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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
日ノ丸自動車法勝寺電鉄線
曖昧さ回避 「山陰中央鉄道」はこの項目へ転送されています。同社が運営していたもう一方の路線である広瀬線については「一畑電気鉄道広瀬線」をご覧ください。
法勝寺電鉄線
米子市内に保存されているフ50客車(#保存車両も参照)
米子市内に保存されているフ50客車
(#保存車両も参照)
概要
現況 廃止
起終点 起点:米子市駅(本線)、阿賀駅(母里支線)
終点:法勝寺駅(本線)、母里駅(母里支線)
駅数 10駅(本線)、5駅(母里支線・阿賀駅は本線のみに計上)
運営
開業 1924年7月8日
廃止 1967年5月15日
所有者 法勝寺鉄道→伯陽電鉄→
山陰中央鉄道→日ノ丸自動車
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 12.4 km (7.7 mi) (米子市-法勝寺間)
5.5 km (3.4 mi) (母里支線)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
米子電車軌道:灘町線
uexSTR
国鉄:境線
STR
米子駅前
ABZqr
米子
HUB
←国鉄:山陰本線→
HUBlf
0.0 米子市
exBHF
1.1 長砂
exBHF
2.3 宗形神社前
exBHF
2.8 安養寺
exBHF
4.2 青木
exWBRÜCKE
法勝寺川
exBHF
5.6 大袋
exBHF
7.4 手間
exBHF
9.2 天津
exBHF
10.7
0.0
阿賀
exSTRrg exABZrf
←母里支線 -1959
exSTR exBHF
11.7 大国
exSTR exKBHFe
12.4 法勝寺
exWBRÜCKE
法勝寺川
exBHF
0.8 原
exBHF
1.3 猪小路
exBHF
与一谷
extSTRa
二重トンネル
extSTR+GRZq
鳥取島根県境
extSTRe
exBHF
不動尊
exKBHFe
5.5 母里
法勝寺電鉄線(ほっしょうじでんてつせん)は、かつて鳥取県米子市と同県西伯郡西伯町法勝寺(現・南部町)の間を結んでいた、日ノ丸自動車が運営していた鉄道路線である。
1924年(大正13年)に法勝寺鉄道という名前で開業し、地元では、開業当時の名前から「法勝寺電車」と呼ばれることが多かった。その後伯陽電鉄に社名を改めている。ちなみにこの社名は伯耆と山陽の頭文字からとったものだが、1928年(昭和3年)には鉄道省が伯備線を全通させており、本気で山陽側まで路線を延長させるつもりであったかは極めて疑わしい[1]。結局、山陽地方への延長は行われなかったものの、同規模の地方鉄道にしては珍しく鳥取県から県境を越えて島根県の母里(現・安来市)までの母里支線を開業させている。しかしながら母里支線の営業成績は芳しくなく、不要不急路線に指定され開業から僅か14年の短命に終わった。
その後山陰中央鉄道を経て、1953年(昭和28年)に地元のバス会社である日ノ丸自動車へ吸収合併され、1960年代のモータリゼーションの進行に勝てず廃止となった。この結果、国鉄伯備線などが電化される1982年(昭和57年)まで、鳥取県には電化された鉄道路線が消滅することとなった。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 電動車
7.2 付随客車
7.3 保存車両
8 脚注
9 参考書籍
10 関連項目
路線データ[編集]
※本線・母里支線とも廃止直前のデータ。
路線距離(営業キロ):本線12.4km、母里支線5.5km
軌間:1067mm
駅数:本線10駅、母里支線5駅(起終点駅含む。阿賀駅は本線のみに計上)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V)
手間変電所[2]。以前は安養寺変電所、回転変流器(交流側450V直流側600V)直流側の出力100KW、常用1、予備1、製造所明電舎[3]
閉塞方式:
運行形態[編集]
1959年(昭和34年)時点で、米子市 - 法勝寺間は1日15往復、おおむね約60分毎の運転だった。
歴史[編集]
1922年(大正11年)
11月16日: 法勝寺軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(西伯郡米子町-同郡法勝寺村間 動力蒸気)[4]
12月28日: 法勝寺鉄道株式会社設立[5][6]
1923年(大正12年)7月17日:動力を電気に変更[7]
1924年(大正13年)
7月8日 : 法勝寺鉄道 米子町(後の米子市) - 大袋間開業(旅客運輸)[8]
7月18日: 鉄道免許状下付(西伯郡法勝寺村-能義郡井尻村間)[9]
8月12日 : 大袋 - 法勝寺間開業(旅客運輸)[10]
1925年(大正14年)2月12日 : 伯陽電鉄に社名変更[11]
1927年(昭和2年) : 米子町駅を米子市駅に改称
1930年(昭和5年)1月1日 : 阿賀 - 母里間の支線を開業[12]
1937年(昭和12年)以降 : 与一谷駅、不動尊駅廃止
1944年(昭和19年)
2月11日 : 阿賀 - 母里間の支線を休止
10月31日 : 伯陽電鉄と広瀬鉄道が合併し、山陰中央鉄道となる。前者は法勝寺線・後者は広瀬線となる
1948年(昭和23年)4月1日 : 広瀬線を島根鉄道(後に一畑電気鉄道に合併)として分離
1951年(昭和26年)12月20日 : 大国駅開業
1952年(昭和27年)- 1966年(昭和41年)頃 : 宗形神社前駅廃止
1953年(昭和28年)9月15日 : 日ノ丸自動車が山陰中央鉄道を吸収合併。同社の法勝寺電鉄線となる
1957年(昭和32年)4月18日 : 朝6時20分頃、長砂地内S字カーブ(現在の米子南インターチェンジ付近)に於いて法勝寺駅5:48発の一番電車が米子市駅6:14発の回送電車と正面衝突、7名重軽傷
1959年(昭和34年)9月17日 : 休止中の阿賀 - 母里間を廃止
1967年(昭和42年)5月15日 : 米子市 - 法勝寺間全線廃止
阿賀母里間の路線は当初廃止の方針であった。ところが代替輸送機関がないため地元では反対運動が起き陳情のため母里村長が監理局長と面接することになった[13]。その後伯陽電鉄は営業廃止許可申請を取下げることになり鉄道軌道統制会により営業休止許可となった[14]。
駅一覧[編集]
※廃止直前のデータ(ただし*印を付けた駅は廃線以前に廃駅)
