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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
加悦鉄道
加悦鉄道
加悦SL広場の2号蒸気機関車後ろの建物は旧加悦駅を模したもの
加悦SL広場の2号蒸気機関車
後ろの建物は旧加悦駅を模したもの
基本情報
国 日本の旗 日本
起点 丹後山田駅
終点 加悦駅
駅数 6駅
開業 1926年12月5日
廃止 1985年5月1日
運営者 加悦鉄道
路線諸元
路線距離 5.7 km
軌間 1,067 mm (狭軌)
線路数 単線
電化方式 非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
exKBSTa
4.5 岩滝工場
exENDEaq exABZr+r
↑日本冶金専用線
STRrg xKRZo STRq
国鉄:宮津線
eABZlf exABZlg
0.0 丹後山田
STRrf exSTR
exBHF
1.4 水戸谷
exBHF
2.6 丹後四辻
exBHF
加悦谷高校前
exBHF
4.0 三河内口
exBHF
4.5 三河内
exABZlf exSTRlg
exBHF exDST
5.7 加悦
exABZrg exSTRrf
↓日本冶金専用線
exKBSTe
8.5 大江山鉱山 大江山鉱山
廃止前の加悦駅構内。機関車や客車が見える
キハ08 3号気動車(加悦SL広場)
C-160号蒸気機関車(京都市大宮交通公園)
加悦鉄道(かやてつどう)は京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現・京都丹後鉄道宮津線与謝野駅)から、同郡加悦町(現・与謝野町)の加悦駅までを結んでいた私鉄である。1985年(昭和60年)5月1日に全線が廃止された。
日本冶金工業のグループ企業である。鉄道路線の廃止後も運営会社はカヤ興産と改称して存続していたが、2011年(平成23年)4月1日に宮津港運と合併し、宮津海陸運輸となっている。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 歴史
3 駅一覧
4 接続路線
5 車両
5.1 気動車
5.2 ディーゼル機関車
6 バス事業
7 廃止後の状況
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
概要[編集]
丹後山田駅と南西部の加悦町を結んでいた路線で、当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送することを主目的として開業し、旅客営業も行った。その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940年(昭和15年)に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線[1] が開業し、1942年(昭和17年)には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金工業大江山製造所)への専用線[1] も開通した。
戦後、大江山でのニッケル採掘が中止されたため加悦 - 大江山間の専用線は撤去(ただし、法的には加悦鉄道廃止まで廃止手続きは取られていない)されたが、岩滝工場への専用線は同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するため存続した。モータリゼーションの進行により旅客輸送量が減少する一方、明治・大正時代に製造された古典蒸気機関車をはじめ、「マッチ箱」と呼ばれる木造2軸客車、国鉄から購入した客車改造のキハ08形気動車など希少車・珍車の宝庫として知られ、多くのファンを集めた。会社側もやがて観光鉄道を目指すようになり、グッズ類の販売等にも力を入れるようになった。
しかし、1985年(昭和60年)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線でのニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田 - 大江工場間の専用線も廃止を余儀なくされた。これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、同年5月1日に全線が廃止された。
なお、運営会社の加悦鉄道株式会社は鉄道廃止以前から路線バスの運行のみならず、鉄道会社の事業展開としては異色の自動車整備業、建設業を営んでいた。廃止後にはカヤ興産株式会社と社名を変更し、前述の建設業・自動車整備業に加え、株式会社YAKIN大江山(当時)構内におけるニッケル運搬・構内機器整備等のほか、鉄道保存展示施設「加悦SL広場」の運営なども行っているが、1999年(平成11年)にバス部門を加悦フェローラインに分社している(2009年(平成21年)に路線廃止・法人解散、特定貸切バスについてはカヤ興産が引き継ぐ)。ニッケル鉱輸送の関連から日本冶金工業のグループ会社であり、社紋についても共通である[2]。
その後、2011年(平成23年)4月1日に宮津港運株式会社とカヤ興産株式会社の合併により宮津海陸運輸株式会社が設立され、「加悦SL広場」の運営などはひきつづき宮津海陸運輸株式会社にて実施されている。
