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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
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ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
三重電気鉄道松阪線
松阪線
概要
現況 廃止
起終点 起点:
松阪駅(大石線)
平生町駅(大口線)
終点:
大石駅(大石線)
大口駅(大口線)
駅数 17駅(大口線2駅含む)
運営
開業 1912年8月17日
廃止 1964年12月14日
所有者 松阪軽便鉄道→松阪鉄道→松阪電気鉄道→三重交通→三重電気鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 20.2 km (12.55 mi) (大石線)
2.8 km (1.74 mi) (大口線)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線
凡例
exKBSTa
exBHF
2.8* 大口駅
exBHF
2.1* 天神前駅
exSTR POINTERu
大口線 1948年休止
STRq BHFq xKRZo STRq
近鉄山田線
ABZq+l BHFq xKRZo STRlg
国鉄紀勢本線
exKBHFl exABZlg LSTR
0.0 松阪駅
exSTR
国鉄名松線
exBHF
0.5
0.0*
平生町駅
exBHF
1.1 茶与町駅
exKRZo exBHFq
1.7 花岡駅
exSTR
関急伊勢線
exSTR
exBHF
3.6 篠田山駅
exBHF
5.8 蛸路駅
exBHF
6.8 下蛸路駅
exBHF
8.3 中万駅
exSTR LSTR
exBHF HST
9.1 射和駅
exSTR STR2
国鉄紀勢本線
exBHF
10.2 阿波曽駅
exBHF
12.6 庄駅
exBHF
13.9 御麻生薗駅
exBHF
16.1 大師口駅
exBHF
19.3 片野橋駅
exKBHFe
20.2 大石駅
松阪線(まつさかせん)は、かつて三重県松阪市の松阪駅から櫛田川中流の大石駅までを結んでいた本線(大石線)と、市街地の平生町駅から海岸沿いの大口駅までを結んでいた支線(大口線)から構成されていた、三重交通(廃止時点は三重電気鉄道)の鉄道路線である。
開通当時は地域の足を独占したものの、紀勢東線開通後に松阪駅 - 射和駅間で紀勢東線松阪駅 - 相可駅間(射和駅と相可駅は櫛田川を挟んで近接)と競合したこととモータリゼーションの進行で、三重交通から三重電気鉄道が分離した翌年に、三重電気鉄道が近畿日本鉄道(近鉄)に合併されて同社の路線となる中、松阪線は譲渡される直前に廃止された。
現在は、三重交通の路線バスが蛸路 - 中万 - 射和間を除き、ほぼ廃線跡沿いを運行し、松阪線の松阪駅舎跡には三交百貨店が建てられた。また、射和・大石の両バス停は駅の名残を残している。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 沿革
3 駅一覧
4 車両
4.1 機関車
4.2 電車
4.3 客車
5 注釈および参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
路線データ[編集]
廃止直前(1964年3月)のもの。
路線距離:20.2km
駅数:15
軌間:762mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(直流600V)
沿革[編集]
松阪に鉄道建設の気運が高まったのは1907年のことである。1月に地元の有志により飯南郡(現在は全て松阪市)花岡村 - 柿野村間約十四哩に軌道を建設することを出願し、6月に特許が下付された。南勢軽便軌道という名称であった。しかし工事施工認可期日の延期願いを再三提出し、工事着手の目処は立たなかった。
だが1910年1月に才賀藤吉、安保庸三[1]が発起人に追加されると、株式の大半を才賀が引受け、10月に創立総会を開催し伊勢軽便軌道に改称すること、路線を飯南郡松阪町-大石村間約十五哩に変更すること、また軌間を2ft6inにすることを決定し、初代社長に才賀藤吉、専務取締役に安保庸三が就任した。11月になると大口港へ路線を延長するため延長申請をした。1911年6月松阪軽便軌道から松阪軽便鉄道へ改称した。工事は才賀電機商会が請負うことになり大石線が1911年12月から始められ、1912年8月17日に大石線が開業した。
