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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。
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相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。
『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。
対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。
一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
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一局の碁をお楽しみください。
当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
初心者の方も、対局できるようになっております。
ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。
囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。
入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。
「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。
オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
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推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
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当サイトも、及ばずながら、がんばります。
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
ヒラキ (囲碁)
ヒラキは囲碁用語の一つで、すでに打たれた自分の石から辺へ向かって展開するように打つ手を指す。根拠の確保や勢力圏の拡大を目指す手である。打たれた手と壁の間に石がある場合や、打たれた手の近辺に自分の石がある場合はヒラキとは言われない。動詞では「ヒラく」「開く」と表現する。英語では「extension」。
概要[編集]
上図の白1 - 黒4および黒6・白7がそれぞれ「ヒラキ」の実例である。白1は白△3子からの勢力圏拡大と根拠の確保を図った手。また黒2・白3・白7はツメも兼ねているため、ヒラキヅメと呼ぶこともある。黒4のようにヒラキの間が二路である場合を「二間ビラキ」、白1のように三路である場合「三間ビラキ」と称する。
勢力確保のためには、一つずつ石を並べていくよりも大きくヒラいた方が速く勢力圏を拡大できる。しかし白3のように大きくヒラくと、黒8のように相手の打ち込みを喫する可能性も高くなる。しかし黒8は白が2子で構えている所に黒が1子で乗り込んできたわけで、次に打つ白石と合わせて1対3の兵力で戦える、という見方も出来る。このように相手に打ち込ませないようにするか、それとも相手に打ち込ませてその石を攻めて得を図ろうとするか、どちらを選ぶかが布石の重要な考えになる。
根拠を確保する目的のヒラキでは一間では狭すぎ、三間では薄いので、黒4のように二間ビラキが基本とされる。辺に石があり、相手がその石に迫ってきた場合は、二間ビラキをすることで根拠を確保するのが大事とされる。
ただし上辺の白△のように2子が縦に並んでいる場所では、この勢力によって打ち込みの威力を緩和できるため、三間までヒラける。これを格言で「二立三析」(「析」はヒラキの意)と言う。同様に「三立四析」「四立五析」という言い方もする。
茨城県の石材用手押軌道群
(稲田人車軌道から転送)
茨城県の石材用手押軌道群(いばらきけんのせきざいようておしきどうぐん)では、茨城県で産出される石材(花崗岩)の輸送を目的として敷設された軌道について述べる。採石場から最寄りの駅まで人力で輸送していた。トラックの進出により軌道は撤去された。
目次 [非表示]
1 樺穂興業
1.1 路線データ
1.2 輸送・収支実績
2 稲田軌道
3 羽黒軌道
4 岩間人車軌道
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク
樺穂興業[編集]
筑波鉄道樺穂駅より加波山[1]で産出される真壁御影石を搬出するため敷設された。
