlg
日豊本線
uexKBHFa STR
大分駅前
uexBHF STR
外濠 -1942?
uexBHF STR
竹町
uexBHF STR
県庁前 -?
uexTBHFl uexSTRlg STR
0.8
0.0*
官公街勧銀前
uexBHF uexSTR STR
1.3 新川
uexSTR uexBHF STR
茶屋町 -1923?
uexBHF uexSTR STR
1.8 浜町
uexSTR uexBHF STR
0.4* 堀川 -1929
uexBHF uexSTR STR
2.3 春日浦
uexSTR uexBHF STR
陳列所前 -1923?
uexSTR uexBHF STR
1.0* 蓬莱 -1929
uexBHF uexSTR STR
2.7 王子町
uexSTR uexBHF STR
駄ノ原 -1923?
uexSTR uexBHF STR
1.5* 聯隊前 -1929
exKBSTl
uexmKRZ eABZlg
2.9 専売公社前
uexSTR uexSTR STR
大分港
uexSTR uexBHF STR
金谷橋 -1929
uexBHF uexSTR STR
3.5 西大分 1929-
uexSTR uexBHF BHF
2.3* 西大分 -1929
uexTBHFl uexSTRrf STR
3.8
2.7*
かんたん[注釈 1]
uexDST STRc2 STR3
牛ヶ谷信号場 -?
uexBHF STR+1 STRc4
5.8 白木
uexHST STR
5.9 白木海水浴場(臨) -?
uexDST STR
6.9 仏崎信号場
uexSTR eBST
仏崎信号場
uexBHF STR
7.7 田ノ浦
uexBHF STR
8.6 別院前
uexBHF STR
10.1 篠崎 -1941
uexBHF STR
10.5 両郡橋
uexBHF BHF
11.1 東別府駅前
uexBHF STR
11.5
0.0
浜脇
uexSTRc2 uexABZg3 STR2 STRc3
uexSTR+1
STRc1 STR+4
11.8 松原通 -?
uexBHF uexSTR STR
12.0 永石通
uexBHF uexSTR STR
12.2 流川通
uexSTR uexKBHFe STR
1.0
別府 -1922
uexSTR STR
12.6
0.0
←←北浜
uexTBHFl uexBHFq uexKBHFr BHF
0.3
←弥生通 -?
uexSTR2 uexSTRc3 STR
0.5
→別府駅前
uexSTRc1 uexSTR+4 STR
uexBHF STRc2 STR3
12.8 仲間通
uexBHF STR+1 STRc4
13.1 富士見通
uexBHF STR
13.5 境川
uexBHF STR
14.1 餅ヶ浜
uexBHF STR
14.8 国際観光港
uexBHF STR
15.4 春木川
uexBHF STR
15.8 深町
uexBHF STR
16.2 六勝園
uexSTR HST
別府大学#
uexBHF STR
16.5 聖人ヶ浜
uexBHF STR
16.7 遺族会館前
uexBHF STR
17.0 照波園
uexBHF STR
弁天前 -1943
uexBHF STR
17.8 亀陽泉前
uexBHF STR
18.1 亀川新川
uexKBHFe BHF
18.4 亀川駅前
STR
日豊本線
別大線(べつだいせん)は、かつて大分県大分市の大分駅前から別府市の亀川駅前までを、国道10号(別大国道)に沿って結んでいた大分交通の軌道線。通称別大電車。
1900年(明治33年)九州初の路面電車として開業し、末期まで黒字であったが、バス・乗用車の発達に伴い別大国道の混雑が問題視されるようになり、大分県警の要請を受けて1972年(昭和47年)に廃線となった。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 歴史
2.1 前史(豊州電気鉄道から大分交通設立まで)
2.2 年表
3 運行形態
4 停留所一覧
5 接続路線
6 車両
6.1 廃止時
6.2 それ以前の在籍車
6.3 保存車
6.4 譲渡車
7 関連商品
8 脚注
8.1 注釈
8.2 出典
9 参考文献
10 関連項目
路線データ[編集]
1969年3月当時
路線距離:大分駅前 - 亀川駅前間18.4km
軌間:1,067mm
複線区間:かんたん[注釈 1] - 両郡橋間除く11.8km
電化区間:全線(直流600V)
閉塞方式:タブレット閉塞式
歴史[編集]
