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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
布引電気鉄道
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
概要
現況 廃止
起終点 起点:小諸駅
終点:島川原駅
駅数 6駅
運営
開業 1926年12月1日
休止 1934年9月11日
廃止 1936年10月28日
所有者 布引電気鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 7.6 km (4.7 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
国鉄:信越本線
ABZrg
国鉄:小海線(佐久鉄道)
BHF exKBHFa
0.0 小諸
STRc2 STR3 exBHF
1.1 花川
STR+1 STRc4 exBHF
2.8 押出
STR WASSER+l exWBRÜCKE
千曲川橋梁 千曲川
STR WASSER exBHF
4.0 布引
STR WASSER exBHF
6.3 布下
HST WASSER exSTR
滋野
STR WASSER exKBHFe
7.6 島川原
布引電気鉄道(ぬのびきでんきてつどう)は、かつて長野県北佐久郡小諸町(当時)から同県同郡川辺村(当時)を経て同県同郡北御牧村(当時)に至る鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。
1920年に信越本線小諸駅から本牧村望月までを結ぶ目的で設立され[1]、1926年に開業したが、経営不振が続き[2]、わずか8年後の1934年には休業し、そのまま廃止となった[3]。昭和初期の不況やバスの台頭によって休廃業した鉄道事業者の中でも「最も極端なケース」として紹介されることもある[3]。
本項では、布引電気鉄道とほぼ同時期に近接地域において建設が計画され、当鉄道との路線共用を条件に免許交付を受けた佐久諏訪電気鉄道についても一部記述する。
目次 [非表示]
1 歴史
1.1 創業の経緯
1.2 会社創立
1.3 開業後
1.4 破局
2 路線
2.1 路線データ
2.2 駅一覧
2.3 接続路線
2.4 運行状況
3 輸送・収支実績
4 車両
5 廃線跡
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
7.1 書籍
7.2 雑誌記事
歴史[編集]
創業の経緯[編集]
長野県の佐久地方は古来経済活動が活発な地域であり、中山道や北国街道などの陸上交通路にも比較的恵まれていた[3]。1888年に官設鉄道として信越本線がこの地域にも通るようになり、1893年に碓氷峠にアプト式鉄道が開通することによって信越本線は全通した[3]。その後しばらくすると、信越本線から離れた地域でも鉄道を開設しようとする動きが出てきた[3]。1915年には小諸から中込まで佐久鉄道(当時)が開通し、1919年には小海まで延伸されている[3]。
しかし、中山道が経由していた、川西地方と称される蓼科山北麓の地域は、江戸や上方との結びつきが強かったにもかかわらず[3]、信越本線や佐久鉄道が開通した後も鉄道系交通機関からは取り残された状態で[3]、川西地方に鉄道を敷設することは地域社会の課題となっていた[4]。一方、民間資本による鉄道網の拡充を図る目的で、1910年には軽便鉄道法が公布されていた[3]。
1919年には佐久地方において2つの鉄道免許申請があった。そのうちの1つが布引自働鉄道[注釈 1]で、同年7月23日に軽便鉄道法による鉄道の免許が出願された[2]。布引自働鉄道は小諸から望月までを結ぶという計画で、小諸町の繁栄策として「鉄道事業を興すことによって小諸の商圏を拡大する」という考えに基づいたもので[4]、発起人も小諸町の商人が中心であった[4]。布引自働鉄道では当初はガス力[注釈 2]による動力方式を検討していた[2]が、経常費用の面で不都合があると考えられ、蒸気動力へ変更することとし、名称も布引鉄道に変更されている[2]。もう1つは川西地方の交通問題を打開するのを主な目的として、同年11月22日に出願された佐久諏訪電気鉄道で[5][6]、こちらは小県郡県村の信越本線田中駅と諏訪郡永明村の中央本線茅野駅を結ぶ計画[5]、発起人は川西地方の有力者であった[4]。
布引鉄道の出願を受けて、鉄道院の技師が実地視察を行った。その報告内容では、建設費は94万1千円が見込まれた[7]ほか、「全線にわたって田圃の中を通るものの、地形の起伏があるため、40分の1勾配(25パーミル勾配)と半径8鎖(チェーン・約161メートル)の曲線を使用しても、土木工事は少なくない」[1]「布引観音は1年間に6万人の客が訪れるが、小諸までの距離は2マイル半(約4キロメートル)しかなく、鉄道収入は多くを見込めない」[1]という点が指摘されていた。
布引鉄道は1920年1月29日には免許を受け[2][8]、同年5月29日には佐久諏訪電気鉄道も免許を取得した[5]。
会社創立[編集]
免許取得を受け、布引鉄道は同年10月30日に資本金100万円で会社の設立を行った[7][9]。初代社長には小諸商工会会長の平野五兵衛が就任し[4]、重役も小諸商工会の会員で占められていた[4]。その後、工事施工認可の申請を行い、1922年5月13日に蒸気鉄道として認可されたが、これには佐久諏訪電気鉄道と線路共用の協議を行うことや、小諸駅構内での佐久鉄道の用地使用承認や、信越本線と並行する箇所の工事協定を結ぶことなどが条件とされていた[7]。このうち、線路共用の協議というのは、佐久諏訪電気鉄道の免許において「工事施工認可申請マデニ布引鉄道発起人ト合同ヲナスカ 又ハ協定ノ上同鉄道ト並行セル部分ハ両者共用ニ適当ナル一線路ヲ選定スベシ」という条件がつけられていた[5]。つまり、布引鉄道の発起人と合同の企業とするか、2社で同じ線路を共用するように、ということである。布引鉄道は1922年5月19日に佐久諏訪電気鉄道と線路共用の契約を締結[10]、この翌日に佐久諏訪電気鉄道も資本金500万円で会社設立に至っている[5]。