樺穂興業[2]は1921年(大正10年)10月10日[3]に設立された軌道法に基づく事業者。兼業として石材採掘販売もおこなった。筑波鉄道に駅用地の提供をして樺穂駅が1922年(大正11年)3月20日に開業になり、1923年(大正12年)3月21日 軌道特許状[4]が下付されると加波山の採石場から樺穂駅まで軌道を敷設、8月28日に開業した[3]。片勾配を利用して人力により運んだ[5]。貨物取扱いは年々増加したが樺穂駅の開設費用負担により開業以来かなりの間赤字決算を続けた。戦後燃料の供給が安定するとトラック輸送に切り替わり、廃止日は1954年(昭和29年)9月30日であるがそれ以前から休止していた。
路線データ[編集]
路線距離:樺穂村地内、開業時2.84km、廃止時3.7km
軌間:609mm = 2ft
輸送・収支実績[編集]
年度 貨物数量(噸) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 雑収入(円) 雑支出(円) 支払利子(円)
1923(大正12)年 1,500 2,034 2,644 ▲ 610 1,629 2,322
1924(大正13)年 4,660 7,022 10,173 ▲ 3,151 8,008 9,451
1925(大正14)年 6,118 6,591 5,275 1,316 9,705 8,131 1,094
1926(昭和元)年 10,220 12,514 10,163 2,351 1,053 583
1927(昭和2)年 9,291 14,658 12,649 2,009 916
1928(昭和3)年 10,515 19,397 13,755 5,642 償却金2,881 908
1929(昭和4)年 10,383 19,279 15,951 3,328 償却金1,000 588
1930(昭和5)年 6,699 11,281 11,461 ▲ 180 償却金400 830
1931(昭和6)年 5,311 7,186 6,353 833 858
1932(昭和7)年 5,803 7,822 6,227 1,595 償却金700 819
1933(昭和8)年 6,021 8,126 6,298 1,828 償却金950 774
1934(昭和9)年 4,431 6,291 6,008 283 746
1935(昭和10)年 5,087 5,751 5,556 195 600
1936(昭和11)年 5,486 6,169 5,129 1,040 396 549
1937(昭和12)年 6,403 報告書未着
1939(昭和14)年 8,181 11,500 11,445 55
1941(昭和16)年 6,975 12,380 10,884 1,496
1948(昭和23)年 4,733
1949(昭和24)年 3,114
鉄道院鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、鉄道統計年報、地方鉄道軌道統計年報より(1937年まで国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧)
稲田軌道[編集]
水戸線稲田駅まで周辺の採石場から稲田御影石を搬出するため敷設された。
1896年(明治29年)東京の石材業者鍋島彦七郎は稲田を訪れ、ここに良質な花崗岩(御影石)が無尽蔵にあること、東京からも至近であることに注目し、開発に乗り出した。当時水戸鉄道(→日本鉄道)が開通していたが稲田には駅がなかったため笠間駅まで山から6キロ以上の距離を人力や馬力で運ばねばならず大変な輸送であった。そこで鍋島は地元民の協力のもと土地1550坪を買収しこれを駅用地として日本鉄道に提供し1897年(明治30年)に稲田に貨物駅が誕生した。同時に堂峰、西沢の採石場から駅までトロッコ軌道を敷設し輸送効率をあげた。当初は軌条に木材(樫)を使用したので過重積載があると切損事故がおこり運行に支障が出たので後に鉄製に交換した。
しばらくして東京馬車鉄道が電化されることになり路面敷石として稲田御影石が大量注文をうけ、稲田駅は石材の発送でにぎわった。稲田には業者が増加し、中野喜三郎や土屋大次郎がそれぞれの採石場から稲田駅までトロッコ軌道を敷設した。1920年(大正9年)には中野喜三郎が中心となり石材業者が茨城軌道株式会社を設立し[6]、稲田駅から仏頂山まで9ポンド鉄製軌道を敷設(6キロ、茨城軌道線)。また長山佐七が土屋線の茅場より鏡ヶ池を通って仏頂山裏の奈良駄峠の採掘場まで軌道を敷設した。これは隧道があるなどかなり大掛かりであったが採算がとれず数年で閉山してしまい軌道は撤去された。戦後になりトラックが採石場に直接乗り入れるようになると人力による輸送では立ち行かず、次々と撤去されていき、最後の軌道が撤去されたのは1965年(昭和40年)のことであった。
1896年(明治29年) - 1897年(明治30年) - 石材業者鍋島彦七郎が堂峰、西沢の採掘をてがけ、木製軌道(鍋島線)(2キロ)を敷設。後に9ポンドの鉄製軌条に交換
1903年(明治36年) - 中野喜三郎の中野組(後の中野組石材工業)が烏帽子(→前山)の採掘場から稲田駅まで12ポンド鉄製軌条を敷設(中野線)
1906年(明治40年) - 土屋大次郎が茅場、大広間に9ポンドの鉄製軌条を敷設(土屋線)
1918年(大正7年) - 鍋島商店稲田事務所の事業をその支配人だった初代高田愿一(高田商店、後の株式会社タカタ)が継承する。
1919年(大正8年) - 稲田沢より山口にいたる道路の改修により軌道の一部を撤去
