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日本囲碁連盟 囲碁用語 より
碁聖(ごせい)
棋聖と同じ。碁の聖人。古今の名人中の名人の尊称。
現在タイトル戦のひとつとして碁聖戦がある。
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。
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ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。
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3:幽玄の間
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁聖
提案
碁聖(ごせい)は
日本の歴史上、傑出した囲碁の名手に対する尊称。棋聖とほぼ同義。
囲碁の棋戦の一つである碁聖戦に優勝した棋士に贈られるタイトル。
目次 [非表示]
1 碁聖と呼ばれた人物
2 碁聖戦
3 名誉碁聖
4 歴代碁聖位と挑戦手合
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク
8 関連項目
碁聖と呼ばれた人物[編集]
寛蓮
平安時代の棋士。最も早い時期に碁聖と呼ばれた人物とされる[1]。
本因坊道策
江戸時代前期の棋士。本因坊丈和と比較して「前聖」とも呼ばれる。
本因坊道知
江戸時代中期の棋士。囲碁の名人であるだけでなく、将棋も上手(七段)並みで中将棋も抜群の強さであったため「盤上の聖」と呼ばれた[2]。
本因坊丈和
江戸時代後期の棋士。本因坊道策と比較して「後聖」とも呼ばれる。
本因坊秀策
江戸時代後期の棋士。明治37年の『座隠談叢』に「秀策ハ聖棋神手」、『秀策口訣棋譜』に「先師碁聖秀策」と書かれるなど、明治以降になって碁聖と呼ばれるようになった[3][4]。
呉清源
昭和時代の棋士。中国出身で日本で活躍し「昭和の碁聖」と呼ばれる[5][6]。
碁聖戦[編集]
1976年創設。前身は全日本第一位決定戦。
主催 新聞囲碁連盟(加盟12社:河北新報、新潟日報、信濃毎日新聞、静岡新聞、北國新聞、京都新聞、中国新聞、四国新聞、高知新聞、熊本日日新聞、南日本新聞、沖縄タイムス)、日本棋院、関西棋院
協賛 (第17-30期)日本IBM、第31期-レノボ
第4期までは5人のリーグ戦によって挑戦者を決定し、タイトル保持者と挑戦手合五番勝負で優勝者を決定。第1期は全日本第一位の大竹英雄と決勝五番勝負。第6期からは、トーナメント戦勝ち抜き者とタイトル保持者と挑戦手合五番勝負。トーナメント決勝は、第5-7期は三番勝負、8期以降は一番勝負。
長年七大タイトル戦の中で唯一、出場資格に制限があった。(日本棋院では37期まで五段以上、関西棋院では31期まで五段以上)。 なお大竹は前身の日本棋院第一位決定戦、全日本第一位決定戦でもこのタイトルに強く、全日本のタイトルは一度も大竹以外の手に渡ったことはなかった。
第42期(2017年)までの間に戴冠者は12名いるが、5名以外は2期以上獲得しており、大竹英雄(7期)・小林光一(9期)・依田紀基(6期)・張栩(4期)・井山裕太(6期)の5人だけで通算32期獲得している。
名誉碁聖[編集]
碁聖を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、60歳以降に名誉碁聖を名乗る権利を得る。
棋士 期 連覇 年
大竹英雄 7期 6連覇 1978、1980-1985
小林光一 9期 6連覇 1988-1993・1999・2001-2002
井山裕太 6期 6連覇 2012-
歴代碁聖位と挑戦手合[編集]
◯●は勝者から見た勝敗、網掛けはタイトル保持者。(第1期は全日本第一位に挑戦)
期 開催年 優勝 勝敗 準優勝
1 1976 加藤正夫 3-2 大竹英雄
2 1977 加藤正夫 3-0 武宮正樹
3 1978 大竹英雄 3-1 加藤正夫
4 1979 趙治勲 3-0 大竹英雄
5 1980 大竹英雄 3-1 趙治勲
6 1981 大竹英雄 3-1 加藤正夫
7 1982 大竹英雄 3-2 趙治勲
8 1983 大竹英雄 3-2 淡路修三
9 1984 大竹英雄 3-1 加藤正夫
10 1985 大竹英雄 3-1 工藤紀夫
11 1986 趙治勲 3-0 大竹英雄
12 1987 加藤正夫 3-1 趙治勲
13 1988 小林光一 3-0 加藤正夫
14 1989 小林光一 3-1 今村俊也
15 1990 小林光一 3-0 小林覚
16 1991 小林光一 3-2 小林覚
17 1992 小林光一 3-1 小林覚
18 1993 小林光一 3-0 林海峰
19 1994 林海峰 3-1 小林光一
20 1995 小林覚 3-2 林海峰
期 開催年 優勝 勝敗 準優勝
21 1996 依田紀基 3○○○0 小林覚
22 1997 依田紀基 3○●○○1 結城聡
23 1998 依田紀基 3○○○0 苑田勇一
24 1999 小林光一 3●●○○○2 依田紀基
25 2000 山下敬吾 3○○●●○2 小林光一
26 2001 小林光一 3○●○●○2 山下敬吾
27 2002 小林光一 3○○●○1 結城聡
28 2003 依田紀基 3○○●●○2 小林光一
29 2004 依田紀基 3○●○○1 山田規三生
30 2005 依田紀基 3○○○0 結城聡
31 2006 張栩 3○○○0 依田紀基
32 2007 張栩 3○○○0 横田茂昭
33 2008 張栩 3●○○○1 山下敬吾
34 2009 張栩 3○○○0 結城聡
35 2010 坂井秀至 3●○●○○2 張栩
36 2011 羽根直樹 3●●○○○2 坂井秀至
37 2012 井山裕太 3○○○0 羽根直樹
38 2013 井山裕太 3●●○○○2 河野臨
39 2014 井山裕太 3●○○●○2 河野臨
40 2015 井山裕太 3○●○○1 山下敬吾
