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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
尾道鉄道
尾道鉄道
旧尾道鉄道4号トンネル(2005年8月)
旧尾道鉄道4号トンネル
(2005年8月)
概要
現況 廃止
起終点 起点:尾道駅
終点:市駅
駅数 18駅
運営
開業 1925年11月1日
最終延伸 1933年3月28日
部分廃止 1957年2月1日
廃止 1964年8月1日
所有者 尾道鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 17.1 km (10.6 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
最小曲線半径 80 m (260 ft)
電化 直流600 V 架空電車線方式
最急勾配 50 ‰
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
0.0 尾道
exABZrg eABZrf
exHST STR
0.2 御所橋(仮)
exSTR STRlf
国鉄:山陽本線
exBHF
0.4 西尾道
exABZlf exKBSTr
東洋繊維専用線
exBHF
0.9 地方事務所裏
exBHF
1.5 青山病院前
exBHF
2.2 宮ノ前
exBHF
2.9 栗原
exBHF
3.7 尾道高校下
exBHF
4.3(4.4?) 三美園
exBHF
5.9 三成
exKDSTl exABZrf
三成車庫
exBHF
6.5 木梨口
exBHF
7.3 遊亀橋
exBHF
8.0 木頃本郷
exSTR
↑1964年廃止区間
exBHF
9.1 石畦
exSTR
↓1957年廃止区間
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exBHF
10.7 西校上
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exBHF
13.3 畑 標高225m
exTUNNEL1
exTUNNEL1
exABZl+l exKBHFr
15.0 諸原
exKBHFe
17.1 市
尾道鉄道(おのみちてつどう)は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の一部)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 運行
4 歴史
4.1 前史
4.2 免許申請から開業まで
4.3 開業
4.4 バス事業参入
4.5 戦後
4.6 終焉
4.7 年表
5 駅及び施設
6 接続路線
7 輸送・収支実績
8 車両
8.1 廃止時に在籍していた車両
8.1.1 電車
8.1.2 貨車
8.2 廃止前に除籍等された車両
8.2.1 電車
8.2.2 付随車
8.2.3 貨車
9 現況
10 バス路線
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
概要[編集]
尾道 - 石畦(いしぐろ)間で開業し、後に石畦 - 市(いち)間が開通した。しかしモータリゼーションの進行と利用客数の低迷から石畦 - 市間が1957年(昭和32年)に廃止され、1964年(昭和39年)に全線廃止となり、路線バスの運行に切り替えられた。
尾道 - 上下間の免許を取得しており、また現在の三次市に至る支線を通し日本海側と連絡する計画もあったが、実現しなかった。
会社自体は鉄道廃止後も社名を変更せずバス事業者として営業を続け、1970年(昭和45年)にニコニコバスに吸収合併された。ニコニコバスは社名変更し中国バスとなっている。
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):17.1km
軌間:1067mm
駅数:18駅(起終点駅、御所橋駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V)
閉塞方式:
尾道 - 三成間:タブレット閉塞
三成 - 市間:票券閉塞
運行[編集]
運行回数
第二次世界大戦前:16-17往復
1954年(昭和24年)頃:14往復
1959年(昭和29年)頃:21往復
1962年(昭和37年)現在:尾道 - 石畦20往復、尾道 - 三成不定期1往復
所要時間
第二次世界大戦前:尾道 - 市55-56分
戦後1950年頃まで:尾道 - 市60-70分
その後:尾道 - 市50-59分
1962年(昭和37年)現在:尾道 - 石畦25-27分
貨物列車
1962年(昭和37年)現在:定期なし、臨時で尾道 - 西尾道に国鉄貨車を電動客車が牽引する
歴史[編集]
前史[編集]
尾道を含めた備後南部から、備後北部の主要都市である三次市を経由して中国山地を越え島根県へ出る輸送経路は、古くから街道(出雲街道、東城往来等)として整備されており、明治に入り鉄道が普及すると、このルート(陰陽連絡路線)に鉄道を敷設しようという機運が巻き起こった。
その一つとして、1899年(明治32年)に「尾三鉄道」が設立され、尾道から甲奴郡上下町(現・府中市上下町)を経て三次に至る間の路線の仮免許を取得したが、測量に難航しているうちに2年間の仮免許期間が経過してしまい仮免許が失効した[1]。
免許申請から開業まで[編集]