1920年(大正9年) - 中野喜三郎が中心となり石材業者が茨城軌道株式会社を設立す。稲田駅から仏頂山まで9ポンド鉄製軌道を敷設(6キロ、茨城軌道線)。のちに茨城軌道は石材輸送をトラック輸送に切り替えたため軌道線を日東石材株式会社に譲渡した。
時期不明 - 長山佐七が土屋線の茅場より鏡ヶ池を通って仏頂山裏の奈良駄峠の採掘場まで軌道を敷設(8キロ)。採算がとれず数年で閉山し、軌道撤去。
1952年(昭和27年) - 茅場、大広の土屋線の軌道撤去。
1957年(昭和32年) - 岩倉、西沢、堂峰の軌道(高田線)撤去。
1965年(昭和40年) - 前山から駅に通じる中野線撤去。
羽黒軌道[編集]
岩瀬町で産出されている花崗岩は羽黒石と呼ばれており、明治中期より盛んになった。1904年(明治37年)4月に石材積込みの貨物駅として水戸線に羽黒駅が設置されるようになると翌年に石材業者の大貫亀吉らは池亀山-羽黒駅間(6キロ)に石材輸送のトロッコを敷設した。後には山口山まで延長した。
岩間人車軌道[編集]
常磐線岩間駅より難台山まで軌道が敷設されていた。
難台山の花崗岩は1890年(明治23年)頃から採掘されたようである。採掘された石材は大八車や馬車、舟で運ばれていた。やがて1895年(明治28年)に鉄道が開通すると輸送力も向上し大規模な開発がおこなわれるようになる、東京神田の日本石材株式会社は難台山から岩間駅まで軌道の敷設を計画したが地元住民の反対もあり開山は遅れ1912年(明治45年)頃になったようである。しかし難台山の花崗岩は石質が硬く採掘に手間取ること、石に白斑が散見されることなど問題が多くこの開発は稲田御影石には及ばなかった。そのため昭和初期になると閉山してしまった。撤去された軌条は軍に供出されたと伝えられている。
脚注[編集]
^ 加波山の花崗岩採掘のはじまりは英国人指導者によるものとされ、加波山の採石場より岩瀬駅までトロッコ軌道(8キロ)が敷設された。しかし輸送費がかさみ休止されたという。鍋島彦七郎はここにも調査に訪れたが先例を聞き断念したという。『稲田御影石材史』52頁
^ 『日本全国諸会社役員録. 第30回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1923年3月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 中川によれば決算書から見た限りでは沿線の石材業者が貨車を乗り入れてその通行料を徴収する方式をとっていたとのこと。
^ 帝国銀行会社要録. 昭和8年(21版)(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
中川浩一 『茨城の民営鉄道史』 筑波書林、1981年、190 - 191、236 - 240頁 - 樺穂興業
吉田明雄 「加波山のふもと 樺穂興業軌道の面影」『鉄道ピクトリアル』No.434 1984年7月号、104-105頁 - 樺穂興業
小林三郎 『稲田御影石材史』 稲田石材商工業協同組合、1985年、308 - 313頁 - 稲田軌道
笠間市史編さん委員会編 『笠間市史 下巻』 笠間市、1998年 - 稲田軌道
岩間町 『岩間町史』 岩間町、2002年、813 - 815頁 - 岩間人車軌道
岩間町史編さん資料収集委員会編 『図説岩間の歴史』 岩間町教育委員会、1991年、196頁 - 岩間人車軌道
堀淳一 「消えた鉄道 レール跡の詩」そしえて1983年 - 岩間人車軌道
茨城県史編さん総合部会編 『茨城県史 市町村編1』 茨城県、1972年。
『石材・石工芸大事典』鎌倉新書、1978年、72頁 - 羽黒軌道
葛飾区郷土と天文の博物館編 『帝釈人車鉄道-全国人車データマップ』 葛飾区郷土と天文の博物館<かつしかブックレット15>、2006年
外部リンク[編集]
中野組石材工業株式会社会社沿革 昭和33年頃のトロッコ軌道の写真が掲載
株式会社タカタ会社沿革
カテゴリ: 専用鉄道かつて存在した日本の軌道事業者人車軌道筑波鉄道採石
阿部九洲男
あべ くすお
阿部 九洲男
本名 伊東 石太郎(いとう いしたろう)
別名義 春見 堅太郎(はるみ けんたろう)
阿部 九州男
生年月日 1910年7月24日
没年月日 1965年11月2日(満55歳没)
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市寿町
(現在の同県同市中区寿町)
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 俳優
ジャンル 劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)
活動期間 1929年 - 1965年
配偶者 木下双葉(死別)
東龍子 (再婚)
主な作品
『水戸浪士』(1936年)
『忠臣蔵』(1937年)
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阿部 九洲男(あべ くすお、1910年7月24日 - 1965年11月2日[1])は、日本の俳優である。初期の芸名は春見 堅太郎(はるみ けんたろう)など、本名は伊東 石太郎(いとう いしたろう)である[2]。