しかしこの時点ですでに建設費が資本金を上回ったため、大口線の建設には借入金で賄おうとしたが資金繰りに苦労したため1913年3月に工事延期願いを提出したが認められず、一旦免許状を返納する事態となった。建設費の目処もつき再申請してようやく大口線が開通したのは8月のことであった。
1910年(明治43年)
10月15日 - 伊勢軽便軌道株式会社設立[2][3][4]。
12月 - 松阪軽便軌道に社名変更[5]。
1911年(明治44年)6月6日 - 鉄道免許状下付(松阪-大石間)[3]。松阪軽便鉄道に社名変更[5]。
1912年(大正元年)8月17日 - 松阪軽便鉄道により松阪 - 大石間が、蒸気動力で開業[3][6]。
1913年(大正2年)
6月17日 - 鉄道免許状下付(平生町-大口間)[3]。
8月7日 - 平生町 - 大口間(大口線)開業[3]。
1919年(大正8年)7月19日 - 松阪鉄道に社名変更[7]。
1927年(昭和2年)11月16日 - 松阪 - 大石間電化[3]。しかし電力供給が不安定であったため、蒸気も継続使用された。
1928年(昭和3年)1月19日 - 松阪電気鉄道に社名変更[8]。
1929年(昭和4年)6月1日 - 平生町 - 大口間電化[3]。同じく蒸気併用。
1938年(昭和13年)4月4日 - 全面電気運転に切り替え。
1944年(昭和19年)2月11日 - 三重県下の鉄道・バス会社を統合、三重交通が発足[5]。
1948年(昭和23年)1月21日 - 大口線を休止[9]。
1958年(昭和33年)12月3日 - 大口線廃止[10]。
1964年(昭和39年)
2月1日 - 三重交通の鉄道事業を分離して三重電気鉄道発足、同社の路線となる[11]。
12月14日 - 全線廃止[11]。
駅一覧[編集]
1964年の廃止時点。全線三重県松阪市内に所在。
駅名 読み 駅間キロ 営業キロ 接続路線・備考
松阪駅 まつさか - 0.0 日本国有鉄道(国鉄):紀勢本線・名松線
近畿日本鉄道(近鉄):山田線
平生町駅 ひらおまち 0.5 0.5 三重交通:大口線(1948年休止)
茶与町駅 ちゃよまち 0.6 1.1
花岡駅 はなおか 0.6 1.7 関西急行鉄道:伊勢線(1942年廃止)
篠田山駅 しのだやま 1.9 2.3 第二次世界大戦頃に駅部田(まやのへた)より改称[12]
蛸路駅 たこじ 2.2 5.8
下蛸路駅 しもたこじ 1.0 6.8
中万駅 ちゅうま 1.5 8.3
射和駅 いざわ 0.8 9.1
阿波曽駅 あわそ 1.1 10.2
庄駅 しょう 2.4 12.6
御麻生薗駅 みょうその[13] 1.3 13.9
大師口駅 だいしぐち 2.2 16.1
片野橋駅 かたのはし 3.2 19.3
大石駅 おいし[14] 0.9 20.2
1948年に休止された大口線平生町 - 大口間の途中駅は以下の通り。
駅名 読み 駅間キロ 営業キロ 接続路線
平生町駅 ひらおまち - 0.0 三重交通:大石線
天神前駅 てんじんまえ 2.1 2.1
大口駅 おおくち 0.7 2.8
車両[編集]
松阪鉄道フ21形フ21
メーカーカタログ写真。
竣工は社名変更前であるが、既に側面幕板部にMATUZAKA ELECTRIC RAILWAY(松阪電気鉄道)とレタリングされている。
出荷のため台車を外し大物車に積載状態。
いずれも製作時点での標準的な設計・工作技法を用いた車両が使用されている。
開業以来、連結器が小型ながら2組の緩衝器を左右に備える中心高610mmの連環式連結器であったが、これは三重交通への統合後、三重線と同じ中心高さ350mmの中央緩衝連結器(俗に朝顔型連結器と呼ばれる)へ交換されている。
電化の時点で架線構造をカテナリ吊架(シンプルカテナリ)としていたため、電車・電気機関車共に当初より集電装置として菱枠パンタグラフを使用した。松阪線と前後して電化された、近隣の四日市鉄道では当初トロリー線を直接吊架し、より原始的なトロリー・ポールを集電装置として使用していたのと比較すると、先進的かつより高度な電化設備を備えていたことになる。もっとも、輸送需要の小さな路線であったために三重交通への統合後は新造車が投入されることはなく、そればかりか営業中から電気機関車や半鋼製客車が他線に転出となっており、三重交通社内で冷遇されていたことが知れる[15]。