41 2016 井山裕太 3○○○0 村川大介
42 2017 井山裕太 3○○○0 山下敬吾
脚注[編集]
^ 『囲碁の文化史』108頁。同著に依れば、寛蓮が碁聖と呼ばれたことは一条兼良の『花鳥余情』に書かれている。
^ 『道知』249頁
^ 『丈和』245頁
^ 『秀策』275頁
^ 中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』(岩波書店)
^ 『囲碁の文化史』188頁
参考文献[編集]
石田芳雄・田村孝雄・林裕『秀策』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1976年、275頁。
坂田英男・藤三男・林裕『道知』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1975年、249頁。
高川格・村上明・林裕『秀栄』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1976年、274頁。
林裕『囲碁百科辞典』金園社、1975年、60頁。
藤沢秀行・相場一宏・林裕『丈和』筑摩書房〈日本囲碁体系〉、1976年、245頁。
水口藤雄『囲碁の文化史』日本棋院〈碁スーパーブックス〉、2001年、108、144、160、188頁。
外部リンク[編集]
日本棋院 碁聖戦
関連項目[編集]
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一畑電気鉄道立久恵線
立久恵線
立久恵線でハフ21として使われていた客車 日ノ丸自動車フ50
立久恵線でハフ21として使われていた客車
日ノ丸自動車フ50
概要
現況 廃止
起終点 起点:出雲市駅
終点:出雲須佐駅
駅数 11駅
運営
開業 1932年12月12日
廃止 1965年2月18日
所有者 大社宮島鉄道→出雲鉄道→
一畑電気鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 18.7 km (11.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
[折り畳む]路線図
Ichibata Electric Railway Linemap.svg
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
exSTR
↑国鉄:大社線 1990廃止
exSTR
北松江線→
exSTR
電鉄出雲市駅
eABZql
国鉄:山陰本線
exSTRrg
0.0 出雲市駅
exBHF
2.0 古志町駅
exBHF
4.1 馬木不動前駅
exBHF
5.4 朝山駅
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exBHF
7.2 桜駅
exBHF
8.7 所原駅
exBHF
9.9 殿森駅
exBHF
12.3 立久恵峡駅
exBHF
14.1 乙立駅
exBHF
15.3 向名駅
exKBHFe
18.7 出雲須佐駅
立久恵線(たちくえせん)は、かつて出雲市の出雲市駅と島根県簸川郡佐田町(現:出雲市)にあった出雲須佐駅との間を神戸川(かんどがわ)沿いに結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線である。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 概要
3 運行形態
4 歴史
5 駅一覧
6 接続路線
7 輸送・収支実績
8 車両
8.1 蒸気機関車
8.2 ディーゼル機関車
8.3 気動車
8.4 客車
8.5 貨車
8.6 保存車両
9 路線跡地の現状
10 備考
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
路線データ[編集]
延長:18.7km
軌間:1,067mm
駅数:11駅(起終点駅を含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
概要[編集]
当初は陰陽連絡鉄道を目指して、大社宮島鉄道(つまり出雲大社〔出雲市〕と厳島神社〔廿日市市〕を結ぶという意味を転じて島根県と広島県を結ぶという意味を込めた)という壮大な社名をつけ、出雲 - 三次間91.7kmに鉄道を敷設する計画であった。三次を終点としたのは計画当時すでに芸備鉄道(現・芸備線)が広島から三次まで開通していたためで、それと結ぼうということである。出雲の富豪高橋隆一[1]が総代となり1919年1月に出願したものだが長く認可されなかった。これは地方鉄道にしては長大であることが要因であったが、当時の新聞によると憲政派の鉄道であるため放置されたとしていた。そこで地元の人たちは若槻礼次郎に運動した。若槻は仙石貢鉄道大臣に依頼するとともに折衝に慣れた根津嘉一郎を創立委員にすえようやく1924年になり免許状が下付されることになった。
翌年資本金800万円で大社宮島鉄道株式会社を設立し本社は東京有楽町に置いた。有望な投資先として東洋経済に取り上げられ、大株主は高橋隆一(簸上鉄道取締役)、野口遵(日窒コンツェルン 広島)、中村峯夫(芸備鉄道取締役)[2]、根津嘉一郎(昭和3年9月末)らであった[3]。
ところが昭和恐慌の影響と鉄道省による木次線の建設により陰陽連絡鉄道が完成されたことが原因で出雲今市(現:出雲市) - 出雲須佐間18.7kmを開業させたにとどまり、出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず、出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許は失効のやむなきに至った。このため、社名を出雲鉄道に改称した。なお根津は免許失効直前の1937年に社長を退任している。