その後1910年(明治43年)に「軽便鉄道法」が制定されたのを受け、改めて軽便鉄道線として尾道から上下までの路線が計画され、1912年(明治45年)5月に免許を申請、翌1913年(大正2年)8月に取得した[2]。
しかし1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦などの影響もあって資金がなかなか集まらず、工事施工認可申請期限の延長を数度も行うなどもしたが、1918年(大正7年)12月20日に、「尾道軽便鉄道株式会社」がようやく設立される[3]。
そして1919年(大正8年)5月に工事施工許可を申請、翌1920年(大正9年)12月に許可が下り、さらに翌年の1921年(大正10年)4月にようやく工事に着手することになる[4]。
上述の通り、当初の計画では、蒸気機関車を用いた軌間765mmの軽便鉄道線として建設される予定であったが、輸送力や勾配(最大40パーミルが予想された)に対する懸念、および尾道駅で省線(後の国鉄、現・JR)と相互に貨車を乗り入れる事を構想していたため、電気動力で軌間1067mmの鉄道線へと計画変更し、それに伴い、1923年(大正12年)4月25日、「尾道鉄道株式会社」に社名を変更した[5]。
開業[編集]
以上のような経過を経て、1925年(大正14年)11月1日に、西尾道-石畦間が開業した[5]。次いで1926年(大正15年)4月28日、石畦-市間も延伸開業、1933年(昭和8年)3月28日には西尾道-尾道仮停車場[7]間も延伸され、省線尾道駅との連絡も実現した。
しかし、当初の計画にあった上下への延伸については、これ以前の1922年(大正11年)に、福山-府中-三次間が「陰陽連絡線」として制定されており[8]、1914年(大正3年)に開通していた両備鉄道(1926年(大正15年)6月までは両備軽便鉄道)[9]を国有化しこれに充当する動きがあったため(実際に国有化され現在は福塩線となっている)、市駅以北への延伸は断念せざるを得ない状況となり、市-上下間の免許は1932年(昭和7年)12月2日付で失効した[5]。
バス事業参入[編集]
1930年(昭和5年)、全額出資子会社の尾三自動車(かつて愛知県に存在した同名のバス会社とは無関係)を設立し、路線バス事業にも参入する[10]。1941年(昭和16年)にはこれを買収し、鉄道とバスの両部門を持つこととなった[11]。
当初、終点の市駅を起点に連絡バスを走らせていたが、並行する国道184号の改良に伴い、次第に尾道駅からの運行に切り替わっていった。このため、自社の路線バスが鉄道部門のライバルとなるという事態となった。特に石畦以北ではバスの方が集落に近い場所を走り利便性に優れていたため、鉄道利用客を奪っていったと伝える[12]。
戦後[編集]
それでも、第二次世界大戦終戦直後は、急増した輸送需要に活況を呈したが、物不足の折、補修部品の入手もままならず、車両は酷使され続けた[13]。
そして、1946年(昭和21年)、尾道鉄道電車脱線転覆事故を起こしてしまう。詳細は当該記事を参照してもらうが、簡単に説明するならば、登坂中に架線から電気を取り込むためのトロリーポールが外れて車両が停止、やがて重力に従い坂道を逆走しながら加速し続けた末カーブに突入、脱線転覆して多数の死傷者を出したのである。この事故以降、車両の集電装置をトロリーポールからパンタグラフへと変更した。
1949年(昭和24年)には、鉄道線と並行し閑古鳥であったため休止していた[14]栗原通りのバス路線免許を尾道市営バス(当時)に売却するという大失態を演じてしまう。みるみる内に電車とバスの優位は逆転し、栗原駅以南の市街地の乗客を市営バスに献上する事態となる[15]。
1951年度(昭和26年度)から1956年度(昭和31年度)の間、鉄道部門の赤字をバス部門の利益でカバーするという状況が続き[16]、収入の8割以上がバス部門によるものだったという[17]。それでも会社全体の営業収支は常に赤字だった[18]。同年に、国鉄尾道駅から西尾道駅近くの飼料工場までの貨車を当社路線を使って直通させるようにしたり[19]、1957年(昭和32年)2月3日には、負担の大きい区間である石畦-市間を廃止するなどしたが[20]、抜本的な経営改善とはならず、通学客が殺到する朝夕のラッシュ時を除けば、「空気を運んでる」と揶揄されるほど乗客が少ない有様となった[21]。末期には、乗客数に占める通学定期客数の割合が、全体の70から75%にも上ったという[22]。
終焉[編集]
こうした状況から、もはや鉄道事業の存続は困難との結論に達し[23]、1964年(昭和39年)8月1日、鉄道事業を廃止し、バス専業へと転換した[19]。その後6年ほどはバス事業者として生きながらえていたが、1970年(昭和45年)3月5日[19]、福山市に本拠を置くバス会社であるニコニコバス(合併と同時に社名を中国バスに変更[24])へ吸収合併され、法人としても消滅した。
年表[編集]
1913年(大正2年)8月15日 御調郡栗原村(西尾道)- 市村 - 甲奴郡上下町間軽便鉄道法免許[25]
1918年(大正7年)12月20日[26] 尾道軽便鉄道会社設立[27]
1923年(大正12年)5月3日 尾道鉄道に社名変更届出[28]
1925年(大正14年)11月1日 西尾道 - 石畦 (5M38C) 直流600V動力で開業[29]
1926年(大正15年)4月28日 石畦 - 市 (4M77C) 開業[30]
1931年(昭和6年)9月12日 御所橋(仮) - 西尾道を開業[31]
1932年(昭和5年)11月30日 - 起業廃止(御調郡市村-甲奴郡上下町間)[32]
1933年(昭和8年)3月28日 尾道 - 御所橋(仮)を開業[33]。尾道 - 市 (17.1km) 全線開通。同時に国鉄との連絡運輸を開始
