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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
▲TOPページ
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一局の碁をお楽しみください。
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オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
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・ユーザーの質
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・コンテンツの充実
これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。
推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
幽玄の間サイト
KGSの口コミ
KGS
パンダネット
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
日向軌道
路線総延長 23.1 km
軌間 762 mm
凡例
exSTR
妻線
exKBHFe
uexKDSTa
0.0 杉安 すぎやす
uexDST
3.1 鳥巣 とりのす
uexDST
6.0 譲葉 ゆずりは
uexDST
7.8 津々志 (待避線)つつし
uexDST
11.0 湯之内 ゆのうち
uexDST
13.4 本田ヶ瀬 ほんだがせ
uexDST
14.4 内平 (待避線)うちのひら
uexDST
15.0 十五番 じゅうごばん
uexDST
16.4 橋ノ口 (待避線)はしのくち
uexDST
16.5 橋ノ口 はしのくち
uexDST
17.2 瓢箪渕 (待避線)ひょうたんぶち
uexDST
18.9 片内 (待避線)かたうち
uexDST
19.0 片内 かたうち
uexDST
21.2 黒瀬 くろせ
uexDST
23.1
0.0*
二軒橋 にけんばし
uexDST
0.1* 二軒橋 (八重)にけんばし(はえ)
uexSTR
銀鏡軌道
『日本鉄道旅行地図帳』12 九州沖縄に基づく
日向軌道(ひゅうがきどう)は、かつて宮崎県に存在した貨物専業[1]の馬車鉄道、人車軌道路線、およびその軌道経営者。
宮崎軽便鉄道(後の国鉄妻線)の杉安駅を起点として二軒橋までを結んでおり、そこから先は更に銀鏡軌道(しろみきどう)と接続していた。主な目的は木材輸送である。
なお終点である二軒橋は廃止後から数年、一ツ瀬ダムの完成によって水没している。
目次 [非表示]
1 会社概要
2 路線データ
3 沿革
4 輸送・収支実績・車両数
5 脚注および参考文献
会社概要[編集]
1928年(昭和3年)頃[2]
本社:宮崎県児湯郡上穂北村
資本金:250000円
路線データ[編集]
路線距離:杉安 - 二軒橋間23.1km
軌間:762mm
沿革[編集]
1925年(大正14年)7月18日 特許[2][3][4]
1925年(大正14年)8月29日 会社設立[2][5]
1927年(昭和2年)7月8日[1][3]または7月9日[2] 開業
1929年(昭和4年)4月18日 軌道特許状下付(児湯郡三納村-同郡西米良村間)[6]
1930年(昭和5年)1月1日 乗合自動車路線(児湯郡上穂北村-穂北-同郡妻町間 7キロ)開通[7]
1931年(昭和6年)6月9日 工事施工認可申請期限延期許可(期限1931年10月17日)[8]
1932年(昭和7年)5月7日 工事施工認可申請期限延期許可(期限1932年10月17日)[9]
1933年(昭和8年)2月23日 工事施工認可申請期限延期許可(期限1933年10月17日)[10]
1934年(昭和9年)2月1日 工事施工認可申請期限延期許可(期限1934年10月17日)[11]
1935年(昭和10年)8月28日 軌道特許失効(児湯郡西米良村大字越野尾-同村大字村所間 指定ノ期限マデニ工事施工ノ認可申請ヲ為ササルタメ)[12]
1945年(昭和20年)3月10日 廃止許可[1]
1949年(昭和24年) 西都営林署が片内駅より二軒橋手前の軌道を買収し片内林道(2級2,440m)として1952年まで使用した[13]
輸送・収支実績・車両数[編集]
年度 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 無蓋貨車