この時点では、布引鉄道では蒸気動力を使用する(蒸気機関車が牽引する列車による運行)予定であったが、このためには勾配を25パーミルから34パーミルに抑える必要があり、途中に2箇所のスイッチバックを設ける予定であった[7]。しかし、これは列車の運転には不利と予想されたため、最急勾配を40パーミルとすることにしてスイッチバックの設置を回避した[7]。このため動力方式を電気動力(電車による運行)に切り替えることとし、1922年12月に電気動力への変更認可を取得、1923年5月には社名も布引電気鉄道に改めている[7][11]。
1920年の恐慌以後の不況の中、資金調達は難航した[4]。1925年上期の時点で、布引電気鉄道の資本金100万円のうち、66万円ほどが未払い込みという有様であった[12]。これは佐久諏訪電気鉄道でも同様の状況で、佐久諏訪電気鉄道では1924年11月22日に一部工事施工の認可を得ていた[10]が、当時の農村では総額500万円の株式払い込みの資金は到底動員できないほどの過大な負担であった[10]。しかし、布引電気鉄道の沿線である島川原に東信電気第二発電所の建設が具体化し[13]、東信電気は「資材輸送の役に立つなら資金援助をしてもよい」と表明した[4]。この資金援助は表面には出ていない[13]が、布引電気鉄道と東信電気の間で資金面の話がまとまり[4]、まず小諸から島川原までを第1期線として開業させることになった[4]。
その一方で、布引電気鉄道では小諸町に対しても補助金を申請した[4]が、申請書に添付された参考書の内容は、小諸駅利用者の10分の1、田中駅などの利用者の半分を川西地方の関係者とみなし[12]、それらがそのまま布引電気鉄道の利用者になるかのごとくほのめかした[4]上、「各地の官私設鉄道の営業実績を見ると、前年度に比べて1割から2割程度の増加が見られており、川西地方の状態から考えれば増加の程度も推察できる」と述べるという代物であった[12][注釈 3]。
地形に起因する難工事と、関東大震災による市中経済の混乱によって[13]、第1期線の開通工事には4年あまりを要した[7]。なお、1924年7月には社長に白沢治太右衛門が就任した[7][注釈 4]。が、開業間近となった1926年4月には、筑摩電気鉄道(当時)の創設者でもある上條信が社長に就任している[7][16][注釈 5]。
この時期、佐久諏訪電気鉄道でも1924年11月28日から工事に着手していたが、用地買収に難航し、進捗は芳しくなかった[10]。
開業後[編集]
1926年12月1日、布引電気鉄道は小諸から島川原までの区間において、営業運行を開始した[13][17]。信濃毎日新聞には小さく広告が掲載され、同年12月6日までは運賃が半額となるサービスを行った[4]。
開業翌年の1927年の利用者数はわずかに年間約7万人程度で、1日あたり194人に過ぎなかった[18]。旅客輸送が最も多かった1928年でも年間利用者数は約13万人程度で[18]、しかも途中の布引観音への参詣客が多かったため、全線通しの利用者が少なかった[19]。そもそも、開業した区間の沿線の集落は布下・島川原とも50戸足らずで、沿線人口が極度に少なかった[18]。このような状況から、列車によっては乗客が全くいないこともあり、運転士と車掌が「42人乗りならぬシジュウフタリノリ(始終、2人乗り)」と苦笑していたという[18][注釈 6]。旅客誘致のため、夏に千曲川の河川敷で花火大会を催したりもした[18]。また、1927年1月には、地方鉄道補助法による補助金を申請しているが、省営鉄道の並行路線である上、遊覧鉄道の性質が顕著であるという理由で却下されている[19]。1928年には社長に再び白沢治太右衛門が就任した[7]。
そもそも、開業の動機が東信電気第二発電所の建設に便乗したものであり[18]、発電所の建設が本格化した1929年から1930年にかけては、貨物輸送は盛況となった[12]。昼間の列車にはどの列車も貨車を増結して走るほどで[19]、島川原での荷下ろしが間に合わず、貨車を線路上に停車させてセメント袋を投げ下ろすことすらあったという[12]。ピーク時の1929年には年間1万トンの輸送があったが[19]、貨物輸送では経費も多額となるため、経営にはあまり寄与していなかった[19][注釈 7]。
その一方、佐久諏訪電気鉄道は1927年3月に破産宣告を受けており、1929年2月に強制和解によって債務を弁済していた[10]。1930年2月19日には中信電気鉄道に社名変更している[10][20]。
破局[編集]
東信電気第二発電所(東京電力島川原発電所)
発電所が完成すると貨物輸送量は激減し、布引電気鉄道はわずかな旅客を頼りに営業せざるを得なくなった[12]。この時期の営業収入が1日50円程度であるのに対し、諸経費と利息で1日当たり100円の支払いが必要という有様であった[12]。株金の払い込みが遅れた分を毎期ごとに25万円もの借入金でまかなっていた[19]ため、金利の支払いなどがかさんだのである。
この状況を打開するためには、当初の目的地であった望月までの延長を急ぐ以外になかった[12]。しかし、昭和金融恐慌と世界恐慌による不況のさなか、資金調達は以前にも増して困難であった[12]。ようやく資金調達の目途がついたとして、島川原から切久保までの工事に着手しようとしたが、予定線の通る地域の地形は急峻であり、難工事が予測された[19]。しかも、予定線の延長線上には東信電気第二発電所の送水管が設置されており[19]、これを迂回するにも多額の工事費が必要であった[19]。1931年7月22日には「指定の期限までに工事竣功の見込みなし」という理由により、島川原から先の免許について取消処分を受けてしまった[19][21]。布引電気鉄道は同年8月に再免許を申請し、同年12月23日には認可された[19][22]が、これには「工事資金について未払込株金を整理し、調達方法について誓約書を提出すること」「中信電気鉄道より線路の共用や会社の合併などの申し出があったら応じること」という条件がつけられていた[19]。
しかし、資金の回転に事欠き、従業員の給料支払いさえ困難となった[12]。その上、1932年には長野電灯への電気料の滞納額が5800円に達し、「(同年)4月中に支払いのない場合は送電を停止する」という通告があり[12]、ついに同年5月から運行を休止せざるを得なくなった[12]。小諸町ではこの事態に黙っているわけにも行かず、更正委員会を設置して世論を喚起するに至った[12]。布引電気鉄道でも有力者を通じて融資を募り、同年7月13日から運行を再開した[12]。この年の8月29日、中信電気鉄道では鉄道起業の廃止と会社解散を決議し、翌年1月25日にその認可を得て免許は失効となり[23]、佐久と諏訪を結ぶという構想は崩れ去っていた[10]。
