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セキ 囲碁 - 検索
日本囲碁連盟 囲碁用語 より 引用
セキ
漢字で「持」と書く。
お互いに相手の石を取りに行こうとすると、逆に自分のほうが取られるので、どちらも手が出せずに生きを保っている状態。
眼のない石同士のセキ、一眼ある石同士のセキ、地になるセキなどがある。
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。
碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。
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面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。
相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。
『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。
対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。
一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
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一局の碁をお楽しみください。
当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
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オススメするネット囲碁対局場3選
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
セキ (囲碁)
囲碁において、セキとは、相手の石を取ろうとすると自分の石が取られてしまうような、お互いに手を出せない状態をいう。
目次 [非表示]
1 概要
2 セキのいろいろ
3 セキ崩れ
4 関連項目
概要[編集]
上図において、黒が内側の白石を取るためにaに打てば白がbに打ち、黒番がbに打てば白番がaに打つことで、逆に内側の黒石が全て取られてしまう。また、白が黒石を取りにいこうとしても、同じように白石の方が取られてしまう。
このように、石を取りに行った方が逆に取られてしまうために両者とも手が出せない状態をセキという。セキは両方の石が生きていると考えられる。また、この図のようなaやbは白黒どちらの地にも数えられない。
現行の日本囲碁規約においては、より一般的な定義がなされている。囲碁のルールを参照のこと。
セキのいろいろ[編集]
白がaやbに詰めると黒に取られて生きとなり、黒からa・bの両方に詰めると白△で三目ナカデの死にとなる(一つでも詰めるとその時点で黒死)。従って双方とも手出しができず、セキとなる。
上図のようにコウが2つある場合、白がaに取ると黒はbに取り返すことができるため、どちらも全体が取られることがない。このため双方ともセキ生きとして扱われる(両コウセキ)。
両者が一眼ずつを持ち、aのように内ダメがある場合はどちらからも相手を取りに行けず、これもセキとなる。
これも両者が手出しできず、セキの形。
白地は一見完全に見えるが、周りのダメが詰まると黒1から3の手段が生ずる。両者手出しできず。これもセキ。白は生きてはいるが、地がゼロになってしまう。
セキ崩れ[編集]
この場合△のついた石はセキの関係にあるが、それを包囲する右側の白石に眼がないため、いずれ白が全て取られてしまうことになる。これをセキ崩れと呼ぶ。
また一見セキに見えるが、死にになる形として「隅のマガリ四目」がある。詳しくは該当項目参照。
関連項目[編集]
死活
ツークツワンク:チェスにおける似た状況。ただしチェスにはパスがないので、状況を悪化させる手を指さねばならない。
門司築港
(門築土地鉄道から転送)
[隠す]門司築港(軌道線)
路線総延長 3.3 km
軌間 1435 mm
電圧 600 V(直流)
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
uexKHSTa
門司
uexSTR
九軌:北九州本線
uexBHF
0.0 東本町
uexABZrf
九軌:北九州本線
uexBHF
? 日ノ出町二丁目
uexBHF
? 日ノ出町四丁目
uexBHF
0.8* 日ノ出町九丁目
uexBHF
? 大久保越
uexBHF
? 大久保海岸
uexBHF
? 新開
uexKBHFe
3.3 田ノ浦
* 西日本鉄道HPより[1]
[隠す]門司築港(鉄道線)
路線総延長 1.55 km
軌間 1067 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
国鉄:鹿児島本線
KHSTxe
門司港駅
exSTR
国鉄:鹿児島本線貨物支線
exDST
0.0 外浜駅
exKDSTe