戦後は出雲平野に鉄道路線を展開している一畑電気鉄道に吸収されるが、社名は「一畑電気鉄道」ながら電化されることはなく、一畑電気鉄道唯一の非電化路線として営業を続けていた。しかし、過疎化やモータリゼーションの進展で経営状況は芳しくなく、1964年(昭和39年)に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨で路盤が流失したことを契機に営業は中止され、そのまま廃線へと追い込まれていった。過疎化やモータリゼーションの進展が原因で復旧する必要がないと判断されるほど経営状態は悪化していたことが伺える。
路線名称は沿線の景勝地である立久恵峡に由来する。
運行形態[編集]
1956年9月1日当時
運行本数:日12往復
所要時間:全線41 - 66分
歴史[編集]
1924年(大正13年)5月14日 : 雲芸鉄道に対し鉄道免許状下付(簸川郡今市町-双三郡十日市原村[4]間)[5]。
1926年(大正15年)5月10日 : 大社宮島鉄道に改称(届出)[6]して会社設立[7]。本社を東京に置く。初代社長は初代根津嘉一郎[8]。
1932年(昭和7年)
12月2日 : 瓦斯倫動力併用認可[7]
12月12日 : 出雲今市 - 出雲須佐間18.7kmが開通する[9]。
1933年(昭和8年)
4月1日 : 向名駅が開業。
10月15日 : 桜駅が開業。
1938年(昭和13年)
2月3日 : 出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許が失効。
6月9日 : 陰陽連絡鉄道構想を断念したことを契機に出雲鉄道に社名を変更。本社を東京から出雲市に移転。資本金800万円を2,105,250円へ減少[10]
1954年(昭和29年)4月1日 : 経営難から一畑電気鉄道に吸収合併され、同社の立久恵線となる。
1955年(昭和30年)3月24日 : 殿森駅が開業。
1957年(昭和32年)4月1日 : 起点の出雲今市駅が出雲市駅に改称。
1964年(昭和39年)7月18日 : この日の深夜から翌日にかけて島根県東部を梅雨末期の集中豪雨が襲い、朝山 - 桜間の朝山トンネル南側の路盤が流失、これにより7月19日から営業を休止。
1965年(昭和40年)2月18日 : 路盤流失部分の復旧を行わないまま廃止。
駅一覧[編集]
出雲市(旧:出雲今市)* - 古志町 - 馬木不動前(まきふどうまえ) - 朝山* - 桜 - 所原* - 殿森 - 立久恵峡 - 乙立* - 向名(むかいみょう) - 出雲須佐*
出雲市 - 向名間が出雲市、出雲須佐駅のみが簸川郡佐田町(現在はすべて出雲市に属している)
*印の5駅が停車場(起終点を除く3駅は交換可能駅)、それ以外の6駅は停留場
接続路線[編集]
出雲市駅:国鉄山陰本線・大社線
電鉄出雲市駅:一畑電気鉄道北松江線
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1932 48,344 3,642 20,734 10,044 10,690
1933 184,172 10,920 57,082 38,545 18,537 雑損5,965 32,450
1934 160,337 17,873 62,243 52,341 9,902 雑損61,649 75,441
1935 161,733 18,075 72,012 39,706 32,306 雑損償却金109,307
自動車208 4 78,726
1936 160,858 12,225 68,407 34,933 33,474 自動車411 雑損償却金68,672 11 81,745
1937 182,232 13,142 80,850 53,922 26,928 雑損337,581
償却金53,033
自動車6,118 521 66,865
1939 233,968 21,647
1941 358,327 31,686
1943 369,542 24,630
1945 470,422 23,324
1952 374,147 15,067
1955 496千 22,331
1958 510千 20,231
1960 570千 22,270
1962 642千 16,686
鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報,私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
蒸気機関車[編集]
B10形 (101)
開業に備えて東武鉄道から譲受したC1形(2代)12。イギリスのナスミス・ウィルソン製で1897年に輸入した軸配置1B1のタンク機関車。1942年の102導入で予備機となったが、その102の老朽化により再び本務機となり、DB20形登場時も同形の性能不安定さから運用され続けたが1953年3月に廃車となった。
B2形 (102)
1942年に予備機確保のため鉄道省から阿南鉄道(路線は牟岐線の一部)からの買収車である1220形1220の払い下げを受けた軸配置Cのタンク機関車。元は1897年ナスミス・ウィルソン製の河陽鉄道(路線は現在の近鉄道明寺線・南大阪線の一部・長野線の一部)2である。導入後は101よりも102の方が使用されていたが、老朽化のため103の導入を前に1952年1月に廃車となった。
車歴の詳細は国鉄1100形蒸気機関車を参照
230形 (103)
101・102の老朽化とDB20形の性能不安定、また冬季除雪対策から1953年1月に日本国有鉄道(国鉄)から払い下げを受けた230形244で、1906年汽車会社製の軸配置1B1のタンク機関車である。101の代替として使用されたが後にDB20形の性能が安定してきたことから1955年5月に廃車となっている。
ディーゼル機関車[編集]
DB20形 (DB201)
石炭コスト高騰と蒸気機関車の老朽化から無煙化を図るため導入された、1952年汽車会社製で軸配置Bのロッド式二軸車。150馬力のDMH17ディーゼルエンジンを1台装備している。戦後汽車会社がディーゼル機関車を製造した初年の製品ゆえ製造当初は故障頻発のため性能は不安定で蒸気機関車の運用継続を余儀なくされたが、1954年頃に性能が安定化したことでようやく所期の目的を実現した。廃線後は北松江線(本線)に転属して雲州平田駅の構内入れ換え用となったが、1965年4月に廃車となりブローカーに売却されたものの買い手は付かず解体された。
