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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
釜石鉱山鉄道
路線総延長 16.0 km
軌間 762 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
KHSTa
釜石
ABZrf
国鉄:山田線
STR exKBHFa
0.0 釜石製鉄
STR exBHF
2.4 小佐野
HST exSTR
小佐野
STR exBHF
? 松倉
HST exSTR
松倉
STR exBHF
6.9 大畑
STR exBHF
9.0 洞泉
HST exSTR
洞泉
STRlf xKRZu STRlg
exBHF STR
11.6 大松
exBHF STR
? 唄貝
STRrg xKRZu STRrf
HST exSTR
陸中大橋
STR exKBHFe
16.0 大橋
STR uexKBHFa
STR
荷物運搬用索道
STR
国鉄:釜石線
釜石鉱山鉄道(かまいしこうざんてつどう)は、かつて釜石市の釜石 - 大橋間に存在した釜石鉱山から釜石製鉄所への鉱石を輸送するための鉄道である。
日本で3番目の鉄道路線(鉱山専用鉄道なので異論もある)として開業したものの僅か3年で廃止され、その後馬車鉄道として復活し後に蒸気運転に切り替えられ、何度も経営母体が変わってその過程で旅客扱いをするようになり、さらには並行して国鉄釜石線が開通してその旅客扱いが廃止されるなど、複雑な経緯をたどっている。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 沿革
2.1 工部省釜石鉄道
2.2 釜石鉱山馬車鉄道
2.3 蒸気鉄道化以後
3 旅客列車運行概要
4 駅一覧
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 車両数の推移
8 脚注および参考文献
9 関連項目
路線データ[編集]
1934年当時
路線距離:釜石 - 大橋間16.0km
駅数:8
軌間:762mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
起点の鈴子(釜石)より先の製鉄所内にも線路がはりめぐされ、さらに釜石港の桟橋に向かう線路が敷設され、製品の出荷や北海道炭、くず鉄、雑貨など船荷の輸送に使用された。その総延長は57.0km、ポイント数は520箇所、ダイヤモンドクロッシングは23箇所であった[1]
沿革[編集]
工部省釜石鉄道[編集]
1880年(明治13年)
2月17日 工部省釜石鉄道として、釜石桟橋 - 大橋間18kmの本線と小佐野 - 小川山(わらびの)間4.9kmの支線、さらに工場への支線を含めた総延長26.3kmの鉱山専用鉄道試運転開始。
ただし、この時点で本線はまだ終点の大橋には達しておらず、支線も全線竣工は1881年(明治14年)9月であった。
9月7日 製鉄所・鉄道仮開業式(主賓の皇族が来釜しなかったため。式典自体は予定通り実施された)。
新橋駅 - 横浜駅(現、桜木町駅)間鉄道、京都駅 - 神戸駅間鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道である。軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであったが、レールは16kg平底と丈夫なものを使用した。機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入したサドルタンク式の3両を使用した。
1882年(明治15年)
3月1日 製鉄所燃料用の炭焼竃の大半が失火により焼失して製鉄所が休止。それに伴い、遊休施設となった釜石鉄道は一般開放され旅客運輸を開始[2]。
12月13日 大橋からの列車が雪のため停止ができずに唄貝に留置していた車両に衝突。死傷者を出す事故となった[3]
12月 官営製鉄所の操業停止と鉱山閉山により、鉄道全廃。
燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコークス使用の目処が立たなかったことが原因という。機関車2両と軌条は、大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄道)へ売却された。このため、同鉄道も当初は838mm軌間となった。残りの1両はブレーキ故障による衝突事故のため運転台が大破していたため阪堺鉄道では引き取らず、のちに九州の三池港務所にわたり応急修理して使用された。
釜石鉱山馬車鉄道[編集]
1884年(明治17年) 政府御用商人の田中長兵衛と、その娘婿であった横山久太郎が鉱山再興に着手。
1887年(明治20年) この前年、日本国内初の高炉による連続出銑に成功したのを踏まえ、7月に釜石鉱山田中製鉄所が設立される。