なお、松阪線在籍車は貫通ブレーキを備えておらず、各車の手ブレーキと電車・電気機関車の直通ブレーキの併用で終始した。
機関車[編集]
1 - 5
開業時に用意された8tB形蒸気機関車。1912年にオーレンシュタイン・ウント・コッペル社で製作された。電化後、1936年までに全車廃車となった。
デ61形デ61・デ62
松阪鉄道線の電化にあたってデキ11形デキ11・デキ12として田中車輛で新造された、軸配置Bの10t級凸型電気機関車。デキ12→デ62は1954年に架線電圧750V昇圧直前の北勢線へ転出したため、廃止時にはデキ11→デ61のみが当線に在籍した。
電車[編集]
モニ201形モニ201 - モニ203
電化時(1927年)に日本車輌製造本店でデ31形デ31 - デ33として新造した11m級半鋼製の荷物合造電動客車。この時代に762mm軌間の軽便鉄道向けに製作された電車としては画期的なパンタグラフ付きの大型2軸ボギー車であり、新造以来松阪線の廃止まで使用された。三重電気鉄道の近畿日本鉄道への合併後、電装解除を実施しサニ110形サニ111 - サニ113へ改番、三重線へ転出となった。
モ250形モ250
デ31形と同時発注で製作された同系付随車であるフ21形フ21・フ22のうち、フ21→サ441形サ441を1949年に電装した車両。新造時から電灯給電用にパンタグラフを搭載していた。これも路線廃止後に電装解除を実施し、サ120形サ121となり、同じく三重線へ転出となった。
客車[編集]
カ1 - カ10
やはり開業時に用意された木造2軸客車。無蓋貨車と有蓋貨車各15両と共に全車天野工場(後の日本車輌製造東京支店)で製作された。オープンデッキかつ定員30名の小型車で、カ4 - カ6・カ8の4両は電化の時点で廃車となり、残り6両も一旦1937年に除籍されたが翌年に3両が復籍、さらに1両が復籍し、三重交通成立の際にはサ301形サ301 - サ304と改番された。1951年のサニ421形転入時に廃車されたが、サ301は1952年に地元名産の牛を輸送する家畜車のカ761へ改造され、1962年まで使用された。
サ441形442
元フ21形フ22→サ442。1952年に三重線へ転出、台車交換と電装を実施してモ260形モ260となった。
サ331形サ333
元三重軌道ホハ1形ホハ3。42人乗り木造2軸ボギー客車で、一時的に三重線から松阪線へ転属し使用された。サニ421形の転入が完了した後、1952年に静岡鉄道へ同型車のサ334と共に売却、同社駿遠線ホハオフ27となった。
サニ421形サニ421 - サニ426
元北勢鉄道ハフ1形ハフ1 - ハフ4・ハフ7・ハフ6。1914年(ハフ1 - ハフ4)および1915年(ハフ6・7)に堺の梅鉢鉄工場で製造された木造2軸ボギー客車。三重交通成立後、新造車の投入が優先的に実施された北勢線から、サ301形の代替を目的として1951年に順次転入した。荷重2tの荷物室と定員40名の客室を併設する8m級の荷物合造客車で、電動車や電気機関車に牽引されて使用された。路線廃止時に全車除籍され、そのまま解体処分に付された。なお、サニ425は2代目で、初代が1945年の桑名空襲で被災、1947年の復旧時にサ451形サ451となったため、ラストナンバーのサニ427を改番してその欠を補ったものである。
サ461形サ461・サ462
元中勢鉄道カ3・カ4。1930年に川崎車輛で製造された2軸ボギーかつ両運転台付の機械式ガソリンカー。同社としては気動車の第2作目にあたる。川崎車輛初の気動車である塩江温泉鉄道1 - 5と同様、車体の前後を大きく絞った特徴的な半鋼製車体を備える。中勢鉄道線の全線廃止後、カ3は三重鉄道シハ83、カ4は関西急行鉄道→近畿日本鉄道で法隆寺線キド5となった後に三重交通に譲渡されたとされ、一旦は気動車のままナ151形ナ151・ナ152として非電化の三重線に配置され、三重線の電化完成後エンジンや変速機などを撤去し床面高を引き下げるなどの改造を実施し客車化された上で当線に配置された。路線廃止時に2両とも廃車解体された。
注釈および参考文献[編集]
^ この二人の関係であるが、松阪水力電気株式会社の設立からはじまる。安保ら地元有志が松阪に電灯会社の設立を計画したが、資金難に窮していたところ才賀が参加することにより資金不足を解消し、さらに才賀電機商会が工事を請負い苦難のすえ1906年開業することができた。そして順調に業績を伸ばし1907年の役員改選の結果、社長は才賀藤吉専務取締役は安保庸三が就任した。