運行再開後も経営は好転せず、この時期の1日の電気料が15円であったのに対し、収入は14円未満であった[12]。1934年2月以降は「モーターの故障」と称してしばしば運休するようになったが、実際には電気料の不払いによる送電の停止であった[12]。蒸気・内燃鉄道として再起すべく、動力変更・ガソリン動力車の設計も出願していたが実現していない[24]。最終的には電気料金の支払いが不可能になり[19]、1934年6月18日以降、ついに電車の運行は休止したままの状態となった[19]。1934年9月11日からは正式に営業休止の許可を受けた[12]が、その後の手続きは行われず、1935年5月1日以降は「地方鉄道法に定める許可を得ない状態での営業休止」となり[19]、1936年10月28日付けで開業区間と予定線はともに免許取消し処分となり[25]、正式に廃止となった[19]。
営業中最後の社長だった白沢は不当競売工作により横領罪で起訴され、さらに株券偽造事件で逮捕されるという始末であった[12]。また、運行休止以後はレールや橋桁などが売却され、廃止状態と変わらない有様であった[19]。
路線[編集]
路線データ[編集]
路線距離:小諸 - 島川原間7.42km
軌間:1067mm
駅数:6
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(600V直流電化)
小諸変電所、電動発電機(交流側300V直流側600V)直流側の出力150KW、常用1予備1、製造所奥村電機、明治電気[26]
駅一覧[編集]
小諸駅 - 花川駅 - 押出駅 - 布引駅 - 布下駅 - 島川原駅
布引駅、島川原駅は国鉄との連絡運輸対象駅
接続路線[編集]
小諸駅:信越本線・佐久鉄道線(現・小海線)
運行状況[編集]
以下は一例である[5]。
1927年7月1日改正
1日18往復(不定期列車3往復を含む)、小諸発は5時8分発から22時30分発まで、島川原発は5時6分発から22時33分発まで
1931年4月1日改正
1日18往復(不定期列車2往復を含む)、小諸発は6時30分発から22時30分発まで、島川原発は6時32分発から22時33分発まで
全線所要時間は27分で、全線通し運賃は24銭であった[5]。布引駅で上下列車が交換していた[5]。
輸送・収支実績[編集]
鉄道統計資料、鉄道統計各年度版および、『鉄道ピクトリアル』通巻433号(1984年6月号) p.113に記載の「布引電気鉄道成績表」による。
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1927 70,722 1,225 16,284 36,263 ▲ 19,979 雑損110 25,077
1928 130,321 3,005 42,448 41,732 716 22,228
1929 122,951 9,988 35,329 40,350 ▲ 5,021 23,362
1930 94,570 6,172 27,227 24,698 2,529 11,209
1931 66,879 898 11,093 23,966 ▲ 12,873 10,407
1932 42,838 73 5,163 16,725 ▲ 11,562 11,426
1933 57,821 2,191 7,712 11,121 ▲ 3,409 4,222
1934 19,277 670 13,764 14,282 ▲ 518
車両[編集]
開業にあわせて筑摩電気鉄道(当時)から譲り受けたもので、運行休止まで使用された[24]。
デハ1-3[24]
1921年7月に名古屋電車製作所で製造された木造車体の二軸電車である[24]。当初は筑摩電気鉄道の鉄道線(当時)で使用されていたが、1924年4月に軌道線(当時)が開業した際に転属した[24]。1926年11月13日認可により布引電気鉄道に1両あたり約14,700円で譲渡された[24]。定員は42名、主電動機は出力40英馬力のものを2基搭載し、ブレーキ装置は手ブレーキのみである[24]。
デワ2[24]
1924年9月に日本車輌製造東京支店で製造された、木造車体の二軸電車である[24]。筑摩電気鉄道では鉄道線で使用されていた[24]。1926年11月13日認可により布引電気鉄道に1両あたり約8,000円で譲渡された[24]。荷重は12トン、主電動機は出力60英馬力のものを2基搭載し、ブレーキ装置は空気ブレーキと手ブレーキの併用である[24]。
休止後はモーターや機器類が売却された状態で小諸車庫に放置されており、再起は不可能な状態であった[24]。
このほか、筑摩電気鉄道からはもう1両、デハ4も譲り受ける予定であったが、筑摩電気鉄道側の都合により実現していない[24]。また、当時の従業員によればハニフと呼ばれる車両も存在したという[12]が、布引電気鉄道に入った形跡はない[24]。
廃線跡[編集]
廃止から50年近くが経過した1984年時点でも、千曲川の橋脚などが残存していた[10]ほか、線路敷が県道や町道、農道として利用されていた[10]。
脚注[編集]
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注釈[編集]
^ この自働鉄道については1921年発行の『運輸五十年史』に四鉄道が出願中とあり、矢沼商店(『官報』1919年11月22日)が自動車を改造した車両を使用することになっていた。
^ 「瓦斯」は当時日本で鉄道動力に導入が検討されつつあったガソリンエンジンを指した「ガソリン(瓦斯倫)」の誤りの可能性もあるが文献により異同あり。気体としてのガスを鉄道車両の燃料とした事例は、1934年に流山鉄道(現・流鉄流山線)が木炭ガス発生器搭載気動車を導入したのが日本での最初である。
^ 鉄道史研究会会員の山田俊明は、これを「敷設さえすればあとは何とかなるといった姿勢だったといってよい」としている[12]。
^ 白沢は糸魚川の土木業[14]白沢組の代表であり工事代金が未払いのため経営に関与した[15]。
^ これは、鉄道運営には素人だった小諸商工会の要請によるものとみられている[4]。
^ 運行開始した当初から乗客がほとんどおらず、小鳥の四十雀(シジュウカラ)にかけた「シジュウカラ電車」と揶揄された不採算路線の事例には、ほかにも池田鉄道などがある。