米子市駅 - 長砂駅*[15] - 宗形神社前駅*(実在したか不明)[16] - 安養寺駅 - 青木駅 - 大袋駅 - 手間駅 - 天津駅 - 阿賀駅 - 大国駅 - 法勝寺駅
支線:阿賀駅 - 原駅 - 猪小路駅 - 隧道口東駅(与一谷駅とも)* - 不動尊駅* - 母里駅
接続路線[編集]
米子市駅:国鉄山陰本線・境線(米子駅)・米子電車軌道(米子駅前、1925-1938年) - 米子市駅と国鉄米子駅は徒歩で10分はかかったという。
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1924 123,103 - 19,316 11,823 7,493 雑損334 37,929
1925 284,894 938 49,852 55,094 ▲ 5,242 雑損14,388 85,293 40,831
1926 305,174 1,637 56,569 40,103 16,466 雑損40,863 54,330 38,414
1927 297,537 1,618 53,232 40,197 13,035 償却金2,000
雑損795 48,368 39,154
1928 264,285 1,944 47,219 36,904 10,315 償却金その他1,681 42,928 39,438
1929 248,484 2,554 45,494 30,837 14,657 雑損183 58,674 39,563
1930 245,870 1,954 47,061 43,262 3,799 自動車業1,478
雑損14,031 71,620 49,045
1931 211,692 2,191 40,300 32,218 8,082 自動車業3,230
雑損26,257 67,503 56,243
1932 195,564 1,558 67,735 31,220 36,515 雑損30,235 60,552 53,944
1933 214,207 3,199 41,324 32,782 8,542 自動車1,502 雑損14,318 58,937 63,075
1934 230,611 5,017 45,990 34,634 11,356 雑損23,969
自動車業2,379 36,992 49,478
1935 223,007 4,354 43,051 40,718 2,333 債務免除金30,637 自動車業2,973
雑損償却金14,440 16,669 22,141
1936 216,855 4,993 42,485 40,568 1,917 自動車業2,029
雑損償却金22,644 1,783 22,412
1937 221,169 4,659 42,648 39,702 2,946 自動車業35 自動車業323
雑損298
償却金21,680 1,472 19,909
1939 326,522 9,988
1941 585,738 14,032
1952 742,831 5,513
1955 868千 5,104
1958 983千 4,964
1960 1,052千 3,791
1962 1,072千 4,598
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、地方鉄道統計年報、私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
開業時に用意された車両は愛知電気鉄道より購入した並等電動客車9・11号(名古屋電車製作所)[17][18][19]。さらに開業後愛知電気鉄道より電動客車12号、附随客車64号[20]を、上州鉄道より有蓋貨車ワ3・4[21]近江鉄道より無蓋貨車ト9・14[22]を購入。1924年度末の車両は電動客車3両、附随客車1両、有蓋貨車2両、無蓋貨車2両[23]
電動車[編集]
電1 -電3→ デハ1 - デハ3
単車で元愛知電気鉄道9・11・12。名古屋電車製作所製。開業時2両、少し遅れて1両を購入した。1950年にデハ2が廃車、1954年にデハ1が客車フ53に改造された。1958年4月23日の一斉改番でデハ3がデハ209となったが、同年11月27日に廃車となっている。
デハ4・デハ5
ボギー車で伯陽電鉄時代の1930年より使用(正式な譲受は1931年)。元は池上電気鉄道が駿遠電気から譲受したデハ1・デハ2で名目上は1922年日本車輌製となっている。一斉改番でデハ201・デハ203となった。なお、デハ201は1964年に車体に鋼板を貼り付ける簡易鋼体化改造を受けている。
デハ6
山陰中央鉄道時代の1947年より使用。元は名古屋鉄道(名鉄)が尾西鉄道から承継したモ103で1922年日本車輌製。一斉改番でデハ205となった。1962年に簡易鋼体化改造を受けている。
デハ7
山陰中央鉄道時代の1948年より使用。元は静岡鉄道モハ8だが出自は1923年汽車会社製の目黒蒲田電鉄モハ8で、神中鉄道から更に静岡鉄道を経ている。一斉改番でデハ207となった。
付随客車[編集]
附51→フ51
1924年11月より使用開始。定員50人。元は1912年日本車輌製の愛知電気鉄道64号。
フ50
1941年11月より使用開始。定員50人。元は出雲鉄道(のちの一畑電気鉄道立久恵線)ハフ21だが、出自は1887年に英国バーミンガムで製造された鉄道省ハフ4734(詳細下記)。
フ52
1947年11月より使用開始。定員70人。元は1921年製の新宮鉄道の客車。1965年廃車。
フ53
1954年2月デハ1を改造。定員50人。
フ55
1960年8月一畑電気鉄道より譲受。定員50人。元は1928年蒲田車輌製の島根鉄道サハ3。
フニ100
1965年5月一畑電気鉄道より譲受。元は1932年日本車輌製の出雲鉄道のガソリンカーだったが、後にエンジンを撤去されて客車ハニ10となっていた。定員72人。
保存車両[編集]
南部町立西伯小学校で保存されていたデハ203
米子市元町商店街パティオ広場には法勝寺電鉄線で使われたフ50形客車が2001年(平成13年)から保存展示されている。この客車は法勝寺電鉄線廃止後、米子市内の湊山公園で保存展示されていたが荒廃が激しくなったため、2000年(平成12年)に「大正ロマン電車保存事業」として修復が行われた。当初1922年(大正11年)製とされていたが、この際の調査で実は1887年(明治20年)英国バーミンガムで製造され、関西鉄道が1889年(明治22年)に輸入した日本国内現存最古の木造2軸三等客車であることが判明した[24]。関西鉄道の国有化により国鉄の所属となり、払い下げを受けた出雲鉄道を経て1941年に伯陽電鉄に入線したものである[25]。