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治44年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e f g 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』(2010年)pp.358, 748 によると10月5日に南勢軽便軌道株式会社として創立総会、10月14日に伊勢軽便軌道に社名変更。
^ a b c 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.748
^ 1912年8月19日付新愛知(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
^ 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、pp.132, 358, 748
^ 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、pp.133, 359, 748
^ 理由として沿線の軍需工場の閉鎖による定期客の激減と利用客が増加した大石線に対しての資材の転用をあげている。休止後架線は撤去され、車両その他の資材は大石線に転用された。
^ 廃止に至るまで何度か休止延長の申請をしている。理由は松阪市の計画に大口港の開発があり、工場誘致計画があるためとしている。
^ a b 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、pp.293, 361
^ 今尾 (2008)
^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1916年10月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)、『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)では、「おほいし」となっている。
^ ただし転出対象となったサ441形サ442は、元々電車形の半鋼製車で、床面に主電動機点検用のトラップドアが新造時より設けられていたなど、電動車化の容易な構造であったために既存車両の有効活用の見地から転用が図られたものであった。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』8 関西1、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790026-5。
武知京三 『日本の地方鉄道網形成』 柏書房、1990年。
中村正三『飯南郡史』1916年(三重県郷土資料刊行会、1973年復刻)、233-234頁
『日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)』、日本車輛製造、1928年
日本車両鉄道同好部・鉄道史資料保存会『日車の車両史 図面集-戦前私鉄編 下』』、鉄道史資料保存会、1996年
湯口徹『THEレイル No.40 私鉄紀行 昭和30年代近畿・三重のローカル私鉄をたずねて 丹波の煙 伊勢の径(下)』、エリエイ/プレス・アイゼンバーン、2000年
『関西の鉄道 No.40 2000 爽秋号 近畿日本鉄道特集 PartIX 名古屋・養老・特種狭軌線』、関西鉄道研究会、2000年
『鉄道ピクトリアル No.727 2003年1月臨時増刊号』、電気車研究会、2003年
関連項目[編集]
三重県道700号小片野駅部田線 - 御麻生薗駅〜片野橋駅間の廃線跡に並行する県道。三重交通の路線バスが運行する。
三重県道701号御麻生薗豊原線 - 射和駅〜御麻生薗駅間の廃線跡に並行する県道。三重交通の路線バスが運行する。
外部リンク[編集]
一般社団法人松阪市観光協会 - 三重電気鉄道松阪線(松電跡) に地図・写真等あり
伊勢路 - 「小片野 1」に跡地の写真あり
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 三重交通松阪電気鉄道中部地方の鉄道路線 (廃止)三重県の交通史
近江鉄道八日市線
八日市線
基本情報
通称 万葉あかね線
国 日本の旗 日本
所在地 滋賀県東近江市、近江八幡市
起点 八日市駅
終点 近江八幡駅
駅数 7駅
路線色 緑
開業 1913年12月29日