^ 旅客収入の1/3以下(旅客16,415円に対して貨物5,234円)であった[12]。
出典[編集]
^ a b c 谷口 (1984) p.111
^ a b c d e 谷口 (1984) p.110
^ a b c d e f g h i 山田 (1983) p.136
^ a b c d e f g h i j k l m n 山田 (1983) p.137
^ a b c d e f g h 谷口 (1984) p.116
^ 1920年5月29日鉄道免許状下付「鉄道免許状下付」『官報』1920年6月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e f g h i j 谷口 (1984) p.112
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年1月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e f g h i 谷口 (1984) p.117
^ 11月27日社名変更届出『鉄道省鉄道統計資料. 大正12年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 山田 (1983) p.139
^ a b c d 谷口 (1984) p.113
^ 『人事興信録』昭和3年(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『信州の廃線紀行』郷土出版社、1988年、62頁
^ 『日本全国諸会社役員録. 第35回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年12月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e f 山田 (1983) p.138
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 谷口 (1984) p.114
^ 『鉄道統計資料. 昭和4年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許取消」『官報』1931年7月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1932年1月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道起業廃止許可」『官報』1933年1月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e f g h i j k l m n o 谷口 (1984) p.115
^ 鉄道免許失効(北佐久郡北御牧村-同郡本牧村間 工事施工ノ認可ヲ得サルタメ)「鉄道免許失効」『官報』1936年10月30日、鉄道免許取消(北佐久郡小諸町-同郡北御牧村間 地方鉄道法37条ノ規程ニヨリ「鉄道免許取消」『官報』1936年10月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『電気事業要覧. 第19回 昭和3年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
書籍[編集]
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』6 北信越、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790024-1。
雑誌記事[編集]
谷口良忠「失われた鉄道・軌道を訪ねて (53) 布引電気鉄道」、『鉄道ピクトリアル』第433号、電気車研究会、1984年6月、 110-118頁。
山田俊明「鉄道史研究第3回 挫折した地方小鉄道」、『鉄道ジャーナル』第196号、鉄道ジャーナル社、1983年6月、 136-139頁。
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: かつて存在した日本の鉄道事業者中部地方の鉄道路線 (廃止)長野県の交通史
入間市
いるまし
入間市
Iruma Sayama Tea Field 3.JPG
狭山茶
Flag of Iruma, Saitama.svg
入間市旗
国 日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
団体コード 11225-9
法人番号 4000020112259
面積 44.69km2
総人口 147,612人
(推計人口、2017年5月1日)
人口密度 3,300人/km2
隣接自治体 狭山市、所沢市、飯能市
東京都:青梅市、西多摩郡瑞穂町
市の木 ケヤキ
市の花 茶の花
市の鳥 ヒバリ
入間市役所
市長 [編集]田中龍夫
所在地 〒358-8511
埼玉県入間市豊岡一丁目16番1号
北緯35度50分8.9秒東経139度23分28.1秒
Iruma city office.JPG
外部リンク 入間市ホームページ
入間市位置図
■ ― 政令指定都市 / ■ ― 市 / ■ ― 町 / ■ ― 村
地理院地図 Googleマップ Bing GeoHack
MapFan Mapion Yahoo! NAVITIME ゼンリン
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入間市(いるまし)は、埼玉県南西部に位置する市。人口は久喜市に次ぐ県内13位。狭山茶の主産地として知られている。
目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
2.1 市名の由来
2.2 狭山市との合併構想
3 人口
4 地域
4.1 町名等
4.2 郵便
4.3 電話番号
4.4 住宅団地
5 行政
5.1 市議会
5.2 財政
5.3 広域行政
5.4 国の施設
5.5 県の施設
5.6 市の施設
5.7 消防
5.8 警察
6 経済
6.1 工業
6.2 農業
6.3 商業(ショッピング)
6.4 金融
6.5 その他の企業
7 姉妹都市・提携都市
8 教育
9 メディア
10 交通
10.1 道路
10.2 鉄道路線
10.2.1 かつて通っていた鉄道
10.3 バス路線
10.4 コミュニティバス