また、1922年(大正11年)日本車輌製の電車で、元駿遠電気20形・池上電気鉄道乙2のデハ203が南部町立西伯小学校で保存された。
2両とも2011年に「旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道車両 附関連資料一括」として鳥取県保護文化財の指定を受けている。なお、デハ203は2012年度 - 2013年度の間に西日本旅客鉄道(JR西日本)後藤総合車両所で後藤工業[26]による復元作業を実施し[27][28]、南部町公民館の施設で保存されている[29]。
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ ただ、地方の小私鉄がこのような身の丈に合わない社名を冠することは当地に限ったことではなく(近隣では一畑電気鉄道立久恵線の前身・大社宮島鉄道などの例もある)、地元有力者などから建設資金を調達することを主目的に各地で行われていた。
^ 来会雄司「日ノ丸自動車法勝寺鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.89、21頁
^ 『電気事業要覧. 第21回 昭和5年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年11月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第32回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ No.9「動力変更ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年7月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年7月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年8月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正13年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年2月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「伯陽電鉄阿賀母里間鉄道存置方陳情の件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』鉄道省文書には衆議院議員桜内幸雄の名刺が添付されている。
^ 「運輸営業一部休止ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』
^ 山陰鉄道研究会 祖田定一「さよならチンチン電車」(巻末の裏話11)では、長砂駅で一度止まると、加速が付かないことがあり廃駅となったとしている。
^ 「さよならチンチン電車」の記述(巻末の裏話6)では、駅は存在しなかったとしている。難所とされた宗像S字カーブ(長砂との境界線、米子南インター付近)が満員では曲がりきれず、手前の宗形神社前の踏切付近で米子南商業高等学校の生徒を下ろした事が以前駅があったと誤解された原因であろうとしている。
^ No.19「車輌譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.23「米子町大袋間運輸営業開始ノ件」30頁『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.16「電動客車竣功ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.29「客車譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.31「貨車譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.32「貨車譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ 当初の2両以外の竣功届は1928年2月No.6「車輌竣功届出ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・伯陽電鉄・昭和二年~昭和七年』
^ 以前から鉄道史研究者の間では車両竣工図から1887年(明治20年)英国バーミンガム製であるという意見が定着していた。
^ 関西鉄道(9、213-220のうちの1両)→鉄道院(ハフ3237-45のうちの1両客車略図)→鉄道省ハフ4734→出雲鉄道ハフ21→伯陽電鉄(→山陰中央鉄道→日の丸自動車)附50→フ50
^ JR西日本の関連会社であるジェイアール西日本テクノスの子会社。
^ “大正レトロ客車修復 法勝寺鉄道で使用”. 読売新聞 (2014年2月20日). 2014年2月20日閲覧。
^ “法勝寺電車、修復大詰め 南部町住民ら見学”. 日本海新聞 (2014年2月20日). 2014年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月26日閲覧。
^ おかえりなさい!法勝寺電車 - 鳥取県西伯郡・南部町観光協会、2016年6月26日閲覧
参考書籍[編集]
今尾恵介(監修) 『中国 四国』 新潮社〈日本鉄道旅行地図帳 11〉、2009年。ISBN 978-4-10-790029-6。
青木栄一・堤一郎「旧日の丸自動車法勝寺鉄道フ50号木製2軸三等客車の調査とその産業遺産としての意義」『産業考古学』No.118 2006年2月
来会雄司「日ノ丸自動車法勝寺鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.89 1958年12月号
宮崎光雄「日ノ丸自動車を訪ねて」『鉄道ピクトリアル』No.194 1967年3月号
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、pp. 408, 409。ISBN 4-88540-048-1。
祖田定一「さよならチンチン電車 法勝寺電車の記録」1989年5月
祖田定一「法勝寺電車・記録写真集」2002年8月
山陰日日新聞 1957年4月18日夕刊
