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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
出石鉄道
出石鉄道株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
兵庫県出石郡出石町八木87
設立 1919年(大正8年)6月
業種 陸運業
事業内容 鉄道事業
代表者 石田源蔵
資本金 500,000円
売上高 24,268円
営業利益 ▲ 649円
従業員数 25人
主要株主 出石町民・日高村など
特記事項:1930年当時
テンプレートを表示
出石鉄道(いずしてつどう)は、かつて兵庫県に存在した軽便鉄道路線およびその運営会社である。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 歴史
3.1 年表
4 駅一覧
5 接続路線
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 蒸気機関車
7.2 気動車
7.3 客車
7.4 貨車
8 廃線跡
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要[編集]
但馬の小京都と呼ばれた出石町(現在の豊岡市出石町)と山陰本線の江原を結ぶべく1920年(大正9年)に会社が設立され、紆余曲折の末に1929年(昭和4年)、地元住民の出資により軽便鉄道(貨物には蒸気機関車・旅客車はガソリンカー)として開通したが、経済不況や自然災害などにより営業不振が続いた。そして太平洋戦争下の1944年(昭和19年)に不要不急線として営業休止に追い込まれる。終戦後、路線復活の動きもあったものの、結局1970年(昭和45年)に正式に廃線となる。事業会社としての出石鉄道では、バスの運行や、営業休止の賠償としてトラックを入手し、運輸事業等も行っていたが、全線運休後にすべての事業を停止している。
路線データ[編集]
出石鉄道線
出石鉄道の列車
出石鉄道の列車
概要
現況 廃止
起終点 起点:江原駅
終点:出石駅
駅数 7駅
運営
開業 1929年7月21日
廃止 1970年7月20日
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 11.2 km (7.0 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
最急勾配 25 ‰[* 1]
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STRq
STRq
国鉄:山陰本線
exSTRlg
0.0 江原
WASSER exKDSTl exABZrf
0.9 円山川
WASSER exHST
? 鶴岡(仮) *
WASSERl WASSERq exWBRÜCKE
鶴岡橋梁 円山川
exHST
? 鶴岡(仮) *
exBHF
2.5 上ノ郷
exBHF
4.2 中筋
exBHF
6.8 小坂村
exBHF
7.6 島口
exBHF
8.8 鳥居
exKBHFe
11.2 出石
鶴岡(仮)(1) 1934年-1936年
鶴岡(仮)(2) 1942年-1943年
^ 袴坂峠、江原 - 上ノ郷駅間
廃止時点
路線距離(営業キロ):11.2km
軌間:1067mm
駅数:7駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
歴史[編集]
1910年、山陰東線(現在の山陰本線の一部)が京都駅から鳥取駅まで開通したが、出石町は、鉄道路線から離れた位置になった。そのため、生糸取引所、郡役所、国立銀行などが、次々豊岡市へ移転することとなった[1]。このため、出石町までの鉄道敷設の機運が高まり、住民78名の有志らによって1920年(大正9年)12月に出石軽便鉄道株式会社が設立された。同社は初め出石町の住民らにより出資されたが、後に日高村(いずれも現豊岡市)も出資することになった。第一次世界大戦後の不況とインフレで一時工事が中断したが、1929年(昭和4年)7月21日に江原 - 出石間の全線11.2kmが開業した。資本金は50万円、建設費は69万9782円であった。
開業時は、ガソリンカーを2両、貨車を6両保有して、1日7往復が運転され全線を35分で結んでいた。1930年(昭和5年)から国鉄から蒸気機関車の払い下げを受け、国鉄との貨物の連帯輸送が始められた。1932年(昭和6年)には、鉄道省から小型客車1両の払い下げを受け、混合列車の運行を開始した。1937年には、鉄道省から旧簸上鉄道(現木次線)の客車3両を譲り受け、客車列車の運行を開始した。
開業した1929年(昭和4年)は、旅客数7万4991人、貨物が3785トンで、10年後の1939年(昭和14年)には旅客11万8531人、貨物1万6050トンと増加を見せていたが、不況の影響もあり経営は苦しく、終始赤字経営から抜け出すことはできなかった。一時期は社長が自分の田畑を処分して従業員の給料を支払っていたという。また1934年(昭和9年)には室戸台風により円山川の鶴岡橋梁が流失して打撃を受けた。円山川の両岸に鶴岡仮駅を設置し、同仮駅にて折り返し運転をしながら川を渡し舟で連絡していた。1936年(昭和11年)6月25日に復旧して全線での営業を再開した。しかし1942年(昭和17年)に再び鶴岡橋梁が流失し、1934年(昭和9年)の時と同様に折り返し運転となった。