1.55 門築大久保駅
門司築港(もじちっこう)は、かつて大正から昭和初期にかけて福岡県門司市(現・北九州市)で路面電車を運営していた事業体である。もともと門司市の大久保・田ノ浦地区活性化開発を行うために設立されたのが同社で、その一環として電車を運行した。門築電車(もんちくでんしゃ)とも呼ばれた。
しかし営業は芳しくなく、末期になると九州電気軌道(現・西日本鉄道)に経営を委託して同社の田ノ浦線(たのうらせん)となっていた。また委託後には九州電気軌道線(後の西鉄北九州線)に乗り入れ、門司発着となっていた。
また、田野浦公共臨港鉄道の前身となる日本国有鉄道(国鉄)外浜駅から門築大久保駅までの鉄道線も営業していた。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 歴史
3 軌道線
3.1 停留所
3.2 接続路線
4 鉄道線
4.1 駅一覧
4.2 接続路線
5 輸送・収支実績
6 車両
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
路線データ[ソースを編集]
1932年当時
軌道線
路線距離:2.5km(日ノ出町九丁目 - 田ノ浦)
停留所数:5
軌間:1435mm
電化区間:全線直流600V
鉄道線
路線距離:1.55km(外浜 - 門築大久保)
軌間:1067mm
電化区間:なし
歴史[ソースを編集]
門司築港は大阪の相場師宮崎敬介[2]と島徳蔵[3]の発起により大久保・田野浦地区の開発を目的とし、その付帯事業として1919年(大正8年)に門司市大字門司字大久保-企救村間(小倉鉄道石田停車場 )、霧岳村-曽根村間(豊州本線曽根停車場)の企救半島の南側に軽便鉄道敷設を出願した。1920年(大正9年)門司築港株式会社[4]を設立。同年4月に鉄道敷設免許状が下付された。ところが設立早々出資者から杜撰な土地開発計画と資金使途が不明であるとして宮崎、島が詐欺横領背任罪として1921年告発され[5][6][7]、翌年に不起訴になる[8]という騒動があった。実際この路線は筑豊炭田から築造中の大久保埠頭への石炭輸送が目的でありながら連携輸送を考えていた小倉鉄道は東小倉に専用桟橋をもっており、増産されない限り、輸送量を確保する見込みはなかった。しかし完成した大久保埠頭を遊ばせる訳も行かず大久保から門司駅貨物線の外浜荷扱所までの延長線[9]を建設することとし既免許線は放置された[10]。
この延長線は農林省の食料備蓄倉庫が大久保埠頭に建設されることになり陸上輸送路として貨物線が必要とされたためといわれる。1927年-1928年にかけて国立米穀倉庫[11]が完成し、貨物線は1929年(昭和4年)2月に開業した。もっとも貨物(米穀類)の輸送量は農林省の計画により左右されているため業績は不安定であった。戦時中は好況だったものの1955年以降はトラック輸送に移り貨物線の地位も低下した。そんなとき朝鮮動乱時に米軍が門司港の第1・2号埠頭を接収したため1954年(昭和29年)より運輸省の田野浦地区港湾整備事業が実施されることになった。1960年(昭和35年)4月貨物線とその施設は買収されることになり門司市(北九州市)が管理運営することとなる。会社は5月に門築産業株式会社に名称変更し、事業目的を自動車運送、不動産、食品販売、株式取引等に変更した。
一方の鉄道線とは別に開発地区と市街地の間の交通確保の必要から軌道線を敷設し九州電気軌道と連絡することにして1922年(大正11年)に軌道敷設特許状が下付された。この軌道建設に尽力したのが取締役に加わった五島慶太[12]である。五島の取締役就任は監査役の京阪電気鉄道の太田光凞の依頼によるもので、太田は「駆け出しの後輩に活躍の場を与え[13]」るため会社の経営をまかせたとされる。
1920年(大正9年)3月25日 門司築港株式会社設立(本社大阪北浜)[14][15]。
1920年(大正9年)4月28日 鉄道免許状下付(門司市-企救郡霧岳村間、企救郡企救町-同郡曾根村間 動力蒸気)[16]
1922年(大正11年)9月1日 軌道特許状下付(門司市日出町-同市田ノ浦間 動力電気)[17]
1923年(大正12年)12月20日 日ノ出町九丁目 - 田ノ浦間及び九州電気軌道日ノ出町九丁目-東本町三丁目間開業[18]。
1926年(大正15年)8月19日 軌道特許状下付(門司市大字田ノ浦-同市大字門司間)[19]
1929年(昭和4年)2月13日 門司(現・門司港) - 門築大久保間開業(軌間1067mm 貨物線)[20]。
1930年(昭和5年)4月1日 門司 - 門築大久保間に外浜駅開業。門司 - 外浜間が国鉄鹿児島本線貨物支線となる。
1932年(昭和7年)12月21日 日ノ出町九丁目 - 田ノ浦間を九州電気軌道に運営委託[15]、同社の田ノ浦線となる。
1936年(昭和11年)1月11日 日ノ出町九丁目 - 田ノ浦間及び九州電気軌道日ノ出町九丁目-東本町三丁目間廃止[21]。
1936年(昭和11年)4月1日 起業廃止(許可)(1926年8月19日特許 門司市大字田ノ浦-同市大字門司間)[22]
1943年(昭和18年)12月 門築土地鉄道株式会社に社名変更。