1894年(明治27年) 製鉄所と大橋の鉱山を結ぶ釜石鉱山馬車鉄道が、釜石町 - 甲子村間に軌間762mmで開業(5月23日特許11月28日開業許可)[4][5]。
蒸気鉄道化以後[編集]
1911年(明治44年)11月3日 馬車鉄道は蒸気運転に切り替えられた上で区間が変更され、鈴子(後、釜石→釜石製鉄) - 大橋間15.52km間は二代目・田中長兵衛の個人経営鉱山鉄道(地方鉄道)となる[6][7]。
1914年(大正3年) 釜石電気により、大橋 - 仙人峠間に貨物用の索道開通。また、岩手軽便鉄道(後、釜石西線→釜石線)の遠野駅 - 仙人峠駅(後、廃止)間開通。
1915年(大正4年)11月23日 岩手軽便鉄道、花巻駅 - 仙人峠駅間全通。
以上により、鉄道・索道による花巻 - 釜石連絡ルートが完成。 旅客は仙人峠を約3時間の徒歩で超えて連絡していたが、現在の釜石線の原型ができたことになる。
1917年(大正6年)3月 法人の田中鉱山に鉱石鉄道譲渡
1924年(大正13年)7月11日 田中鉱山が三井財閥下に入り、釜石鉱山に社名変更。またこの年、笛吹峠経由によって、遠野 - 釜石間の自動車線(バス)が運行を開始。
1934年(昭和9年)2月1日 日本製鐵設立により、釜石製鉄所は同社の経営となる。
1939年(昭和14年)9月17日 鉄道省山田線の盛岡駅 - 釜石駅間全通。省線と釜石鉱山線の間で連絡運輸を開始。
1940年(昭和15年)2月22日 鉱石鉄道は、日本製鐵傘下の日鉄鉱業の経営となる。
1944年(昭和19年)10月11日 日鉄鉱業線の一般旅客・貨物営業廃止[8]、専用鉄道に転換。釜石駅 - 陸中大橋駅間に、日鉄鉱業線に並行して貨物線の釜石東線が開業。
1945年(昭和20年)6月15日 釜石東線の旅客営業開始。
1950年(昭和25年)10月10日 足ヶ瀬駅 - 陸中大橋駅間開業に伴い、釜石西線・釜石東線を統合して花巻駅 - 釜石駅間の釜石線全通。前後して日鉄鉱業線で残されていた通勤旅客輸送も廃止され、富士製鐵の鉱石貨物専用線となる。
1965年(昭和40年)4月1日 全線廃止。
市街地を鉄道が通過していたことから、自動車交通量が増えた道路を拡張する際に支障となるといった理由で廃止された。
旅客列車運行概要[編集]
1920年12月末
混合列車2往復、貨物列車4往復[9]
1922年2月改正当時
運行本数:鈴子 - 大橋間2往復
所要時間:55-58分
1941年11月15日改正当時
運行本数:釜石製鉄 - 大橋間5往復半
所要時間:55-61分
駅一覧[編集]
名称 駅間距離(km) 所在地 設置日 備考
釜石 釜石町釜石第十四地割 1911年11月3日[7] 開業時鈴子1930年12月1日釜石へ変更[10]、その後釜石製鉄[11]
小佐野 2.4 甲子村第十四地割 1922年4月1日[12]
大畑 4.5 甲子村第九地割 1911年11月3日[7]
洞泉 2.1 甲子村第五地割 1920年5月2日[13] 開業時貨物駅1927年に一般駅になる[14]
大松 2.6 甲子村第三地割 1911年12月24日[15]
大橋 4.4 甲子村第一地割 1911年11月3日[7]
『鉄道停車場一覧. 昭和9年12月15日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
雑誌記事によれば戦後の専用鉄道時代に小佐野 - 大畑間に松倉、大松 - 大橋間に唄貝があるが[16]、戦前の地方鉄道時代には見当たらない[17]、なお鉄道省文書には大松大橋間、釜石起点13.410km付近に信号所新設という記録がある[18]
釜石製鉄駅は現在の国道283号上に存在した。
洞泉駅は、釜石線の洞泉駅のやや南東にあり、駅の西側で釜石線が日鉄鉱業線を跨ぎ越していた。
大橋駅手前でも釜石線と日鉄鉱業線が立体交差しており、大橋駅は停車駅型スイッチバックの終着駅であった。
接続路線[編集]
釜石製鉄駅:山田線(釜石駅)
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円)
1911 5,977 34,167 8,279 8,041 238
1912 41,622 213,607 53,382 52,547 835
1913 37,072 249,269 59,225 58,864 361
1914 40,077 202,046 53,022 51,273 1,749
1915 36,173 158,076 43,431 42,328 1,103
1916 56,840 198,870 68,085 59,061 9,024
1917 59,927 215,763 73,054 88,322 ▲ 15,268
1918 74,327 237,447 102,417 118,538 ▲ 16,121
1919 76,900 184,676 124,981 142,633 ▲ 17,652