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):丹後山田 - 加悦間 5.7 km
軌間:1067mm
駅数:6駅(起終点駅含む。専用線除く)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:票券閉塞式
歴史[編集]
1925年(大正14年)
3月31日:鉄道免許状下付(与謝郡山田村-同郡加悦町)[3]。
5月5日:加悦鉄道創立[4][5]。
1926年(大正15年)12月5日:丹後山田 - 加悦間が開業[6]。
1927年(昭和2年)11月24日:乗合自動車路線開通(加悦町-丹後山田駅間)[7]。
1930年(昭和5年)12月5日:三河内口駅開業。
1939年(昭和14年)
7月28日:大江山ニッケル鉱業(1943年(昭和18年)に親会社の日本冶金工業に合併)に経営を委ねる。
8月10日:ニッケル鉱石輸送開始。
1942年(昭和17年)10月14日:岩滝工場側線完成、鉱山から工場へ一貫輸送開始。
1970年(昭和45年)4月8日:加悦谷高校前駅開業。
1984年(昭和59年)2月1日:貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)
5月1日:丹後山田 - 加悦間廃止。
月日不詳:社名をカヤ興産に変更。
1999年(平成11年):バス事業を加悦フェローラインへ分社。
2009年(平成21年)4月1日:加悦フェローライン解散に伴い、バス事業を譲受・再開。
2011年(平成23年)4月1日:宮津港運とカヤ興産の合併により宮津海陸運輸設立。
丹後山田駅は、加悦鉄道廃止後の1990年(平成2年)4月1日に野田川駅、2015年(平成27年)4月1日に与謝野駅と改称。
駅一覧[編集]
(工場駅)- 丹後山田駅 - 水戸谷駅 - 丹後四辻駅 - 加悦谷高校前駅 - 三河内口駅 - 三河内駅 - 加悦駅 -(鉱山駅)
工場駅 - 丹後山田駅間、加悦駅 - 鉱山駅間は日本冶金工業の貨物専用線。
接続路線[編集]
丹後山田駅:国鉄宮津線(営業当時)
車両[編集]
廃止時点で蒸気機関車 (SL) が2両、ディーゼル機関車 (DL) が3両、気動車が4両、客車が3両、貨車が2両在籍していたが、そのうち、気動車1両とディーゼル機関車1両、及び蒸気機関車、客車、貨車は後述の加悦SL広場で保存・展示されており、本線使用はなされなかった。
気動車[編集]
キハ40900形
51 - 元は芸備鉄道のキハユニ18、その後国鉄買収でキハ40921となり、のち船木鉄道キハニ51、船木鉄道廃止後加悦鉄道に譲渡された。キハ08導入まで主力車でキハ08導入後も後述のキハ10導入までは時々使用されたという。
キハ08形
083 - 元は国鉄キハ08系気動車。国鉄時代は北海道で使用されていたということもあり冬場には重宝されたという。
キハ10形
1018 - 元は国鉄キハ10系気動車。1980年に国鉄から譲渡され、廃止まで主力車として活躍した。
ディーゼル機関車[編集]
DC35形
351 - 元南部鉄道DC251で、廃止前の1967年に日本冶金が購入。同年加悦鉄道借入認可となり、客車牽引にも使用されたが、1974年のDD352導入後は予備となった。
DD35形
352 - 1974年に日本冶金が購入。
バス事業[編集]
1934年時点で加悦町-丹後山田駅間7.4キロを運行していたが1941年8月にバス事業は休止にのち廃止。再開したのは1952年5月になってからであった。1954年になり宮津駅まで延長した。
廃止後の状況[編集]
廃線後、軌道敷跡はカヤ興産が請負いサイクリングロード「加悦岩滝自転車道線」として整備されている。
加悦駅は鉄道廃止前から「加悦SL広場」として整備され、加悦鉄道で使用されていた気動車やイギリス製2号蒸気機関車などの鉄道車両が展示されていた。加悦SL広場は1996年(平成8年)に加悦駅跡から鉱山駅跡に移転した。加悦駅のあった場所(京都府与謝郡与謝野町加悦庁舎)の近くには、特定非営利活動法人加悦鐵道保存会が与謝野町から管理運営業務を受託し、加悦鉄道資料館(旧加悦駅舎)を運営している。
2005年(平成17年)6月、2号蒸気機関車(旧鉄道院123号機関車)が重要文化財に指定された。
加悦SL広場以外では、C-160蒸気機関車が京都市北区の大宮交通公園に保存されている。
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ ただし、戦前の社紋(移行時期は不詳)は、“カ”の字を時計回りに8つ配して「加悦」を表し、真ん中にレールの断面を配したものを使用していた。
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1925年4月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)では4月27日
^ 『日本全国諸会社役員録. 第34回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年12月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
“加悦鉄道60年の歴史を閉ず(鉄道の話題)”. 鉄道ピクトリアル No. 450 (1985年7月号): p. 70. (1985).