気動車[編集]
カハニ1形(カハニ1 - カハニ3)
カハニ1・カハニ2は開業に備えて日本車輌で製造されたボギー車のガソリンカー。前面非貫通3枚窓の半鋼製車体を持つ荷物合造車。エンジンは85馬力のガソリンエンジン、ウォーケシャ (en:Waukesha Engines) 6-RBを装備。カハニ3は1935年に日本車輌で製造された増備車だが前2両に比べ車体が短く、側扉が1個少なく(カハニ1・カハニ2は荷物扉と客用扉2扉、カハニ3は荷物扉と客用扉1扉)、前面窓が2枚という相違がある。またカハニ3の動力台車は偏心台車を使用している。1941年にカハニ1が、1942年にカハニ2が木炭ガス発生装置取り付け改造を受け木炭代燃車となった。カハニ1・カハニ3はは1945年頃以降客車代用となったが、カハニ1が1949年4月に、カハニ3が1951年8月に正式に客車となり、それぞれハニ10・ハニ11に改番された。カハニ2は1949年12月にキハ1形(2代)キハニ1となり、1956年にエンジンがDMF13B形ディーゼルエンジンに換装され、木炭ガス代燃装置は撤去された。立久恵線廃線後の経緯は以下の通り。
ハニ10(旧カハニ1) - 日ノ丸自動車に譲渡され法勝寺電鉄線フニ100となり、1967年の同線廃線まで使用された後解体。
キハニ1(旧カハニ2) - キハ2・キハ5とともに有田鉄道へ譲渡されたものの、同社で使用されないまま1968年に解体。
ハニ11(旧カハニ3) - 1965年4月に廃車、解体。
キハ1形(初代、キハ4・キハ5)
1941年に神中鉄道(法人としては現、相鉄ホールディングス。路線は現、相鉄本線・厚木線)キハ1形のキハ3・キハ5を譲受して、カハニ1形の続番でキハ4・キハ5としたもの。元は1929年蒲田車輛製。35馬力のウォーケシャVK4エンジンを装備した二軸ガソリンカーだったが、導入翌年の1942年には客車化されハフ10形ハフ10・ハフ11となった。戦後はカハニ1形の客車化もあって利用頻度が減少していたこともあり、老朽化のため1951年4月にハフ11が、1953年12月にハフ10が廃車された。
キハ1形(2代、キハ2・キハ3)
戦後の動力車不足を補うため、1949年12月に日本国有鉄道(国鉄)からキハ40000形のキハ40001・キハ40000を譲受したもので、1934年日本車輌製であるが、竣工図上ではキハ2が1930年・キハ3が1933年にそれぞれ川崎車輛製となっている。当時両車とも倉庫代用となっておりエンジンが撤去されていたため、入線に際して一緒に譲受した100馬力のGMF13形ガソリンエンジンを装備する工事を受けている。その後はキハ2が1953年6月にエンジンを100馬力のDMF13形ディーゼルエンジンに換装され、キハ3も1955年3月にその出力強化形のDMF13B形ディーゼルエンジン(110馬力)に換装された。キハ3は1961年2月の土砂崩れで堆積した土砂に乗り上げて転覆する事故を起こしそのまま廃車となったが、キハ2は廃線翌年の1965年に有田鉄道へ譲渡され、同社キハ201となった。なお、キハ1については上記カハニ1形を参照。
キハ5形(キハ5)
キハ3の事故廃車代替のため1961年8月に国鉄から譲受したキハ04形のキハ04 29で、元は1933年田中車輛製のキハ41328である。入線に際してキハ3のエンジンを転用している。廃線後は有田鉄道へ譲渡されキハ202となった。
客車[編集]
ハ1形(ハ1)
開業に備えて鉄道省から払い下げを受けた木造二軸車で、元は1903年鉄道作業局新橋工場製のハ1005形ハ1310[11]である。キハ1形(キハ4・キハ5)の客車化による代替と老朽化、また長尺物運搬時に行っていた鉄道省からの貨車借受解消のため、1942年7月に長物車チ200形チ200に改造され、貨車となった。
ハフ20形(ハフ21)
ハ1とともに鉄道省から払い下げを受けた木造二軸車で、元はイギリス・バーミンガム車両工場製のハフ4720形ハフ4734。名目上は1903年製とされていたが、実際は1887年製で関西鉄道からの買収車である。1941年11月に伯陽電鉄(後の日ノ丸自動車法勝寺電鉄線)に譲渡され、同社フ50となり廃線時まで使用された後、米子市内で静態保存された。
貨車[編集]
北松江線で引き続き工事用として使用されたト60・ト61
ト30形(ト31 - ト35)
開業に備え鉄道省から払い下げを受けた木造の無蓋車で、旧番号はト16・ト330・ト630・ト2549・ト2709。元は鉄道省籍だが払い下げ当時既に運用に入っていなかったので鉄道省線直通認可は受けていない。廃車はト33が1948年11月、ト34が1950年2月、ト31が1953年1月、ト32が同年12月、ト35が1955年8月である。
ト50形(ト51 - ト65)
ト51 - ト62はト30形では不足することが判明したため、省線直通対応車として日本車輌で製造された10t積み木造無蓋車。製造はト51 - ト56は1933年10月、ト57 -ト59は1934年6月、ト60 - ト62は1935年1月。立久恵線廃線後はト51・ト52・ト57・ト60・ト61は北松江線に転属し、そのうちト60・ト61は2011年まで工事用に使用されていた。
ト63 - ト65は老朽化したト30形の代替車両として国鉄から払い下げを受けた木造無蓋車で、旧番号はそれぞれト16192・ト2545・ト16075である。廃車はト65が1953年1月、ト63は同年12月だがト64については不明である(同年頃と推測されている)。
ワ1形(ワ1 - ワ3)
ワ1は開業に備えて鉄道省から払い下げを受けた10t積み木造有蓋車で、旧番号はワ1675。1955年8月廃車。
ワ2・ワ3は1949年4月にト63・ト64とともに国鉄から払い下げを受けたワ2883・ワ8238。ワ2は1955年8月に廃車されたが、ワ3については廃線時の状況が不明である。