『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』(国立公文書館 デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』(国立公文書館 デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目[編集]
廃線
日本の廃止鉄道路線一覧
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 日ノ丸自動車中国地方の鉄道路線 (廃止)鳥取県の交通史島根県の交通史
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
米子電車軌道
基本情報
国 日本の旗 日本
所在地 鳥取県米子市
種類 路面電車
開業 1925年3月31日
廃止 1938年12月3日
運営者 米子電車軌道
路線諸元
路線距離 7.7 km
軌間 1,067 mm
線路数 単線
電化方式 直流600V 架空電車線方式
テンプレートを表示
米子電車軌道(よなごでんしゃきどう)は、かつて鳥取県米子市に存在した路面電車路線である。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 運行概要
3 歴史
4 停留所
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
8 脚注
9 参考文献
概要[編集]
[隠す]米子電車軌道
凡例
他線
STR uSTR
灘町線
他線の駅
HST utSTR
中央線
uexSTR
皆生線
lINT
駅
廃止直前の路線網
山陰本線
STR
米子駅前
HST
uSTRq uSTRq uSTRlg
←加茂町
米子銀行前
STR
荒神社前
STR
uSTRq uSTRq uSTRrf
STR
角盤町
境線→
ABZlf STRq STRq uxmKRZ STRq STRq
境線
山陰本線
STR3 uexSTR
皆生温泉
灘町線
STR
伯陽電鉄
KHSTe
米子市/米子
山陰本線
ABZq+l STRq STRq STRq STRq STRq HSTq
山陰本線
境線↓
STR
0.0 米子駅前
STR
0.3 茶町
STR
0.5 東町
←皆生線
STR
0.8 加茂町
角盤町 3.3
emKRZ
utSTRq uLSTRq utSTRq
←中央線
女学校前 3.0
STR2 STRc3
1.0 西町
錦町 2.8
STRc1 STR+4
1.3 公園前
後藤駅
STR uSTR
1.6 錦海
後藤駅前 2.5?
HST uSTRlf
uSTRrf
1.9 荒神社前
境線
2.2? ←境街道
皆生線
中央線
中央線↑
utSTR
uSTRlg
0.0 加茂町
灘町線→
uSTRq
uLSTR
0.2?(名称不明)
角盤町 0.0
uLSTR
0.3? 米子銀行前
境線
uxmKRZ
uSTRrf
灘町線→
米川 0.8
0.7 角盤町
四軒家 1.3
uexSTR
↓皆生線
前地 1.8
上福原 2.3
大境 2.7
新田 3.3
皆生温泉 3.5
(I) -1927
uexSTR
皆生温泉 (II) 3.7
(II) 1927-
皆生温泉の開発会社皆生温泉土地[1](現、皆生温泉観光)は1921年11月に優秀な温泉源を掘り当て、これにより1922年から温泉旅館が次々と開業した。米子への連絡道はまだ拡幅整備中であったが、同年7月より米子駅前から温泉地まで一日15往復のバスの運行をはじめた。しかしこのフォード製12人乗り幌型自動車はよく故障し、1日1便という日もあり会社を悩ませた。はやくも翌年3月には赤字により車両全部を山陰タクシーに売却してしまった。
1923年皆生温泉土地社長の有本松太郎の政友会同志である遠藤光徳が県会議員に当選した。遠藤は会社の取締役に就任し、米子-皆生間の新道(皆生通り)を県費で建設することを実現させた。これに便乗して新たに企画されたのが電気軌道であり、7月には軌道敷設の特許が下付された、この設立した子会社が米子電車軌道[2]である。
1925年に初の路線を開業させ、翌年に米子駅前までの乗り入れを果たし、さらに1928年には市街地の買収が難航していたため迂回していた加茂町 - 角盤町間の短絡線も開通した。
しかし皆生温泉の知名度が当時低かったことや、昭和恐慌の影響で湯治客が減るなど、赤字経営が続いた[3]。親会社の皆生温泉土地も1931年には減資の憂き目に遭い[4]、1934年には経営陣が変わるほどであった。
その後、陸軍の命令で陸軍米子飛行場(現・陸上自衛隊米子駐屯地)が建設されることになり、そのための資材を運搬する道路と軌道が交差し貨物輸送の障害になるという理由[5]で、1938年に軌道は撤去された。車両は小倉電気軌道(のちの西鉄北方線)に譲渡され、13 - 17となった。
なお会社は米子交通[6]というバス会社に改められ[7]、1949年には日ノ丸自動車に合併した。
路線データ[編集]
廃線当時
路線距離:総延長7.7km
米子駅前 - 皆生温泉間7.0km
加茂町 - 角盤町間0.7km
軌間:1067mm
電化方式:直流600V
角盤変電所、電動発電機(交流側2000V直流側600V)直流側の出力100KW、常用1、製造所川北電機製作所
同上、電動発電機(交流側2000V直流側600V)直流側の出力50KW、予備2、製造所川北電機製作所[8]
複線区間:なし(全線単線)
運行概要[編集]
1933年7月6日改正当時
運行本数:7時から20時台までおよそ30分間隔
系統:米子駅前 - 公園前 - 皆生温泉、米子駅前 - 米子銀行前 - 角盤町
所要時間:米子駅前 - 皆生温泉間32分
歴史[編集]
1923年7月26日 軌道特許状下付(西伯郡米子町角盤町-同郡福生村大字皆生間、同郡成実村西大谷-同郡米子町-同郡成実村大字西大谷間、同郡米子町加茂町-同町角盤町間)[9]
1925年3月31日 角盤町(本社前) - 皆生温泉間3.7km開業
1926年1月28日 米子駅前 - 加茂町 - 後藤駅前 - 角盤町間3.3km開業
1928年1月24日 加茂町 - 角盤町間0.7km短絡線開業
1928年12月27日 鉄道免許状下付(西伯郡福米村-同郡境町間)[10]
1929年5月27日 自動車部を設置[11]。
1930年4月4日 軌道特許失効(米子市角盤町-同市西大谷間)[12]
1931年9月16日 軌道起業廃止許可(米子市角盤町-西伯郡福米村間)[13]
1936年6月12日 鉄道起業廃止許可(西伯郡福米村-同郡境町間)[14]
1938年11月27日 全線の運行を停止
1938年12月3日 営業廃止[15]
停留所[編集]