1920 89,216 158,441 234,579 273,543 ▲ 38,964
1921 62,913 77,734 139,568 134,218 5,350
1922 58,585 68,793 142,700 134,247 8,453
1923 63,017 86,285 172,794 151,280 21,514
1924 65,109 88,287 178,408 156,119 22,289
1925 60,902 104,418 183,874 138,767 45,107 鉱山339,117
1926 59,874 134,225 217,480 152,902 64,578
1927 45,025 153,608 231,716 165,355 66,361
1928 40,829 154,748 244,374 182,500 61,874
1929 41,822 192,226 307,449 219,726 87,723 雑損2,049
1930 33,495 182,736 304,599 227,963 76,636
1931 24,804 140,786 216,566 145,830 70,736 償却金2,135
1932 19,254 165,502 219,973 122,333 97,640 財産価格償却益69,932 償却金69,907
1933 27,493 243,783 339,699 194,468 145,231
1934 46,734 332,103 318,519 108,392 210,127
1935 64,253 384,119 326,545 84,400 242,145
1936 75,057 447,252 383,037 102,001 281,036
1937 103,430 395,592 350,166 102,022 248,144
1939 257,145 346,545
1941 709,601 573,295
1943 1,002,011 1,236,654
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
車両[編集]
車両数の推移[編集]
年度 機関車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1911 3 2 3 104
1912 3 3 3 204
1913-1916 5 3 3 274
1917 5 4 3 334
1918 7 4 3 334
1919 9 4 9 661
1920 10 4 9 671
1921-1922 11 4 9 671
1923 10 4 9 671
1924 10 4 9 693
1925 10 4 9 262
1926 9 4 9 282
1927 9 5 9 282
1928 9 5 9 336
1929 9 5 6 348
1930 12 5 6 360
1931-1932 15 5 6 360
1933 17 5 6 360
1934-1937 5 5 6 71
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
脚注および参考文献[編集]
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^ 清野正衛「釜石製鉄所における構内輸送」『鉄鋼界』昭和35年6月号、73頁
^ 「陸中国釜石大橋間鉱山用鉄道落成に付人民へ乗車を許す件」『官令全誌 : 傍訓字解. 第1号』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「釜石鉱山分局鉄道汽車衝突即死負傷人等ノ件」『 公文録・明治十五年・第百七十八巻・明治十五年十一月~十二月・工部省』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
^ 「馬車鉄道布設特許」『官報』1894年6月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「馬車鉄道開業許可」『官報』1894年12月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年11月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1911年11月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道運輸営業廃止」『官報』1944年11月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道及軌道類別表第2編』 アジア歴史資料センター Ref.C07060355000 78-79頁
