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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
伊予鉄道森松線
Iyotetsu logo.svg 森松線
森松線が存在したころの伊予立花駅構内(1930年頃)
森松線が存在したころの伊予立花駅構内
(1930年頃)
概要
現況 廃止
起終点 起点:伊予立花駅(現・いよ立花駅)
終点:森松駅
駅数 3駅
運営
開業 1896年1月26日
廃止 1965年12月1日
所有者 Iyotetsu logo.svg 伊予鉄道
路線諸元
路線総延長 4.4 km (2.7 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
過去の軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
横河原線
BHF
0.0 伊予立花駅
xABZlf
横河原線
exBHF
2.1 石井駅
exKBHFe
4.4 森松駅
森松線(もりまつせん)は、かつて愛媛県松山市の伊予立花駅(現・いよ立花駅)から森松駅までを結んでいた伊予鉄道の鉄道路線である。
国道33号沿いに重信川北岸を通る路線であった。椿祭り開催日には、臨時列車も運転されていた。乗客の減少により、1965年(昭和40年)12月1日に廃止され、跡地は国道33号の拡幅用地になった。
目次 [非表示]
1 廃止時の路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 廃線後の状況
7 脚注
8 関連項目
廃止時の路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):4.4km
軌間:1067mm
駅数:3駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞式
運行形態[編集]
廃止直前時にはおおむね1時間に1本程度。『伊予鉄道百年史』に記されたところによれば、廃止が検討されたときのデータとして、伊予立花から上り松山市方向に向かう乗客が1日1,100名程度で、そのうち850名は朝ラッシュ時の利用だったとのこと。さらにその大半が定期旅客で、日中は空気輸送状態だったようである。その時代から、既に平行する国道33号には10 - 15分間隔で国鉄バス(松山高知急行線)も含めてバスが運行されており、乗客の大半はそちらを利用していたこともあって、バス移管が決定された。
廃止直後約1年間、森松線定期旅客への移行措置としてバス定期の割引が行われた。
[icon] この節の加筆が望まれています。
歴史[編集]
営業当時の森松駅(1930年頃)
1893年(明治26年)6月22日 臨時総会で立花 - 森松間線路延長を決議。
1894年(明治27年)
7月3日 森松線延長に免許[1][2]。
9月16日 臨時総会で森松延長興業費予算更生案紛糾、利害調査委員を選出。
9月23日 総会継続会で森松延長工事廃止を仮決議。
10月10日 臨時総会で先の仮決議を否決。
10月25日 臨時総会で森松延長を決議。
1896年(明治29年)1月26日 森松線が開業[3]。
1931年(昭和6年)10月12日 軌間が762mmから1067mmに改軌される[4]。
1954年(昭和29年)2月1日 ディーゼル化により、坊っちゃん列車(SL)が引退する。
1965年(昭和40年)12月1日 森松線廃止。
駅一覧[編集]
伊予立花駅 - 石井駅 - 森松駅
接続路線[編集]
伊予立花駅:伊予鉄道横河原線
廃線後の状況[編集]
現在の伊予鉄バス森松営業所
廃線直後に行われた国道33号の拡幅改良工事やその後の旧沿線の発展に伴って、終点および起点付近を除きほとんどの遺構は残されていない。
廃線後、沿線およびその延長上である砥部町が松山市のベッドタウンとして大きく発展。さらに、1979年(昭和54年)に愛媛県総合運動公園陸上競技場(ニンジニアスタジアム。愛媛FCのホームスタジアム)、1988年(昭和63年)にはとべ動物園といった大型集客施設が建設された。これらの要因により、国道33号の渋滞は激化の一途をたどっていった。そして、これに拍車をかけるように1997年(平成9年)には松山自動車道松山インターチェンジが開通。国道33号は廃線区間とほぼ一致する天山交差点から拾町交差点にかけて連日大渋滞を引き起こしている。
代替輸送機関とされた路線バス(立花駅前 - 森松間[5])については、現在でも伊予鉄道自動車部とJR四国バス(国鉄バスの路線を継承)によって平日上り74本・下り70本の運行(約10分間隔)がなされている。これは、伊予鉄道の北条線や空港線、10番線などと並んで四国地区で最も高頻度運行が行われているバス路線(区間)のひとつとなっており、運行時間帯も6時台 - 23時台[6]と、利便性は高い。