1927 報告書未着 17,176 16,254 922 償却金922 報告書未着
1928 9,955 54,018 47,257 6,761 自動車3,948 償却金5,609 8,904 25
1929 10,323 50,813 44,448 6,365 自動車1,269 雑損償却金3,215 1,112 16
1930 9,152 36,151 30,580 5,571 自動車2,398 雑損償却金5,737 245 16
1931 5,106 20,239 16,648 3,591 自動車1,541 償却金5,486 127 10
1932 4,734 12,670 14,287 ▲ 1,617 自動車924 64 10
1933 6,376 12,008 17,328 ▲ 5,320 自動車639 雑損償却金1,814 304 13
1934 8,037 16,211 18,956 ▲ 2,745 雑損償却金717 4 13
1935 8,242 17,454 21,881 ▲ 4,427 雑損償却金2,035 15
1936 6,670 15,022 15,730 ▲ 708 自動車1,729 11
1937 報告書未着
1939 8,311 22,153 29,751 ▲ 7,598 自動車5,934 雑損2,426
1941 1,390 4,196 5,645 ▲1,449 自動車227
鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
脚注および参考文献[編集]
^ a b c 『日本鉄道旅行地図帳』12 九州沖縄
^ a b c d 『帝国鉄道年鑑』昭和3年版
^ a b 『鉄道統計資料』昭和3年版(国立国会図書館のデジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1925年7月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1929年4月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『全国乗合自動車総覧』1934保有台数2台。乗合自動車業について『全国乗合自動車業者名簿 : 昭和10年』では見当たらず本社同住所に日軌自動車が存在する
^ No.14「残区間工事施工認可申請期限延期ノ件」『日向軌道(一)・自大正十四年至昭和九年』110頁
^ No.16「西米良村字越野尾同村字所間工事施工認可申請期限延期ノ件」『日向軌道(一)・自大正十四年至昭和九年』128頁
^ No.18「西米良村字越野尾同村字所間工事施工認可申請期限延期ノ件」『日向軌道(一)・自大正十四年至昭和九年』135頁
^ No.20「工事施工認可申請期限延期ノ件」『日向軌道(一)・自大正十四年至昭和九年』142頁
^ 「軌道特許状一部失効」『官報』1935年8月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 矢部三雄『近代化遺産 国有林森林鉄道全データ(九州沖縄編)』熊本日日新聞社、2013年、56、201頁
『帝釈人車鉄道 -全国人車データマップ-』 葛飾区郷土と天文の博物館〈かつしかブックレット15〉、2006年、76頁。
帝国鉄道協会(編纂) 『帝国鉄道年鑑』 帝国鉄道協会、東京市麹町区有楽町、1928年5月、昭和3年版、p. 559。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』12 九州沖縄、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790030-2。
『日向軌道(一)・自大正十四年至昭和九年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
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カテゴリ: 馬車鉄道九州地方の鉄道路線 (廃止)日本の森林鉄道人車軌道宮崎県の交通史西都市の歴史かつて存在した日本のバス事業者
宮崎交通線
宮崎交通線
概要
現況 廃止
起終点 起点:南宮崎駅
終点:内海駅
駅数 12駅
運営
開業 1913年10月31日
廃止 1962年7月1日
所有者 宮崎交通
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 20.0[1] km (12.4 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