10.5 タクシー
11 観光ほか
12 出身有名人
13 その他
13.1 入間市内がモデルの作品
13.2 学校給食
14 脚注
15 関連項目
16 外部リンク
地理[編集]
市の南部には、狭山丘陵の豊かな自然が広がる。
河川: 入間川、霞川、不老川
丘陵: 加治丘陵、狭山丘陵
歴史[編集]
奈良時代には、前内出窯、平安時代には、須恵器窯跡群である東金子窯跡群(窯跡群としては前内出窯を含む)が操業していた。そのうち、八幡前窯跡群や新久窯跡群は、埼玉県南部の集落に須恵器を広く供給するのみならず、武蔵国分寺の塔再建の瓦などを生産していた。 市内の中核を成していた扇町屋商店街はかつて千人同心街道・八王子通り大山道の宿場町として栄えた名残りである。
1938年(昭和13年)陸軍航空士官学校(現航空自衛隊入間基地)が開設。
1945年(昭和20年)に軍事施設が戦後進駐軍に接収され「ジョンソン基地」になる。
1956年(昭和31年)9月30日、豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村、西武町の一部(旧東金子村)が合併し、入間市の前身となる武蔵町が発足[1]。
1958年(昭和33年)10月14日、元狭山村の一部を合併。
1958年(昭和33年)航空自衛隊入間基地が発足する。
1966年(昭和41年)11月1日、武蔵町を入間町と改称した[2]上で即日市制施行[3]。入間市となる
入間と狭山の地名は入り組んだものになった。入間市立狭山小学校、狭山市立入間小学校がある。なお狭山市では地名混同を避けるため旧入間村に由来する地域名「入間地区」を2009年4月、入間村成立以前の村名に由来する「入曽地区」に改め、狭山市内の「入間地区」の名称は公式には廃止となり、現在は一部の自治会名や事業者等に残るのみとなっている。狭山市立入間小学校は少子化のため2011年3月に閉校となった。
1967年(昭和42年)4月1日、西武町を合併。ほぼ現在の市域となる。
1978年(昭和53年)ジョンソン基地が全面返還される。
1983年(昭和58年)4月1日、狭山市との境界が変更され、現在の市域となる。
1991年(平成3年)8月9日、防災行政無線運用開始。
2014年(平成26年)4月1日、防災行政無線放送等変更。
市名の由来[編集]
古代の律令制施行による国郡里制以来の郡名「入間郡」に由来する。
1966年(昭和41年)11月1日の市制施行にあたって市名を一般公募し、応募者数2332人、応募市名297点[4]の中から「入間」(いるま)が選ばれた。選出理由については、
この地域は昔から「入間野」と呼ばれており[5]、この地域で作られる生産物に「入間」の文字が一般的に用いられている。
「入」の字は「豊かな収入」を、「間」の字は「太陽を囲んだ平和な生活を営むこと」を表す。
とされる[6]。
狭山市との合併構想[編集]
狭山市・入間市合併協議会を設置し、狭山市との合併を検討していた。合併期日は2006年1月1日とし、合併方式は新設(対等)合併、新市名は「狭山市」、新市庁舎は現狭山市役所とすることとした。
しかし、市名も市庁舎も狭山市側にするという所まで譲歩したにもかかわらず、本田技研狭山工場等からの収入が薄められるといった観点での狭山市民の反対意見が多いと言うことが入間側にも伝わり、最初は積極的な意見が主流であったが徐々に入間市民に反感がうまれ、[要出典]2005年1月30日に集計された市民へのアンケートで合併反対が多数となるに至った。また、狭山市でも入間市と合併することで市民税率が上昇する可能性を嫌い、[要出典]住民投票で合併反対が多数となったため、合併協議会は同年2月3日に解散された。
人口[編集]
Demography11225.svg
入間市と全国の年齢別人口分布(2005年) 入間市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 入間市
■緑色 ― 日本全国
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
入間市(に相当する地域)の人口の推移
1970年 65,369人
1975年 83,997人
1980年 104,034人
1985年 118,603人
1990年 137,585人
1995年 144,402人
2000年 147,909人
2005年 148,576人
2010年 149,879人
2015年 148,438人
総務省統計局 国勢調査より
2003年12月16日、登録人口が15万人を突破したと報じられたが、その後15万を割ったり超えたりを繰り返している。
2013年08月01日現在、61,578世帯、150,221人。
地域[編集]
町名等[編集]
入間市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
豊岡地区
町名 町名の読み 住居表示実施年月日 住居表示実施直前の町名 備考
東町一〜七丁目 あずまちょう 1968年11月1日 大字扇町屋、大字善蔵新田、大字黒須、大字下藤沢の各一部
1982年8月1日、大字扇町屋、大字善蔵新田の各一部を東町七丁目に編入。
扇台一〜六丁目 おうぎだい 1982年8月1日 大字扇町屋、大字高倉の各一部
大字扇町屋 おうぎまちや 未実施
扇町屋一〜五丁目 おうぎまちや 1966年11月1日(一〜四) 大字扇町屋、大字高倉の各一部
1968年11月1日(五) 大字扇町屋、大字小谷田の各一部
鍵山一〜三丁目 かぎやま 1966年11月1日(一・二) 大字黒須、大字高倉の各一部
1968年11月1日(三) 大字黒須、大字高倉の各一部
春日町一・二丁目 かすがちょう 1966年11月1日 大字黒須の一部
河原町 かわらまち 1966年11月1日 大字黒須の一部
久保稲荷一〜五丁目 くぼいなり 未実施 町名地番整理実施区域
大字黒須 くろす 未実施
黒須一・二丁目 くろす 1966年11月1日 大字黒須の一部
向陽台一・二丁目 こうようだい 未実施 町名地番整理実施区域
大字善蔵新田 ぜんぞうしんでん 未実施
大字高倉 たかくら 未実施
高倉一〜五丁目 たかくら 年月日
豊岡一〜五丁目 とよおか 1966年11月1日(一〜三) 大字扇町屋、大字黒須の各一部
1968年11月1日(四・五) 大字扇町屋、大字高倉の各一部
宮前町 みやまえちょう 1966年11月1日 大字黒須の一部
東金子地区