1941年(昭和16年)9月 尾道自動車を合併。路線バス事業を兼営
1946年(昭和21年)8月13日 市行き列車が畑駅付近で故障。勾配を逆走し、石畦駅北方のカーブで脱線転覆。死者37名、重軽傷者101名を出す大事故となった(尾道鉄道電車脱線転覆事故)。
1957年(昭和32年)2月1日 石畦 - 市を廃止
1964年(昭和39年)
6月2日 運輸審議会廃止許可答申 尾道 - 石畦(9.1Km)
8月1日 尾道 - 石畦を廃止し鉄道事業廃止。これ以後、社名を変更しないままバス専業となる
1970年(昭和45年)2月1日 ニコニコバスに吸収合併され会社解散。同時にニコニコバスは社名を中国バスに改称
駅及び施設[編集]
※呼称は廃止時点のもの。御所橋は仮駅。
尾道駅 - 御所橋駅(仮) - 西尾道駅 - 地方事務所裏駅 - 青山病院前駅 - 宮ノ前駅 - 栗原駅 - 尾道高校下駅 - 三美園駅(さんびえん)- 三成駅(みなり)- 木梨口駅 - 遊亀橋駅(ゆうきばし)- 木頃本郷駅(きごろほんごう)- 石畦駅(いしぐろ)- 西校上駅(にしこううえ)- 畑駅 - 諸原駅 - 市駅(いち)
路線中の最高所は畑駅。諸原駅は高低差があるためスイッチバックであった。車庫および変電所は三成に設けていた。また、旧栗原駅の北側には1988年に山陽新幹線の新尾道駅が設けられている。
仮駅である御所橋駅と同名の橋が、(埋め立てられ現在の位置に河道が付け替えられる前の)旧栗原川に架けられていた。
接続路線[編集]
事業者名は廃止時点のもの
尾道駅:日本国有鉄道山陽本線
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1926 322,549 4,168 79,756 85,244 ▲ 5,488 雑損5,099 50,963 104,568
1927 318,376 6,270 82,627 73,757 8,870 雑損96 59,764 92,536
1928 323,073 5,787 81,769 77,707 4,062 雑損86 58,324 92,657
1929 301,393 3,765 73,197 72,990 207 雑損501 56,638 92,844
1930 228,559 1,569 55,560 55,691 ▲ 131 雑損償却金18,710 59,946 93,886
1931 195,179 760 52,666 49,906 2,760 償却金24,079 57,347 79,561
1932 181,689 1,663 51,104 45,135 5,969 雑損償却金46,181 56,202 96,479
1933 205,066 3,207 55,084 50,793 4,291 償却金47,154 53,063 96,369
1934 210,296 1,863 53,296 50,458 2,838 償却金51,682 43,652 93,986
1935 227,568 1,148 61,123 47,720 13,403 47,844 36,011 72,193
1936 273,137 548 68,973 40,353 28,620 雑損214 28,501
1937 362,094 722 74,366 48,215 26,151 償却金12,876雑損134 28,228 15,844
1939 586,713 1,433
1941 902,060 2,937
1945 2,085,995 1,402
1949 1,632,672 116
1952 1,482,354 3,899
1955 1,415千人 2,963
1958 1,663千人 2,748
1960 1,787千人 1,492
1962 1,688千人 1,276
鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版より
車両[編集]
開業時に用意された車両は電動客車(定員50人)3両[34](4両という資料あり[35])、附随客車(定員50人)3両(4両[12]、または2両[35]という資料もあり)、電動貨車3両、無蓋貨車5両すべて梅鉢鉄工所製四輪車[36]。1926年に附随客車(53)を電動客車化。廃車した電動貨車(101)[37]の電装品を使用[38][39]。1932年電動貨車(102)を有蓋貨車に改造[40][41]。1933年附随客車(52)を電動客車(5)に改造[42][43]。
廃止時に在籍していた車両[編集]
電車[編集]
尾道鉄道では、電動車に「デキ」(デンドウキャクシャの略)、制御車・付随車に「キ」の記号を使用した。
デキ15・16
1950年に近江鉄道クハ21・22(初代)を購入し、台枠などを流用し自社工場において1953年に鋼製車体を新製したもの。種車から流用したリンケホフマン製台車を履き、後述のデキ5・6から取り外した電装品を流用した。同型車であるが、集電装置についてはデキ15はパンタグラフ、デキ16はビューゲルであったという[44]。
デキ1→デキ21
1924年の開業当初に「デキ1」として運用開始。当初は運転室に扉はなく、オープンデッキであった。1946年に脱線転覆事故で大破したが、その後1950年に、水野造船所で比較的損傷の少なかった台車を利用して鋼製車体に改造し、デキ21に改番。1957年に車体延長を行いボギー車となった。このボギー台車はデキ25転入の際に水間鉄道から譲受したブリル27GE1[44]。
デキ25