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1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
3 註
4 外部リンク
人物・来歴[編集]
1910年(明治43年)7月24日、神奈川県横浜市寿町(現在の同県同市中区寿町)に「伊東石太郎」として生まれる[1][2]。
満19歳を迎える1929年(昭和4年)、古海卓二監督の紹介で京都の市川右太衛門プロダクションに入社[2]、「春見堅太郎」の芸名で[2]、同年、城戸品郎監督の『髪』に出演、大貫三郎衛門役を演じる。市川右太衛門に師事する[3]が、1931年(昭和6年)には関東に戻り、東京・巣鴨の河合映画製作社に移籍する[2]。同年、村越章二郎監督の『清水の小政』に出演している[2]。同年、芸名を「阿部九洲男」に改名し、京都に再び舞い戻って、東活映画社(東活)に入社した[2]。同年の東活入社第1作は、金田繁監督の『閃影双刃録』で、古海卓二監督の『評判影法師』に主演し、人気を勝ち取る[2]。同作で競演した女優の木下双葉とこのころ結婚している[4]。
1932年(昭和7年)、阿部が月形龍之介と共演し、金田繁が大伴麟三と共同監督したサイレント映画『決戦荒神山』を最後に東活が解散となり、同作は新しく設立された宝塚キネマ興行が配給した。阿部は宝塚キネマに移籍した。東活、宝塚キネマを代表する剣戟俳優と言われるまでとなった[3]。1933年(昭和8年)7月、宝塚キネマで賃金未払いが起き[5]、これを契機に仁科熊彦・大伴麟三両監督による『風流やくざ節』前篇・後篇を最後に、妻の木下双葉とともに宝塚キネマを去り、東京に三度舞い戻り、巣鴨の河合映画の後身・大都映画に復帰した。大都では、師である市川右太衛門ばりの派手な雰囲気が評価され、海江田譲二、桂章太郎に比肩する人気を勝ち取り、杉山昌三九と並ぶ活躍をした[2]。
1938年(昭和13年)8月30日、妻の木下双葉が病死、死別となった[4]。その後、9歳年下の大都映画の女優・東龍子と再婚した。
1942年(昭和17年)2月、第二次世界大戦開戦による戦時統制で、大都映画は、日活の製作部門、新興キネマと合併し、大日本映画製作(のちの大映)となり、大都での阿部の最後の出演作は、佐伯幸三監督による近衛十四郎主演作『決戦般若坂』となった。同作は同年2月11日に公開され、阿部は、大映に継続入社した。大映入社第1作は、阪東妻三郎主演、牛原虚彦監督の『維新の曲』で、同年5月14日に映画配給社の配給、紅系で公開された。
戦後は、1945年(昭和20年)から、大映京都撮影所で丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』等に出演した。1951年(昭和26年)には、宝プロダクションが製作した加藤泰監督の劇映画デビュー作『剣難女難 女心伝心の巻』、『剣難女難 剣光流星の巻』に出演している。新東宝、1956年(昭和31年)以降は東映京都撮影所作品に多く出演した。
1965年(昭和40年)11月2日、死去した[1]。満55歳没。生涯に300作内外の映画に出演、生前に撮影していた作品が翌1966年(昭和41年)に3作も公開された。京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル下河原町、高台寺に眠る。
フィルモグラフィ[編集]
『髪』 : 監督城戸品郎、1929年
『清水の小政』 : 監督村越章二郎、1931年
『閃影双刃録』 : 監督金田繁、1931年
『評判影法師』 : 監督古海卓二、1931年
『決戦荒神山』 : 監督金田繁・大伴麟三、1932年
『乱刃筑波颪』 : 監督大伴麟三、1933年
『風流やくざ節』前篇 : 監督仁科熊彦・大伴麟三、1933年
『風流やくざ節』後篇 : 監督仁科熊彦、1933年
『放浪旗本仁義』 : 監督大伴麟三、1933年
『水戸浪士』 : 監督石山稔、1937年
『石川五右衛門』 : 監督石山稔、1937年
『忠臣蔵』 : 監督白井戦太郎、1937年
『柘榴一角』 : 監督白井戦太郎、1941年
『決戦般若坂』 : 監督佐伯幸三、1942年
『維新の曲』 : 監督牛原虚彦、1942年
『狐の呉れた赤ん坊』 : 監督丸根賛太郎、1945年
『剣難女難 女心伝心の巻』 : 監督加藤泰、1951年
『剣難女難 剣光流星の巻』 : 監督加藤泰、1951年
『赤穂城』 : 監督萩原遼、1952年
『生きる』 : 監督黒澤明、1952年
『白鳥の騎士』 : 監督組田彰造、1953年
『宮本武蔵』 : 監督稲垣浩、1952年
『明治天皇と日露大戦争』 : 監督渡辺邦男、1957年
『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』 : 監督渡辺邦男、1957年
『天皇・皇后と日清戦争』 : 監督並木鏡太郎、1958年
『水戸黄門 天下の副将軍』 : 監督松田定次、1959年
『雪之丞変化』 : 監督マキノ雅弘、1959年
『風雲児 織田信長』 : 監督河野寿一、1959年
『壮烈新選組 幕末の動乱』 : 監督佐々木康、1960年
『赤穂浪士』 : 監督松田定次、1961年
『宮本武蔵』 : 監督内田吐夢、1961年