ワフ1形(ワフ21)
開業時にワ1とともに鉄道省から払い下げを受けた6t積み木造の有蓋緩急車。1953年6月廃車。
チ200形(チ200)
上記客車ハ1を1942年7月に貨車化し、9t積みの長物車に改造したもの。
保存車両[編集]
鳥取県米子市の元町商店街パティオ広場に木造客車ハフ21が保存されている。上記の通り伯陽電鉄に譲渡されたこともあり、出雲市ではなく米子市で法勝寺電鉄線フ50として保存されている。
詳細は「日ノ丸自動車法勝寺電鉄線#保存車両」を参照
路線跡地の現状[編集]
主な遺構および現状 [12]
朝山 - 桜間の立岩トンネル(内部は素掘り)
出雲市乙立町の国道184号上り線。地形的事情から山側が下り線、川側が上り線としてそれぞれ使用されているが、上り線が線路跡。
出雲市佐田町反辺(たんべ)の明谷・呑水両トンネルと落石避け。その部分だけ国道184号が神戸川左岸に渡るため、右岸の遺構が破壊されずに済んだ。
廃線後出雲市・電鉄出雲市両駅付近が高架化されたことや市街地化が進んだこと、国道184号の改良に路盤が使用されたこと、そして営業休止から40年以上経過していることから遺構が残っていないところも少なくない。
備考[編集]
陰陽連絡鉄道としての夢は諸事情により成就できなかったが、1954年(昭和29年)1月20日建設省(当時)第16号で大社宮島鉄道の予定経路に沿って出雲市と三次市を結ぶ主要地方道が認定された。島根県道・広島県道11号出雲三次線がそれであるが、島根県飯石郡飯南町野萱以南は国道54号と重用しており、実質上広島県と出雲市を結ぶ路線とは言いがたいものであった。しかし、1993年(平成5年)4月1日に島根県道・広島県道11号出雲三次線全線がそれまで松江市と尾道市を結んでいた国道184号に組み入れられ(1992年(平成4年)4月3日政令第104号による)、ようやく出雲市は陰陽連絡交通路を有するに至った。
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ 『人事興信録. 8版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『人事興信録. 8版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道軌道営業年鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 官報の原文ママ。1917年に原村から十日市町に改称。現在の三次市
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年5月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道統計資料. 昭和元年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第35回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年12月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「商号変更広告」『官報』1938年6月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 客車略図形式1005
^ 減速進行 「立久恵線を訪ねて」 (地理院地形図上の線路表示あり)
参考文献[編集]
京都大学鉄道研究会、1969、「失われた鉄道・軌道を訪ねて 一畑電気鉄道立久恵線」、『鉄道ピクトリアル』(227)、電気車研究会
清水啓次郎『私鉄物語』1930年(復刻アテネ書房 1993年)、149-150頁
小川功「東武鉄道の系譜」『鉄道ピクトリアル』No.647
関連項目[編集]
廃線
国道184号
カテゴリ: 中国地方の鉄道路線 (廃止)一畑電気鉄道島根県の交通史
一畑電気鉄道立久恵線
立久恵線
立久恵線でハフ21として使われていた客車 日ノ丸自動車フ50
立久恵線でハフ21として使われていた客車
日ノ丸自動車フ50
概要
現況 廃止
起終点 起点:出雲市駅
終点:出雲須佐駅
駅数 11駅
運営
開業 1932年12月12日
廃止 1965年2月18日
所有者 大社宮島鉄道→出雲鉄道→
一畑電気鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 18.7 km (11.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
[折り畳む]路線図
Ichibata Electric Railway Linemap.svg
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
exSTR
↑国鉄:大社線 1990廃止
exSTR
北松江線→
exSTR
電鉄出雲市駅
eABZql
国鉄:山陰本線
exSTRrg
0.0 出雲市駅
exBHF
2.0 古志町駅
exBHF
4.1 馬木不動前駅
exBHF
5.4 朝山駅
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exBHF
7.2 桜駅
exBHF
8.7 所原駅
exBHF
9.9 殿森駅
exBHF
12.3 立久恵峡駅
exBHF
14.1 乙立駅
exBHF
15.3 向名駅
exKBHFe
18.7 出雲須佐駅
立久恵線(たちくえせん)は、かつて出雲市の出雲市駅と島根県簸川郡佐田町(現:出雲市)にあった出雲須佐駅との間を神戸川(かんどがわ)沿いに結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線である。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 概要
3 運行形態
4 歴史
5 駅一覧
6 接続路線
7 輸送・収支実績
8 車両
8.1 蒸気機関車
8.2 ディーゼル機関車
8.3 気動車