1953年広瀬車輌製の水間鉄道モハ55(初代)を譲り受けたもの。電動車としてはたった1年程度でしかなく、制御回路の故障が頻発したため電装解除され、以降は付随車となった。
デキ31・32
1959年自社工場製。尾道鉄道最後の新製車両で窓枠がアルミサッシとなっていたが、台車は和歌山電気軌道からの流用品のブリル27GE-2で、モータはデキ11・12より取り外していたものを利用したようである。デキ32は、初め電装のない付随車「キ71」として製造されたが、のちに電装し「デキ32」となったもの[45]。製造からわずか5年で廃線により他車とともに廃車。
デキ35
1930年日本車輌製の宇部電気鉄道デハ201を1951年に譲り受けたもの。当鉄道では最も大型の車両。転入当初は「デハ201」の車番のまま運用されていたが、1953年に「デキ35」と改番。
デキ45
1926年日本車輌製の名古屋鉄道モ458を1947年に譲り受けたもの。もとは各務原鉄道K1-BE形8。当初は車番も458のままで、集電装置もトロリーポールであったという。1949年にパンタグラフ化され、1954年に鋼体化。このときに車番も「デキ45」に改番された。
キ51(2代目)
1947年日本鉄道自動車製の近江鉄道クハ21(2代)を1961年に譲り受けたもの。譲受時に運転台は撤去されたが、運転室の乗降用ドアはそのまま残った[46]。また、ハンドブレーキも残っていた[47]。
キ61
1929年日本車輌製の近江鉄道カハ100を1950年に譲り受けたもの。もとは芸備鉄道(現・芸備線)のガソリンカーのキハ2として製造された後、芸備鉄道の国有化に伴って国鉄のキハ40309となり、その後八日市鉄道に譲渡され、さらに同社が近江鉄道に合併されたのち、客車に改造(尾道鉄道転籍後に付随車としたという説あり[46])、後に尾道鉄道に入線、という複雑な経過をたどった車両である。
貨車[編集]
ト152・153(ト151形)
1925年梅鉢鉄工所製の無蓋車。当初は151-155の5両があったが、廃止時には上記2両のみであった。
廃止前に除籍等された車両[編集]
電車[編集]
デキ2
開業当初に導入された「デキ1形」の一両。外装の半鋼製化や集電装置のビューゲルへの変更、連結器をリンク式から自動連結器に改めるなどしたほかは、ほぼ原形を保ったまま使われ続けた。1957年3月に廃車。
デキ3→デキ6
「デキ1形」の一両。1941年5月にブレーキを改修し「デキ6」となる。1954年9月に廃車。
デキ4→キ52(2代)
「デキ1形」の一両。1941年5月に電装を外されて付随車の「キ52(2代)」となる。1958年7月に廃車。
キ52(初代)→デキ5
元は付随車の「キ52(初代)」。電動客車の不足を補うため、後述の「デワ102(後のデキ12)」の電装部品を使用して1933年に電車化され、「デキ5」と改称した。1954年9月に廃車。
デワ103→デキ11
元は電動貨車の「デワ103」。1941年に三成工場で改造され、電動客車となった。1958年に除籍。その後は長らく三成駅の側線で放置されていたという。
デワ102→ワ201(初代)→デキ12
開業時は電動貨車の「デワ102」。上述の通り、1932年に一度電装品を取り外し「ワ201(初代)」となるが、その後1941年にデキ4電装品を利用して再度電車化され「デキ12」となる。1960年3月に除籍。除籍前から三成工場の側線に留置されることが多かったという。
デハニ101→デキニ25・デハニ301
デハ201と同時に、1951年12月に宇部電気鉄道から譲受したが、半径80mのカーブを有するなど小型車両の運用しか考えられていない尾道鉄道線にとっては大きすぎる車体だったため、1953年9月に、上述のデキ25および台車1両分との交換で、水間鉄道に譲渡され、それぞれモハ55(2代)およびモハ56となった[48]。
デワ101
開業時に梅鉢鉄工所により新製された電動貨車。基本構造は電動客車であるデキ1形と似るが、車体長がこちらの方が約27cmほど短かったという。石畦-市間の延伸工事を請け負った工事会社に貸与していたが、4号トンネルにて脱線転覆し、1926年8月に全損廃車[48]。
付随車[編集]
キ51(初代)
開業時に梅鉢鉄工所により新製されたもの。デキ1とほぼ同等の外観を持っていた。大きな改造などもないまま1957年2月に廃車。
貨車[編集]
ニ101形
上述の貨車ト151形のうちト154・155は、戦後すぐの客車不足に対応するために箱形の車体を自社で製作して「代用客車」101・102となった。その後車両状況が好転してくると次第に使用されなくなったため、1950年に荷物車のニ101・102として認可を受ける。しかしその後も使用機会は少なく、1957年2月に廃車。ト151は、上記のような改造はされなかったが、ニ101・102と同日に廃車となった[47]。
ワ1形
1948年に国鉄のワ1形のワ17445を譲受し、1951年6月付でワ1形201(2代目)として認可を受けた。ただし車両に書かれた番号はワ17445のままであったという[49]。もともと貨物輸送が少なかった尾道鉄道で活用されることは少なく、1957年3月に廃車。
ト1形
1948年、ワ1形とともに国鉄からト1形(初代)であるト15128・15803の2両を譲受したものである。1951年6月にト251・252として認可を受けた。しかし同様に活躍は少なく、1953年9月に廃車。
現況[編集]