米子駅前 - 茶町 - 東町 - 加茂町 - 西町 - 公園前 - 錦海 - 荒神社前 - 境街道 - 後藤駅前 - 錦町 - 女学校前 - 角盤町 - 富士見町* - 米川 - 四軒家 - 前地 - 上福原 - 大境 - 新田 - 皆生温泉
加茂町 - 米子銀行前 - 角盤町
*は路線廃止に先だって廃止
接続路線[編集]
米子駅前:山陰本線・境線・伯陽電鉄(米子駅)
後藤駅前:境線(後藤駅)
輸送・収支実績[編集]
年度 旅客人員(人) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 支払利子(円) その他益金(円) その他損金(円)
1925(大正14)年 187,985 19,544 14,476 5,068
1926(昭和元)年 445,071 45,304 33,050 12,254 6,392 12,379
1927(昭和2)年 393,741 42,731 33,221 9,510 15,877 雑損665
1928(昭和3)年 425,123 51,629 28,500 23,129 34,510
1929(昭和4)年 544,933 46,662 37,008 9,654 35,008 自動車106
1930(昭和5)年 511,999 41,570 38,476 3,094 17,793 自動車37
1931(昭和6)年 451,250 34,608 32,101 2,507 7,397 自動車355 償却金3,000
1932(昭和7)年 459,881 35,549 41,211 ▲ 5,662 9,192 自動車6,617
1933(昭和8)年 300,314 24,378 25,000 ▲ 622 7,073 自動車807
1934(昭和9)年 241,352 20,003 16,691 3,312 6,553 償却金158、自動車36
1935(昭和10)年 223,181 18,810 15,039 3,771 3,733 自動車38
1936(昭和11)年 275,721 21,382 15,642 5,740 898 雑益金11,962 償却金15,274、雑損1,530
1937(昭和12)年 285,106 23,666 16,832 6,834 894 償却金5,864、雑損76
大正14年度は鉄道省鉄道統計資料、昭和元年度以降は鉄道統計資料より(国立国会図書館デジタルコレクション)
車両[編集]
開業時には梅鉢製の木製単車(1号)と岡山電気軌道より譲渡された木製単車(2号)の2両が用意された。1926年度には木製単車2両(3.5号)[16]を梅鉢に注文した。さらに1928年度に木製単車(6.7号)を新製し計6両となった。1937年度に1両が廃車され、残った5両は廃線後小倉電気軌道に譲渡され13-17号となった。
脚注[編集]
^ 『日本全国諸会社役員録. 第32回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 当初は米子電気軌道であったが12月に商号変更した
^ 1928年に大旅館の大山館、富士見館が休業になり、また皆生温泉の人口が大正15年末の700人だったのが昭和6年末に570人に芸妓酌婦の数が60人から30人に減少した。
^ 1926年に増資した3万円のうち未払いの22,500円を中止したもの(資本金207,500円)
^ 米子飛行場は1938年6月に落成式を挙行したが当初は軍の飛行場ではなく逓信省所轄の民間用公共飛行場であった。当時中国地方唯一の飛行場であったので陸軍が隣接地を1937年11月に買収し、工事を始めていた。『米子自治史』835 - 838頁
^ 『日本全國銀行會社録. 第48回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 乗合自動車業は1929年7月2日より米子 - 境間の営業を開始していた。『米子自治史』839頁
^ 『広島逓信局管内電気事業要覧. 第12回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1923年7月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1929年1月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 1935年当時の開業キロは22km、保有車両は1台であった。『全国乗合自動車業者名簿 : 昭和10年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道一部失効」『官報』1930年4月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道一部起業廃止」『官報』1931年9月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道起業廃止」『官報』1936年6月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道営業廃止実施」『官報』1939年1月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 5号電車形式図『最新電動客車明細表及型式図集』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』11 中国四国、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790029-6。
皆生温泉観光株式会社編『五十年のあゆみ』皆生温泉観光、1974年
和久田康雄『日本の市内電車-1895-1945-』成山堂書店 、2009年、112 - 113頁
『新修米子市史 第3巻 通史編 近代』2007年、327 - 329頁
『新修米子市史 第10巻 資料編 近代』2005年、372 - 373頁 -「米子電気軌道株式会社創立趣意書」
『米子自治史』1939年、835-839頁
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表 話 編 歴
日本の路面電車
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日ノ丸自動車法勝寺電鉄線
曖昧さ回避 「山陰中央鉄道」はこの項目へ転送されています。同社が運営していたもう一方の路線である広瀬線については「一畑電気鉄道広瀬線」をご覧ください。
法勝寺電鉄線
米子市内に保存されているフ50客車(#保存車両も参照)