最終延伸 1946年1月1日
所有者 近江鉄道
運営者 近江鉄道
車両基地 彦根電車区
使用車両 近江鉄道#車両を参照
路線諸元
路線距離 9.3 km
軌間 1,067 mm (狭軌)
線路数 単線
電化方式 直流1,500 V 架空電車線方式
閉塞方式 自動閉塞式
保安装置 ATS
[展開する]路線図
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[隠す]停車場・施設・接続路線
*は新八日市起点
凡例
exKBHFa
2.8* 御園駅
exBHF
1.6* 川合寺駅
exBHF
0.9* 八日市中野駅
exSTR
本線
BHFq ABZq+r xKRZo
0.0 八日市駅
BHF exSTR
0.6 新八日市駅
eABZrg exSTRrf
BHF
1.3 太郎坊宮前駅
BHF
3.0 市辺駅
BHF
5.0 平田駅
BHF
6.5 武佐駅
KRZu
東海道新幹線
STRlg STR
東海道本線
eABZrg eABZrf
(琵琶湖線)
9.3 近江八幡駅
STR
八日市線(ようかいちせん)は、滋賀県東近江市の八日市駅と滋賀県近江八幡市の近江八幡駅までを結ぶ近江鉄道の鉄道路線である。
近江盆地の2つの都市間を結ぶ近江鉄道の主力路線となっている。2013年3月16日から「万葉あかね線」(ラインカラー: 緑)の愛称が付けられている[1]。
1930年から1948年までは、新八日市から陸軍飛行場のあった御園駅までの路線がのびていた。同区間は、新八日市駅 - 八日市中野駅間で近江鉄道本線を築堤により越えていた[2]。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
4.1 廃止区間
4.2 未成区間
5 輸送・収支実績
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):9.3km
軌間:1067mm
駅数:7駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流1500V)
閉塞方式:自動閉塞式
運行形態[編集]
ワンマン運転を行っている。八日市駅 - 近江八幡駅間折り返し運転のほか、本線の米原駅方面、土休日には加えて貴生川駅方面へ直通する列車もある。
1998年3月30日に八日市駅 - 近江八幡駅間ノンストップの快速が新設された[3]。2013年3月16日のダイヤ改正で一旦廃止されたが、2016年3月26日改正で平日の上り(八日市行き)1本のみ復活した[4]。
歴史[編集]
蒲生郡の主要都市である八幡町と神崎郡の八日市町を結ぶべく1911年(明治44年)5月に川端浅吉ほか7名により湖南鉄道が出願されたが、既に八日市に路線を開通させていた近江鉄道も対抗上湖南鉄道と同ルートの路線を出願してきた。鉄道院は近江鉄道の出願を却下して先願の湖南鉄道に対し免許状を下付した。免許を得た湖南鉄道は軌間762mmで路線を建設しようとしたが、国鉄や近江鉄道との連絡輸送の必要から軌間1067mmに変更したため、建設資金が当初よりも増大し資金不足に陥った。その後、地元五個荘出身の藤井善助[5]を社長に迎え出資を受け、1913年になり新八幡駅(現在の近江八幡駅) - 八日市口駅(現在の新八日市駅)間を開業させることができた。
その後、滋賀に進出しつつあった京阪資本に対抗するため、1927年に大津電車軌道と太湖汽船が合併して発足した琵琶湖鉄道汽船に湖南鉄道も合併する[6]。しかし、1929年に琵琶湖鉄道汽船が京阪電気鉄道に合併された際、京阪は離れ小島の旧・湖南鉄道には興味を示さなかった。こうして旧・湖南鉄道線は藤井の設立した八日市鉄道に譲渡され[7]、やがて戦時企業統合政策により1944年に近江鉄道に合併された[8]。
1911年(明治44年)9月30日 湖南鉄道に対し軽便鉄道免許状下付(鷹飼-八日市間 軌間2ft6)[9]。
1912年(明治45年)4月 湖南鉄道株式会社設立[10]。
1913年(大正2年)12月29日 湖南鉄道が新八幡駅(現在の近江八幡駅) - 八日市口駅(現在の新八日市駅)間を開業[11]。
1919年(大正8年)
3月30日 新八幡を近江八幡に改称[12]。
7月1日 八日市口駅を新八日市駅に改称[13]。
1924年(大正13年)7月25日 鉄道免許状下付(蒲生郡中野村-神崎郡山上村間)[14]。
1927年(昭和2年)5月15日 琵琶湖鉄道汽船が湖南鉄道を合併[15]。