尾道鉄道線は尾道駅の北側から発着していた。駅跡は現在駐輪場等に使用されている。西尾道駅跡には、ホテルが建てられたが、現在は解体されておりマンションが建設された。市街地においては、僅かに橋桁等が残っている。石畦 - 畑間の盛土区間については、しばらく放置されていたが、改良工事の上、1986年(昭和61年)に国道184号バイパスとして開通した。一部のトンネルが歩行者用として再利用されたほか、国道のルートから外れたトンネルが、現在でも煉瓦造りの姿をそのままに残している。現在、当該区間には、かつての電車線の終点である市へ、また市より別の起業家が鉄道敷設を目指した府中方面へのバスが数本走っている。三成にあった車庫は現在中国バスの尾道営業所、市駅跡は市出張所となっている。
山陽本線とは離れた位置に建設された、山陽新幹線新尾道駅付近を走行していた。尾道鉄道が実際に敷設されたルートは現在の国道184号線に沿っており、石見銀山で産出された銀を、海上輸送のため尾道まで運搬した、石見銀山街道と平行、または近接している(ただし木梨口 - 畑間付近の木ノ庄地区において鉄道・国道は西側、街道は東側を経由する違いがある)。また終点として計画された上下は街道の宿場町として栄えた場所であるが、鉄道の輸送ルートとしては、結果的に使用されることなく、上下・三次には福山から現在の福塩線が伸び、福山市と鉄道で結ばれることになった。吉舎 - 上下 - 府中 - 神辺と至るこの経路もまた、尾道へ至るルートから別れ、笠岡に向かった銀山街道を追っている[50]。
廃線跡は、地上から確認するのは困難であるが、航空写真等で上空から見ると宮ノ前 - 尾道間は住宅が廃線跡の上に沿うように、長細く連なっているのが確認できる。
現在市街地で遺構を確認できるものは、宮ノ前 - 栗原間の栗原の本通りと交差する部分にあった踏み切りの台座と、その先にある川にある橋台くらいである。
バス路線[編集]
三原車庫-三原駅前-垣内-久井-甲山
垣内-市
尾道駅前-(栗原本通/長江)-尾高前-三成-石畦駅前-畑-市-甲山-吉舎-三良坂-塩町-三次駅-尾関山
三良坂-備後庄原駅前
尾道駅前-長江-尾高前-三成-木梨口-前田店-枝-前前後-大塔-後前後-府中駅前
造船所前-桑田渡し-浄土寺下-防地口-長江口…(各地)
甲山-赤屋-東駐在所-青近口-反田-小童-甲奴-上下駅前
甲山-備後三川駅前
中国バス尾道営業所は三成にあるが、鉄道営業当時バスの車庫は本社も所在した西尾道駅構内にあった。バス専業化後は本社兼車庫として、中国バスに併合された以後も尾道営業所兼車庫として存在した。三成車庫に集約されるのは国道184号線(通称:桜土手)が整備された後年のことである。そしてその跡地に、かの中国バス直営ホテルが建設されることとなる。
脚注[編集]
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^ 尾道学研究会 2011, p. 80.
^ 前田六二(編) 1992, pp. 1.
^ 前田六二(編) 1992, pp. 2-3.
^ 前田六二(編) 1992, p. 18.
^ a b c 尾道学研究会 2011, p. 81.
^ 尾道学研究会 2011, p. 77.
^ 本停車場への変更は1937年(昭和12年)11月29日[6]
^ 『改正軌道法別表』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 「九十一 廣島縣福山ヨリ府中、三次、島根縣来島ヲ經テ出雲今市ニ至ル鐵道(以下略)」
^ 前田六二(編) 1992, p. 20.
^ 尾道学研究会 2011, p. 124.
^ 尾道学研究会 2011, p. 32.
^ a b 前田六二(編) 1992, p. 71.
^ 尾道学研究会 2011, p. 38.
^ 譲渡人尾道鉄道株式会社讓受人広島県尾道市申請一般乗合旅客自動車運送事業譲渡(一部)認可について - 国立公文書館デジタルアーカイブ p.3,p.8
^ 猪狩政四郎 1983, pp. 182-185.
^ 前田六二(編) 1992, p. 65.
^ 前田六二(編) 1992, p. 63.
^ 尾道学研究会 2011, p. 158.
^ a b c 尾道学研究会 2011, p. 125.
^ 尾道学研究会 2011, p. 121.
^ 尾道学研究会 2011, p. 104.
^ 前田六二(編) 1992, p. 79.
^ 前田六二(編) 1992, pp. 78-81.
^ 前田六二(編) 1992, p. 95.
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年8月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第27回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正12年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年11月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年5月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年9月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道一部起業廃止」『官報』1932年12月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1933年4月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 前田六二(編) 1992, p. 91.
^ a b 尾道学研究会 2011, p. 66.