しかしながら、先述した渋滞などにより、ラッシュ時間帯を中心に定時運行を行うのは難しくなっているのが実情であり、オムニバスタウン事業による施策のひとつとして、公共車両優先システムの導入をしているものの、抜本的な解決には至っていない。
このようなことを背景に、森松線を復活させ砥部まで普通鉄道やLRTで延伸するという構想があるものの、予算などの都合で具体化はしていない[7]。
脚注[編集]
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^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 官報では8月3日「私設鉄道敷設免許状下付」『官報』1894年8月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1896年2月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『五十年史』p.177(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 伊予鉄道自動車部の停留所名。ジェイアール四国バスでは、それぞれ伊予鉄立花駅前・森松本町となる。
^ 23時台に運行されるのはナイトバスのみ。運行日以外は、22時台までの運行となる。
^ 知事に寄せられた提言(20年6月) - 愛媛県
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
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表 話 編 歴
伊予鉄道ロゴ 伊予鉄道の路線
カテゴリ: 四国地方の鉄道路線 (廃止)伊予鉄道愛媛県の交通史
道後鉄道
道後鉄道(どうごてつどう)は、かつて愛媛県松山市に鉄道路線を持っていた鉄道会社で、現在では伊予鉄道市内線の一部となっている。
目次 [非表示]
1 概要
2 歴史
3 路線
4 輸送・収支実績
5 車両
5.1 車両数の推移
6 脚注
7 関連項目
8 参考文献
概要[編集]
1888年(明治21年)の伊予鉄道開業にて、三津浜港から松山市内への旅客輸送の便が図られるようになったが、それでもなお道後温泉までは別の手段で出向く必要があった。また、折から軽便鉄道敷設が流行しだした時代でもあり、伊佐庭如矢などの道後関連有力者によって、主として道後温泉への温泉浴客を輸送する目的で、1893年(明治26年)道後鉄道[1]が設立された。その後1894年(明治27年)に鉄道免許状が下付され[2]、1895年(明治28年)、一番町-道後間ならびに道後-三津口間を762mm軌間で開業した。
その後は乗客は順調だったものの、営業成績は芳しくなかったようで、主立った株主が大阪資本になった後、1896年(明治29年)第七十九銀行頭取の古畑寅造[3]が社長に就任した。その後古畑は南予鉄道の社長にも就任したのち、伊予鉄道の当時の監査役であった井上要の音頭により、伊予鉄道と道後鉄道・南予鉄道の3社が合併することとなった。
結果として道後鉄道は、1900年(明治33年)に開業からわずか5年で伊予鉄道に吸収合併された。その後、松山電気軌道との競争・合併を経て、現在では伊予鉄道城北線・城南線の一部区間を構成している。なお、合併後に線路が移設された区間も多く、かつての道後鉄道の路線[4]をそのままたどっているのは一部の区間となっている。
歴史[編集]
1893年(明治26年)9月14日 - 会社設立
1894年(明治27年)1月24日 - 鉄道免許状下付[2]
1895年(明治28年)8月22日 - 一番町 - 道後、道後 - 三津口開業[5]
1896年(明治29年)9月29日 - 第七十九銀行頭取古畑寅造が社長就任
1900年(明治33年)5月1日 - 伊予鉄道に事業が継承される[6][7]
路線[編集]
一番町(現在の大街道電停付近) - 一万 - 道後(現:道後温泉駅)、道後 - 木屋町 - 三津口(現:古町駅付近)
一番町 - 道後間、道後 - 木屋町間ともに現在のルートとは違う。一部区間は生活道路[8]となっているところもある[1]。
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(斤) 総益金(円) 総損金(円) 差引純益金(円)
明治28年下半期 270,494 69,346 4,020.419 3,461.323 559.096
明治29年上半期 353,661 143,374 5,289.848 4,529.504 760.344
明治29年下半期 388,561 165,417 5,940.825 4,023.104 1,917.721
明治30年上半期 356,441 131,316 6,162.700 3,745.281 2,417.419
明治30年下半期 332,365 193,566 5,713.047 3,925.400 1,787.647
明治31年上半期 329,057 151,477 6,463.831 4,058.231 2,405.600