町名 町名の読み 住居表示実施年月日 住居表示実施直前の町名 備考
大字新久 あらく 未実施
牛沢町 うしざわちょう 1968年11月1日 大字小谷田の一部
上小谷田一〜三丁目 うえごやた 年月日
大字小谷田 こやた 未実施
小谷田一〜四丁目 こやた 年月日
大字狭山ヶ原 さやまがはら 未実施
森坂 もりさか 年月日
金子地区
町名 町名の読み 住居表示実施年月日 住居表示実施直前の町名 備考
金子中央 かねこちゅうおう 未実施 町名地番整理実施区域
大字上谷ヶ貫 かみやがぬき 未実施
大字下谷ヶ貫 しもやがぬき 未実施
大字寺竹 てらだけ 未実施
大字中神 なかがみ 未実施
大字西三ツ木 にしみつぎ 未実施
大字根岸 ねぎし 未実施
大字花ノ木 はなのき 未実施
三ツ木台 みつぎだい 未実施 町名地番整理実施区域
大字南峯 みなみみね 未実施
大字木蓮寺 もくれんじ 未実施
宮寺・二本木地区
町名 町名の読み 住居表示実施年月日 住居表示実施直前の町名 備考
大字駒形富士山 こまがたふじやま 未実施
大字狭山台 さやまだい 未実施
大字高根 たかね 未実施
大字二本木 にほんぎ 未実施
宮寺 みやでら 未実施
藤沢地区
町名 町名の読み 住居表示実施年月日 住居表示実施直前の町名 備考
大字上藤沢 かみふじさわ 未実施
大字下藤沢 しもふじさわ 未実施
東藤沢一〜八丁目 ひがしふじさわ 1987年11月1日(一〜五) 大字下藤沢、大字上藤沢の各一部
1990年10月1日(六〜八) 大字下藤沢、大字上藤沢の各一部
西武地区
町名 町名の読み 住居表示実施年月日 住居表示実施直前の町名 備考
大字新光 しんこう 未実施
大字野田 のだ 未実施
大字仏子 ぶし 未実施
郵便[編集]
郵便番号
358-00xx - 狭山郵便局管轄
2007年3月までは入間郵便局が集配業務をおこなっていたが、現在は狭山郵便局が狭山市と入間市を管轄している。
郵便局
入間郵便局
入間扇町屋郵便局
入間仏子郵便局
入間黒須郵便局
西武入間ぺぺ内郵便局
入間新久郵便局
入間上藤沢郵便局
入間下藤沢郵便局
西武郵便局
金子郵便局
宮寺郵便局
電話番号[編集]
市外局番等
04-200x・290x・292x〜296x・299x - 所沢MA(入間市、狭山市、所沢市)
従来は「0429」であったが、電話番号逼迫対策のため、以下のように2度変更された。天気予報に関しては、従前と同じく「0429-177」となっている。
1998年4月29日 - 「0429-xx」から「042-9xx」へ。
2004年1月11日 - 「042-9xx」から「04-29xx」へ。
柏MA(千葉県柏市など)、鴨川MA(鴨川市)も市外局番は「04」であるが、MAが異なるため、発信時に市外局番「04」を付ける必要がある。
住宅団地[編集]
※50戸以上のものを記載。
UR(都市再生機構)
入間黒須(黒須1)
入間駅前プラザ(向陽台1)
入間豊岡(豊岡1)
市営住宅
池ノ下団地(大字小谷田)
県営住宅
入間向陽台住宅(向陽台1)
入間下藤沢住宅(下藤沢)
入間上藤沢住宅(上藤沢)
入間向原住宅(大字扇町屋)
入間東久保住宅(東町4)
入間霞川住宅(豊岡2、扇町屋2、高倉4)
入間野田住宅(野田)
入間宮の森住宅(野田)
分譲戸建て住宅
西武ぶしニュータウン(新光)
入間台団地(新久)
分譲集合住宅
東町団地(東町5)
入間扇町屋団地(久保稲荷1)
行政[編集]
市長 - 田中龍夫(田中たつお 2012年11月18日就任、2期目)
副市長 - 友山宏一(2013年4月1日就任、2期目)
歴代市長
初代
三吉道雄
2代 : 水村仁平
3代 : 木下博(5期。1992年11月18日 - 2012年11月17日)
市議会[編集]
議員定数:22
議長:横田淳一
副議長:小島清人
会派:◎は会派代表者。( )内数字は当選回数。
自由民主党入間市議団(11議席):◎宮岡治郎(6)、金子俊雄(7)、平山五郎(4)、小島清人(3)、横田淳一(3)、紺野博哉(2)、鈴木洋明(2)、松本義明(2)、内村忠久(1)、古仲リカ(1)、長谷川渉(1)
公明党入間市議団(4議席): ◎金澤秀信(4)、永澤美恵子(4)、向口文恵(3)、末次正(2)
日本共産党入間市議員団(4議席):◎安道佳子(4)、吉澤かつら(4)、小出亘(3)、佐藤正(1)
民進の会(2議席):◎坂本優子(1)、細田智也(1)
市民フォーラム(1議席):◎野口哲次(5)
財政[編集]
財政状態は良好であり、2005-2009年度は地方交付税交付金不交付団体だった。
広域行政[編集]
入間西部衛生組合 - 日高市と共にし尿処理を行っている。
埼玉県都市競艇組合 - 飯能市、加須市、本庄市、東松山市、狭山市、春日部市、羽生市、鴻巣市、深谷市、上尾市、草加市、越谷市、朝霞市、さいたま市と共に戸田競艇の開催に関する事務を行っている。
瑞穂斎場組合 - 東京都の3市1町(福生市、羽村市、武蔵村山市、西多摩郡瑞穂町)と共に火葬場施設等の設置、管理に関する事務を行っている。
彩の国さいたま人づくり広域連合 - 埼玉県と県内全市町村で構成。
埼玉西部消防組合 - 所沢市、狭山市、飯能市、日高市からなる自治体消防。
国の施設[編集]
人事院 公務員研修所
防衛省 航空自衛隊 入間基地 ※ 基地のほとんどは狭山市域。
県の施設[編集]
彩の森入間公園
埼玉県茶業研究所
さいたま緑の森博物館
市の施設[編集]
東金子支所
金子支所
宮寺支所
藤沢支所
西武支所
黒須出張所 - 黒須公民館に併設
東藤沢出張所 - 東藤沢公民館に併設
中央公民館 - 市民会館に併設
扇町屋公民館
黒須公民館
高倉公民館
東町公民館
久保稲荷公民館
東金子公民館
金子公民館
宮寺公民館
二本木公民館
藤沢公民館
東藤沢公民館
藤の台公民館
西武公民館
教育研究所 - 産業文化センターB棟3階
入間市児童センター「アイクス」
学校給食センター
入間市市民会館 - 中央公民館に併設
産業文化センター
ホールのあるA棟のほか、入間市立図書館のあるB棟を含む[7] 。
図書館 - 産業文化センターB棟1階
西武分館
金子分館
藤沢分館
体育館
武道館
西武市民運動場
黒須市民運動場
文化創造アトリエ「アミーゴ」
入間市博物館「ALIT」
青少年活動センター
「イルミン」 市民活動センター・男女共同参画推進センター
勤労福祉センター
健康福祉センター
老人福祉センター「やまゆり荘」
総合クリーンセンター
リサイクルプラザ
防災センター※常駐者なし