BHF
0.0 南宮崎駅
eKRWgl exKRW+r
STRrf exSTR
国鉄:日豊本線
exBHF
2.0 田吉駅
exBHF
飛行場駅
exBHF
4.3 南方駅
exBHF
江佐原駅
exWBRÜCKE
清武川
exBHF
7.4 木花駅
exWBRÜCKE
加江田川
exBHF
10.2 曽山寺駅
exBHF
12.1 子供の国駅
exBHF
12.7 青島駅
exBHF
14.3 折生迫駅
exBHF
15.9 白浜駅
exKBHFe
20.1[1] 内海駅
宮崎交通線(みやざきこうつうせん)は、かつて宮崎県宮崎市の南宮崎駅から内海駅までを結んでいた、宮崎交通が運営していた鉄道路線の通称である。日南線の前身にあたる。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 運行形態
4 歴史
5 駅一覧
6 接続路線
7 車両
7.1 蒸気機関車
7.2 電気機関車
7.3 蓄電池動車
7.4 客車
7.5 保存車両
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
概要[ソースを編集]
当初、宮崎軽便鉄道と称し、のち宮崎鉄道となった。陸路が不便な宮崎市の外港と目され、定期航路の寄港地であった内海港への連絡鉄道として大正時代初期に開業したが、内海港が堆砂しやすいなど港湾条件が悪かったことや、開業から10年後には国鉄日豊線が開通して海運からの輸送転移が生じたことから、経営難に苦しんだ。
国鉄線に接続する1067mm軌間路線ではあったが、ナローゲージの軽便鉄道並に脆弱な低規格線路のため長く国鉄との貨車直通ができず、鉄道省に合わせての1925年の自動連結器化もできないと願い出て、鉄道省もこれを認めたほどであった[2]。さらに大正末期からはバスとの競合が生じ、沿線の観光開発に取り組むようになったが、太平洋戦争に伴う宮崎県内の交通統合により、競合するバス会社と統合され、宮崎交通の鉄道部門となった。
1950年からは日本で唯一蓄電池動力による旅客車を蓄電池機関車と共に使用する[3]ユニークな取り組みも行われ、自社バス路線に伍して南宮崎 - 青島間のフリークエントサービスを図った。一方、末端区間の青島 - 内海間では、小型蒸気機関車が木造客車を牽引する時代離れした古典的な運行もごく遅くまで見ることができた。
1962年(昭和37年)に全線が廃止され、跡地は大半が日本国有鉄道(国鉄)日南線の建設に利用された。このとき、田吉駅(初代)、飛行場駅、江佐原駅は廃止、白浜駅、内海駅(初代)はルート変更により放棄された。
路線データ[ソースを編集]
路線距離(営業キロ):20.0km[1]
軌間:1067mm
駅数:12駅(廃止時点、起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
動力:蓄電池および蒸気
閉塞方式:
運行形態[ソースを編集]
1960年(昭和35年)10月1日施行のもので、運賃は1962年(昭和37年)現在。谷口 (1962) による。
南宮崎 - 内海
5往復、所要53-60分、80円
南宮崎 - 青島
13往復、所要31-33分、50円
並行するバス路線は宮崎駅前に直通し、倍以上の本数であった。
歴史[ソースを編集]
1911年(明治44年)
4月18日 宮崎軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(大淀-青島間 軌間762mm)[4]
9月1日 宮崎軽便鉄道が会社設立[5]
1913年(大正2年)10月31日 宮崎軽便鉄道が赤江(現・南宮崎) - 内海間を開業[6]
1915年(大正4年)
3月20日 赤江駅が国鉄宮崎線(現・日豊本線)連絡駅となる。曽山寺駅開業[7]
7月1日 赤江駅を大淀駅に改称[8]
1918年(大正7年)4月15日 白浜駅開業[9]
1920年(大正9年)9月 宮崎軽便鉄道が宮崎鉄道に社名変更
1923年(大正12年)10月22日 青島温泉駅開業
1928年(昭和3年) 内燃動力併用
1939年(昭和14年)3月21日 青島温泉駅を子供の国駅に改称
1940年(昭和15年)3月 レールを従来の15kg/mから、30kg/mに交換したい旨の軌道強化を申請(輸送力増強と国鉄客貨車直通のため)。工事完了は戦後となる[10]
1942年(昭和17年)4月1日 大淀駅を南宮崎駅に改称
1943年(昭和18年)8月24日 戦時企業統合政策により宮崎鉄道・宮崎バス・都城自動車が合併、宮崎交通となる。宮崎交通に鉄道部がおかれる
1949年(昭和24年)1月20日 江佐原駅開業