明治31年下半期 275,267 186,359 5,945.654 4,655.241 1,290.413
明治32年上半期 328,314 206,489 6,966.212 4,501.211 2,465.001
明治32年下半期 349,120 207,698 7,229.374 4,336.023 2,893.351
明治33年上半期 239,823 136,130 5,082.364 3,807.697 1,274.667
『我社の三十年』より
車両[編集]
車両数の推移[編集]
年度 機関車 客車 貨車
1896 2 6 2
1897 2 6 2
1898 2 9 2
1899 2 9 2
1900 2 9 2
「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治38年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
脚注[編集]
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治29年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 「私設鉄道免許状下付」『官報』1894年1月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『財界名士失敗談. 下巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 廃止鉄道ノート 松山電気軌道 (1920年の 「伊予鉄道 電気」 を参照)
^ 『鉄道局年報. 明治28年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「私設鉄道株式会社免許状下付」『官報』1900年6月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「私設鉄道株式会社任意解散」『官報』1900年6月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ ゆったりとした曲線を描く廃線跡道路の形状を、地図上に見て取れる区間もある。
関連項目[編集]
伊予鉄道城北線
参考文献[編集]
伊予鉄道株式会社 『伊予鉄道百年史』、1987年、pp. 42-45。
大野鐵、速水純 『伊予鉄が走る街 今昔』 JTBパブリッシング、2006年。ISBN 4-533-06410-8。
伊予鉄道電気株式会社『我社の三十年』1919年(国立国会図書館デジタルコレクション)(復刻日本経済評論社 明治期鉄道史資料第2集第3巻)
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 伊予鉄道かつて存在した日本の鉄道事業者1893年設立の企業
松山電気軌道
往年の松山電気軌道。八段電停(現市役所前)にて
松山電気軌道(まつやまでんききどう)とは、明治末期から大正時代末期にかけて愛媛県松山市(当時は温泉郡三津浜町と松山市、道後湯之町)を中心に軌道(路面電車)および電気事業を経営していた会社。松電(まつでん)と呼ばれていた。
伊予鉄道に並行して三津浜港と松山市中心部・道後温泉を結ぶ軌道路線を建設し、10年間にわたり伊予鉄道と激しい乗客争奪戦を繰り広げた。伊予鉄道に吸収合併され会社は消滅したが、路線の一部は伊予鉄道城南線・本町線の一部として現存している。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 歴史
2.1 年表
3 電停一覧
4 輸送・収支実績
5 車両
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 外部リンク
路線データ[編集]
江ノ口 - 道後(現・道後温泉)間
駅数:26駅
軌間:1435mm(標準軌)
複線区間:なし(全区間単線)
歴史[編集]
瀬戸内海主要航路の発着が三津浜港から高浜港へ変更されたとき、伊予鉄道も現在の高浜線の一部にあたる三津駅 - 高浜駅間を延伸開業した。
これにより三津浜町の地位低下を危惧した地元有志が松山電気軌道を計画した。そこで鉱山成金の清家久米一郎と弁護士の夏井保四郎[1]を担ぎだし、清家久米一郎が筆頭株主になり夏井保四郎が社長に就任した[2]。ところが会社を設立したものの資金難に直面し夏井が退職。そして清家もなげだしてしまう。かわりに社長になった渡邊修[3]が金策に走ることになったがようやく1911年(明治44年)に福澤桃介の援助を受けることになり[4][注釈 1]、9月に江ノ口(現三津浜港内港付近) - 住吉町(三津駅に近接) - 三本柳(現三本柳交差点付近) - 江戸谷(現西衣山駅南側付近) - 知新園前(現在の衣山5丁目付近) - 衣山(高浜線の衣山駅南側付近) - 六軒家 - 車庫前(現四電工愛媛支店) - 萱町(古町駅に近接) - 本町 - 西堀端 - 一番町 - 道後のルートで標準軌の軌道線(一部専用軌道)を開業することができた。当時は既存の鉄道路線に並行する鉄道路線の建設は厳しい制限があったが、伊予鉄道は私設鉄道法に準拠しているのに対して軌道である松山電気軌道は軌道条例に準拠しており、根拠法が異なるため並行しているにもかかわらず特許を得たのであった。