1929年(昭和4年)4月1日 琵琶湖鉄道汽船が近江八幡駅 - 新八日市駅間を八日市鉄道へ譲渡[16]。
1930年(昭和5年)10月1日 八日市鉄道 新八日市駅 - 飛行場駅(のちの御園駅)間が開業[17]。
1931年(昭和6年)9月1日 八日市中野駅 - 飛行場駅間に川合寺駅開業。
1935年(昭和10年)6月18日 神崎郡御園村沖野ヶ原 - 同郡山上村間免許失効[18]。
1943年(昭和18年)7月30日 近江鉄道社長堤康次郎と八日市鉄道社長藤井守一との間で合併契約書が締結される[7]。
1944年(昭和19年)3月1日 近江鉄道が八日市鉄道を合併。八日市線となる。
1946年(昭和21年)
1月1日 新八日市駅 - 八日市駅間が開業。近江八幡駅 - 新八日市駅間が電化。
8月21日 新八日市駅 - 八日市駅間が電化。
1948年(昭和23年)8月1日 新八日市駅 - 御園駅間が休止。
1964年(昭和39年)9月25日 休止中の新八日市駅 - 御園駅間の廃止許可。
1998年(平成10年)4月1日 太郎坊駅を太郎坊宮前駅に改称。
2013年(平成25年)
3月16日 「万葉あかね線」の愛称が付く。
12月17日 近江八幡駅で開業100周年記念式辞、100形電車出発式開催。
駅一覧[編集]
全駅滋賀県に所在。
凡例
●:停車、|:通過
普通列車は省略:各駅に停車。
駅名 駅間キロ 営業キロ 快速 接続路線 所在地
八日市駅 - 0.0 ● 近江鉄道:■■本線 東近江市
新八日市駅 0.6 0.6 |
太郎坊宮前駅 0.7 1.3 |
市辺駅 1.7 3.0 |
平田駅 2.0 5.0 |
武佐駅 1.5 6.5 | 近江八幡市
近江八幡駅 2.8 9.3 ● 西日本旅客鉄道:A 東海道本線(琵琶湖線)
廃止区間[編集]
駅名は廃止時点のもの。
新八日市駅 - 八日市中野駅 - 川合寺駅 - 御園駅
未成区間[編集]
飛行場駅(のちの御園駅) - 神崎郡山上村(のちの永源寺町山上)[18]
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円) 会社名
1913 33,478 70 5,007 6,793 ▲ 1,786 1,507 2,905 3,216 湖南鉄道
1914 126,703 323 18,201 16,219 1,982 679 13,135 11,343 湖南鉄道
1915 141,031 725 19,004 14,398 4,606 償却金3,813補助金減576 12,785 9,178 湖南鉄道
1916 146,560 340 18,399 14,451 3,948 社債較差金償却740 12,750 8,971 湖南鉄道
1917 178,041 795 21,678 18,637 3,041 自動車売却差損金及社債較差金償却6,869 12,749 9,466 湖南鉄道
1918 200,496 1,027 47,890 20,040 27,850 建設費償却金5,857側線設置差損金1,906 6,236 10,951 湖南鉄道
1919 246,918 1,677 35,835 35,029 806 3,394 10,849 湖南鉄道
1920 263,387 5,312 58,121 40,286 17,835 3,926 831 湖南鉄道
1921 277,337 13,459 76,539 49,569 26,970 湖南鉄道
1922 291,565 10,221 77,121 42,520 34,601 湖南鉄道
1923 312,859 10,038 80,266 58,624 21,642 償却金繰入3,500 5,770 1,529 湖南鉄道
1924 316,708 9,880 78,151 45,042 33,109 償却金852 6,374 湖南鉄道
1925 324,230 10,651 93,330 46,842 46,488 8,563 湖南鉄道
1926 342,437 11,932 86,428 46,857 39,571 7,157 湖南鉄道
1927 258,909 9,155 60,134 30,239 29,895 85 琵琶湖鉄道汽船
1928 366,246 16,338 109,978 56,874 53,104 汽船及軌道74,986 雑損747 112 琵琶湖鉄道汽船
1929 106,600 5,805 28,838 17,189 11,649 琵琶湖鉄道汽船