勤労者福祉サービスセンター - 産業文化センターA棟3階
農業研修センター
農村環境改善センター
納骨堂「入間永光苑」※2017年3月31日廃止[8] 。
消防[編集]
埼玉西部消防組合入間消防署(消防広域化前は入間市消防本部)
藤沢分署
西武分署
警察[編集]
狭山警察署(狭山市)
豊岡交番
武蔵藤沢駅前交番
入間市駅前交番
西武交番
東金子交番
宮寺・二本木交番
金子駐在所
経済[編集]
工業[編集]
市制施行以来、工場誘致を積極的に行い、県内有数の工業都市となっている。1966年(昭和41年)には武蔵工業団地を造成。更に1993年(平成5年)には同工業団地に隣接する狭山台地区に狭山台工業団地造成事業を開始、1997年(平成9年)から同地にも工場誘致を行っている。
安川電機入間事業所ソリューションセンタ
武蔵工業団地
フジパン武蔵工場
ポプラ社入間物流センター
狭山台工業団地
NTTクオリス東日本工場
安川電機入間事業所(ソリューションセンタ) - 後に工場の敷地の一部を売却し、跡地にイオン入間ショッピングセンターが完成した。
山田うどん入間セントラルキッチン(山田食品産業株式会社入間工場)
山水電気埼玉事業所(事業停止)
TEAC入間事業所・EMCセンター
NTTクオリス首都圏工場
ソーシン本社及び入間工場
三共ラヂエーター本社及び工場
帝都ゴム本社・埼玉工場
小金井精機製作所本社・工場
三井研削砥石本社・工場
タチエス武蔵工場
大陽ステンレススプリング埼玉第一、第二、第三工場、08センター
大崎エンジニアリング本社・テクニカルセンター
イチヤナギ本社・工場
ミクロ技研東京工場
入曽精密本社工場
フナソー工場
武蔵塗料製造 入間工場
杉山チエン製作所本社・工場
松田産業武蔵工場、他
わらべや日洋入間工場
ファーストフーズ武蔵工場
堀内食品工業本社工場
インデラ(ナイル商会)工場
ほか。
農業[編集]
「狭山茶」が特産物であり、現在も狭山茶の主産地である。名産品としては狭山茶のほか、線維・織物、里芋、うど、椎茸がある。
かつては乳牛や鶏を中心に畜産業も盛んだったが、ベッドタウン化と工業都市化の進行により衰退の一途を辿っている。
商業(ショッピング)[編集]
圏央道の完成が他の区間に比べて早かったことから、入間インターチェンジや、国道16号、国道463号バイパスなどが交差する地の利を活かして、沿道には、三井アウトレットパーク 入間、コストコ入間店などが立地している。
丸広百貨店入間店
イオン入間店
西武入間ペペ
アポポ商店街
SAIOS
ipot
グリーンガーデン武蔵藤沢
三井アウトレットパーク 入間
コストコホールセール入間倉庫店
金融[編集]
三菱東京UFJ銀行入間支店
埼玉りそな銀行
入間支店
武蔵藤沢支店
武蔵野銀行入間支店
埼玉縣信用金庫武蔵藤沢支店
飯能信用金庫
入間支店
黒須支店
仏子支店
入間西支店
武蔵藤沢支店
西武信用金庫入間支店
青梅信用金庫
入間支店
金子支店
JAいるま野農業協同組合
東金子支店
宮寺支店
藤沢支店
黒須支店
豊岡支店
金子支店
西武支店
その他の企業[編集]
入間ケーブルテレビ株式会社(本社)
FM茶笛(チャッピー)
ワイ・イー・データ
安川シーメンスエヌシー
ユー・エス・エスUSS埼玉会場
姉妹都市・提携都市[編集]
国内
佐渡市(旧 両津市、新潟県)- 1986年10月12日姉妹都市提携[9]
海外
ドイツの旗 ヴォルフラーツハウゼン市(ドイツ連邦共和国バイエルン州) - 1987年10月14日姉妹都市提携[10]
中華人民共和国の旗奉化区(中華人民共和国 浙江省) - 2000年5月16日友好都市提携[11]
教育[編集]
大学
私立
武蔵野音楽大学入間キャンパス
大妻女子大学狭山台キャンパス(※H27.3閉校)
高等学校
公立
埼玉県立入間向陽高等学校
埼玉県立豊岡高等学校
私立
狭山ヶ丘高等学校(※中高併設)
東野高等学校
武蔵野音楽大学附属高等学校
日々輝学園高等学校東京校(所在地は入間市下藤沢)
中学校
公立
入間市立豊岡中学校
入間市立金子中学校
入間市立武蔵中学校
入間市立藤沢中学校
入間市立西武中学校
入間市立向原中学校
入間市立黒須中学校
入間市立東金子中学校
入間市立上藤沢中学校
入間市立東町中学校
入間市立野田中学校
私立
狭山ヶ丘高等学校付属中学校(※中高併設)
小学校
公立
入間市立豊岡小学校
入間市立黒須小学校
入間市立扇小学校
入間市立東金子小学校
入間市立金子小学校
入間市立宮寺小学校
入間市立藤沢小学校
入間市立藤沢南小学校
入間市立狭山小学校
入間市立西武小学校
入間市立藤沢東小学校
入間市立藤沢北小学校
入間市立仏子小学校
入間市立新久小学校
入間市立東町小学校
入間市立高倉小学校
特別支援学校
公立
埼玉県立入間わかくさ高等特別支援学校(※2016年4月開校[12])
専修学校
私立
入間看護専門学校
メディア[編集]
コミュニティFM局
エフエム茶笛(ちゃっぴー)(77.7MHz 20W)
ケーブルテレビ
入間ケーブルテレビ
交通[編集]
道路[編集]
周辺の自治体に比べて都市計画道路の整備が進んでいる。国道16号の拡幅工事が入間市駅北口区画整理事業との兼ね合いで遅れていたが、2017年3月に工事が完了し、2車線だった区間が4車線化した。
高速道路
首都圏中央連絡自動車道(圏央道) - 入間インターチェンジ
一般国道
国道16号(神奈川県横浜市 - 横浜市)
国道299号(長野県茅野市 - 入間市)
飯能狭山バイパス
国道463号(埼玉県越谷市 - 入間市)
所沢入間バイパス
国道407号(栃木県足利市 - 入間市) - 狭山市根岸交差点から終点までは国道299号と重複。
県道
主要地方道
埼玉県道8号川越入間線
東京都道・埼玉県道63号青梅入間線
一般県道
埼玉県道・東京都道179号所沢青梅線
埼玉県道195号富岡入間線
埼玉県道218号二本木飯能線
埼玉県道219号狭山下宮寺線
埼玉県道224号武蔵藤沢停車場線
埼玉県道226号入間市停車場線
埼玉県道347号馬引沢飯能線
鉄道路線[編集]
東日本旅客鉄道(JR東日本)
八高線
金子駅
西武鉄道
西武池袋線
武蔵藤沢駅
入間市駅 - 仏子駅 - 元加治駅
かつて通っていた鉄道[編集]
中武馬車鉄道
バス路線[編集]
鉄道路線が北側の市境付近に沿って走っているため、南側の住民はおもにバスや車で駅へ向かう。ほとんどのバスは入間市駅から発着している。
西武バス
狭山営業所
飯能営業所