伊予鉄道も同年に古町 - 道後間を1,067mm軌間に改軌して電化し電車の運行を開始した。この区間と松山電気軌道は並行しており、乗客の奪い合いとなった。駅で鈴を鳴らして客を奪い合い、運賃の値下げ競争をする両社の激しい客引き合戦は有名であったという[注釈 2]。また、1913年(大正2年)から松山市内で電気事業を開始し、既存の伊予水力電気と契約者を奪い合った。そして伊予水力電気が1916年(大正5年)に伊予鉄道と合併したことで、電力事業においても伊予鉄道と競争するようになった。
一方伊予鉄道との合併話は開業当時から浮かんでは消えの繰り返しであった。松山電気軌道は負債を抱えておりそれが重くのしかかっていた。松山電気軌道は全通(1912年)を前に共倒れを懸念して伊予鉄道に合併の打診をしている。伊予鉄道社長の井上要は「その時期にあらず」と拒否したところ渡邊、福澤は監督している鉄道院に調停を依頼した[注釈 3]。井上は鉄道院より呼び出しを受け合併するよう説諭されることになった。結局井上は受け入れず運賃についての協定を結ぶことにして合併は実現しなかったのである[注釈 4]。やがて1年が過ぎ松山電気軌道は1913年上期において借入金48万円を計上した。ここにいたり松山電気軌道の大口債権者である三井物産大阪支店長が仲介に乗り出し井上も合併を決断することになる。1913年(大正2年)12月に役員間において合併契約を締結した。ところが松山電気軌道の株主総会では合併反対派が主導権を握り契約を破棄することになってしまった。この責任を取り渡邊、福澤は役員を辞職することになった。 そして1914年(大正3年)10月に近藤貞次郎が社長に就任した。このときに三井物産は回収されない機械代金37万円余に業を煮やし伊予鉄道と合併しなければ債権を関西信託に譲渡し破産を申請すると強硬姿勢を示した。これには従わないわけにはいかず1915年(大正4年)8月に伊予鉄道と再度合併契約を締結したのであるが、またも株主総会で紛糾し契約を破棄することになってしまった。この責任を取り近藤も役員を辞職することになったのである。 この2度の破談に対し三井物産は破産も辞さない姿勢をみせた。この緊急事態に対し松山市の五十二銀行他四行は地元企業救済のため三井物産と交渉し債権の立替払いを申し出た。これが認められ、松山電気軌道は3度目の合併契約に向け株主総会を開くことになった。大株主達は賛成に傾いていたが多数の小株主と株主外の政友会党員らが反対運動を繰り広げ3回目の合併契約も破談となってしまった。
こうして開業以来10年間にわたり競争が続いたが、1921年(大正10年)に体力のない松電が伊予鉄に吸収され解散し、競争は終息した。
なお、合併後の1923年に全線の軌間を標準軌 (1435mm) から伊予鉄道の既存路線と同様の狭軌 (1067mm) に改軌しているが、高浜線との並行路線であった江ノ口 - 萱町間はそれからわずか4年後に廃止されている。また、現市内線の本町線の一部(本町四丁目 - 西堀端間)、城南線(西堀端 - 道後温泉間)は松山電気軌道の路線だった区間だが、城南線の大街道 - 勝山町間と本町線の本町四丁目 - 本町三丁目間は線路が移設されており、松山電気軌道当時とはルートが変わっている(本町線は休止後の復活時に移設)。
路面電車のほか、伊予鉄道の海水浴場併設遊園地「梅津寺遊園地」に対抗して三津浜に海水浴場(現在は掘削されて内港になっている)、衣山に「知新園」という遊園地(現衣山5丁目にある溜池「古池」周辺の高台に存在していたと言われている)を開業していたが、伊予鉄合併時に廃止されている。
現在は、三津街道上の軌道が撤去されているので、古町駅西方の宮前川橋梁跡や江戸谷電停付近に痕跡が残るのみである。
年表[編集]
1907年(明治40年)4月 松山電気軌道株式会社設立[8]。
1907年(明治40年)10月14日 軌道特許状下付[9]。
1911年(明治44年)9月1日 住吉 - 本町、札ノ辻 - 道後(現在の道後温泉)間開業(標準軌)。
1911年(明治44年)9月19日 本町 - 札ノ辻間開業(同上)。
1912年(明治45年)2月7日 江ノ口 - 住吉間開業(同上)。
1913年(大正2年)2月1日 電燈電力事業開始[10]。
1917年(大正6年)5月19日軌道特許失効(松山市小唐八町-同市西堀端町間 指定ノ期限内ニ工事ニ着手セサルタメ)[11]。
1921年(大正10年)4月1日 伊予鉄道に吸収合併される。
1923年(大正12年)6月30日 江ノ口 - 道後間の軌間を1435mm(標準軌)から1067mmに改軌。
1926年(大正15年)5月2日 一番町 - 勝山町を経路変更し複線化、勝山町 - 道後間が複線化される。