^ No.45「同上駅名変更ノ件」『日鉄鉱業(元釜石鉱山)(三)・自昭和二年至昭和六年』356頁
^ 『時間表』昭和15年10月号(時刻表復刻版)
^ 「地方鉄道停留場設置」『官報』1922年4月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道停車場設置」『官報』1920年7月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ No.1「洞泉停車場位置並工事方法変更ノ件」『日鉄鉱業(元釜石鉱山)(三)・自昭和二年至昭和六年』
^ 「私設鉄道停車場使用開始」『官報』1912年1月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 馬場正夫「釜石製鉄所専用線を訪ねて」『鉄道ピクトリアル』No.170
^ 今尾 (2008) および鉄道省 (1937)
^ No.15「信号新設ノ件」『第一門・監督・三、地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』2 東北、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790020-3。
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、p. 263。ISBN 4-88540-048-1。
鉄道省 『日本鉄道史』上編、1921年、pp. 293-299。(国立国会図書館デジタルコレクション)
大内豊「釜石港から鉱山へ いわて鉄道物語28」、『盛岡タイムス』2004年11月17日。
大内豊「3時間で結んだ釜石鉱山馬車鉄道 いわて鉄道物語104」、『盛岡タイムス』2005年4月27日。
大内豊「釜石鉱山軽便鉄道 いわて鉄道物語30」、『盛岡タイムス』2004年11月20日。
『日鉄鉱業(元釜石鉱山)(三)・自昭和二年至昭和六年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
『第一門・監督・三、地方鉄道・イ、免許・日鉄鉱業(元釜石鉄道)・昭和十六年~昭和十七年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目[編集]
釜石鉱山鉄道E形蒸気機関車
釜石鉱山鉄道C1 20形蒸気機関車
カテゴリ: 東北地方の鉄道路線 (廃止)岩手県の交通史専用鉄道釜石鉱山鉄道釜石市の交通釜石市の歴史馬車鉄道
玉野市営電気鉄道
玉野市営電気鉄道
概要
現況 廃止
起終点 起点:宇野駅
終点:玉遊園地前駅
駅数 13駅
運営
開業 1953年4月5日
廃止 1972年4月1日
所有者 備南電気鉄道→玉野市
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 4.7 km (2.9 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流1,500 V 架空電車線方式[注 1]
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
BOOT
宇高連絡船 -1991
0.0 宇野駅
exSTR
国鉄:宇野線
STRrf exBHF
0.7 広潟駅
exBHF
0.9 玉野高校前駅
exTUNNEL1
天狗山トンネル
exBHF
1.4 西小浦駅
exBHF
1.8 玉野市役所前駅
exDST
1.9 古塩浜信号所
exTUNNEL1
中山トンネル
exBHF
2.6 藤井海岸駅
exBHF
3.1 玉野保健所前駅
exTUNNEL1
大仙山トンネル
exBHF
3.3 大聖寺前駅
exWBRÜCKE
白砂川
exBHF
3.5 三井造船所前駅
exBHF
3.7 玉駅
exBHF
4.1 玉比咩神社前駅
exBHF
4.4 玉小学校前駅
exKBHFe
4.7 玉遊園地前駅
当路線のモハ100形は高松琴平電気鉄道に譲渡され、750形として使用された
撮影・農学部前駅付近 (1999年11月)
塗装変更された後の760号
撮影・高松築港駅(2005年3月23日)
玉野市での保存のために整備される760号
撮影・琴電仏生山工場(2006年9月18日)
保存された760号
撮影・すこやかセンター(2010年10月17日)
玉野市営電気鉄道(たまのしえいでんきてつどう)は、かつて岡山県玉野市の宇野駅から玉遊園地前駅を結んでいた玉野市運営の鉄道路線。
玉野市電とも称されていたが、「市電」といっても熊本県荒尾市の荒尾市営電気鉄道同様、軌道法による路面電車ではなく、地方鉄道法による鉄道路線であった。なお、正式名称は「玉野市電気鉄道」である。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 歴史
3 駅一覧
3.1 接続路線
4 輸送実績
5 車両