1949年(昭和24年)2月15日 起業廃止(許可)(1920年4月28日免許)
1960年(昭和35年)4月15日 外浜 - 門築大久保間廃止。門司市が譲り受け市営田野浦公共臨港鉄道となる。
1960年(昭和35年)5月24日 門築産業株式会社に社名変更。
軌道線[ソースを編集]
停留所[ソースを編集]
1936年当時
(門司) - 東本町 - 日ノ出町二丁目 - 日ノ出町四丁目 - 日ノ出町九丁目 - 大久保越 - 大久保海岸 - 新開 - 田ノ浦
門司 - 東本町間は九州電気軌道北九州本線に乗り入れ
接続路線[ソースを編集]
東本町:九州電気軌道北九州本線
鉄道線[ソースを編集]
駅一覧[ソースを編集]
廃止時
外浜駅 - 門築大久保駅
接続路線[ソースを編集]
外浜駅:国鉄鹿児島本線貨物支線
輸送・収支実績[ソースを編集]
軌道線
年度 輸送人員(人) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円)
1924 686,530 62,159 51,014 11,145
1925 749,892 60,064 62,766 ▲ 2,702
1926 787,787 65,342 50,345 14,997 300,000 償却金450,000
1927 804,157 70,312 45,682 24,630 雑損172
1928 838,452 66,812 41,727 25,085 雑損273
1929 820,327 55,219 41,075 14,144 地方鉄道5,266 雑損3,041
1930 693,947 44,792 50,134 ▲ 5,342 地方鉄道4,468
1931 400,510 22,811 36,139 ▲ 13,328 地方鉄道10,937 雑損15,872
1932 297,195 18,587 40,083 ▲ 21,496 地方鉄道848 土地建物1,180
鉄道線(貨物線)
年度 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円)
1929 13,122 8,042 5,266 2,776 11,103
1930 2,921 1,983 4,551 ▲ 2,568 軌道業7,090雑損151
1931 24,718 14,334 5,775 8,559 軌道業10,950雑損15,872
1932 25,741 8,048 7,199 849 軌道土地業22,677
1933 52,505 18,625 11,385 7,240 土地建物1,575雑損50,624
1934 87,018 27,620 13,729 13,891 土地建物5,134 雑損償却金13,509
1935 93,936 34,556 12,260 22,296 土地建物業5,364雑損償却金13,259
1936 89,675 29,988 11,718 18,270 軌道業その他1,376,297償却金185,541
1937 101,325 29,659 18,570 11,089 土地建物業38,016
1939 122,987
1941 175,276
1943 281,925
1945 80,830
1949 107,017
1952 92,339
1958 58,660
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版
車両[ソースを編集]
軌道線 すべて木製2軸車
1-3 1923年岡部鉄工所製、定員40人
4・5 1924年阪神急行電鉄から購入。元成宗電気軌道定員40人。
6・7 1930年大阪市より購入。元大阪市電202・284号
九州電気軌道に委託後全車東邦電力(後の西鉄福岡市内線)へ売却。1-3→89-87、4・5→86・85、6・7→84・83[23]となる。
脚注[ソースを編集]
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^ 鉄道路線の歴史「北九州線(九州電気軌道)」 - 西日本鉄道
^ 『財界楽屋新人と旧人』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『財界楽屋新人と旧人』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 同名会社が1913年に鉄道免許状(門司市大字田ノ浦-企救郡曾根村間 動力蒸気)(「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年11月28日)が下付されたが失効(「鉄道免許失効」『官報』1916年1月19日)している。こちらの発起人は門司市及び沿線地方の資産家であった。
^ 「門司築港訴訟の事件から大政党の醜事暴露 宮崎敬介氏が築港会社の巨額の利益金を渡した先々不払事件が端緒で判明」東京朝日新聞 1921年9月20日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