1950年(昭和25年)
3月 蓄電池動力併用。1940年代後期の石炭高騰に対する対策。同時期のガソリン不足対策として宮崎市内に電気バスを運行していたことから、その蓄電池管理インフラを併用してコストダウンを図った。充電設備を南宮崎駅構内に設置[11]
4月 軌道強化完了により全線国鉄車両の直通を認可[12]
1962年(昭和37年)
1月18日 土砂崩れにより前年10月から運行中止していた青島 - 内海間が休止
7月1日 南宮崎 - 内海間が全線廃止
駅一覧[ソースを編集]
南宮崎駅 - 田吉駅 - 飛行場駅 - 南方駅 - 江佐原駅 - 木花駅 - 曽山寺駅 - 子供の国駅 - 青島駅 - 折生迫駅 - 白浜駅 - 内海駅
※廃止時点のもの。先述の通り田吉駅、内海駅は廃止されたため日南線の両駅は2代目(田吉駅は後に一旦廃止されているため現在の駅は3代目)にあたる。
接続路線[ソースを編集]
南宮崎駅:国鉄日豊本線
車両[ソースを編集]
※廃止時点のもの。
蒸気機関車[ソースを編集]
4
1925年、独オーレンシュタイン・ウント・コッペル製のB形タンク機関車。晩年は、番号4を加工して1を標記していた。廃線記念列車を牽引するとともに、廃線後は国鉄に貸し出され、レールの撤去作業にも使用された。
6
1925年、日本車輌製造製のC形タンク機関車。篠山鉄道の2号機関車を同線廃止の際に譲り受けたもの。
電気機関車[ソースを編集]
ED1・3
1951年帝国車輛製の27トン蓄電池式機関車。製造当初はED201・202の番号であったが、のちに改番。
横座りの単独運転台を持つ凸型車体で、前後のボンネット内には1セットあたり1トンの蓄電池箱(大量の蓄電池が直列に詰めてある)を合計8個搭載。関西私鉄の旧型電車発生品と思われるブリル式ボギー台車を履き、主電動機は42kW×4。AMA自動空気ブレーキを装備して国鉄直通貨車との貫通制動を可能とした。電池セットは脱着式だが、ボンネットの電池台が2段組で数も多いため、メンテナンス時以外は車載したまま充電した。2両保有で、1両の充電中にもう1両を使う運用とされた[13]。
蓄電池動車[ソースを編集]
電動機を動力とするため電車の一種とも言える。
チハ101-103
国鉄のキハ40000形キハ40008・40012・40013を1949年10月に譲り受けたもの[14]。3両とも1934年日本車輌製。譲受時に大阪の広瀬車輌で蓄電池動車に改造された[15]。機関及び変速機を撤去、蓄電池と50kW-150Vの電動機を台枠に取りつけ、伝導軸と車軸歯車は在来のものを使用した1軸駆動のまま。結果的にいわゆる車体装架カルダン駆動となっている。
観光客向けのサービスとして車内でのラジオ放送を行っており、受信用に屋根上全長に渡ってワイヤー1本を張り渡したアンテナを装備していた。
電池セットは1両に2個搭載。南宮崎から青島・内海への1往復運用後、南宮崎の充電庫で横スライドさせて満充電済みの電池に交換を実施していた[16]。
電池セットは日本電池または湯浅電池製の電気自動車用鉛蓄電池(1セル2V、24kg)を40個直列にしたもので、蓄電池動車と機関車で同一品を共用。使用頻度の高い昼間は2 - 3時間程度の急速充電、時間余裕のある夜間は定電圧の通常充電としていた。運用現場では電池のセル単位の再生措置や、電池用の希硫酸について濃硫酸と純水で自製するなどのコストダウンに苦心していた[17]。
客車[ソースを編集]
ホハ1・2
1915年日本車輌製の木造ボギー客車
フハ4・5
1913年大阪電機製の木造2軸客車。当初は6両製造されたが、廃止時点では2両のみ残存
コハ301・302
1951年帝国車輛製の半鋼製ボギー客車。ED1・3と同時に製造された。製造当初はサハ101・102の番号であったが、のちに改番
ハ11・12
1929年に松井車輌で製造された木造2軸気動車(ガソリンカー)ジハ1・2を燃料統制により客車に改造
ハ13
1928年に松井車輌で製造された2軸気動車ジハ3を燃料統制により客車に改造したもの。多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)ジハ101として製造されたが、1936年に武州鉄道に譲渡されキハ15となる。武州鉄道入線時に改造名義で前後に荷台を備えた新造車輌に振り替えられた。1938年に武州鉄道の廃止により宮崎交通に譲渡されジハ3となり、客車化後の1955年頃に荷台の部分まで車体を延長
ハ14(2)
1939年井上車輌製のジハ5を客車化
ハ15
1928年丸山車輌製、1933年日本車輌東京支店で新造車体に載せ替えた東野鉄道キハ2を1938年に譲り受け客車化。