6 注釈
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
概要[編集]
元々、備南電気鉄道が国鉄宇野線から延びていた三井造船の工場への専用線を有効活用する形で、1953年(昭和28年)に開業させた。資金難から開業が遅れ、用意したモハ100形電車も山形県の蔵王高速電鉄(未成線)の注文流れであったという。長期的には玉から渋川を経由して児島まで達する計画であったが、前述の資金難から専用線を活用できた玉までの開業にとどまった。元々専用線であったため市街地を大きく迂回しており、乗客は少なく、赤字から脱却できず玉野市に譲渡された。
玉野市営となってからは乗客を増やすため玉遊園地前までの路線延長が行われたが、玉野市の中心が玉から宇野に移ったことや、両備バスが岡山への路線バスを増発したことなどの要因が重なり、通学利用を除けば乗客数は伸び悩んだ。玉野市が引き継いでからも毎年赤字続きで、1972年(昭和47年)の廃止まで一度も黒字になったことはなかった。
電気鉄道ではあったが、電力供給設備が老朽化して保守もままならなくなったことや、運行コストを削減する目的で、1964年(昭和39年)に三重県の三岐鉄道と熊本県の熊延鉄道より移籍した気動車による運行に切り替えられた(これはくりはら田園鉄道など同様の例がある)。開業時からの車両であったモハ100形3両は翌1965年(昭和40年)に瀬戸内海対岸の高松琴平電気鉄道(琴電)に売却され750形となった。
高松琴平電気鉄道で運行されていた750形のうち最後まで現役として残っていた760号が、同鉄道の車両冷房化の推進に伴い、2006年夏にも引退するという話が出たことから、その電車を玉野市に里帰りさせようと市民有志が「玉野市電保存会」を結成して募金活動をはじめとした運動を進め、同年引退した760号は同会によってフェリーで再び瀬戸内海を渡り玉野市へ里帰りを果たして玉野市総合保健福祉センター「すこやかセンター」のグラウンドで静態保存されている。
廃線後は、ほぼ全線に渡って自転車道として整備されており、途中には遺構が残っている場所も数多くある。
路線データ[編集]
路線距離:宇野 - 玉遊園地前4.7km
駅数:13駅(起終点駅含む)
軌間:1,067mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(開業当初は直流1,500Vであったが、後に非電化となる)
歴史[編集]
1949年(昭和24年)12月19日 備南電気鉄道が宇野 - 水島間31.4kmを施設工事認可される。
1950年(昭和25年)4月1日 備南電気鉄道株式会社が設立される。
1953年(昭和28年)4月5日 備南電気鉄道により宇野 - 玉(後の三井造船所前)間3.5kmが開業。車両は電車(モハ101、102、103)3両であった。
1955年(昭和30年)
10月1日 玉 - 玉橋間0.2kmを延伸開業する。今までの玉駅(初代)を三井造船所前駅に、玉橋駅を玉駅にそれぞれ改称する。
12月14日 宇野 - 玉野高校前間にある築港国道広潟踏切で走行中の電車と両備バスが衝突し、双方の乗客などあわせて4人が負傷する。これが同線初の負傷者が発生した事故となる。
1956年(昭和31年)
3月24日 経営難のため「備南電気鉄道」の営業は玉野市に移管され市営となり「玉野市営電気鉄道」となる。
7月21日 玉野市役所前 - 藤井海岸間の宇野駅起点1.86km地点に古塩浜信号所を開設し、行き違い運転を始める。
1958年(昭和33年)7月20日 玉野保健所前 - 三井造船前間の宇野駅起点3.31km地点に大聖寺前駅を開業する。
1959年(昭和34年)6月15日 玉野高校前 - 玉野市役所前間の宇野駅起点1.36km地点に西小浦駅を開業する。
1960年(昭和35年)
4月1日 宇野 - 玉野高校前間の宇野駅起点0.71km地点に広潟駅を開業する
8月3日 玉 - 玉遊園地前間1.0kmを延伸開業する。
10月1日 宇野線電化に伴う国鉄宇野駅改良工事完成にあわせて国鉄ホームへ乗り入れを開始する。
1962年(昭和37年)4月9日 和歌山県の野上電気鉄道から制御車(クハ201)1両を購入する。
1964年(昭和39年)
11月17日 経営難のため電車から気動車への動力変更に先立って気動車の試運転を開始する。
12月24日 動力方式の変更を行い気動車の運転を開始。電車の運転を取り止める。ただし、架線や架線柱などの設備は廃止まで残されていた。
1965年(昭和40年)3月 余剰になっていた電車3両が高松琴平電気鉄道へ売却される。
1966年(昭和41年)3月12日 経営難のため、当時の玉野市長が鉄道の廃止を表明する。
1968年(昭和43年)6月 沿線の地元自治会・町内会・利用者などが市電廃止反対の署名運動を始める。
1971年(昭和46年)9月30日 玉野市議会で、玉野市電の廃止案が決議され、同年度末での廃止が決定する。