^ 「長居は無用と社長までが逃出した 『門司築港』は創立の時から矛盾だらけ」大阪朝日新聞 1921年9月20日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
^ 「島、宮崎両氏を更に追告発す」大阪朝日新聞 1921年9月27日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
^ 「門築事件は不起訴」東京朝日新聞1922年9月16日聞蔵IIビジュアル
^ 『鉄道統計資料. 昭和2年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 1949年2月15日 起業廃止(許可)「門司築港(軌道線)・門築土地鉄道沿革史 前編」66頁
^ 国立米穀倉庫写真『門司市史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第31回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 小川功「京阪グループの系譜」『鉄道ピクトリアル』No.695、118頁
^ 『日本全国諸会社役員録。 第29回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道。 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年4月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1922年9月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正12年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1926年8月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年2月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道統計資料. 昭和10年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道起業廃止」『官報』1936年4月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 柴田東吾「車両履歴から見た西鉄の路面電車」『鉄道ピクトリアル』No.847
参考文献[ソースを編集]
谷口良忠「門司築港(軌道線)・門築土地鉄道沿革史」『鉄道ピクトリアル』No.502-503
和久田康雄『日本の市内電車 -1895 - 1945-』成山堂書店、2009年
『海峽大觀 : 関門海峽及北九州の對外的發展と其將来』(国立国会図書館デジタルコレクション)
関連項目[ソースを編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線
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表 話 編 歴
日本の路面電車
カテゴリ: かつて存在した日本の軌道事業者廃線九州地方の鉄道路線 (廃止)かつて存在した路面電車路線福岡県の交通史北九州市の交通北九州市の歴史
両筑軌道
甘木周辺の鉄道概略図。黒線は現存する鉄道路線
両筑軌道(りょうちくきどう)は、かつて福岡県浮羽郡田主丸町(現・久留米市)と朝倉郡甘木町・秋月町(共に現・朝倉市)などで軽便鉄道・乗合バスを運営していた日本の企業、および同社の運営していた鉄道路線である。
新両筑軌道への事業引き継ぎ、朝倉軌道による買収、両筑産業への名称変更、鉄道路線全廃によるバス専業化などを経て、最終的には西日本鉄道に統合された。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 年表
3 駅一覧
4 輸送・収支実績
5 脚注
6 参考文献
概要[ソースを編集]
甘木駅の様子。右側が両筑軌道、左側は朝倉軌道である
筑後軌道に接続する田主丸と、朝倉軌道に接続する甘木を結ぶ鉄道路線として、1911年(明治44年)7月7日に特許が取得され、同年9月に鬼木申五郎らによって創立された会社が両筑軌道株式会社である。1912年(大正元年)9月8日に田主丸-甘木間が開業し、1913年(大正2年)1月23日には甘木からかつての城下町である秋月まで路線が延伸された。動力には蒸気機関車を用いており、路線は、朝倉軌道と接する甘木近辺を除き、ほぼ全線が専用軌道(新設軌道)であった。
当初の経営が順調であった両筑軌道は、秋月からさらに筑紫山地を超えて嘉穂郡へと延伸し、筑豊と筑後を結ぶ計画を立てる。これは筑後側からも筑豊側からも要望が強かったために株主の応募も多く[1]、1920年(大正9年)には嘉穂郡碓井村(現・嘉麻市)内に上碓井-飯田間0.54kmを開業。この区間では、飯田で上山田線臼井駅に接続し、笹原炭鉱の石炭輸送を行なっていた[2]。