京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道として開業。また余剰電力は周辺の商店街へも供給され当時としては数少ない街灯も点灯した。
前史(豊州電気鉄道から大分交通設立まで)[編集]
別府-大分間の軌道敷設は1890年(明治23年)に大分県一等警部だった平塚恰[1]が企画したことから始まる。
1894年(明治27年)11月に軌道敷設特許状が下付されると、1896年(明治29年)8月に豊州電気鉄道を設立。社長には平塚から誘われた愛媛の実業家菊地清治[2]が就任した[3]。ところが同じ別府-大分間を馬車鉄道で計画し、その後合同した秦誠一郎が破産し撤退、菊地も会社を離れてしまった。代わりに1898年(明治31年)11月に就任したのが大分町の中山東太郎。しかし1899年(明治32年)9月の臨時株主総会で中山をはじめ役員は総辞職してしまい、社長は福岡県小倉町の神崎岩蔵が就くことになった[4]。この神崎社長時代の1900年(明治33年)5月にようやく別府-大分間に電車が通ることになった。ところが当初は物珍しさから見物客は殺到したものの、電車の速度が遅く従来の馬車から客を奪うまでいかなかった。また一般の人にはまだ電気に対する知識がないため、デマには会社が悩まされていた。一方電灯事業を開始し、1901年(明治34年)より路線延長工事に着手するなど新たな事業資金の捻出のため増資や社債の発行などしていたが思うようにはいかず借入金だよりとなった。その後業績はあがらず借入金は増大し神崎社長は1902年(明治35年)7月で退任。ほとんどの役員も交替した。
次に社長になったのは大分町の後藤喜太郎[5]。ところが後藤も1903(明治36年)8月には甲斐治平に交替することになった。1904年(明治37年)11月大分地裁は豊州電気鉄道の破産を決定した。この訴訟をおこしたのは愛媛の実業家佐々木長治[6]であり1901年(明治34年)から取締役になっていたが1903(明治36年)3月に辞任し貸付金の返済を求めてのものであった。これは仲裁により和議となる。佐々木の債権を株に書き換え新会社豊後電気鉄道を設立し豊州電気鉄道の電車事業及び電燈事業を承継することとなった。
豊州電気鉄道は1906年(明治39年)1月臨時株主総会で解散を決議し5月清算を完了した。一方1906年(明治39年)1月4日豊後電気鉄道[7]を設立。社長は佐々木が就任。一切の事業を承継し1月5日登記を完了した。そして佐々木は大卒社員を採用し経営にあたらせるようにした。彼らは別府や大分で電車の展示会や構造説明会を開き一般の人への電気への啓蒙につとめた。また仏崎に長州観音を奉置し参詣客に対し運賃割引の特典をあたえるなど旅客誘致策をすすめた。一方日露戦争後の好景気により石炭価格が高騰し発電の燃料費が問題となっていた。そこで1907年(明治40年)5月に設立したばかりの大分水電と交渉の結果9月に事業権を譲受した。これを機に佐々木は社長を退き[注釈 2]代わりに大分水電よりきた長野善五郎[9]が社長に就任した[10]。水力発電所を手に入れ、電車及び電灯供給の電気のコストは削減され、経営は好転していった。
明治末から九州各地に電気事業者の数は増えていった。やがて東京大阪の資本と提携し群小電気会社を買収していく電気会社があらわれてくるようになった。その中で九州水力電気が1915年(大正4年)9月に大分水力電気(明治44年設立)を傘下に収めて大分県下の電気事業者の大半をおさえると豊後電気鉄道もその流れにのり12月の臨時株主総会で九州水力電気との合併を決議。1916年(大正5年)4月1日より九州水力電気の経営するところとなった。なお合併により長野は九州水力電気の取締役についた。
年表[編集]
1894年(明治27年)11月30日 軌道敷設特許[11]
1896年(明治29年)8月5日 豊州電気鉄道設立[11]
1897年(明治30年)4月28日 工事施工許可[11]
1900年(明治33年)5月10日 豊州電気鉄道により大分町(後、堀川) - 別府町(後、別府桟橋)間開業[11]
1900年(明治33年)11月16日 電灯及び電力供給事業許可[12][13]
1901年(明治34年)2月19日 軌道敷設特許[12]
1901年(明治34年) 6月18日 工事施工許可[12]
1901年(明治34年)11月29日 荷揚橋 - 堀川間開業
1902年(明治35年)4月15日 南新地(後、竹町) - 荷揚橋間開業[12]
1904年(明治37年)8月20日 電灯供給開始(別府町及び浜脇町)[12][13]
1904年(明治37年)11月 破産宣告(のち和議)[14]
1906年(明治39年)1月4日 豊後電気鉄道設立。豊州電気鉄道の一切の事業を承継[14]