保存車両[ソースを編集]
1号蒸気機関車(2009年)
1号蒸気機関車(コッペル8.6t機/1912年製)が1951年(昭和26年)の廃車後、長らく宮崎大学船塚キャンパス内に保存(放置状態)されていたが、同大移転に伴い交通公園に移設されている。定期的に塗り直されているものの、屋外で屋根もないため保存状態はきわめて劣悪である。
脚注[ソースを編集]
[ヘルプ]
^ a b c 谷口 (1962) では20km、鉄道省 (1937) では20.1km。この間に改キロがあった可能性がある。経路図の距離は鉄道省 (1937)。
^ このためねじ式連結器の使用が戦後まで続いたが、1950年の国鉄貨車直通までに固定編成で運用されていた一部の客車の連結面間を除き、自動連結器化を完了している。
^ この旅客車は蓄電池動車とも、電車の一種とも呼ばれた。蓄電池による機関車としては、遊覧目的の西武山口線、火薬輸送のための路線での運用例があった。産業用では現在も工場や鉱山、土木工事現場等に蓄電池機関車の例がある。また、2010年代以降はJRグループでもJR東日本EV-E301系電車やJR九州BEC819系電車、Smart BESTといった非電化路線向け蓄電池車両の開発・導入が進んでいる。
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年4月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第20回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年11月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年3月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1915年7月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1918年4月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 田尻 (2005) p16
^ 田尻 (2005) p16-19
^ 田尻 (2005) p16
^ 田尻 (2005) p18、p44
^ 当時の宮崎交通社長・岩切章太郎が自ら東京に赴いて運輸省当局と折衝、1949年4月に払い下げを取り付けた。田尻 (2005) p44
^ 谷口 (1962) は広瀬車輛に送られた時期から、キハ40013→チハ101を示唆している。40013は7月、他は12月。
^ 田尻 (2005) p18-19、p43-44
^ 田尻 (2005) p18
参考文献[ソースを編集]
久保敏「消えゆく路線をたずねて 宮崎交通」、『鉄道ファン』No. 131962年7月号。
田尻弘行 『宮崎交通鉄道部』 ネコ・パブリッシング、東京、2005年。ISBN 4-7770-5100-5。
谷口良忠「宮崎交通鉄道部」、『鉄道ピクトリアル』1962年3月号臨時増刊:私鉄車両めぐり2、1962年、 pp. 90-97, 112。(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
谷口良忠「宮崎交通鉄道部(私鉄車両めぐり第2分冊補遺)」、『鉄道ピクトリアル』No. 1451963年5月号臨時増刊:私鉄車両めぐり4、1963年、 p. 88。(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(1986年覆刻)、p. 438。ISBN 4-88540-048-1。
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺5頁。
関連項目[ソースを編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
宮崎交通
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カテゴリ: 九州地方の鉄道路線 (廃止)宮崎交通宮崎県の交通史
大隅線
Japanese National Railway logo.svg 大隅線
垂水鉄道記念公園
垂水鉄道記念公園
概要
現況 廃止
起終点 起点:志布志駅
終点:国分駅
駅数 33駅
運営
開業 1915年7月11日
廃止 1987年3月14日
所有者 南隅軽便鉄道→大隅鉄道→
National Railway Symbol of Japan.png 鉄道省→運輸通信省→運輸省→