米子市内に保存されているフ50客車
(#保存車両も参照)
概要
現況 廃止
起終点 起点:米子市駅(本線)、阿賀駅(母里支線)
終点:法勝寺駅(本線)、母里駅(母里支線)
駅数 10駅(本線)、5駅(母里支線・阿賀駅は本線のみに計上)
運営
開業 1924年7月8日
廃止 1967年5月15日
所有者 法勝寺鉄道→伯陽電鉄→
山陰中央鉄道→日ノ丸自動車
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 12.4 km (7.7 mi) (米子市-法勝寺間)
5.5 km (3.4 mi) (母里支線)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
米子電車軌道:灘町線
uexSTR
国鉄:境線
STR
米子駅前
ABZqr
米子
HUB
←国鉄:山陰本線→
HUBlf
0.0 米子市
exBHF
1.1 長砂
exBHF
2.3 宗形神社前
exBHF
2.8 安養寺
exBHF
4.2 青木
exWBRÜCKE
法勝寺川
exBHF
5.6 大袋
exBHF
7.4 手間
exBHF
9.2 天津
exBHF
10.7
0.0
阿賀
exSTRrg exABZrf
←母里支線 -1959
exSTR exBHF
11.7 大国
exSTR exKBHFe
12.4 法勝寺
exWBRÜCKE
法勝寺川
exBHF
0.8 原
exBHF
1.3 猪小路
exBHF
与一谷
extSTRa
二重トンネル
extSTR+GRZq
鳥取島根県境
extSTRe
exBHF
不動尊
exKBHFe
5.5 母里
法勝寺電鉄線(ほっしょうじでんてつせん)は、かつて鳥取県米子市と同県西伯郡西伯町法勝寺(現・南部町)の間を結んでいた、日ノ丸自動車が運営していた鉄道路線である。
1924年(大正13年)に法勝寺鉄道という名前で開業し、地元では、開業当時の名前から「法勝寺電車」と呼ばれることが多かった。その後伯陽電鉄に社名を改めている。ちなみにこの社名は伯耆と山陽の頭文字からとったものだが、1928年(昭和3年)には鉄道省が伯備線を全通させており、本気で山陽側まで路線を延長させるつもりであったかは極めて疑わしい[1]。結局、山陽地方への延長は行われなかったものの、同規模の地方鉄道にしては珍しく鳥取県から県境を越えて島根県の母里(現・安来市)までの母里支線を開業させている。しかしながら母里支線の営業成績は芳しくなく、不要不急路線に指定され開業から僅か14年の短命に終わった。
その後山陰中央鉄道を経て、1953年(昭和28年)に地元のバス会社である日ノ丸自動車へ吸収合併され、1960年代のモータリゼーションの進行に勝てず廃止となった。この結果、国鉄伯備線などが電化される1982年(昭和57年)まで、鳥取県には電化された鉄道路線が消滅することとなった。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 電動車
7.2 付随客車
7.3 保存車両
8 脚注
9 参考書籍
10 関連項目
路線データ[編集]
※本線・母里支線とも廃止直前のデータ。
路線距離(営業キロ):本線12.4km、母里支線5.5km
軌間:1067mm
駅数:本線10駅、母里支線5駅(起終点駅含む。阿賀駅は本線のみに計上)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V)
手間変電所[2]。以前は安養寺変電所、回転変流器(交流側450V直流側600V)直流側の出力100KW、常用1、予備1、製造所明電舎[3]
閉塞方式:
運行形態[編集]
1959年(昭和34年)時点で、米子市 - 法勝寺間は1日15往復、おおむね約60分毎の運転だった。
歴史[編集]
1922年(大正11年)
11月16日: 法勝寺軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(西伯郡米子町-同郡法勝寺村間 動力蒸気)[4]
12月28日: 法勝寺鉄道株式会社設立[5][6]
1923年(大正12年)7月17日:動力を電気に変更[7]
1924年(大正13年)
7月8日 : 法勝寺鉄道 米子町(後の米子市) - 大袋間開業(旅客運輸)[8]
7月18日: 鉄道免許状下付(西伯郡法勝寺村-能義郡井尻村間)[9]
8月12日 : 大袋 - 法勝寺間開業(旅客運輸)[10]
1925年(大正14年)2月12日 : 伯陽電鉄に社名変更[11]
1927年(昭和2年) : 米子町駅を米子市駅に改称
1930年(昭和5年)1月1日 : 阿賀 - 母里間の支線を開業[12]
1937年(昭和12年)以降 : 与一谷駅、不動尊駅廃止
1944年(昭和19年)
2月11日 : 阿賀 - 母里間の支線を休止
10月31日 : 伯陽電鉄と広瀬鉄道が合併し、山陰中央鉄道となる。前者は法勝寺線・後者は広瀬線となる
1948年(昭和23年)4月1日 : 広瀬線を島根鉄道(後に一畑電気鉄道に合併)として分離
1951年(昭和26年)12月20日 : 大国駅開業
1952年(昭和27年)- 1966年(昭和41年)頃 : 宗形神社前駅廃止
1953年(昭和28年)9月15日 : 日ノ丸自動車が山陰中央鉄道を吸収合併。同社の法勝寺電鉄線となる
1957年(昭和32年)4月18日 : 朝6時20分頃、長砂地内S字カーブ(現在の米子南インターチェンジ付近)に於いて法勝寺駅5:48発の一番電車が米子市駅6:14発の回送電車と正面衝突、7名重軽傷
1959年(昭和34年)9月17日 : 休止中の阿賀 - 母里間を廃止
1967年(昭和42年)5月15日 : 米子市 - 法勝寺間全線廃止
阿賀母里間の路線は当初廃止の方針であった。ところが代替輸送機関がないため地元では反対運動が起き陳情のため母里村長が監理局長と面接することになった[13]。その後伯陽電鉄は営業廃止許可申請を取下げることになり鉄道軌道統制会により営業休止許可となった[14]。
駅一覧[編集]
※廃止直前のデータ(ただし*印を付けた駅は廃線以前に廃駅)
米子市駅 - 長砂駅*[15] - 宗形神社前駅*(実在したか不明)[16] - 安養寺駅 - 青木駅 - 大袋駅 - 手間駅 - 天津駅 - 阿賀駅 - 大国駅 - 法勝寺駅
支線:阿賀駅 - 原駅 - 猪小路駅 - 隧道口東駅(与一谷駅とも)* - 不動尊駅* - 母里駅
接続路線[編集]
米子市駅:国鉄山陰本線・境線(米子駅)・米子電車軌道(米子駅前、1925-1938年) - 米子市駅と国鉄米子駅は徒歩で10分はかかったという。