1972年(昭和47年)
3月31日 運転最終日で全便無料のさよなら運転を実施し、営業が終わる。
4月1日 全線廃止。
9月 廃線跡の自転車道化の工事が始まる。
1974年(昭和49年)4月 廃線跡の自転車道化の工事が完了する。
2006年(平成18年)
9月24日 琴電で使用されていた電車のうち1両(元モハ103号、琴電760号)が玉野市電保存会に寄贈され、41年ぶりに高松から玉野へ里帰りを果たす。
10月22日 里帰りした電車の「里帰り記念式」が行われる。
駅一覧[編集]
全駅岡山県玉野市に所在。
廃止日は1972年(昭和47年)4月1日。
駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 開業日 備考 現在の様子
宇野駅 - 0.0 1953年4月5日 1960年10月1日に国鉄ホームへ
乗り入れ開始で乗り場変更 駅舎建て替えのため遺構なし。
現在の宇野駅前交番付近に当時のホームがあった。
広潟駅 0.71 0.71 1960年4月1日 県道22号広潟歩道橋付近。自転車道起点。
玉野高校前駅 0.21 0.92 1953年4月5日 ホーム跡は自転車道脇の道路になる。観音寺 (玉野市)が徒歩5分にある。裏山の展望台からは宇野築港が見渡せる。
西小浦駅 0.44 1.36 1959年6月15日 ベンチが置かれ休憩所になる。
玉野市役所前駅 0.39 1.75 1953年4月5日
古塩浜信号所 0.11 1.86 1956年7月21日 沿線の住宅に痕跡有り。
藤井海岸駅 0.73 2.59 1953年4月5日
玉野保健所前駅 0.46 3.05 1953年4月5日 ホームへ繋がっていたアパートの階段跡が残存。
大聖寺前駅 0.26 3.31 1958年7月20日 旧駅付近に石柱が残る。
三井造船所前駅 0.22 3.53 1953年4月5日 ※旧玉駅
1955年10月1日に駅名変更 当時、車庫や事務所などがあった所。跡地は三井造船の敷地となる。
玉駅 0.17 3.70 1955年10月1日 ※旧玉橋駅
開業日に即日改称 跡地は玉商店街のイベント広場になる。
玉比咩神社前駅 0.43 4.13 1960年8月3日
玉小学校前駅 0.30 4.43 1960年8月3日
玉遊園地前駅 0.24 4.67 1960年8月3日 駅前には公園がある(現存)。
備前地方では遊具がある市街地の公園を指して「遊園地」と呼ぶ慣習があり、玉野市条例上の正式名称は「児童遊園地」であり、これが駅名の由来となった。
接続路線[編集]
事業者名は廃線時のもの。
宇野駅:国鉄宇野線・宇高連絡船(連絡船は1990年に休止、翌年廃止)
輸送実績[編集]
年度 輸送人員(千人)
1958 1,216
1963 1,756
1966 1,580
1970 1,439
私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
電車 - 塗色はクリーム色と緑色の塗り分け。
モハ100形 (101 -103)
1951年 日立製作所製。前述にあるように蔵王高速電鉄へ納入予定だったものが開業に至らずにキャンセルとなったものを、備南電気鉄道が開業時に引き取ったとされる。1965年、電車運転終了に伴い高松琴平電鉄に譲渡。
クハ200形 (201)
ラッシュ時に増結の必要から1962年 野上電気鉄道クハ102(初代)を譲受。元は1928年 加藤車輌製半鋼製単車のデハ1形6で、1953年に車体延長とボギー車化・制御車化したもの。 電車運転終了後は三井造船所前駅の側線に廃線まで留置された。
気動車 - 1964年の入線に際し全車九州車輌で整備工事を受けている(受註元は帝国車輌)。塗色はクリーム色と茶色。
キハ101 - 1934年 日本車輌製造製国鉄キハ41097が、1951年 三岐鉄道へ払い下げられてキハ80形81となったものを譲受。入線時の改造で変速機を液体式に交換した。
キハ102・103 - 1950年 汽車製造製の熊延鉄道ヂハ101・102。1964年の廃線によりヂハ103(→キハ104)と共に玉野市営が譲受。前面2枚窓で片側には荷物台を設置。
キハ104 - 1935年 日本車輌製の元島原鉄道キハニ100形104。1949年に熊延鉄道ヂハ103となったものを譲受。熊延での改造で中央の扉を埋めて2扉車となり、玉野市営に入線時には機関交換と変速機の液体式への変更を受けた。
注釈[編集]
^ 1964年に非電化となる
脚注[編集]
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関連項目[編集]
廃線
玉野市電保存会
ののちゃん - 玉野市出身のいしいひさいちの漫画。舞台は玉野市がモデルで、当路線をモチーフとした「市電」が登場する。
外部リンク[編集]
玉野市電保存会
カテゴリ: 中国地方の鉄道路線 (廃止)岡山県の交通史玉野市の交通玉野市の歴史