1927年(昭和2年)11月1日 高浜線に並行している三津街道上の軌道(江ノ口 - 三本柳 - 萱町間)を廃止(廃線後は三津街道及びその拡張用地になっている。また、古町や上一万の伊予鉄道、道後鉄道との立体交差も撤去されている)
1929年(昭和4年)4月1日 古町 - 萱町間開業。
1936年(昭和11年)5月1日 西堀端 - 裁判所前(現在の県庁前)間複線化。
1946年(昭和21年)8月19日 西堀端 - 本町 - 萱町 - 古町間休止認可。
1948年(昭和23年)7月1日 西堀端 - 本町三丁目(現在の本町四丁目)間が本町線として開業。本町 - 古町間は復活せずに廃止となった。
電停一覧[編集]
江ノ口(現三津浜港内港付近) - 堀川 - 住吉町(高浜線三津駅近く) - 新立 - 三本柳(現三本柳交差点) - 山西(初代山西駅付近=現在の新田高校付近) - 江戸谷(高浜線西衣山駅近く) - 知新園前(西衣山駅近く) - 衣山(高浜線衣山駅とは離れていた) - 六軒屋 - 車庫前 - 萱町 - 本町 - 札の辻 - 西堀端 - 南堀端 - 榎前(廃止=現在の市役所前交差点) - 八段 - 裁判所前 - 一番町 - 御宝町 - 六角堂 - 上一万 - 農事試験場前 - 公園前 - 道後
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1911 746,535 20,773 15,521 5,252 利子2,185 5,935
1912 2,681,340 60,130 39,602 20,528 利子4,338 19,751
1913 1,301,569 38 59,949 47,141 12,808 電燈電力16,895利子3,689 電燈電力3,302 23,948
1914 1,529,448 6,322 55,992 43,377 12,615 電気供給28,000利子1,118 電気供給5,108 33,087
1915 1,482,943 8,795 45,861 31,505 14,356 電気供給31,216 電気供給21,056 18,925
1916 2,135,620 14,235 57,767 39,360 18,407 38,498 11,554 21,653
1917 2,275,793 9,120 59,526 47,096 12,430 電気供給56,517 17,341 24,377
1918 1,896,997 8,579 61,973 75,504 ▲ 13,531 副業75,906利子1013 33,044 26,925
1919 2,540,822 7,881 104,104 84,278 19,826 電気供給100,272 42,312 30,027
1920 2,484,345 7,760 147,593 115,291 32,302 137,154 55,170 30,431
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料各年度版
車両[編集]
在籍した車両は合計18両すべて木製単車。開業時に梅鉢鉄工所から10両(1 - 10)を購入。1912年福澤桃介がかかわる博多電灯軌道より元東京鉄道の車両を譲り受け11 - 15号に、さらに大阪市電より二階建て電車3両譲り受け、16号車と電動有蓋貨車と電動無蓋貨車に改造した。16号車もまもなく電動無蓋貨車に改造された。改造により不用になった二階建て電車の車体は三津浜海水浴場の開設時期に「二階附電車納涼台」として使用したという新聞広告[12]が残っているが、具体的にどのような形で使用されていたかは未詳である[1]。
改軌後に1 - 10号と無蓋電動貨車は能勢電気軌道に譲渡され、無蓋電動貨車は有蓋電動貨車に改造され1950年代まで使用された。後にこの台車(ヘルブランド ドイツ製)は「大阪市電保存館」内で保管されている。
脚注[編集]
注釈[編集]
[ヘルプ]
^ 監査役に松永安左衛門[5]。
^ 白粉又は石鹸を購入すると道後松山-三津浜間の往復乗車券を進呈(新聞広告)[6]。
^ 鉄道院総裁は政友会の原敬。
^ 井上は競争となる並行路線に特許を与えながら後になって合併をすすめる監督官庁に対し不審の念を抱いている[7]。
出典[編集]
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^ 第二十八議会衆議院議員写真列伝(国立国会図書館デジタルコレクション)略歴及び肖像(政友会)
^ 『伊予鉄電思ひ出はなし』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 第二十八議会衆議院議員写真列伝(国立国会図書館デジタルコレクション)略歴及び肖像(政友会)