Japanese National Railway logo.svg 日本国有鉄道
路線諸元
路線総延長 98.3 km (61.1 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
過去の軌間 762 mm (2 ft 6 in)(串良-古江間 1938年まで)
電化 全線非電化
[折り畳む]路線図
Osumi Line map.png
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
日南線
BHF
0.0 志布志
STRq xABZrf
志布志線-1987
exBHF
5.5 菱田
exBHF
9.5 大隅大崎
exBHF
10.5 三文字
exBHF
16.2 東串良
exBHF
16.8 串良
exBHF
19.0 下小原
exBHF
21.5 大隅高山
exBHF
23.9 論地
exBHF
25.7 吾平
exBHF
27.2 永野田
exBHF
29.0 大隅川西
exBHF
30.3 下田崎 -1938
exKBHFl exABZq+r exABZrf
31.7 鹿屋(I) -1938
exSTR exBHF
32.0 鹿屋(II) 1938-
exSTRlf exKRZ exSTRlg
exABZrg exSTRrf
exBHF
34.4 田崎 -1938
exBHF
37.1 大隅野里
exBHF
38.8 滝ノ観音 -1938
exBHF
41.0 大隅高須
exBHF
42.5 金浜 -1938
exBHF
44.9 荒平
exBHF
46.6 船間 -1938
exBHF
47.8 古江
exBHF
51.8 新城
exBHF
53.3 諏訪
exBHF
56.4 柊原
exBHF
59.1 浜平
exBHF
61.6 垂水
exBHF
64.8 海潟温泉
exBHF
69.7 大隅麓
exBHF
72.5 大隅辺田
exBHF
75.7 大隅二川
exBHF
79.3 大隅境
exBHF
85.5 大廻
exBHF
88.6 大隅福山
exBHF
91.9 敷根
exBHF
94.4 銅田
exBHF
96.3 金剛寺
STRq eABZql BHFq
98.3 国分
日豊本線
高架橋
大隅線(おおすみせん)は、かつて鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)の志布志駅から同県国分市(現・霧島市)の国分駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である[1]。国鉄再建法の施行により1984年(昭和59年)6月に第2次特定地方交通線に指定され、1987年(昭和62年)3月14日に全線廃止となった[1]。
目次 [非表示]
1 路線データ(廃止時)
2 運行形態
3 歴史
3.1 南隅軽便鉄道→大隅鉄道→古江線→古江西線
3.2 古江東線
3.3 古江線→大隅線
4 駅一覧
5 現状
6 エピソードなど
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
路線データ(廃止時)[編集]
管轄(事業種別):日本国有鉄道
区間(営業キロ):志布志 - 鹿屋 - 国分98.3km
軌間:1067mm
駅数:33(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:
運行形態[編集]
志布志に向かうに従い本数が多くなり、県庁所在地の鹿児島方面への列車は少なかった。これは、開通の遅れた古江 - 国分間では、既に自動車を中心にした交通が確立しており、また垂水からフェリーで行くルートの方が近道であったからといわれている。廃止直前時点の運行形態は以下の通り。
快速
志布志 - 国分 「大隅」上下1往復(朝:下り、夜:上り、下りの志布志 - 鹿屋間は普通列車)、国分より西鹿児島駅まで乗り入れ
志布志 - 鹿屋 「佐多」上下1往復、志布志より宮崎駅まで乗り入れ
いずれも急行からの格下げ。
普通
志布志 - 鹿屋 上り10本、下り9本
鹿屋 - 古江 上下7往復
古江 - 垂水 上り6本、下り7本
垂水 - 国分 上下5往復
(以下詳細)
志布志 - 国分間 下り4本、上り3本
志布志 - 鹿屋間 下り昼1本、上り4本
志布志 - 古江間 下り夜1本、上り朝1本
志布志 - 垂水間 下り朝夜各1本、上り昼1本
垂水 → 国分 朝1本
国分 → 大隅境 夜1本
大隅境 → 志布志 朝1本
歴史[編集]
ウィキソースに大隅鐵道株式會社所屬古江串良間鐵道買收等の鉄道省告示があります。