^ No.34「西尾道石畦間運輸営業開始ノ件」11頁『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
^ No.55「電動貨車減少ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
^ No.52「附随客車ヲ電動客車ニ改造ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
^ No.54「車輌竣功ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』
^ No.47「貨車設計変更ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
^ No.50「車輌竣功ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
^ No.54「車輌設計変更ノ件ニ関スル通牒(八年二月二十四日届)」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
^ No.59「電動客車竣功ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』
^ a b 尾道学研究会 2011, p. 71.
^ 尾道学研究会 2011, p. 73.
^ a b 尾道学研究会 2011, p. 74.
^ a b 前田六二(編) 1992, p. 67.
^ a b 尾道学研究会 2011, p. 75.
^ 前田六二(編) 1992, p. 68.
^ 中国新聞・銀の道物語、国土交通省・中国地方の歴史街道を参考に構成した。
参考文献[編集]
猪狩政四郎 『尾道市交通部五十年史』 尾道市交通部、1983年3月25日、初版。
尾道学研究会 『タイムスリップ・レール…オノテツ』 尾道学研究会、2011年3月31日、初版。
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(1986年覆刻)、p. 417。ISBN 4-88540-048-1。
前田六二(編) 『消えた鉄路尾道鉄道』 前田六二、尾道、1992年。
宮松丈夫 (1963). “消えゆく路線をたずねて 続・尾道鉄道”. 鉄道ファン No. 25 (1963年7月).
和久田康雄 (1963). “尾道鉄道”. 鉄道ピクトリアル No. 145 (1963年5月号臨時増刊:私鉄車両めぐり4): pp. 80-85, 96.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
和久田康雄 (1962). “尾道鉄道(私鉄車両めぐり第4分冊補遺)”. 鉄道ピクトリアル (1964年7月号臨時増刊:私鉄車両めぐり5): p. 88.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺8頁。
『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・尾道鉄道(元尾道軽便鉄道)・大正六年~昭和元年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・尾道鉄道・昭和二年~昭和八年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目[編集]
宇部鉄道の電車 - 同社の電車が、1950年に国鉄を経て3両譲渡されている。
日本の廃止鉄道路線一覧
外部リンク[編集]
ひろしま戦前の風景 - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。
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呉市電
[隠す]呉市電
伊予鉄道より里帰りした1001 2008年7月24日
伊予鉄道より里帰りした1001 2008年7月24日
路線総延長 11.3 km
軌間 1067 mm
電圧 600(直流)
凡例
STR
呉線
HST
川原石
uexKBHFa STR
0.0 川原石
STRrg uxmKRZo STRrf
(0.3)
STRc2 STR3 uexBHF
呉陸橋
STR+1 STRc4 uexBHF
西本通六丁目
STR uexSTR
-
0.3
←旧 呉駅前
BHF uexKBHFl uexTBHFr
-
0.0
呉駅前
STR uexBHF
中央桟橋通
STR uexBHF
中通三丁目
STR uexBHF
四ッ道路
LSTR uexBHF
本通7丁目
uexBHF
2.6
0C
本通9丁目
uexABZlf uexSTRlg
→1930年廃止区間
uexBHF uexLSTR
本通十一丁目
uexBHF uexLSTR
本通十三丁目
uexBHF uexLSTR
本通十五丁目
uexSTR uexKBHFe
-
32C
鹿田
uexBHF
畑
uexBHF
4.6 呉越
uexBHF
中畑
uexBHF
原
uexBHF
郷
LSTR uexBHF
阿賀海岸通
BHF uexBHF
阿賀駅前
STR uexKDSTl uexABZrf
STR2 STRc3 uexBHF
7.7 先小倉
STRc1 STR+4 uexBHF
広大橋
STR uexBHF
広支所前
STR uexBHF
二級橋
STR uexBHF
広交叉点
STRlf uxmKRZu
uexBHF
臨港市場前
uexBHF
岩樋
uexBHF