『宮本武蔵 般若坂の決斗』 : 監督内田吐夢、1962年
『忍者秘帖 梟の城』 : 監督工藤栄一、1963年
『宮本武蔵 二刀流開眼』 : 監督内田吐夢、1963年
『十三人の刺客』 : 監督工藤栄一、1963年
『武士道残酷物語』: 監督今井正、1963年
『真田風雲録』: 監督加藤泰、1963年
『大阪ど根性物語 どえらい奴』:監督鈴木則文、1965年
『日本侠客伝 血斗神田祭り』 : 監督マキノ雅弘、1966年
『沓掛時次郎 遊侠一匹』 : 監督加藤泰、1966年
『てなもんや東海道』 : 監督松林宗恵、1966年
『素浪人 月影兵庫』第11話 : テレビ映画、1967年
註[編集]
^ a b c 『CD-人物レファレンス事典 日本編』、「阿部九州男」の項、日外アソシエーツ、2004年。
^ a b c d e f g h i 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.127。
^ a b 『講談倶楽部』昭和11年新年号付録、講談社、1936年、「阿部九洲男」の項。
^ a b 『無声映画俳優名鑑』、p.176。
^ 御室撮影所、立命館大学、2009年11月9日閲覧。
外部リンク[編集]
Kusuo Abe - インターネット・ムービー・データベース(英語)
阿部九洲男 - 日本映画データベース
春見堅太郎 - 日本映画データベース
阿部九洲男 - KINENOTE
阿部九洲男 - allcinema
カテゴリ: 日本の男優サイレント映画の俳優剣戟俳優市川右太衛門プロダクションの俳優大都映画の俳優大映の俳優悪役俳優横浜市出身の人物1910年生1965年没
天津龍太郎
あまつ りゅうたろう
天津 龍太郎
本名 兼田 隆 (かねだ たかし)
生年月日 1916年2月10日
没年月日 1962年
出生地 日本の旗 日本 岡山県英田郡吉野村(現在の同県美作市五名あたり)
職業 俳優
ジャンル 劇映画(時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)、大衆演劇(剣劇)
活動期間 1930年代 - 1941年
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天津 龍太郎(あまつ りゅうたろう、1916年2月10日 - 1962年)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。新漢字表記天津 竜太郎[2][4][5]、本名兼田 隆(かねだ たかし)[1]。日本映画データベースにおける「大津竜太郎」[4]は誤記[1][5]。
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1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
2.1 甲陽映画
2.2 全勝キネマ
2.3 興亜映画
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
人物・来歴[編集]
1916年(大正5年)2月10日、岡山県英田郡吉野村(現在の同県美作市五名あたり)に生まれる[1]。
兵庫県神戸市に移り、旧制・神戸市立第三神港商業学校(現在の神戸市立六甲アイランド高等学校)に入学する[1]。同校卒業後、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)にあやめ池撮影所を持つ市川右太衛門プロダクションに入社、同社で俳優としてデビュー、脇役・端役等でサイレント映画に出演をしていた[1]。1936年(昭和11年)12月に同社は解散し、松竹キネマに吸収されるが、それを目前とした同年9月、兵庫県西宮市甲陽園に甲陽撮影所を稼働させていた甲陽映画(同年5月設立)に移籍する[1][4][5]。同年9月23日に公開された『大江戸の魔剣』(監督熊谷草弥)の主演に、満20歳にして抜擢される[1][4][5]。同社の作品は、マキノ正博のマキノトーキー製作所が千鳥興業から引き継いで配給を行っていたため、トーキーあるいはサウンド版の映画に多く出演した[4][5]。
あやめ池撮影所に右太衛門の実兄・山口天龍が設立した全勝キネマに、翌1937年(昭和12年)1月に移籍している[1][4][5]。同社はほとんどの作品がサイレント、あるいは映画説明者(活動写真弁士)の説明が音声トラックに収録された解説版であり、トーキーはほとんど製作されなかった[4][5]。『日本映画俳優全集・男優編』には「第一回主演作品」として『夕凪城の怪人』(監督熊谷草弥)の名が挙げられているが、同作は日疋龍太郎の主演作であり、天津は同作に出演した記録がみられない[4][5][8][9]。
1940年(昭和15年)、同社が松竹傘下に入り、1941年(昭和16年)1月、合併により興亜映画と改称すると、京都の旧マキノトーキー製作所の撮影所(現在の松竹京都撮影所)を使用するこの新会社に継続的に入社した[4][5]。同年1月22日に公開された解説版『尾州三勇士』(監督熊谷草弥)に主演しているが、同作が全勝キネマの最終作品となった[1][4][5]。興亜映画が製作し、同年10月20日に公開された『荒野の叫び』(監督金田繁)を最後に、満25歳にして天津の映画出演記録は途絶える[4][5][6]。