1943年(昭和18年)2月14日、資材をインドネシアのスラウェシ島における鉱山開発に転用するため[2]として、不要不急線に指定され線路の撤去が命じられた。これにより1944年(昭和19年)5月1日に、円山川の河砂輸送のため残されることとなった江原 - 円山川をのぞいて運行休止となり、レールなどが撤去された。この時、代償として、バス4台、トラック5台を受け取り、自動車運輸業を開始した。
戦後になり、地元では鉄道復活の運動が行われた。1946年4月、出石鉄道復旧請願書を、さらに、1948年9月に資材の払い下げ願を大臣に提出した。しかし、復活は実らず、1970年(昭和45年)7月20日に正式に廃止となった。運転休止時に開始した自動車運輸も、1952年3月10日に全但交通に譲渡し、事業を休止した。1966年1月に株主総会にて解散決議を行い、同年9月清算完了により解散した。
年表[編集]
1919年(大正8年)6月27日 : 出石軽便鉄道株式会社(翌年3月、出石鉄道株式会社に改称)発起人が、出石 - 江原の鉄道敷設免許を受ける[3]。
1920年(大正9年)12月20日 : 出石鉄道株式会社設立[4]。
1921年(大正10年)1月 : 出石鉄道建設工事に着手。
1923年(大正12年) : 資金不足により、建設工事中断。
1929年(昭和4年)
4月 : 建設工事再開。
7月21日 : 江原 - 出石間開業 (11.2km)[5]。
9月10日 : 島口駅開業。
1930年(昭和5年)
2月24日 : 貨物運輸開始、鉄道省との貨物連絡運輸を開始、蒸気動力併用[6]。
7月 : 豪雨のため築堤決壊3日間運休。
12月6日 : 上ノ郷駅開業。
1932年(昭和7年)8月15日 : 目的追加(自動車運輸業、砂利採取販売業)[6]。
1934年(昭和9年)
9月 : 室戸台風により江原 - 上ノ郷間の円山川にかかる鶴岡橋梁が流失し不通となる。
10月2日 : 橋梁付近に鶴岡仮駅を設置し、鶴岡(仮) - 出石間の営業となる。
1936年(昭和11年)6月25日 : 鶴岡橋梁が復旧し全線での運転を再開、鶴岡仮駅廃止。
1938年(昭和13年) : 江原自動車からバス路線江原 - 出石線を買収し、運休とする。
1942年(昭和17年)9月 : 大雨により鶴岡橋梁が再び流失。
1943年(昭和18年)
2月14日 : 不要不急線に指定され撤去を命じられる。
4月 : 海軍の命令により円山川停車場を新設。
1944年(昭和19年)5月1日 : 円山川(鶴岡橋梁付近) - 出石間休止 (-10.3km)。江原 - 円山川間は貨物線として残される。
1951年(昭和26年)5月1日 : 江原 - 円山川間の貨物連絡運輸を休止 (-0.9km)[7]。
1952年(昭和27年)3月10日 : 自動車運輸営業権を全但交通に譲渡。
1966年(昭和41年)1月31日 : 株主総会にて解散が決議。
1969年(昭和44年)9月10日 : 株主総会にて清算完了の承認を経て廃業。
1970年(昭和45年)7月20日 : 江原 - 出石間全線廃止。
駅一覧[編集]
島口駅にて出発を見送る人々
1944年 円山川 - 出石間休止直前時
江原駅 - 上ノ郷駅 - 中筋駅 - 小坂村駅 - 島口駅 - 鳥居駅 - 出石駅
1944年 円山川 - 出石間休止後
江原駅 - 円山川停車場
接続路線[編集]
1944年休止時点
江原駅:国鉄山陰本線
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1929 32,722 0 8,017 7,030 987 12,216
1930 72,991 3,847 24,268 24,917 ▲ 649 雑損4,202 25,793 16,118
1931 63,317 6,255 28,276 23,165 5,111 雑損8,375 23,140 27,630
1932 54,675 6,449 29,379 24,131 5,248 雑損12,557 20,674 30,625
1933 66,522 6,664 30,008 23,223 6,785 雑損14,985 15,527 34,172
1934 91,812 6,478 30,754 31,978 ▲ 1,224 債務免除及町補助金18,605 雑損11,577 11,799 33,213
1935 64,530 2,090 22,061 28,850 ▲ 6,789 債務免除及町補助金4,050 雑損18自動車21 7,798 31,631
1936 68,832 4,386 25,831 35,021 ▲ 9,190 町補助金3,250 自動車730 6,592 35,349
1937 55,710 6,878 27,556 36,704 ▲ 9,148 自動車2,500 貨物自動車249 6,101 17,530
1939 96,134 11,669
1941 122,664 16,716
1943 164,001 31,222
鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
車両[編集]
蒸気機関車[編集]
21, 22号
旧国有鉄道1710形を1929年に譲受。1930年、出石鉄道に入線し、力不足のガソリンカーに代わって客車と貨車を牽引した。21号は、1938年(昭和13年)解体され、22号は、1944年(昭和19年)、三菱水島航空機製作所専用鉄道へ譲渡された。
6
播丹鉄道6を1936年(昭和11年)に譲受。鉄道省105形と同形である。出石鉄道営業休止後も、円山川川砂輸送のため、江原 - 円山川間を運行していた。1951年解体された。
気動車[編集]
ガ1号