しかし、1921年(大正10年)6月17日[3]、筑後川で大洪水が発生する。これにより両筑軌道は、筑後川に架けていた木橋が流出してしまうという大被害を受けてしまった。このため運転休止を申請したが認可されず、運行は川の両岸で折り返しとした上で運転を午前・午後に1回ずつの1日2往復まで削減し、職員は事務長一人を残して全員解雇するなどして経費を削減した。なお、運転手は筑後軌道の非番の者や臨時雇いで補った[4]。
そして、1925年(大正14年)には全資産を新両筑軌道に売却して再起を図る[5]。しかし経営は好転せず、1927年(昭和2年)ごろには上碓井-飯田間が、1930年(昭和5年)7月には田主丸-甘木間が廃止となった。そして1931年(昭和6年)3月には朝倉軌道に買収され、社名は元の両筑軌道に再変更された。これ以降の両筑軌道は、形式上は独立した会社であったが、役員は朝倉軌道と共通となっており、運行は朝倉軌道田代線と一体化した形で行なわれるなど、実質的には朝倉軌道の支線であった。
1936年(昭和11年)9月には社名を両筑産業に改め、バス事業にも乗り出す[6]。1938年(昭和13年)には朝倉軌道からバス事業を譲渡された。しかしその一方で、同年12月27日に甘木-秋月間が廃止され、両筑軌道の敷設した鉄道路線は全廃されることとなった。
その後は、かつての鉄道路線と平行する甘木-秋月間や甘木-田主丸間をはじめ、甘木-鳥栖間、杷木-大行司間、甘木-山家間などに路線を運営するバス会社として営業を続けたが、1941年(昭和16年)9月に、同地域のバス会社であった九州乗合自動車と統合されて東福岡交通となり、1943年(昭和18年)7月31日には西日本鉄道に統合された。
路線データ[ソースを編集]
路線距離(営業キロ):18.4km
軌間:914mm
駅数:22駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
年表[ソースを編集]
1911年(明治44年)7月7日 特許
1911年(明治44年)9月 会社創立
1912年(大正元年)9月8日 田主丸 - 甘木間が開業
1913年(大正2年)1月23日 甘木 - 秋月間が開業
1920年(大正9年)9月21日 上碓井 - 飯田間が開業
1921年(大正10年)6月17日 筑後川大洪水による被害
1924年(大正13年)11月28日両筑軌道に対する軌道敷設特許権を新両筑軌道に譲渡することを許可[7]
1925年(大正14年)4月27日 全資産を新両筑軌道に売却
1927年(昭和2年)6月1日 上碓井 - 飯田間廃止許可[8]
1930年(昭和5年)7月31日 田主丸 - 甘木間が廃止[9]
1931年(昭和6年)3月 朝倉軌道に買収される
1931年(昭和6年)5月12日 社名が再び両筑軌道に
1936年(昭和11年)9月14日 社名を両筑産業に改め、バス事業にも乗り出す
1938年(昭和13年) 朝倉軌道からバス事業を譲渡される
1938年(昭和13年)12月27日 甘木 - 秋月間が廃止され、鉄道全線が廃止
1941年(昭和16年)9月 両筑産業と九州乗合自動車が統合され、東福岡交通に
1943年(昭和18年)7月31日 東福岡交通が西日本鉄道に統合
駅一覧[ソースを編集]
廃止時点[10]
田主丸 - 桜町 - 板町 - 立野 - 筑後川 - 中村 - 林田 - 鎌崎 - 小田 - 鳩胸 - 一木 - 来春 - 妙海 - 三福小路 - 水町 - 七日町 - 甘木 - 大塚 - 安川橋 - 下淵 - 千手橋 - 女男石 - 秋月
上碓井 - 飯田
輸送・収支実績[ソースを編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1912 77,759 387 7,371 5,352 2,019
1913 151,660 1,375 17,811 10,108 7,703
1914 165,393 3,663 24,738 12,763 11,975
1915 195,150 4,977 26,095 14,050 12,045
1916 204,131 5,353 22,952 15,543 7,409 利子3,182
1917 234,143 15,707 34,089 23,419 10,670
1918 251,157 27,329 50,245 42,550 7,695
1919 262,888 23,455 54,334 61,725 ▲ 7,391
1920 264,467 6,180 57,796 63,413 ▲ 5,617
1921 236,012 1,400 46,224 45,061 1,163
1922 222,657 1,023 39,843 44,489 ▲ 4,646
1923 219,217 1,653 39,249 36,805 2,444
1924 197,653 1,834 35,666 35,682 ▲ 16 雑損2,916 1,761
1925 193,670 507 28,966 32,060 ▲ 3,094 7,396 7,263
1926 209,210 468 30,877 25,659 5,218 2,240 償却金4,497
1927 169,168 1,338 29,191 29,375 ▲ 184 475