その後は舞台俳優に転向して一座を組み、満28歳となる1944年(昭和19年)、新富座での林長之助一座・富士嶺子一座・天津龍太郎一座大合同と銘打った公演で、同年1月には『血闘盤若坂』、同年2月には『勤王二筋道』、『義剣玉川原』、『まごころ宿場』を週替わりに上演、それぞれに主演した記録がある[10]。第二次世界大戦後は、二代目大江美智子の一座に参加、大江はま子、吉沢章之、三代目村田正雄らとともに、1957年(昭和32年)8月の芝居に出演した記録が残っている[11]。
1962年(昭和37年)、死去した。満46歳没。
フィルモグラフィ[編集]
クレジットはすべて「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
甲陽映画[編集]
すべて製作は「甲陽映画」、特筆以外の配給は「マキノトーキー」、特筆以外すべてトーキーである[4][5]。
『大江戸の魔剣』 : 監督熊谷草弥、配給千鳥興業、1936年9月23日公開 - 大月左馬之助・松平新兵衛(主演)
『どくろ大名 第一篇』[5](『どくろ大明 第一篇』[4]) : 監督下村健二、サウンド版、1936年10月1日公開 - 松平讃岐守
『どくろ大名 第二篇』[5](『どくろ大明 第二篇』[4]) : 監督高見貞衛、サウンド版、1936年10月8日公開 - 松平讃岐守
『どくろ大名 第三篇』[5](『どくろ大明 第三篇』[4]) : 監督下村健二、サウンド版、1936年10月23日公開 - 松平讃岐守
『若殿三勇士』 : 監督高見貞衛、1936年11月7日公開 - 尾張松若丸(主演)
『熱血御陣河原』 : 監督下村健二、サウンド版、1936年11月29日公開 - 主演
『驀走白馬隊 前篇』[7](『爆走白馬隊 前篇』[4]) : 監督下村健二、サウンド版、1936年12月31日公開 - 眞木左馬之助、10分尺で現存(NFC所蔵[7])
『驀走白馬隊 後篇』[7](『爆走白馬隊 後篇』[4]) : 監督下村健二、サウンド版、1937年1月5日公開 - 眞木左馬之助、34分尺で現存(NFC所蔵[7])
『忍術浮島城』 : 監督勝見雅之(勝見正義)、1937年3月18日公開
『笹野名槍伝』 : 監督高見貞衛、サウンド版、1937年製作・公開 - 主演
『伝法葵くずれ』 : 監督勝見雅之(勝見正義)、1937年製作・公開 - 主演
全勝キネマ[編集]
製作・配給は「全勝キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[4][5]。
『疾風どくろ剣士』 : 監督山田兼則、1937年製作・公開 - 主演
『団十郎の勝』 : 監督熊谷草弥、1937年製作・公開 - 主演
『龍虎双剣士 前篇』[5](『竜虎双剣士 前篇』[4]) : 監督熊谷草弥、1938年1月5日公開 - 安城寺兵馬
『紅槍荒鷲隊』[4][5](『紅顔荒鷲隊』[5]) : 監督山本松男、1937年製作・1938年1月22日公開 - 明石鐡之助(主演)
『復讐笑ひの面』 : 監督山田兼則、解説版、1938年3月10日公開 - 北町の弥太郎(主演)
『忍術山嶽党』 : 監督熊谷草弥、解説版、1938年4月14日公開 - 鬼門太郎(主演)
『平馬追討旅』 : 監督金田繁、解説版、1938年5月5日公開 - 平馬(主演)
『飛竜必殺剣』(『飛龍必殺剣』[5][7]) : 監督金田繁、解説版、1938年6月9日公開 - 細木原久馬(主演)、『飛龍必殺剣』題・29分尺で現存(NFC所蔵[7])
『紅蜘蛛小姓』 : 監督山本松男、解説版、1938年6月23日公開 - 瀧川駒太郎(主演)
『曲斬白頭巾』 : 監督熊谷草弥、解説版、1938年7月14日公開 - 法川左近次(主演)
『一刀必殺剣』 : 監督姓丸浩、解説版、1938年9月8日公開 - 名寄の宗助(主演)
『快侠流れ星』 : 監督白秋詩路、解説版、1938年9月22日公開 - 流れ星の銀平(主演)
『奇襲覆面隊』 : 監督山田兼則、解説版、1938年10月6日公開 - 陣太郎
『白夜の凱歌』 : 監督橋本松男、解説版、1938年10月27日公開 - 尾形喬太郎(主演)
『剣法当り狂言』 : 監督山田兼則、解説版、1938年11月24日公開 - 佐竹銀十郎(主演)
『吼えろ!怪物』 : 監督金田繁、解説版、1938年12月15日公開 - 六助(主演)
『神州鬼面城』 : 監督橋本松男、解説版、1938年12月31日公開 - 萩原主水
『気紛れ大納言』 : 監督姓丸浩、トーキー、1939年1月5日公開 - 気紛れ大納言 松平長七郎(主演)
『忍術八天狗 前篇』 : 監督金田繁、解説版、1939年2月1日公開 - 猿飛佐助(主演)
『忍術八天狗 後篇』 : 監督金田繁、解説版、1939年2月8日公開 - 猿飛佐助(主演)
『躍る怪魔』 : 監督金田繁、解説版、1939年2月15日公開 - 流太郎・鬼神の五郎太(主演・二役)
『新退屈男』(『曲斬退屈男』[5]) : 監督姓丸浩、解説版、1939年3月8日公開 - 松平長七郎(主演)
『呪ひの銀猫』 : 監督山田兼則、解説版、1939年3月30日公開 - 仲間清助(主演)