大隅線の歴史は、1915年(大正4年)に軌間762mmの南隅軽便鉄道(なんぐうけいべんてつどう)が高須 - 高山間を開業したのに始まる。同鉄道は、翌年に社名を大隅鉄道(おおすみてつどう)に改め、1923年(大正12年)までに古江 - 串良間が全通した。
その後、日南線の一部とともに、改正鉄道敷設法別表第126号に規定する予定線にあげられ、1935年(昭和10年)に大隅鉄道は買収・国有化されて軌間762mmのまま国有鉄道古江線(ふるえせん)となった。同年、国有鉄道が建設した古江東線(軌間1,067mm)が志布志から東串良まで開業。翌年には古江西線(東線開業にともない改称)の串良駅に乗入れた。古江西線は、買収後直ちに改軌工事に着手されたが、串良駅は1938年(昭和13年)に古江西線の改軌が完成するまでの間、異種軌間が併存する接続駅となった。同年の改軌工事完成に伴い、スイッチバック構造であった鹿屋駅は、移転の上直通可能な配線に改良され、停留場のいくつかが廃止、志布志 - 古江間が古江線と改称された。
以降の延長は戦後となり、1961年(昭和36年)に海潟まで開通、1968年(昭和43年)9月に赤字83線に挙げられつつも1972年(昭和47年)に国分まで開業し全通。同時に線名を大隅線に改めたが、旅客輸送密度低下により第2次特定地方交通線に認定され1984年(昭和59年)に承認後、1987年(昭和62年)3月14日に全線廃止となりバス路線へ転換された。なお、1972年(昭和47年)における延長区間は「バス転換された特定地方交通線」として北海道の白糠線延長区間とわずか1日違いで最後の開業となった[2]。
大隅線廃止後は国鉄バス(後のJR九州バス)が代替線を運行するという異例の措置がとられたが[1]、後に鹿児島交通(後に大隅交通ネットワークへ移管)に引き継がれた。2006年(平成18年)になって、鹿児島交通グループが採算性が合わないことを理由に大隅地方におけるバス運行の撤退を表明したため、関係自治体と県を交えた協議会が開催されることになった。
南隅軽便鉄道→大隅鉄道→古江線→古江西線[編集]
1915年(大正4年)7月11日 南隅軽便鉄道が高須 - 鹿屋を開業[1]、高須・鹿屋の各駅および野里・田崎の各停留場を新設。
1916年(大正5年)5月30日 南隅軽便鉄道が大隅鉄道に社名を変更。
1920年(大正9年)12月23日 鹿屋 - 高山間を延伸開業。川西・永野田・姶良・高山の各駅、下田崎・論地の各停留場を新設。
1921年(大正10年)8月11日 高山 - 串良間を延伸開業。下小原・串良の各駅を新設。
1923年(大正12年)12月19日 古江 - 高須間を延伸開業。古江・荒平の各駅、船間停留場を新設。
1927年(昭和2年)2月 滝ノ観音停留場を新設。
1933年(昭和8年)6月15日 金浜停留場を新設。
1935年(昭和10年)
6月1日 大隅鉄道を買収し国有化[1]。古江 - 串良間 (31.5km) を古江線とする[1]。高須駅を大隅高須駅に、野里駅を大隅野里駅に、川西駅を大隅川西駅に、高山駅を大隅高山駅に改称。
10月28日 古江線を古江西線に改称。
古江東線[編集]
1935年(昭和10年)10月28日 志布志 - 東串良間 (16.2km) を古江東線として開業。菱田・大隅大崎・東串良の各駅を新設。
1936年(昭和11年)10月23日 東串良 - 串良間 (0.6km) を延伸開業し、古江西線串良駅に乗入れ。
1936年度(昭和11年)志布志-串良間にキハニ5000(志布志機関区、5両)を運行[3]
1937年(昭和12年)4月19日 三文字駅を新設。
古江線→大隅線[編集]
1938年(昭和13年)10月10日 古江 - 串良間 (31.0km) の改軌完成。古江東線と古江西線を合わせて古江線と改称。下田崎駅、田崎駅、滝ノ観音駅、金浜駅、船間駅を廃止。鹿屋駅移転(線路付け替えにより-0.5km)。
1952年(昭和27年)1月1日 姶良駅を吾平駅に改称。
1961年(昭和36年)4月13日 古江 - 海潟間 (17.0km) を延伸開業(旅客営業のみ)。新城・諏訪・柊原・浜平・垂水・海潟の各駅を新設。
1972年(昭和47年)
1月1日 鹿屋 - 古江間 (15.8km) の貨物営業を廃止。
9月9日 海潟温泉 - 国分間 (33.5km) を延伸開業(旅客営業のみ)し、全通[1]。古江線を大隅線と改称[1]。大隅麓・大隅辺田・大隅二川・大隅境・大廻・大隅福山・敷根・銅田・金剛寺の各駅を新設。海潟駅を移転し、海潟温泉駅に改称(改キロなし)。
1982年(昭和57年)11月15日 志布志 - 鹿屋間 (32.0km) の貨物営業を廃止。
1984年(昭和59年)6月22日 第2次特定地方交通線として廃止承認。