8.4 客車
8.5 貨車
8.6 保存車両
9 路線跡地の現状
10 備考
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
路線データ[編集]
延長:18.7km
軌間:1,067mm
駅数:11駅(起終点駅を含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
概要[編集]
当初は陰陽連絡鉄道を目指して、大社宮島鉄道(つまり出雲大社〔出雲市〕と厳島神社〔廿日市市〕を結ぶという意味を転じて島根県と広島県を結ぶという意味を込めた)という壮大な社名をつけ、出雲 - 三次間91.7kmに鉄道を敷設する計画であった。三次を終点としたのは計画当時すでに芸備鉄道(現・芸備線)が広島から三次まで開通していたためで、それと結ぼうということである。出雲の富豪高橋隆一[1]が総代となり1919年1月に出願したものだが長く認可されなかった。これは地方鉄道にしては長大であることが要因であったが、当時の新聞によると憲政派の鉄道であるため放置されたとしていた。そこで地元の人たちは若槻礼次郎に運動した。若槻は仙石貢鉄道大臣に依頼するとともに折衝に慣れた根津嘉一郎を創立委員にすえようやく1924年になり免許状が下付されることになった。
翌年資本金800万円で大社宮島鉄道株式会社を設立し本社は東京有楽町に置いた。有望な投資先として東洋経済に取り上げられ、大株主は高橋隆一(簸上鉄道取締役)、野口遵(日窒コンツェルン 広島)、中村峯夫(芸備鉄道取締役)[2]、根津嘉一郎(昭和3年9月末)らであった[3]。
ところが昭和恐慌の影響と鉄道省による木次線の建設により陰陽連絡鉄道が完成されたことが原因で出雲今市(現:出雲市) - 出雲須佐間18.7kmを開業させたにとどまり、出雲須佐以南は測量を行っただけで着工に至らず、出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許は失効のやむなきに至った。このため、社名を出雲鉄道に改称した。なお根津は免許失効直前の1937年に社長を退任している。
戦後は出雲平野に鉄道路線を展開している一畑電気鉄道に吸収されるが、社名は「一畑電気鉄道」ながら電化されることはなく、一畑電気鉄道唯一の非電化路線として営業を続けていた。しかし、過疎化やモータリゼーションの進展で経営状況は芳しくなく、1964年(昭和39年)に島根県東部を襲った梅雨末期の集中豪雨で路盤が流失したことを契機に営業は中止され、そのまま廃線へと追い込まれていった。過疎化やモータリゼーションの進展が原因で復旧する必要がないと判断されるほど経営状態は悪化していたことが伺える。
路線名称は沿線の景勝地である立久恵峡に由来する。
運行形態[編集]
1956年9月1日当時
運行本数:日12往復
所要時間:全線41 - 66分
歴史[編集]
1924年(大正13年)5月14日 : 雲芸鉄道に対し鉄道免許状下付(簸川郡今市町-双三郡十日市原村[4]間)[5]。
1926年(大正15年)5月10日 : 大社宮島鉄道に改称(届出)[6]して会社設立[7]。本社を東京に置く。初代社長は初代根津嘉一郎[8]。
1932年(昭和7年)
12月2日 : 瓦斯倫動力併用認可[7]
12月12日 : 出雲今市 - 出雲須佐間18.7kmが開通する[9]。
1933年(昭和8年)
4月1日 : 向名駅が開業。
10月15日 : 桜駅が開業。
1938年(昭和13年)
2月3日 : 出雲須佐 - 三次間73.0kmの免許が失効。
6月9日 : 陰陽連絡鉄道構想を断念したことを契機に出雲鉄道に社名を変更。本社を東京から出雲市に移転。資本金800万円を2,105,250円へ減少[10]
1954年(昭和29年)4月1日 : 経営難から一畑電気鉄道に吸収合併され、同社の立久恵線となる。
1955年(昭和30年)3月24日 : 殿森駅が開業。
1957年(昭和32年)4月1日 : 起点の出雲今市駅が出雲市駅に改称。
1964年(昭和39年)7月18日 : この日の深夜から翌日にかけて島根県東部を梅雨末期の集中豪雨が襲い、朝山 - 桜間の朝山トンネル南側の路盤が流失、これにより7月19日から営業を休止。
1965年(昭和40年)2月18日 : 路盤流失部分の復旧を行わないまま廃止。
駅一覧[編集]
出雲市(旧:出雲今市)* - 古志町 - 馬木不動前(まきふどうまえ) - 朝山* - 桜 - 所原* - 殿森 - 立久恵峡 - 乙立* - 向名(むかいみょう) - 出雲須佐*
出雲市 - 向名間が出雲市、出雲須佐駅のみが簸川郡佐田町(現在はすべて出雲市に属している)
*印の5駅が停車場(起終点を除く3駅は交換可能駅)、それ以外の6駅は停留場
接続路線[編集]
出雲市駅:国鉄山陰本線・大社線
電鉄出雲市駅:一畑電気鉄道北松江線
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1932 48,344 3,642 20,734 10,044 10,690
1933 184,172 10,920 57,082 38,545 18,537 雑損5,965 32,450
1934 160,337 17,873 62,243 52,341 9,902 雑損61,649 75,441
1935 161,733 18,075 72,012 39,706 32,306 雑損償却金109,307
自動車208 4 78,726
1936 160,858 12,225 68,407 34,933 33,474 自動車411 雑損償却金68,672 11 81,745
1937 182,232 13,142 80,850 53,922 26,928 雑損337,581
償却金53,033
自動車6,118 521 66,865
1939 233,968 21,647
1941 358,327 31,686
1943 369,542 24,630
1945 470,422 23,324
1952 374,147 15,067