『隠密七変化』 : 監督姓丸浩、解説版、1939年5月11日公開 - 隠密 相良喬四朗(主演)
『魔像百万両 前篇』 : 監督姓丸浩、解説版、1939年6月1日公開 - 遠山金四朗(主演)
『魔像百万両 後篇』 : 監督姓丸浩、解説版、1939年6月8日公開 - 遠山金四朗(主演)
『地雷火小僧』 : 監督山田兼則、解説版、1939年7月13日公開 - 地雷火小僧(主演)
『捕物綺談 河童の仇討』 : 監督金田繁、解説版、1939年7月20日公開 - お神楽長次(主演)
『河童大合戦 後篇』 : 監督米沢正夫、製作・配給極東キネマ、解説版、1939年7月26日公開[5]
『大江戸お化合戦』 : 監督佐藤樹一郎、解説版、1939年8月3日公開 - お役者文蔵(主演)
『建国驀走隊』 : 監督金田繁、解説版、1939年8月31日公開 - 友衛八郎(主演)
『愛染菩薩』 : 監督金田繁、解説版、1939年10月12日公開 - 源氏車の次郎吉(主演)
『荒木又右衛門 前篇』 : 監督山田兼則、解説版、1939年11月8日公開 - 荒木又右衛門(主演)
『荒木又右衛門 後篇』 : 監督山田兼則、解説版、1939年11月15日公開 - 荒木又右衛門(主演)
『妖芙火喰鳥』(『妖笑火喰鳥』[5]) : 監督金田繁、トーキー、1939年12月7日公開 - 来島影之丞(主演)
『不知火伝奇』 : 監督橋本松男、解説版、1939年12月21日公開 - 不知火左京(主演)
『昇竜日本晴れ』 : 監督姓丸浩、解説版、1940年1月5日公開
『怪猫油地獄』 : 監督熊谷草弥、解説版、1940年1月15日公開 - 音羽家新三・尾上菊次郎(主演・二役)
『奇傑荒獅子』 : 監督山田兼則、トーキー、1940年1月20日公開 - 主演
『木村長門守 後篇』 : 監督熊谷草弥、解説版、1940年2月15日公開
『恩讐花嫁狐』 : 監督熊谷草弥、トーキー、1940年2月22日公開 - 主演
『戦雲青葉城』 : 監督山田兼則、トーキー、1940年2月29日公開 - 主演
『小楠公』 : 監督熊谷草弥、トーキー、1940年3月14日公開 - 主演
『満月狸武士』 : 監督橋本松男、解説版、1940年4月3日公開 - 主演
『蛇姫狂乱』 : 監督熊谷草弥、解説版、1940年4月11日公開 - 主演
『鉄血浪人街』 : 監督金田繁、トーキー、1940年5月1日公開 - 主演
『双眼千羽鶴 前後篇』(『雙眼千羽鶴 前後篇』[5]) : 監督姓丸浩、解説版、1940年5月30日公開 - 主演
『隻眼千羽鶴 大願成就の巻』 : 監督姓丸浩、解説版、1940年6月6日公開 - 主演
『刃影乱れ旅』 : 監督姓丸浩、解説版、1940年7月4日公開 - 主演
『剣豪隅田の血戦』 : 監督金田繁、トーキー、1940年7月18日公開 - 主演
『三剣怒濤に躍る 前篇』 : 監督山田兼則、解説版、1940年8月29日公開 - 隠密大森敬之助(主演)、『三劍怒濤に躍る 前篇 東海颶風の卷』題・27分尺で現存(NFC所蔵[7])
『三剣怒濤に躍る 後篇』 : 監督山田兼則、解説版、1940年9月5日公開 - 隠密大森敬之助(主演)、『三劍怒濤に躍る 後篇 南海怒濤の卷』題・19分尺で現存(NFC所蔵[7])
『開運富籖剣法』[4][5](『開運富籤劔法』) : 監督橋本松男、配給松竹、解説版、1940年12月31日公開 - 主演
『尾州三勇士』 : 監督熊谷草弥、配給松竹、解説版、1941年1月22日公開 - 主演
興亜映画[編集]
製作は「興亜映画」、配給は「松竹」、すべてトーキーである[4][5]。
『神戸事件』 : 監督姓丸浩、1941年6月5日公開
『荒野の叫び』 : 監督金田繁、1941年10月20日公開
脚注[編集]
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^ a b c d e f g h i j キネマ旬報社[1979], p.20.
^ a b 盛内[1994], p.75.
^ 天津龍太郎、jlogos.com, エア、2013年5月27日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 天津竜太郎、大津竜太郎(表題誤記)、日本映画データベース、2013年5月27日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 天津龍太郎、天津竜太郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月27日閲覧。
^ a b 天津龍太郎、日本映画製作者連盟、2013年5月27日閲覧。
^ a b c d e f g h i j 天津龍太郎、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月27日閲覧。
^ 夕凪城の怪人、日本映画データベース、2013年5月27日閲覧。
^ 夕凪城の怪人、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月27日閲覧。
^ 国立[2005], p.120-125.
^ 大笹[2009], p.474.