^ 『伊予鉄電思ひ出はなし』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第20回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『五十年史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『伊予鉄電思ひ出はなし』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治41年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道院年報. 明治42年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『五十年史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許失効」『官報』1917年5月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『五十年史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
井上要『伊予鉄電思ひ出はなし』伊予鉄道電気社友会、1932年(国立国会図書館デジタルコレクション)
伊予鉄道電気株式会社 編『五十年史』伊予鉄道電気、1936年(国立国会図書館デジタルコレクション)
伊予鉄道百年史、1987年
和久田康雄 『失われた鉄道・軌道を訪ねて〔12〕松山電気軌道」『鉄道ピクトリアル』No.149 1963年9月号電気車研究会p56-60
和久田康雄「松山を走った標準軌間の電車」『鉄道ピクトリアル』No.802 No149発表以降の公文書等の調査により訂正
和久田康雄『日本の市内電車 -1895-1945-』成山堂書店、2009年、124頁
外部リンク[編集]
「松山電気軌道由来の主電動機。」編集長敬白 2013年5月30日
カテゴリ: かつて存在した日本の軌道事業者かつて存在した路面電車路線部分廃止路線愛媛県の交通史松山市の交通松山市の歴史日本の電気事業者 (戦前)
住友別子鉱山鉄道
下部鉄道の廃線跡
予讃線新居浜 - 中萩から
住友別子鉱山鉄道(すみともべっしこうざんてつどう)は、かつて1977年(昭和52年)まで愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。また角石原駅 - 石ケ山丈駅間は「上部鉄道」、惣開駅 - 端出場駅間などは「下部鉄道」と呼ばれた。
伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道(山岳鉱山鉄道としては日本初)として1893年(明治26年)に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。
目次 [非表示]
1 歴史
2 上部鉄道
2.1 概要
2.2 路線データ
2.3 駅一覧
2.4 接続路線
3 下部鉄道
4 車両
4.1 蒸気機関車
4.2 車両数の推移
5 現在の姿
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
歴史[編集]
1893年(明治26年)
5月 - 下部鉄道 惣開 - 端出場間が開業。
12月 - 上部鉄道開業。
1911年(明治44年)10月7日 - 上部鉄道廃止。
1927年(昭和2年)7月 - 住友別子鉱山が発足、同社の鉱山鉄道となる。
1929年(昭和4年)11月5日 - 地方鉄道に転換、一般旅客営業開始[1]。
1936年(昭和11年)9月16日 - 星越 - 新居浜港間が開業。
1937年(昭和12年)6月21日 - 住友別子鉱山が住友炭礦と合併し住友鉱業に社名変更。
1942年(昭和17年)11月12日 - 国鉄連絡線(星越 - 新居浜間)が開業。
1946年(昭和21年)1月29日 - 住友鉱業が井華鉱業に社名変更。
1950年(昭和25年)
3月1日 - 井華鉱業の金属部門が独立し別子鉱業発足、同社の路線となる(井華鉱業は1952年に住友石炭鉱業と社名変更)。
5月1日 - 電化完成、電気機関車導入。
1952年(昭和27年)6月 - 別子鉱業が住友金属鉱山に社名変更。
1955年(昭和30年)1月1日 - 一般旅客営業廃止、鉱山鉄道に再転換。
1967年(昭和42年)1月31日 - 国鉄連絡線廃止。
1975年(昭和50年)9月3日 - 星越 - 新居浜港間廃止。
1977年(昭和52年)2月1日 - 惣開 - 端出場間(9.9km)廃止、下部鉄道全廃[2]。
上部鉄道[編集]
上部鉄道
概要
現況 廃止
起終点 起点:角石原駅
終点:石ケ山丈駅
駅数 3駅
運営
開業 1893年12月
廃止 1911年10月7日
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 5.5 km (3.4 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
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角石原駅