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1924 123,103 - 19,316 11,823 7,493 雑損334 37,929
1925 284,894 938 49,852 55,094 ▲ 5,242 雑損14,388 85,293 40,831
1926 305,174 1,637 56,569 40,103 16,466 雑損40,863 54,330 38,414
1927 297,537 1,618 53,232 40,197 13,035 償却金2,000
雑損795 48,368 39,154
1928 264,285 1,944 47,219 36,904 10,315 償却金その他1,681 42,928 39,438
1929 248,484 2,554 45,494 30,837 14,657 雑損183 58,674 39,563
1930 245,870 1,954 47,061 43,262 3,799 自動車業1,478
雑損14,031 71,620 49,045
1931 211,692 2,191 40,300 32,218 8,082 自動車業3,230
雑損26,257 67,503 56,243
1932 195,564 1,558 67,735 31,220 36,515 雑損30,235 60,552 53,944
1933 214,207 3,199 41,324 32,782 8,542 自動車1,502 雑損14,318 58,937 63,075
1934 230,611 5,017 45,990 34,634 11,356 雑損23,969
自動車業2,379 36,992 49,478
1935 223,007 4,354 43,051 40,718 2,333 債務免除金30,637 自動車業2,973
雑損償却金14,440 16,669 22,141
1936 216,855 4,993 42,485 40,568 1,917 自動車業2,029
雑損償却金22,644 1,783 22,412
1937 221,169 4,659 42,648 39,702 2,946 自動車業35 自動車業323
雑損298
償却金21,680 1,472 19,909
1939 326,522 9,988
1941 585,738 14,032
1952 742,831 5,513
1955 868千 5,104
1958 983千 4,964
1960 1,052千 3,791
1962 1,072千 4,598
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、地方鉄道統計年報、私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
開業時に用意された車両は愛知電気鉄道より購入した並等電動客車9・11号(名古屋電車製作所)[17][18][19]。さらに開業後愛知電気鉄道より電動客車12号、附随客車64号[20]を、上州鉄道より有蓋貨車ワ3・4[21]近江鉄道より無蓋貨車ト9・14[22]を購入。1924年度末の車両は電動客車3両、附随客車1両、有蓋貨車2両、無蓋貨車2両[23]
電動車[編集]
電1 -電3→ デハ1 - デハ3
単車で元愛知電気鉄道9・11・12。名古屋電車製作所製。開業時2両、少し遅れて1両を購入した。1950年にデハ2が廃車、1954年にデハ1が客車フ53に改造された。1958年4月23日の一斉改番でデハ3がデハ209となったが、同年11月27日に廃車となっている。
デハ4・デハ5
ボギー車で伯陽電鉄時代の1930年より使用(正式な譲受は1931年)。元は池上電気鉄道が駿遠電気から譲受したデハ1・デハ2で名目上は1922年日本車輌製となっている。一斉改番でデハ201・デハ203となった。なお、デハ201は1964年に車体に鋼板を貼り付ける簡易鋼体化改造を受けている。
デハ6
山陰中央鉄道時代の1947年より使用。元は名古屋鉄道(名鉄)が尾西鉄道から承継したモ103で1922年日本車輌製。一斉改番でデハ205となった。1962年に簡易鋼体化改造を受けている。
デハ7
山陰中央鉄道時代の1948年より使用。元は静岡鉄道モハ8だが出自は1923年汽車会社製の目黒蒲田電鉄モハ8で、神中鉄道から更に静岡鉄道を経ている。一斉改番でデハ207となった。
付随客車[編集]
附51→フ51
1924年11月より使用開始。定員50人。元は1912年日本車輌製の愛知電気鉄道64号。
フ50
1941年11月より使用開始。定員50人。元は出雲鉄道(のちの一畑電気鉄道立久恵線)ハフ21だが、出自は1887年に英国バーミンガムで製造された鉄道省ハフ4734(詳細下記)。
フ52
1947年11月より使用開始。定員70人。元は1921年製の新宮鉄道の客車。1965年廃車。
フ53
1954年2月デハ1を改造。定員50人。
フ55
1960年8月一畑電気鉄道より譲受。定員50人。元は1928年蒲田車輌製の島根鉄道サハ3。
フニ100
1965年5月一畑電気鉄道より譲受。元は1932年日本車輌製の出雲鉄道のガソリンカーだったが、後にエンジンを撤去されて客車ハニ10となっていた。定員72人。
保存車両[編集]
南部町立西伯小学校で保存されていたデハ203
米子市元町商店街パティオ広場には法勝寺電鉄線で使われたフ50形客車が2001年(平成13年)から保存展示されている。この客車は法勝寺電鉄線廃止後、米子市内の湊山公園で保存展示されていたが荒廃が激しくなったため、2000年(平成12年)に「大正ロマン電車保存事業」として修復が行われた。当初1922年(大正11年)製とされていたが、この際の調査で実は1887年(明治20年)英国バーミンガムで製造され、関西鉄道が1889年(明治22年)に輸入した日本国内現存最古の木造2軸三等客車であることが判明した[24]。関西鉄道の国有化により国鉄の所属となり、払い下げを受けた出雲鉄道を経て1941年に伯陽電鉄に入線したものである[25]。
また、1922年(大正11年)日本車輌製の電車で、元駿遠電気20形・池上電気鉄道乙2のデハ203が南部町立西伯小学校で保存された。
2両とも2011年に「旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道車両 附関連資料一括」として鳥取県保護文化財の指定を受けている。なお、デハ203は2012年度 - 2013年度の間に西日本旅客鉄道(JR西日本)後藤総合車両所で後藤工業[26]による復元作業を実施し[27][28]、南部町公民館の施設で保存されている[29]。