島貫龍馬 (2003). “加悦鉄道ものがたり -廃線跡を訪ねて-”. 鉄道ファン No. 502 (2003年2月号): pp. 109-113.
竹内龍三 (1960). “加悦鉄道”. 鉄道ピクトリアル (1960年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり1): pp. 51-56, 87.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
高橋正雄 (2002). “加悦鉄道ものがたり その1-4”. 鉄道ファン No.495-498 (2002年7-10月号).
寺田裕一 『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』、2002年、P.100。ISBN 4-533-04102-7。
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(1986年覆刻)、p. 383。ISBN 4-88540-048-1。
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺2頁。
関連項目[編集]
廃線
加悦谷
道の駅シルクのまち かや
種村直樹 - 当鉄道で日本の鉄道全線乗車を達成したレイルウェイライター。
外部リンク[編集]
カヤ興産(インターネット・アーカイブ)
宮津海陸運輸株式会社
特定非営利活動法人加悦鐵道保存会
北総レール倶楽部 その1
北総レール倶楽部 その2
北総レール倶楽部 その3
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表 話 編 歴
鉄道友の会 鉄道趣味顕賞 選定対象一覧
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カテゴリ: 加悦鉄道近畿地方の鉄道路線 (廃止)専用鉄道かつて存在した日本の鉄道事業者かつて存在した日本のバス事業者与謝野町の交通与謝野町の歴史グローリア賞京都府の交通史
愛宕山鉄道
愛宕山鉄道鋼索線
愛宕山鉄道鋼索線
凡例
STR
京阪嵐山線
KHSTe
京阪嵐山
WASSERq
KBHFa
0.0 嵐山
STRq xABZrf
京都電灯本線
exSTR
鉄道省山陰本線
HSTq xKRZo
嵯峨
exBHF
嵯峨西
exBHF
1.0 釈迦堂
exBHF
2.3 鳥居本
exTUNNEL1
清滝トンネル
POINTERu exSTR
平坦線
exKBHFe
3.4 清滝
WASSERq
清滝川
POINTERd exKBHFa
0.0 清滝川
exFUNI exSTR
鋼索線
POINTERu exKBHFe
2.0 愛宕
他線などの名称は
当線廃止当時
愛宕山鉄道(あたごさん[1]てつどう)は、現在の京都府京都市右京区の嵐山駅から清滝駅までの普通鉄道路線(平坦線)と、清滝川駅から愛宕駅までのケーブルカー(鋼索鉄道)を第二次世界大戦前に運営していた鉄道事業者。
目次 [非表示]
1 概要
2 会社沿革
3 路線データ
4 運行概要
5 路線沿革
6 駅一覧
7 接続路線
8 輸送・収支実績
9 車両
10 廃線跡の現状
11 その他
12 脚注
13 参考文献
14 外部リンク
概要[編集]
京阪電気鉄道と京都電燈の共同出資会社であった。
愛宕山の愛宕神社へ向かう参詣路線として建設され、あわせて同社の手により山麓の清滝に清滝遊園地が、また愛宕山にホテルや飛行塔のある愛宕山遊園地、スキー場、テント村などが設置されて賑わった。しかし、世界恐慌の影響で業績が下降したため、京阪電気鉄道と京都電燈の手で再建が試みられた。その後、戦時中に全線が不要不急線に指定されたことから廃線となり、戦後も復活することはなかった。廃線と同時に、ホテルなどの観光施設もすべて閉鎖され復活することなく自然に還ることとなり、愛宕山地区のリゾート施設は幻と消えてしまった。
会社沿革[編集]
1926年(大正15年)11月25日 - 愛宕登山電気鉄道に対し鉄道免許状下付[2]。
1927年(昭和2年)8月1日 - 愛宕登山鉄道を愛宕山鉄道に変更し[3]会社設立[4][5]。
1928年(昭和3年)6月 - 平坦線・鋼索線起工。
1929年(昭和4年)1月 - 鋼索線建設資材運搬用の貨物用架空索道開業。