津久茂
uexKBHFe
11.3 長浜
呉市電(くれしでん)では、広島県の呉市交通局がかつて運営していた路面電車(市電)について述べる。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 沿革
2.1 呉電気鉄道から広島電気まで
2.2 芸南電気軌道
2.3 呉市交通局
3 停留所一覧
4 接続路線
5 運転系統
6 車両
7 未成線
8 廃止後
8.1 代替輸送
8.2 車両
8.3 軌道
9 脚注
10 参考文献
概要[ソースを編集]
1909年(明治42年)に私鉄の呉電気鉄道として開業したのが創始である。広島県においては広島市の広島電鉄より古い開業で、山口県岩国市の岩国電気軌道に8ヶ月遅れで次ぎ中国地方2番目となるものであった。なお、当初は呉馬車鉄道として馬車鉄道にする計画であったが、大都市においては馬車鉄道は路面電車化が完了していた時代であったため、路面電車に計画変更した。また、当初は伊勢電気鉄道線(後、三重交通神都線)同様に右側通行を採用していた。改築に費用がかかるため対面通行の原理を主張してしばらく改めなかったが、1924年に左側通行となった。
その後、呉電気軌道は電力会社の広島水力電気に買収され、電力会社の系列化の流れにより広島呉電力、広島電気と変遷を重ねた。ちなみにこの当時、広島電気は現在の可部線の一部区間も運営していた。
同じ頃、芸南電気軌道が呉から東部の広方面へ専用軌道による電車路線を敷設しようとしていた。しかし国道整備が終わっていたことから併用軌道に計画変更し、1927年(昭和2年)に順次路線を開業させた。しばらく広島電気と芸南電気軌道の併存の期間があった。1930年、広島電気は芸南電気軌道に呉市内の軌道事業を譲渡し運営が一本化された。
1942年(昭和17年)、大日本帝国海軍の要請で芸南電気軌道は呉市に買収され、呉市交通局の運営する呉市電となる。
戦中・戦後には空襲を受けたこともあって苦心の運営が続くが、1948年(昭和23年)にはようやく全線を復旧させた。1961年(昭和36年)にはワンマン運転も開始するなど、合理化も図られた。
しかし、モータリゼーションの影響を受けて赤字が拡大したことに加え昭和42年7月豪雨により甚大な被害を受け復旧に目処が立たなかったことから、1967年(昭和42年)12月18日に廃止となった。廃止時の路線長は11.271kmであった。
路線データ[ソースを編集]
1962年当時
路線距離:総延長11.3km
軌間:1067mm
停留所数:28
電化方式:直流600V
沿革[ソースを編集]
呉電気鉄道から広島電気まで[ソースを編集]
本通り1丁目四ッ道路付近
1924年呉市都市計画図
1906年(明治39年)8月19日 呉馬車鉄道設立
1907年(明治40年)2月26日 川原石 - 本通九丁目軌道法特許
1908年(明治41年)
2月14日 呉馬車鉄道から呉電気鉄道と改称
7月28日 今西通三丁目(呉停車場前) - 呉駅前間および本通九丁目 - 鹿田間軌道法特許
1909年(明治42年)
10月31日 鉄道踏切(後の西本通三丁目) - 本通九丁目間が開業
12月3日 呉停車場前(後の停車場前、呉駅前) - 呉駅前間支線開通
1910年(明治43年)4月27日 呉線との平面交差問題で工事が遅れていた川原石 - 鉄道踏切間が、同線の両側で線路を分断される形で開業
1911年(明治44年)
3月25日 本通九丁目 - 鹿田間が専用軌道で開通
10月 呉電気鉄道と広島水力電気が合併して広島呉電力と改称
1921年(大正10年)8月12日 広島呉電力と広島電燈が合併して広島電気と改称
1924年(大正13年)2月1日 右側通行を左側通行に改める
芸南電気軌道[ソースを編集]
1921年(大正10年)
7月19日 本通九丁目 - 先小倉間軌道法特許
12月20日 芸南電気軌道設立
1924年(大正13年)9月5日 先小倉 - 一門前(後の津久茂)軌道法特許
1927年(昭和2年)
4月10日 本通九丁目 - 呉越間新規開通
11月17日 呉越 - 明神(後の阿賀駅前付近)間開業
12月28日 明神 - 先小倉間開業
1929年(昭和4年)4月10日 広島電気の軌道事業を芸南電気軌道に譲渡
1930年(昭和5年)
3月1日 本通九丁目 - 鹿田間32チェーンを並行区間として廃止
12月30日 先小倉 - 一門前開業
1932年(昭和7年)4月18日 一門前 - 長浜間軌道法特許
1935年(昭和10年)12月21日 一門前 - 長浜間開業
呉市交通局[ソースを編集]
1945年呉市戦災概況図。
1945年呉市戦災概況図。
1945年にアメリカ軍が作成した広地区地図。
1945年にアメリカ軍が作成した広地区地図。
1942年(昭和17年)12月21日 芸南電気軌道は呉市に事業を譲渡し、新設された呉市交通局の運営となる
1943年(昭和18年)
6月20日 川原石 - 西本通三丁目間を休止
12月 停車場前(後の呉駅前) - 呉駅前間の支線を休止(軌道撤去)
1954年(昭和29年)7月11日 呉線をまたぐ呉陸橋が完成したことにより、川原石 - 西本通三丁目間を復活、西本通三丁目停留場を廃止し西本通六丁目との間に呉陸橋停留場設置
1955年(昭和30年)
本通の拡幅に伴い軌道を中央に移設
5月30日 無騒音電車の800型導入
1960年(昭和35年)11月16日 休止中の呉駅前(元の停車場前) - (旧)呉駅前間の支線廃止
1961年(昭和36年)
4月22日 ワンマンカー導入開始。2000形3台導入
12月 3000型(600型601形)ワンマンカーに改造
1967年(昭和42年)12月18日 全線廃止