343,176 15,257 88,230 44,428 43,802 償却金3,130 12,394 八日市鉄道
1930 328,291 12,355 82,338 48,901 33,437 7,017 八日市鉄道
1931 302,236 13,924 77,695 51,838 25,857 雑損3,796 15,324 八日市鉄道
1932 285,476 15,647 77,780 48,201 29,579 償却金3,376 17,385 八日市鉄道
1933 269,355 18,609 72,553 50,005 22,548 11,939 八日市鉄道
1934 231,855 18,789 66,353 47,386 18,967 雑損2,449 9,051 10,379 八日市鉄道
1935 238,580 18,686 67,658 49,966 17,692 雑損償却金5,360 8,396 11,213 八日市鉄道
1936 234,911 22,305 69,717 49,674 20,043 雑損償却金5,712 7,503 11,205 八日市鉄道
1937 245,971 20,898 71,007 58,306 12,701 諸税引当2,000 雑損償却金8,778 6,686 8,955 八日市鉄道
1939 349,124 29,714 八日市鉄道
1941 689,531 49,580 八日市鉄道
1943 918,872 42,372 八日市鉄道
1945 1,278,923 305,483 近江鉄道
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
脚注[編集]
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^ 近江鉄道線4区間の線区愛称の命名について - 近江鉄道、2014年10月27日閲覧
^ 『トワイライトゾ〜ン・マニュアル5』辻良樹「消えた飛行場線」182-183頁 ネコ・パブリッシング 1996年。
^ 寺田裕一『データブック日本の私鉄』ネコ・パブリッシング、2002年、p.242
^ 「トピック・フォト」、『鉄道ピクトリアル(2016年6月号)』第918巻、電気車研究会、2016年、 92頁。
^ 『大津市人物名鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 藤井は大津電車軌道社長、太湖汽船監査役であり琵琶湖鉄道汽船社長に就任した。
^ a b 『近江鉄道コレクションブック』10頁
^ もっとも会社成立の経緯からみられるように、合併比率の点で合併交渉は難航し、結局は八日市鉄道が押し切られることとなった。『近江鉄道コレクションブック』10-11頁
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年10月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年1月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「輕便鐵道停車場位置竝停車場名變更」『官報』1919年4月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「輕便鐵道停車場名改稱」『官報』1919年7月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年8月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道統計資料. 昭和2年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道統計資料. 昭和4年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年10月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 「鉄道免許失効」『官報』1935年6月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
田中真人ほか『京都滋賀鉄道の歴史』京都新聞社、1998年、377-380頁
『近江鉄道コレクションブック』彦根まちなか博物館、2007年
関連項目[編集]
日本の鉄道路線一覧
カテゴリ: 近畿地方の鉄道路線近江鉄道部分廃止路線