1929年(昭和4年) - 平坦線・鋼索線を順次開業。愛宕山にテント村、スキー場を順次開業。
1930年(昭和5年)7月20日 - 愛宕山ホテル、飛行塔開業。
1944年(昭和19年) - 鋼索線・平坦線を順次廃止。観光設備も閉鎖。
1959年(昭和34年)10月31日 - 解散。
戦後、親会社であった京阪神急行電鉄や京福電気鉄道に再建や合併を申し入れたが、両社とも戦後復興に手一杯で支援はできなかった。このため再建を断念し会社を解散している。その後1967年になって「愛宕登山鉄道」という別グループにより鋼索線の再建が発表されたが、実現することはなかった[6]。
路線データ[編集]
1941年当時
平坦線
路線距離:嵐山 - 清滝間3.39km
軌間:1435mm(標準軌)
駅数:5
複線区間:清滝トンネルを挟む区間を除く全線2.94km
電化区間:全線(直流600V)変電所設備はなく京都電燈より供給
鋼索線
路線距離:清滝川 - 愛宕間2.13km
軌間:1067mm(狭軌)
駅数:2
高低差:638.83m
運行概要[編集]
1942年9月1日改正当時
平坦線
運行本数:6時半から22時まで終日20分間隔(千日参りの時は臨時便を運行)
所要時間:全線11分
鋼索線
運行本数:7時から19時まで15ないしは30分間隔(千日参りの時は臨時便を運行)
所要時間:全線11分
路線沿革[編集]
1929年(昭和4年)4月12日 - 平坦線、嵐山 - 清滝間開業[7]。
1929年(昭和4年)7月25日 - 鋼索線、清滝川 - 愛宕間開業[8]。
1941年(昭和16年)4月11日 - 平坦線、国鉄山陰線との交点に嵯峨西駅開設。
1943年(昭和18年)12月3日 - 戦時体制により不要不急線指定が下され、廃線対象路線となる。
1944年(昭和19年)1月11日 - 平坦線を単線化。
1944年(昭和19年)2月11日 - 鋼索線廃止。
1944年(昭和19年)12月11日 - 平坦線廃止。
清滝トンネルは戦時下三菱重工業の分工場として航空機の部品工場となっていた。また、鋼索線の機材は傘松ケーブル(天橋立鋼索鉄道)などに転用された。
駅一覧[編集]
1941年当時
平坦線
嵐山駅 - 嵯峨西駅 - 釈迦堂駅 - 鳥居本駅 - 清滝駅
鋼索線
清滝川駅 - 愛宕駅
嵐山駅は京都電灯本線(現、京福電気鉄道嵐山本線)の嵐山駅に併設されていた。
愛宕駅から愛宕神社までは距離があったため、索道(ロープウェイ)の建設も計画されていたが実現しなかった。
接続路線[編集]
1941年当時
嵐山駅:京都電灯本線(現、京福電気鉄道嵐山本線)、京阪電気鉄道(現、阪急電鉄)嵐山線(京阪嵐山駅)
嵯峨西駅:鉄道省(現、JR西日本)山陰本線(嵯峨駅、現在の嵯峨嵐山駅)
輸送・収支実績[編集]
年度 平坦線乗客(人) 鋼索線乗客(人) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1929 529,752 183,298 123,815 74,002 49,813 486 28,952
1930 557,317 303,655 147,238 131,283 15,955 土地遊園地937 78,232
1931 453,611 236,122 109,839 74,637 35,202 雑損160遊園地7,931 88,791
1932 381,803 198,099 90,216 61,638 28,578 雑損88遊園地土地9,608 97,109
1933 448,184 229,896 101,381 73,604 27,777 遊園土地677 雑損56 84,604
1934 463,882 235,054 103,302 63,535 39,767 遊園地163 85,279
1935 447,891 234,516 103,403 62,196 41,207 遊園地8,595 85,234
1936 509,750 257,865 135,506 60,154 75,352 土地遊園589 雑損償却金7,841 68,100
1937 447,194 229,524 128,255 58,429 69,826 土地遊園地1,668 償却金5,251土地遊園地1,309 64,934
1939 593,211 249,690