1955 496千 22,331
1958 510千 20,231
1960 570千 22,270
1962 642千 16,686
鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報,私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
蒸気機関車[編集]
B10形 (101)
開業に備えて東武鉄道から譲受したC1形(2代)12。イギリスのナスミス・ウィルソン製で1897年に輸入した軸配置1B1のタンク機関車。1942年の102導入で予備機となったが、その102の老朽化により再び本務機となり、DB20形登場時も同形の性能不安定さから運用され続けたが1953年3月に廃車となった。
B2形 (102)
1942年に予備機確保のため鉄道省から阿南鉄道(路線は牟岐線の一部)からの買収車である1220形1220の払い下げを受けた軸配置Cのタンク機関車。元は1897年ナスミス・ウィルソン製の河陽鉄道(路線は現在の近鉄道明寺線・南大阪線の一部・長野線の一部)2である。導入後は101よりも102の方が使用されていたが、老朽化のため103の導入を前に1952年1月に廃車となった。
車歴の詳細は国鉄1100形蒸気機関車を参照
230形 (103)
101・102の老朽化とDB20形の性能不安定、また冬季除雪対策から1953年1月に日本国有鉄道(国鉄)から払い下げを受けた230形244で、1906年汽車会社製の軸配置1B1のタンク機関車である。101の代替として使用されたが後にDB20形の性能が安定してきたことから1955年5月に廃車となっている。
ディーゼル機関車[編集]
DB20形 (DB201)
石炭コスト高騰と蒸気機関車の老朽化から無煙化を図るため導入された、1952年汽車会社製で軸配置Bのロッド式二軸車。150馬力のDMH17ディーゼルエンジンを1台装備している。戦後汽車会社がディーゼル機関車を製造した初年の製品ゆえ製造当初は故障頻発のため性能は不安定で蒸気機関車の運用継続を余儀なくされたが、1954年頃に性能が安定化したことでようやく所期の目的を実現した。廃線後は北松江線(本線)に転属して雲州平田駅の構内入れ換え用となったが、1965年4月に廃車となりブローカーに売却されたものの買い手は付かず解体された。
気動車[編集]
カハニ1形(カハニ1 - カハニ3)
カハニ1・カハニ2は開業に備えて日本車輌で製造されたボギー車のガソリンカー。前面非貫通3枚窓の半鋼製車体を持つ荷物合造車。エンジンは85馬力のガソリンエンジン、ウォーケシャ (en:Waukesha Engines) 6-RBを装備。カハニ3は1935年に日本車輌で製造された増備車だが前2両に比べ車体が短く、側扉が1個少なく(カハニ1・カハニ2は荷物扉と客用扉2扉、カハニ3は荷物扉と客用扉1扉)、前面窓が2枚という相違がある。またカハニ3の動力台車は偏心台車を使用している。1941年にカハニ1が、1942年にカハニ2が木炭ガス発生装置取り付け改造を受け木炭代燃車となった。カハニ1・カハニ3はは1945年頃以降客車代用となったが、カハニ1が1949年4月に、カハニ3が1951年8月に正式に客車となり、それぞれハニ10・ハニ11に改番された。カハニ2は1949年12月にキハ1形(2代)キハニ1となり、1956年にエンジンがDMF13B形ディーゼルエンジンに換装され、木炭ガス代燃装置は撤去された。立久恵線廃線後の経緯は以下の通り。
ハニ10(旧カハニ1) - 日ノ丸自動車に譲渡され法勝寺電鉄線フニ100となり、1967年の同線廃線まで使用された後解体。
キハニ1(旧カハニ2) - キハ2・キハ5とともに有田鉄道へ譲渡されたものの、同社で使用されないまま1968年に解体。
ハニ11(旧カハニ3) - 1965年4月に廃車、解体。
キハ1形(初代、キハ4・キハ5)
1941年に神中鉄道(法人としては現、相鉄ホールディングス。路線は現、相鉄本線・厚木線)キハ1形のキハ3・キハ5を譲受して、カハニ1形の続番でキハ4・キハ5としたもの。元は1929年蒲田車輛製。35馬力のウォーケシャVK4エンジンを装備した二軸ガソリンカーだったが、導入翌年の1942年には客車化されハフ10形ハフ10・ハフ11となった。戦後はカハニ1形の客車化もあって利用頻度が減少していたこともあり、老朽化のため1951年4月にハフ11が、1953年12月にハフ10が廃車された。
キハ1形(2代、キハ2・キハ3)
戦後の動力車不足を補うため、1949年12月に日本国有鉄道(国鉄)からキハ40000形のキハ40001・キハ40000を譲受したもので、1934年日本車輌製であるが、竣工図上ではキハ2が1930年・キハ3が1933年にそれぞれ川崎車輛製となっている。当時両車とも倉庫代用となっておりエンジンが撤去されていたため、入線に際して一緒に譲受した100馬力のGMF13形ガソリンエンジンを装備する工事を受けている。その後はキハ2が1953年6月にエンジンを100馬力のDMF13形ディーゼルエンジンに換装され、キハ3も1955年3月にその出力強化形のDMF13B形ディーゼルエンジン(110馬力)に換装された。キハ3は1961年2月の土砂崩れで堆積した土砂に乗り上げて転覆する事故を起こしそのまま廃車となったが、キハ2は廃線翌年の1965年に有田鉄道へ譲渡され、同社キハ201となった。なお、キハ1については上記カハニ1形を参照。
キハ5形(キハ5)
キハ3の事故廃車代替のため1961年8月に国鉄から譲受したキハ04形のキハ04 29で、元は1933年田中車輛製のキハ41328である。入線に際してキハ3のエンジンを転用している。廃線後は有田鉄道へ譲渡されキハ202となった。
客車[編集]
ハ1形(ハ1)
開業に備えて鉄道省から払い下げを受けた木造二軸車で、元は1903年鉄道作業局新橋工場製のハ1005形ハ1310[11]である。キハ1形(キハ4・キハ5)の客車化による代替と老朽化、また長尺物運搬時に行っていた鉄道省からの貨車借受解消のため、1942年7月に長物車チ200形チ200に改造され、貨車となった。