1968年(昭和43年)2月22日 600型、700型4両を岡山電気軌道へ売却
停留所一覧[ソースを編集]
1962年当時
川原石 - 呉陸橋 - 西本通六丁目 - 呉駅前 - 中央桟橋通 - 中通三丁目 - 四ッ道路 - 本通七丁目 - 本通九丁目 - 本通十一丁目 - 本通十三丁目 - 本通十五丁目 - 畑 - 呉越 - 中畑 - 原 - 郷 - 阿賀海岸通 - 阿賀駅前 - 先小倉 - 広大橋 - 広支所前 - 二級橋 - 広交叉点 - 臨港市場前 - 岩樋 - 津久茂 - 長浜
接続路線[ソースを編集]
呉駅前:呉線(呉駅)
阿賀駅前:呉線(安芸阿賀駅)
運転系統[ソースを編集]
1961年3月当時
長浜 - 川原石
広交叉点 - 川原石
広交叉点 - 西本通六丁目
広交叉点 - 呉駅前
広交叉点 - 四ッ道路
阿賀駅前 - 四ッ道路
車両[ソースを編集]
1962年当時の在籍車両
100型 (101-110)
芸南電気軌道が1927年開業時に梅鉢鉄工所で製造した木造単車1形の車体を乗せかえたもの
200型 (201-205)
広島電気が1928年に日本車輌で製造した半鋼製単車21形を改番したもの(形式図(芸南電気鉄道第21号)[1])
300型 (305-307)
広島電気21形と同一設計で1931年製造
500型 (501-503)
元武蔵中央電気鉄道1形、1929年日本車輌製造の半鋼製ボギー車
600型 (601-609)
601形(601号-607号) 旧600型のまま外観は3扉の形状だが運転時開閉するのは、前扉・中扉である。またボギー車。
608形(608号・609号) 旧600型を1949年広瀬車輛による改造。鋼製3扉から2扉(前扉・後扉)に改造し方向幕も大きいものに改造している。またボギー車。
700型 (701-703)
1952年富士車輌の製造になる鋼製2扉ボギー車
800型 (801, 802)
1951年認可の帝国車輛製2扉全金属製ボギー車。FS70形台車採用。「乗り心地満点のPCC形」と宣伝した
1000型 (1001-1003)
1959年ナニワ工機製造のボギー車。廃線後、伊予鉄道でモハ50形として2004年3月1日まで使用された。伊予鉄道の自社発注モハ50形 (62-64) と車体がほぼ同一設計であった。最後まで運行されていた1001号が呉市に返還され、呉ポートピアパークに展示されている。
2000型 (2001-2003)
1961年ナニワ工機製造のワンマン用ボギー車
3000型 (3001-3007)
1961-1962年に自局阿賀工場で木南車輌製600型601形の3扉車601-607を2扉車(前扉・中扉)に改造しワンマン改造したもの
未成線[ソースを編集]
海岸通1丁目 - 海岸通7丁目の敷設計画が存在したが、1960年に未開業線のまま廃止となっている[2]。
廃止後[ソースを編集]
代替輸送[ソースを編集]
呉市交通局の広長浜呉駅線および天応川尻線が代替バスとして運行していたが、後に広島電鉄バスに移管される。
車両[ソースを編集]
廃止前年の1966年末に22両在籍していたうち、608・702・703・801・802は岡山電気軌道、1001-3は伊予鉄道、2002・2003・3001-7は仙台市交通局にそれぞれ譲渡された。
廃止後、保存車として2001号が入船山記念館に据付けされた。その後阿賀町の豊栄交通公園(現豊栄公園)に移された。屋根はついていたものの、車体の損傷は激しく1001号を呉ポートピアパークに展示するにあたり解体された。一部の部品は下記の1001号に使われ、また呉市が保存している部品もある。
伊予鉄道から返還を受けた1001号の保存にあたっては、市章を付け、塗装および前照灯を呉時代のものに戻して呉時代の外観を復元している。伊予鉄道時代に取り付けられた冷房装置はそのままで、車内広告などは伊予鉄道時代のものが残っている。片エンドの運転台横には冷房機が据え付けられ使われている。
1965年に廃車になった300型のうちの305号車の車体部分は、呉市宮原町の保育所(後藤保育所)の遊具「小鳩号」として再活用されている。
上の写真の別角度。中扉は開放の状態で固定
運転台
市章と台車。市章は保存に際して復元
305号車の車体
軌道[ソースを編集]
軌道は全面撤去され面影を残すものは存在しない。例えば戦前からある二河橋は市電が通る前提の併用橋として架橋されたが、廃線後は一般道路だけが通る道路橋として利用されている。
脚注[ソースを編集]
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^ 『最新電動客車明細表及型式図集』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.177
参考文献[ソースを編集]
和久田康雄 (1962). “呉市交通局”. 鉄道ピクトリアル (1962年8月号臨時増刊:私鉄車両めぐり3): pp. 61-65, 97.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺6頁。
呉市交通局 『呉市交通局60年史』 呉市交通局60年史発行部会、呉市交通局、広島県呉市、2002年、pp.57。
今尾恵介(監修) 『中国・四国』 新潮社〈日本鉄道旅行地図帳〉、2009年、pp. 35-36。
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表 話 編 歴
日本の路面電車
カテゴリ: かつて存在した路面電車路線中国地方の鉄道路線 (廃止)広島県の交通史呉市の交通呉市の歴史