1941 733,694 303,950
1943 695,947 294,384
鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
車両[編集]
平坦線
愛宕山鉄道と同じく京阪と資本関係のあった新京阪鉄道が架線電圧を昇圧した際、不要となった木造電車P-1形5両(北大阪電気鉄道が1921年の開業時に用意した車両)を愛宕山鉄道に譲渡した。愛宕山鉄道では1から5の番号を付けられ、廃線まで使用された。廃止後は京阪大津線に3両、京福永平寺線に2両が移籍し、いずれも1960年代まで使われた。
鋼索線
東洋車輌製(台車はギーゼライベルン社製)の1・2が製造され、廃線まで使用された。
廃線跡の現状[編集]
廃線跡
平坦線の跡地は清滝道(京都府道29号宇多野嵐山山田線、京都府道137号清滝鳥居本線)として道路に改修され、現在は京都バス嵐山営業所の路線が運行されている。また平坦線の遺構として単線トンネルの清滝トンネルが残存しており、片側交互通行で道路に転用されている。
鋼索線の遺構も清滝川駅跡地や線路跡、愛宕駅の駅舎建物などが残存しているが、愛宕駅舎は崩壊しかけており、また6つあるトンネルのうち2つは内部が崩壊していて、非常に危険な状態になっている。橋梁などその他のコンクリート製構造物も風化が進んでおり崩壊の危険がある。中には片側が完全に崩壊している(レールのセメントは現存)ものもある。
鋼索線の廃線跡を愛宕神社への上級者向け登山道の一つとして通行する者がいるが、一部区間は崩壊などの理由で立ち入り禁止となっている。
その他[編集]
種村直樹は著書[9]の中で、1992年ごろに「愛宕山ケーブル」という会社の電話番号が京都市内のタウンページに掲載されていたことを報告している。前述の通り愛宕山鉄道は1959年に解散しているため、「愛宕山ケーブル」と愛宕山鉄道とは直接のつながりはないものと考えられるが、前述の1967年に鋼索線を再建しようとしていた別グループの会社なのかどうかは不明である。
また、1960年代に全日本モノレール電鉄が旧平坦線に並行してモノレールを建設する計画を立てたが、結局実現することはなかった[10]。
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ 和久田康雄 『私鉄史ハンドブック』 電気車研究会、1993年、p. 190。
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1926年11月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道統計資料. 昭和2年 第3編 監督』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第36回(昭和3年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 森口誠之著『鉄道未成線を歩く』私鉄編によれば1960年には既に免許が取得されていたようである。この免許は1973年に失効している。
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年4月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年8月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 種村直樹 『種村直樹の新汽車旅相談室』汽車旅の基礎と運賃・料金篇、自由国民社、1993年、初版。ISBN 4426548012。
^ 「モノレール鉄道免許申請一覧表」『広報ひめじ』No.339 (PDF) 、1964年2月15日発行。
参考文献[編集]
山崎寛「愛宕山鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.144 1963年5月号
外部リンク[編集]
幻の鉄道「愛宕山鉄道」を訪ねて
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 京都府の交通史右京区の交通近畿地方の鉄道路線 (廃止)日本の鋼索式鉄道かつて存在した日本の鉄道事業者かつて存在した京都府の企業右京区の歴史戦前の京都