^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年5月27日閲覧。
参考文献[編集]
『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133
『映画俳優事典 戦前日本篇』、盛内政志、未来社、1994年8月 ISBN 4624710657
『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻 昭和十八年 - 昭和二十二年 補遺・索引』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2005年4月 ISBN 4840692335
『新日本現代演劇史 1 脱戦後篇』、大笹吉雄、中央公論新社、2009年2月 ISBN 4124001622
関連項目[編集]
市川右太衛門プロダクション
甲陽映画
マキノトーキー製作所
全勝キネマ
興亜映画
松竹
外部リンク[編集]
Ryûtarô Amatsu - インターネット・ムービー・データベース(英語)
天津龍太郎、天津竜太郎 - 文化庁日本映画情報システム
天津龍太郎 - 日本映画製作者連盟
天津龍太郎 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
天津竜太郎 - 日本映画データベース
大津竜太郎 - 日本映画データベース (表題誤記)
天津竜太郎 - allcinema
天津龍太郎 - jlogos.com (エア)
カテゴリ: 日本の舞台俳優サイレント映画の俳優剣戟俳優剣劇俳優市川右太衛門プロダクションの俳優甲陽映画の人物マキノトーキーの俳優全勝キネマの俳優松竹の俳優岡山県出身の人物1916年生1962年没
綾小路絃三郎
あやのこうじ げんざぶろう
綾小路 絃三郎
本名 渡辺 武雄 わたなべ たけお
別名義 浅香 麗三郎 あさか れいざぶろう
燕 東三郎 つばめ とうざぶろう
松永 博 まつなが ひろし
生年月日 1911年2月26日
没年月日 1988年10月26日(満77歳没)
出生地 日本の旗 日本 大阪府
死没地 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 劇映画(時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)
活動期間 1931年 - 1961年
活動内容 1931年 右太プロ入社
1933年 河合映画移籍
1934年 エトナ映画社移籍
1935年 極東映画移籍
1941年 極東映画消滅
1941年 松竹下加茂撮影所へ
1961年 テレビ映画出演
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綾小路 絃三郎(あやのこうじ げんざぶろう、1911年2月26日[1] - 1988年10月26日)は、日本の俳優である。「綾野小路」[2]は誤り。極東キネマでは、雲井龍之介、市川寿三郎とともに「極東の三羽烏」と呼ばれた剣戟俳優である[1]。初期に浅香 麗三郎(あさか れいざぶろう)、燕 東三郎(つばめ とうざぶろう)と名乗り[1][2]、第二次世界大戦中の一時期に松永 博(まつなが ひろし)と名乗った[3]。本名は渡辺 武雄(わたなべ たけお)。
目次 [非表示]
1 人物・来歴
2 おもなフィルモグラフィ
3 註
4 参考文献
5 外部リンク
人物・来歴[編集]
1911年(明治44年)2月26日、大阪府に「渡辺武雄」として生まれる[1]。
市川右太衛門の市川右太衛門プロダクションに入社[1]、「浅香麗三郎」の名で1931年(昭和6年)、神田金太郎監督、武井龍三主演の『血煙一番槍』に出演[2]、同年、古野英治・白井戦太郎監督、女剣劇の大江美智子主演の『悲願四目菱』で徳川吉宗役に抜擢された[1][2]。
1933年(昭和8年)、河合映画製作社に移籍[1]、「燕東三郎」と改名[1]、根岸東一郎監督の『大丈夫の松五郎』で初主演を果たす[1][2]。同年、河合映画が大都映画に改組され、海江田譲二プロダクション製作、大都映画配給の『江戸剣飛脚』を含めた4本の大都作品に出演後、翌1934年(昭和9年)に京都に設立されたエトナ映画社に移籍した。「綾小路絃三郎」と改名し、同年、後藤岱山監督の『鬼伏せ頭巾』に主演した[1]。同社で4作に主演した後、1935年(昭和10年)に極東映画の設立に参加した[2]。
極東映画が甲陽撮影所から大阪郊外に移転したとき、羅門光三郎、市川寿三郎らとともに同撮影所に残留し、甲陽映画に参加[1]、3本に出演したが、同年中には極東映画に戻った[2]。
極東映画、改称して極東キネマでは、73本に出演した[2]。1941年(昭和16年)、山口哲平監督の『初上り長七郎駕籠』に主演した[2]が、同年合併により極東キネマは消滅した。同年、松竹下加茂撮影所に移り、「松永博」の名で、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』等に出演した。
第二次世界大戦後、1961年(昭和36年)に製作・放映されたテレビ映画『新吾二十番勝負』に出演している[4]。
1988年(昭和63年)10月26日、死去した。満77歳没。
おもなフィルモグラフィ[編集]
『血煙一番槍』 : 監督神田金太郎、1931年
『悲願四目菱』 : 監督古野英治・白井戦太郎、1931年
『大丈夫の松五郎』 : 監督根岸東一郎、1933年
『鬼伏せ頭巾』 : 監督後藤岱山、1934年
『月形半平太』 : 監督仁科熊彦、1935年
『新月赤城街道』 : 監督稲葉蛟児、1935年
『妖霊お万狐』 : 監督大江秀夫、1937年
『黎明稲妻峠』 : 監督大江秀夫、1938年
『初上り長七郎駕籠』 : 監督山口哲平、1941年
『元禄忠臣蔵』 The 47 Ronin : 監督溝口健二、1942年 ⇒ 元禄忠臣蔵
『新吾二十番勝負』 : テレビ映画、1961年
註[編集]
^ a b c d e f g h i j k 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.128。
^ a b c d e f g h i #外部リンク欄、「綾小路絃三郎」リンク先、日本映画データベース、2009年10月27日閲覧。
^ #外部リンク欄、「松永博」リンク先、allcinema ONLINE、2009年10月27日閲覧。
^ テレビドラマデータベース、「綾小路絃三郎」検索結果、2009年10月27日閲覧。
参考文献[編集]
『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年発行
外部リンク[編集]
Genzaburô Ayanokôji - インターネット・ムービー・データベース(英語)
浅香麗三郎、燕東三郎、綾小路絃三郎、松永博 - 日本映画データベース
松永博 - allcinema
カテゴリ: 日本の男優サイレント映画の俳優剣戟俳優市川右太衛門プロダクションの俳優大都映画の俳優極東映画の俳優松竹の俳優大阪府出身の人物1911年生1988年没