ハフ20形(ハフ21)
ハ1とともに鉄道省から払い下げを受けた木造二軸車で、元はイギリス・バーミンガム車両工場製のハフ4720形ハフ4734。名目上は1903年製とされていたが、実際は1887年製で関西鉄道からの買収車である。1941年11月に伯陽電鉄(後の日ノ丸自動車法勝寺電鉄線)に譲渡され、同社フ50となり廃線時まで使用された後、米子市内で静態保存された。
貨車[編集]
北松江線で引き続き工事用として使用されたト60・ト61
ト30形(ト31 - ト35)
開業に備え鉄道省から払い下げを受けた木造の無蓋車で、旧番号はト16・ト330・ト630・ト2549・ト2709。元は鉄道省籍だが払い下げ当時既に運用に入っていなかったので鉄道省線直通認可は受けていない。廃車はト33が1948年11月、ト34が1950年2月、ト31が1953年1月、ト32が同年12月、ト35が1955年8月である。
ト50形(ト51 - ト65)
ト51 - ト62はト30形では不足することが判明したため、省線直通対応車として日本車輌で製造された10t積み木造無蓋車。製造はト51 - ト56は1933年10月、ト57 -ト59は1934年6月、ト60 - ト62は1935年1月。立久恵線廃線後はト51・ト52・ト57・ト60・ト61は北松江線に転属し、そのうちト60・ト61は2011年まで工事用に使用されていた。
ト63 - ト65は老朽化したト30形の代替車両として国鉄から払い下げを受けた木造無蓋車で、旧番号はそれぞれト16192・ト2545・ト16075である。廃車はト65が1953年1月、ト63は同年12月だがト64については不明である(同年頃と推測されている)。
ワ1形(ワ1 - ワ3)
ワ1は開業に備えて鉄道省から払い下げを受けた10t積み木造有蓋車で、旧番号はワ1675。1955年8月廃車。
ワ2・ワ3は1949年4月にト63・ト64とともに国鉄から払い下げを受けたワ2883・ワ8238。ワ2は1955年8月に廃車されたが、ワ3については廃線時の状況が不明である。
ワフ1形(ワフ21)
開業時にワ1とともに鉄道省から払い下げを受けた6t積み木造の有蓋緩急車。1953年6月廃車。
チ200形(チ200)
上記客車ハ1を1942年7月に貨車化し、9t積みの長物車に改造したもの。
保存車両[編集]
鳥取県米子市の元町商店街パティオ広場に木造客車ハフ21が保存されている。上記の通り伯陽電鉄に譲渡されたこともあり、出雲市ではなく米子市で法勝寺電鉄線フ50として保存されている。
詳細は「日ノ丸自動車法勝寺電鉄線#保存車両」を参照
路線跡地の現状[編集]
主な遺構および現状 [12]
朝山 - 桜間の立岩トンネル(内部は素掘り)
出雲市乙立町の国道184号上り線。地形的事情から山側が下り線、川側が上り線としてそれぞれ使用されているが、上り線が線路跡。
出雲市佐田町反辺(たんべ)の明谷・呑水両トンネルと落石避け。その部分だけ国道184号が神戸川左岸に渡るため、右岸の遺構が破壊されずに済んだ。
廃線後出雲市・電鉄出雲市両駅付近が高架化されたことや市街地化が進んだこと、国道184号の改良に路盤が使用されたこと、そして営業休止から40年以上経過していることから遺構が残っていないところも少なくない。
備考[編集]
陰陽連絡鉄道としての夢は諸事情により成就できなかったが、1954年(昭和29年)1月20日建設省(当時)第16号で大社宮島鉄道の予定経路に沿って出雲市と三次市を結ぶ主要地方道が認定された。島根県道・広島県道11号出雲三次線がそれであるが、島根県飯石郡飯南町野萱以南は国道54号と重用しており、実質上広島県と出雲市を結ぶ路線とは言いがたいものであった。しかし、1993年(平成5年)4月1日に島根県道・広島県道11号出雲三次線全線がそれまで松江市と尾道市を結んでいた国道184号に組み入れられ(1992年(平成4年)4月3日政令第104号による)、ようやく出雲市は陰陽連絡交通路を有するに至った。
脚注[編集]
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^ 『人事興信録. 8版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『人事興信録. 8版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道軌道営業年鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 官報の原文ママ。1917年に原村から十日市町に改称。現在の三次市
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年5月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道統計資料. 昭和元年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第35回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年12月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「商号変更広告」『官報』1938年6月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 客車略図形式1005
^ 減速進行 「立久恵線を訪ねて」 (地理院地形図上の線路表示あり)
参考文献[編集]
京都大学鉄道研究会、1969、「失われた鉄道・軌道を訪ねて 一畑電気鉄道立久恵線」、『鉄道ピクトリアル』(227)、電気車研究会
清水啓次郎『私鉄物語』1930年(復刻アテネ書房 1993年)、149-150頁
小川功「東武鉄道の系譜」『鉄道ピクトリアル』No.647
関連項目[編集]
廃線
国道184号
カテゴリ: 中国地方の鉄道路線 (廃止)一畑電気鉄道島根県の交通史