立川営業所・川越営業所 - 三井アウトレットパーク入間直行便一部管轄
立川バス
瑞穂営業所 - 三井アウトレットパーク入間直行便一部管轄
シティバス立川 - 三井アウトレットパーク入間直行便一部管轄
コミュニティバス[編集]
入間市内循環バス「てぃーろーど」がある。営業は西武バス狭山営業所に委託されている。
入間市から健康福祉センターへの直行バスは途中停留所でも乗降でき、コミュニティバスに近いものといえる[13] 。
タクシー[編集]
タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、川越市・所沢市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。
観光ほか[編集]
入間市文化創造アトリエ・アミーゴ
入間万燈まつり(10月)
入間茶まつり(5月3日)
彩の森入間公園
入間市博物館 - 茶をメインテーマとする。館所蔵の狭山茶の生産用具は国の登録有形民俗文化財。
さいたま緑の森博物館
桜山展望台
入間市市民会館
おとうろう祭り(4月中旬)
金子神社祭礼【金子神社例大祭】(4月下旬)
高倉寺(こうそうじ)観音堂(国の重要文化財)
ジョンソン・タウン
旧石川組製糸西洋館
出身有名人[編集]
湖月わたる(宝塚歌劇団の元星組男役トップスター)
デビット伊東(タレント)
増岡浩(ラリードライバー)
吉田裕(歴史学者)
吉川温恭(狭山茶の開祖)
金沢浄(Jリーガー)
山本僚(Jリーガー)
富所悠(Jリーガー)
小宮悦子(フリーキャスター、元テレビ朝日アナウンサー)東京都生まれ
加藤シルビア(TBSアナウンサー)
辛坊治郎(フリーキャスター、元読売テレビアナウンサー・解説委員)大阪府生まれ
門倉健(プロ野球選手)
金剛弘樹(プロ野球選手)
元気美佐恵(女子プロレスラー)
伊野尾慧(Hey! Say! JUMP)
亜沙(ボカロP) (和楽器バンド)
河井純一(ミュージシャン・MAY'S)
麻生周一(漫画家)
松井優征(漫画家)
中村亮介(将棋棋士)
中村桃子(将棋女流棋士)
池田一真(お笑い芸人)(しずる)
浜谷健司(お笑い芸人)(ハマカーン)
ゆっちゃん(お笑い芸人)(ちんぺい、元フラッパー☆)
関根裕介(俳優)
増岡加奈子(バスケットボール選手)
神山典士(ノンフィクション作家)
宮岡太郎(映画監督)
パティ(歌手)
山口祥義(公選第18代佐賀県知事)
粕谷義三(第22・23代衆議院議長)
その他[編集]
入間市内がモデルの作品[編集]
2007年4月 - 6月に放送されたTBSドラマ「夫婦道」のモデルの地である。同番組に「いるま」と書かれた物が多く出ている。最初のOPのシーンでは「新久小学校体育館」が映っている。2009年4月から6月まで、続編として水曜劇場夫婦道が放送された。
「ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜」は、市内にある出雲祝神社、ハタヤの稲荷をモデルに使用したアニメ映画である。
ジブリアニメ「となりのトトロ」では狭山茶の箱が映っている。
『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載を持つ松井優征と麻生周一の出身であることを縁として、入間市を舞台とした『暗殺教室』(松井)と『斉木楠雄のΨ難』(麻生)のコラボレーション企画「殺せんせーvs斉木楠雄~入間市最終決戦~」が『少年ジャンプNEXT!』(集英社)2012 AUTUMN及び2013 SUMMERに掲載された。前者は暗殺教室2巻、後者は7巻の、それぞれ巻末に収録されている。なお、作中に登場する架空のまんじゅう「いるまんじゅう」を実際に作ってほしいとの要望が市に寄せられたため、商品が開発され販売されている[14] 。
隣の飯能市を舞台にしたアニメヤマノススメで、入間市の桜山展望台から飯能側を見た風景がたびたび登場する。
学校給食[編集]
学校給食制度を実施している。学校給食センターか学校併設の調理場にて調理されたものを供されている。麺類に関しては、当市に工場が所在する山田食品産業株式会社からの計らいで、比較的量が多く供されている。カレー南蛮も、小中学校に1クラス当たり数リットル缶が2缶以上も提供されたことがあった。[要出典] また、狭山茶を使った狭山茶揚げパン、お茶蒸しパン、お茶団子ポンチなどが給食として出される事がある。
脚注[編集]
^ 町村の廃置分合(昭和31年9月30日総理府告示第536号)入間市例規集より、2012年1月17日閲覧。
^ 町の名称変更(昭和41年10月28日自治省告示第156号) 入間市例規集より、2012年1月17日閲覧。
^ 町を市とする処分(昭和41年10月28日自治省告示第157号) 入間市例規集より、2012年1月17日閲覧。
^ 入間(いるま)・入間(いりま)・入間野・金子・埼玉・修武・豊武・東豊岡・武州・武蔵・武蔵豊岡・豊など。
^ 『吾妻鏡』による。
^ “地名の由来(図書館いるま・こども郷土資料より)”. 入間市 (2015年3月24日). 2015年8月27日閲覧。
^ “産業文化センター”. 入間市. 2017年8月19日閲覧。
^ “納骨堂「永光苑」(平成29年3月31日廃止)”. 入間市. 2017年8月19日閲覧。
^ “姉妹都市 佐渡市の紹介”. 入間市. 2012年1月17日閲覧。
^ “姉妹都市 ヴォルフラーツハウゼン市の紹介”. 入間市. 2012年1月17日閲覧。
^ “友好都市 奉化市の紹介”. 入間市. 2012年1月17日閲覧。
^ “平成28年4月(予定)開校予定、県西南部地域特別支援学校(仮称)について”. 埼玉県教育委員会. 埼玉県 (2015年7月21日). 2015年8月27日閲覧。
^ “健康福祉センター直行バスのご案内”. 入間市. 2017年8月19日閲覧。
^ “いるまんじゅう”. 入間市観光協会. 2017年8月19日閲覧。
関連項目[編集]
狭山茶
ホッタラケの島
外部リンク[編集]
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入間市
入間市観光協会
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表 話 編 歴
Flag of Iruma, Saitama.svg 入間市の町・字
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