1928 142,935 1,099 26,338 26,174 164 自動車1,036 償却金及雑損1,430
1929 163,098 1,105 23,261 22,787 474 自動車及雑損772
1930 78,002 744 17,862 15,840 2,022 自動車5,133 雑損7,836
1931 49,316 35 3,457 1,554 1,903 自動車10,332 償却金及雑損12,235
1932 33,551 1,595 2,426 2,684 ▲ 258 自動車11,308 償却金11,050
1933 17,630 9,586 2,612 2,210 402 自動車10,767 償却金11,169
1934 5,034 17,160 4,164 1,605 2,559 自動車15,172 償却金17,731
1935 2,236 9,090 4,312 1,823 2,489 自動車26,287 償却金26,776
1936 2,446 10,575 8,432 1,979 6,453 自動車35,363 償却金34,963
1937 2,635 4,370 5,592 2,283 3,309 自動車48,516 償却金44,500
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計より
脚注[ソースを編集]
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^ 麻生太吉や伊藤伝右衛門などの筑豊の資産家も出資していた。「大正初期九州における私有鉄道」23頁
^ 『甘木市史』下巻 205頁
^ 『大刀洗町史』
^ 『甘木市史』下巻205-206頁
^ この「軌道敷設特許権」譲渡について小川の仮説によれば不良債権(両筑軌道)を抱えた地元金融機関が負債の償却を図るために新会社を設立したとしている。 それは新両筑軌道の役員は地元の浮羽銀行、田主丸銀行、田主丸実業銀行の関係者が大半をしめ、大株主も浮羽銀行(地元では森田銀行と称されていた)を支配する森田家の親族が名を連ねていた。さらに本社所在地は浮羽銀行頭取の森田富次郎の自宅とされており、それは「秘密保持」「両筑軌道から新両筑軌道への売買行為が浮羽銀行の信用に芳しくない背景を持つ」ためとしている 新両筑軌道への譲渡の直前の田主丸銀行、田主丸実業銀行は貸付先の回収が著しく滞り、とくに田主丸実業銀行は多額の固定貸しを抱え内情は困難な状況であり浮羽銀行を含めた三行合併を計画しており生き残りをかけていた時期であった。 一方両筑軌道では借入金が開業間もない大正3年現在で6.8万円であったのが6年3月現在で11.8万円に膨らんでいた。そのため「不良債権を新会社の株式と交換」する手法により新両筑軌道では借入金をわずか600円にした。目的のおわった新両筑軌道株は昭和9年には弥寿銀行頭取で朝倉軌道社長の多田勇雄ら朝倉軌道関係者に譲られた。 ただ両筑軌道の借入先と各行の貸付先が不詳のため憶測にとどまるとしている。
^ 1934年時点で9路線車両6台『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
^ 「軌道敷設特許権譲渡」『官報』1924年12月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許失効」『官報』1927年9月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道営業廃止」『官報』1930年9月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『九州沖縄』〈日本鉄道旅行地図帳〉42頁
参考文献[ソースを編集]
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飯田栄彦 『甘鉄物語』 甘木鉄道、2004年。
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今尾恵介(監修) 『九州沖縄』 新潮社〈日本鉄道旅行地図帳12〉、2009年。ISBN 978-4-10-790030-2。
岡本憲之 『全国軽便鉄道 失われたナローゲージ物語300選』 JTB、1999年。
小川功『企業破綻と金融破綻』九州大学出版会、2002年、117-120頁
大刀洗町郷土誌編纂委員会 『大刀洗町史』 大刀洗町、1981年。
西日本鉄道 『西日本鉄道七十年史』 西日本鉄道、1978年。
三浦忍・加藤要一「大正初期九州における私有鉄道」『産業経営研究所報告』No34,九州産業大学産業経営研究所、2002年
湯口徹「朝倉軌道気動車探求記-ある軌道の1930年代(前編)」、『鉄道ピクトリアル』1997年9月号 (No. 642)、1997年、 66-72頁。
湯口徹「朝倉軌道気動車探求記-ある軌道の1930年代(後編)」、『鉄道ピクトリアル』1997年10月号 (No. 643)、1997年、 60-65頁。
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