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一本松駅
uexKBHFe uexKBSTa
石ケ山丈駅
uexSTR
索道
uexKHSTa uexKBSTe
端出場駅
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下部鉄道 -1977
概要[編集]
上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていた。路線は急カーブが連続し、線路用地は石垣を築き確保されていた。
別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅(かどいしはら)で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅を経由し、石ケ山丈駅(いしがさんじょう)で降ろされ、索道で下部鉄道(後述)の端出場駅(はでば)に輸送された後、新居浜港へ運搬されていた。ここより標高の低い第三通洞の開通により役目を終え、1911年(明治44年)10月7日、18年間で廃止された。
路線データ[編集]
路線距離:角石原(標高約1100m) — 石ケ山丈(標高約835m)間の 5.5km
軌間:762mm
または、28ポンドレール単線、軌間2.6フィート(79.24cm)[3]
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
駅一覧[編集]
角石原駅 - 一本松駅 - 石ケ山丈駅
接続路線[編集]
石ケ山丈駅 - 下部鉄道(端出場駅との高低差690mは自動式の複式索道で結ばれた)
下部鉄道[編集]
「住友金属鉱山下部鉄道」を参照
車両[編集]
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蒸気機関車[編集]
1 - 10
1892年 - 1901年、クラウス製の車軸配置0-4-0(B)、11トン級のタンク機関車。
11
1927年、日立製作所製の車軸配置0-6-0(C)、14トン級のタンク機関車。1948年、日本鉱業佐賀関鉄道に譲渡。
12, 13
1913年、クラウスの車軸配置0-6-0(C)、18トン級のタンク機関車。旧小坂鉄道7, 8。1928年入線。
14
1927年、汽車製造製の車軸配置0-6-0(C)、15トン級のタンク機関車。旧耶馬渓鉄道10.1948年、日本鉱業佐賀関鉄道に譲渡。
15, 16
1931年および1934年、汽車製造製の車軸配置0-6-0(C)、17トン級のタンク機関車。
17, 18
1937年および1941年、日本車輌製造製の車軸配置0-6-0(C)、18トン級のタンク機関車。
19
1943年、立山重工業製の車軸配置0-6-0(C)、21トン級のタンク機関車。
21, 22
1943年および1945年、立山重工業製の車軸配置0-6-0(C)、20トン級のタンク機関車。
30
1944年、立山重工業製の車軸配置0-6-0(C)、16トン級のタンク機関車。
40
1930年、若津鉄工所製の車軸配置2-4-2(1B1)、20トン級のタンク機関車。旧日本鉱業佐賀関鉄道ケ801
車両数の推移[編集]
年度 蒸気機関車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1929 10 21 0 333
1930 11 24 5 377
1931 12 24 5 379
1932 12 25 5 379
1933 12 25 5 379
1934 12 23 5 391
1935 13 23 5 391
1936 13 23 5 407
1937 14 23 5 426
現在の姿[編集]
上部鉄道の現在の姿
元角石原駅
1番目の壊れた鉄橋
脚注[編集]
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^ 「地方鐵道運輸開始」『官報』1929年11月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『世界の鉄道』1978年版、朝日新聞社、138頁
^ 「別子三〇〇年の歩み 明治以降を中心として」25ページ 住友金属鉱山株式会社 平成3年5月9日発行 を参照
参考文献[編集]
『鉄道廃線跡を歩く』 JTB、1995年
沖田祐作『三訂版 機関車表』1996年、滄茫社
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
マイントピア別子 - ごく短いものの、一部区間が観光鉄道として運行中。
別子銅山記念館 - 当時の車両の別子1号などが静態保存されている。
別子銅山
鉱山鉄道
外部リンク[編集]
『別子開坑二百五十年史話』(国立国会図書館デジタルコレクション)上部鉄道写真
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