1906年(明治39年)5月5日 豊州電気鉄道解散[14]
1916年(大正5年)3月28日豊後電気鉄道解散[15]
1916年(大正5年)4月1日 九州水力電気に合併し、同社路線となる
1917年(大正6年)7月7日 外堀 - 南新地間開業
1918年(大正7年)12月18日 大分駅前 - 外堀間開業(1919年2月24日説あり[16])
1921年(大正10年)4月1日 警察署前(後、官公街勧銀前) - 新川間開業
1922年(大正11年)4月2日 新川 - かんたん[注釈 1]間開業。外堀 - 警察署前間複線化
1925年(大正14年)12月30日 警察署前 - 堀川 - かんたん間の旧線廃止
1927年(昭和2年)7月1日 別府大分電鉄として分離独立[17]
1928年(昭和3年)2月21日 軌道特許状下付(別府市大字別府-速見郡亀川町間)[18]
1928年(昭和3年)2月25日 軌道特許状下付(別府市北町-同市不老町間)[19]
1929年(昭和4年)5月1日 別府桟橋前 - 境川間、北浜 - 別府駅前間開業。警察署前 - かんたん間、東別府駅前 - 別府桟橋間複線化
1930年(昭和5年)12月1日 境川 - 亀川間開業(複線)
1938年(昭和8年)11月19日 両郡橋 - 東別府駅間複線化
1942年(昭和17年)3月3日 亀川 - 亀川駅前間開業(複線)
1945年(昭和20年)4月20日 交通統合により大分交通へ合併、同社の別大線となる
1956年(昭和31年)10月19日 北浜 - 別府駅前間廃止
1958年(昭和33年)2月25日 大分駅前 - 警察署前間線路移設
1961年(昭和36年)10月26日 仏崎付近で豪雨による土砂崩れのため電車205号が埋没。乗務員・乗客あわせて31人死亡
1966年(昭和41年)10月1日 一部車両(503 - 507号)をワンマン運転化
1968年(昭和43年)9月1日 大分市内線ワンマン運転化
1971年(昭和46年)2月 大分県警察が大分交通に電車軌道の撤去を要請
1971年(昭和46年)12月 別大電車の廃止が決定
1972年(昭和47年)3月23日 大分交通労使が別大電車の廃止で合意
1972年(昭和47年)4月5日 全線廃止
運行形態[編集]
系統は3つあり、全線運行する大分駅前 - 亀川駅前と、大分市内系統として大分駅前 - かんたん、そしてラッシュ時のみ運行されていた別府市内系統の東別府 - 亀川駅前があった。のちに全線運転を取り止めの上、北浜にて系統分割し、(1)大分駅前 - 北浜、(2)北浜 - 亀川駅前、(3)大分駅前 - かんたん((1)の区間便)の3系統体制で運行するようになった。
停留所一覧[編集]
1969年3月当時
大分駅前 - 竹町 - 官公街勧銀前 - 新川 - 浜町 - 春日浦 - 王子町 - 専売公社前 - 西大分 - かんたん[注釈 1] - 白木 - 仏崎(信号場) - 田ノ浦 - 別院前 - 両郡橋 - 東別府駅前 - 浜脇 - 永石通 - 別府桟橋 - 北浜 - 仲間通 - 富士見通 - 境川 - 餅ヶ浜 - 国際観光港 - 春木川 - 深町 - 六勝園 - 聖人ヶ浜 - 遺族会館前 - 照波園 - 弁天前 - 亀陽泉前 - 亀川新川 - 亀川駅前
大分駅前 - かんたん、東別府駅前 - 亀川駅前が併用軌道、かんたん - 東別府駅前が専用軌道。1956年までは、北浜から分岐して別府駅までの支線(大分県道32号別府停車場線上に併用軌道として敷設)も存在した。
接続路線[編集]
大分駅前:日豊本線・久大本線・豊肥本線(大分駅)
西大分:日豊本線(西大分駅)
東別府駅前:日豊本線(東別府駅)
別府駅前・北浜:日豊本線(別府駅)
亀川駅前:日豊本線(亀川駅)
車両[編集]
廃止時[編集]
在籍33両
150型・200型・300型・500型はトムリンソン式密着連結器を備えた総括制御車
100型以外は間接自動制御車
100型 (101-116)
半数は150型に改造され廃止時は102・104-107・110・111・115であった
11,887×3,087×2,336mm、自重14.2t、定員80(座席32)名、日車C系台車
150型 (151・153・158・159・161・163・164・166)
旧100型を重連対応の総括制御に改造し車番に+50番を付けた
12,387×3,087×2,336mm、自重15.3t、定員80(座席32)名、日車C系台車
200型 (201-204)
205は上記の1961年の土砂崩れ災害により事故廃車
12,920×3,788×2,300mm、自重17.6t、定員90(座席40)名、日立KL21B台車
300型 (301・302)