脚注[編集]
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^ ただ、地方の小私鉄がこのような身の丈に合わない社名を冠することは当地に限ったことではなく(近隣では一畑電気鉄道立久恵線の前身・大社宮島鉄道などの例もある)、地元有力者などから建設資金を調達することを主目的に各地で行われていた。
^ 来会雄司「日ノ丸自動車法勝寺鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.89、21頁
^ 『電気事業要覧. 第21回 昭和5年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年11月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第32回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ No.9「動力変更ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年7月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年7月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年8月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正13年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年2月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「伯陽電鉄阿賀母里間鉄道存置方陳情の件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』鉄道省文書には衆議院議員桜内幸雄の名刺が添付されている。
^ 「運輸営業一部休止ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』
^ 山陰鉄道研究会 祖田定一「さよならチンチン電車」(巻末の裏話11)では、長砂駅で一度止まると、加速が付かないことがあり廃駅となったとしている。
^ 「さよならチンチン電車」の記述(巻末の裏話6)では、駅は存在しなかったとしている。難所とされた宗像S字カーブ(長砂との境界線、米子南インター付近)が満員では曲がりきれず、手前の宗形神社前の踏切付近で米子南商業高等学校の生徒を下ろした事が以前駅があったと誤解された原因であろうとしている。
^ No.19「車輌譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.23「米子町大袋間運輸営業開始ノ件」30頁『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.16「電動客車竣功ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.29「客車譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.31「貨車譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ No.32「貨車譲受使用ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』
^ 当初の2両以外の竣功届は1928年2月No.6「車輌竣功届出ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・伯陽電鉄・昭和二年~昭和七年』
^ 以前から鉄道史研究者の間では車両竣工図から1887年(明治20年)英国バーミンガム製であるという意見が定着していた。
^ 関西鉄道(9、213-220のうちの1両)→鉄道院(ハフ3237-45のうちの1両客車略図)→鉄道省ハフ4734→出雲鉄道ハフ21→伯陽電鉄(→山陰中央鉄道→日の丸自動車)附50→フ50
^ JR西日本の関連会社であるジェイアール西日本テクノスの子会社。
^ “大正レトロ客車修復 法勝寺鉄道で使用”. 読売新聞 (2014年2月20日). 2014年2月20日閲覧。
^ “法勝寺電車、修復大詰め 南部町住民ら見学”. 日本海新聞 (2014年2月20日). 2014年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月26日閲覧。
^ おかえりなさい!法勝寺電車 - 鳥取県西伯郡・南部町観光協会、2016年6月26日閲覧
参考書籍[編集]
今尾恵介(監修) 『中国 四国』 新潮社〈日本鉄道旅行地図帳 11〉、2009年。ISBN 978-4-10-790029-6。
青木栄一・堤一郎「旧日の丸自動車法勝寺鉄道フ50号木製2軸三等客車の調査とその産業遺産としての意義」『産業考古学』No.118 2006年2月
来会雄司「日ノ丸自動車法勝寺鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.89 1958年12月号
宮崎光雄「日ノ丸自動車を訪ねて」『鉄道ピクトリアル』No.194 1967年3月号
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、pp. 408, 409。ISBN 4-88540-048-1。
祖田定一「さよならチンチン電車 法勝寺電車の記録」1989年5月
祖田定一「法勝寺電車・記録写真集」2002年8月
山陰日日新聞 1957年4月18日夕刊
『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・伯陽電鉄(元法勝寺鉄道)・大正十一年~大正十五年』(国立公文書館 デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・山陰中央鉄道(元広瀬鉄道)・昭和四年~昭和十九年』(国立公文書館 デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目[編集]
廃線
日本の廃止鉄道路線一覧
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