1987年(昭和62年)3月14日 全線 (98.3km) を廃止し、バス路線へ転換[1]。
駅一覧[編集]
接続路線の事業者名・駅の所在地は大隅線廃止時点のもの。全駅が鹿児島県内に所在。
停車駅
快速(快速運転区間のみ表示)…●:停車、▲:「大隅」上り列車のみ停車
普通列車は全列車全駅停車。
駅名 駅間キロ 営業キロ 快速 接続路線 所在地
志布志駅 - 0.0 ● 日本国有鉄道:日南線・志布志線(1987年3月28日廃止) 曽於郡志布志町(現・志布志市)
菱田駅 5.5 5.5 | 曽於郡有明町(現・志布志市)
大隅大崎駅 4.0 9.5 ▲ 曽於郡大崎町
三文字駅 1.0 10.5 |
東串良駅 5.7 16.2 ● 肝属郡東串良町
串良駅 0.6 16.8 | 肝属郡串良町(現・鹿屋市)
下小原駅 2.2 19.0 |
大隅高山駅 2.5 21.5 ● 肝属郡高山町(現・肝属郡肝付町)
論地駅 2.4 23.9 |
吾平駅 1.8 25.7 ▲ 肝属郡吾平町(現・鹿屋市)
永野田駅 1.5 27.2 | 鹿屋市
大隅川西駅 1.8 29.0 |
鹿屋駅 3.0 32.0 ●
大隅野里駅 5.1 37.1 |
大隅高須駅 3.9 41.0 ●
荒平駅 3.9 44.9 |
古江駅 2.9 47.8 ●
新城駅 4.0 51.8 | 垂水市
諏訪駅 1.5 53.3 |
柊原駅 3.1 56.4 |
浜平駅 2.7 59.1 |
垂水駅 2.5 61.6 ●
海潟温泉駅 3.2 64.8 ●
大隅麓駅 4.9 69.7 |
大隅辺田駅 2.8 72.5 |
大隅二川駅 3.2 75.7 |
大隅境駅 3.6 79.3 ●
大廻駅 6.2 85.5 | 姶良郡福山町(現・霧島市)
大隅福山駅 3.1 88.6 ●
敷根駅 3.3 91.9 | 国分市(現・霧島市)
銅田駅 2.5 94.4 |
金剛寺駅 1.9 96.3 |
国分駅 2.0 98.3 ● 日本国有鉄道:日豊本線
現状[編集]
軌道敷内
トンネル前
勾配標
沿線電話機
ふれあいのみち
ふれあいのみち案内看板
線路跡はほとんどのところで道路化されたり遊歩道、農道になっていて、数ある廃線跡の中では比較的訪ねやすい。道路化された部分でも勾配標などがそのままになっている箇所も多い。トンネル部、橋梁部、論地 - 吾平間の一部(圃場整備によって田圃になっている)、大隅高須 - 古江間のフィットネスパース未完成部分などをのぞいて、全線に渡ってほぼたどることができる。大隅高須駅の鹿屋方にあるトンネルはフィットネスパースの一部として利用されている。
エピソードなど[編集]
1972年(昭和47年)9月9日に開通した海潟温泉 - 国分間は日本鉄道建設公団の工事によるものであった。この工事の際鉄道公団はこの区間を「国分線」として国分駅を起点と考え、国分から海潟温泉へ1kmごとに距離標を設置した。しかし受け取る国鉄側から「古江線の延伸として開業するので、国分を起点とするのはおかしい」とクレームをつけられたため、鉄道公団は設置した336本の距離標をすべて抜き去り、海潟温泉駅の北側、志布志駅から64.9kmにあたる地点から再度距離標を設置し直している。
脚注[編集]
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^ a b c d e f g h i 『鉄道ジャーナル』第21巻第7号、鉄道ジャーナル社、1987年6月、 96-98頁。
^ 第三セクター鉄道となった特定地方交通線を含めると大隅線よりも遅い路線があり、そのうち最後は岡多線延長区間の1976年(1988年に愛知環状鉄道に転換)。
^ 『鉄道省年報. 昭和11年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
国鉄の特殊狭軌線 - 串良 - 古江間が該当した。旧線名「古江西線」。
東九州自動車道 - 志布志IC - 鹿屋串良JCT間は大隅線とほぼ並行するルートで建設が進められている。
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、大隅線に関連するカテゴリがあります。
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表 話 編 歴
日本国有鉄道 特定地方交通線
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表 話 編 歴
日本国有鉄道 赤字83線
カテゴリ: 九州地方の鉄道路線 (廃止)日本国有鉄道の廃線大隅鉄道特定地方交通線赤字83線