12,920×3,828×2,300mm、自重16.9t、定員90(座席42)名、東洋工機TK201台車
500型
(501・502) 12,920×3,894×2,300mm、自重17.0t、定員90(座席38)名、東洋工機TK202台車
(503-507) 12,920×3,894×2,300mm、自重17.2t、定員90(座席38)名、近車KD202台車
1000型連接車 (1001AB)
[9,250×2]×3,894×2,280mm、自重[10.9×2]t、定員140(座席56)名、川崎611AB台車
1100型永久連結車 (1101AB・1102AB)
25,600×3,894×2,280mm、自重33.2t、定員200(座席80)名、近車KD50台車(シュリーレン方式)
それ以前の在籍車[編集]
旧1型(13両)
付随客車(5両)
新1型(10両?)
7580型 (7581-7585)
旧名古屋市電
保存車[編集]
501号:大分市・西大分公園(2004年に解体)
502号:別府市・亀川浜田公園(1992年に解体)
506号:大分市・大分市立佐野植物公園に保存中、保存状態は良好。1996年まで若草公園に保存されていた。
また、大分交通本社には敷石とレールを使ったモニュメントがある。
譲渡車[編集]
504, 505号
岡山電気軌道3501・3502号となるが、1982年に車体更新され7201・7202号となる。
関連商品[編集]
DVD:「さようなら別大電車」DVD 別府8ミリクラブ 撮影(吉永カメラ・2007年発売)※1972年製作、別府市北浜の吉永カメラでのみ販売中
脚注[編集]
注釈[編集]
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^ a b c d 菡萏(「かん」は「草冠に函」、「たん」は「草冠に勹に臼」)。中国語で「蓮の花」、転じて美しいものを形容する言葉である。また、菡萏湾は別府湾の旧名である。
^ 非常勤となり大正3年死亡[8]。
出典[編集]
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^ 『改正官員録. 明治16年4月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治30年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治33年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『大分交通40年のあゆみ』28-29頁
^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『大分県交通史』86頁
^ a b c d 『大分県交通史』73頁
^ a b c d e 『大分県交通史』75頁
^ a b 『電気事業要覧. 第〔5〕回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c 『大分県交通史』85頁
^ 『大分交通40年のあゆみ』31頁
^ 『大分交通40年のあゆみ』126頁
^ 3月14日許可「軌道譲渡許可」『官報』1927年3月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1928年2月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1928年5月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
大分合同新聞(編) 『郷愁の別大電車』 大分合同新聞社、2005年。
田尻弘行 『大分交通別大線』 ネコ・パブリッシング〈RMライブラリー85〉、2007年。
奈良崎博保「大分交通・別大線」、『鉄道ピクトリアル』No. 1601964年7月号臨時増刊:私鉄車両めぐり5、1964年、 pp. 68-78, 92, 93。(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺9頁。
『大分県交通史』九州交通新聞社、1978年
『大分交通40年のあゆみ』大分交通、1985年
関連項目[編集]
別府温泉
廃線
大分交通
Dプラザ:同線車両基地跡と旧本社跡に建てられた商業施設
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日本の路面電車
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