1929年(昭和4年)の開業に向けて日本工業所を通じて梅鉢鉄工所に自社発注したガソリンカー(定員50名)である。1937年、エンジンのオーバーホールを行い、1940年に復旧した。1942年(昭和17年)に木炭代燃装置を取り付けたが、同年、車庫が全焼する火事が発生し、同車も廃車となった。
ガ2号
ガ1号と同様、1929年(昭和4年)の開業に向けて日本工業所を通じて梅鉢鉄工所に自社発注したガソリンカー(定員50名)である。ガ1号と同様、エンジントラブルが多く、1937年(昭和12年)、エンジンを換装したが、トラブルは治まらなかった。1944年(昭和19年)、日立水戸工場へ売却した。
カハ1号
1930年(昭和5年)加藤車両製作所により作成された単端式ガソリンカー(定員28名)である。1942年(昭和17年)出石鉄道に入線した。この気動車は流出した鶴岡橋梁が復旧するまで、江原 - 鶴岡仮停車場間の折り返し運転で使用された。1944年(昭和19年)、出石で解体された。
客車[編集]
ハフ2001 → ハニフ2001
1897年(明治30年)大阪福岡鉄工所にて製造された。オープンデッキのクロスシート4輪単車で、車体中央部が二重屋根であった。旧阪鶴鉄道が国有化された後、出石鉄道に譲渡された。1941年、遠州電気鉄道に譲渡された。
形式1500 1500?1502
1937(昭和12年)鉄道省から購入した。元簸上鉄道ホロハ1-3。1944年、東武鉄道に譲渡された。
貨車[編集]
有蓋貨車 ワ101・102
1929年(昭和4年)7月梅鉢鉄工所製造。ワ101は1941年(昭和16年)11月に遠州電気鉄道へ、ワ102は、1944年に解体された。
緩急有蓋貨車 ワフ51・52
1929年(昭和4年)7月梅鉢鉄工所製造。1944年(昭和19年)に解体された。
無蓋貨車 ト151・152
1929年(昭和4年)7月梅鉢鉄工所製造。1944年(昭和19年)に解体された。
廃線跡[編集]
鶴岡 - 上之郷間には円山川があり、鶴岡橋から水が少ないときは旧鶴岡橋梁の土台が見える。円山川 - 上之郷間では国道482号出石方面への進行方向東側に分かれ上郷区にはいっていく。上郷区にあった旧上ノ郷駅の西側は2車線の道路であるが東側は畑になっている。上之郷から中筋方面へは途中上郷川に小さな橋げたがある。
脚注[編集]
^ 安保彰夫 2010, p. 4.
^ 『京成電鉄五十五年史』(1967年刊)
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1919年6月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』、『帝国鉄道年鑑』
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年7月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
^ 「運輸省告示第76号」『官報』1951年4月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献[編集]
神戸新聞総合出版センター 『ひょうご懐かしの鉄道 廃線ノスタルジー』、2005年、pp. 160-165。ISBN 4-343-00322-1。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』9 関西2、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790027-2。
安保彰夫 『出石鉄道 - 二千人の株主が支えた鉄道 -』 ネコ・パブリッシング、2010年7月1日。ISBN 978-4-7770-5289-9。
関連項目[編集]
廃線
外部リンク[編集]
但馬情報特急 出石鉄道
カテゴリ: 近畿地方の鉄道路線 (廃止)かつて存在した日本の鉄道事業者出石鉄道豊岡市の交通豊岡市の歴史日本の軽便鉄道豊岡市の企業兵庫県の交通史
北沢産業網干鉄道
北沢産業網干鉄道
網干駅駐車場で静態保存されているDB2形
網干駅駐車場で静態保存されているDB2形
概要
現況 廃止
起終点 起点:網干駅
終点:浜田港駅
駅数 4駅
運営
開業 1943年(専用鉄道として)
地方鉄道開業 1966年11月1日
休止 1987年11月1日
廃止 1989年4月30日
所有者 北沢商店→北沢産業
路線諸元
路線総延長 5.9 km (3.7 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線
凡例
eABZq+l BHFq
0.0 網干
exDST
1.7 上余部
exWBRÜCKE
揖保川
exDST
5.2 中浜田
exABZlf exKDSTr
5.9 浜田港
exKDSTe
? 北沢船溜
北沢産業網干鉄道(きたざわさんぎょう あぼしてつどう)は、兵庫県姫路市の網干駅から同市の浜田港駅までを結んでいた、北沢産業(厨房機器メーカーの北沢産業とは別の会社)が運営していた鉄道路線の通称である。なお正式な路線名はない。
国鉄山陽本線と、姫路木材港(姫路港浜田地区)を結んでいた貨物線である。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 歴史
3 駅一覧
4 接続路線
5 輸送・収支実績
6 脚注および参考文献
7 関連項目
概要[編集]
沿線にあった東芝の工場(姫路工場・網干工場)に物資を輸送するため建設された専用線が発祥である。戦時中には貨車で通勤客を輸送していたこともあったという。戦後東芝が過度経済力集中排除法の適用を受け、網干工場が西芝電機として独立したことに伴い、専用線は北沢産業に譲渡された。
北沢産業の運営となったあと専用線は1966年に地方鉄道に転換されたが、実態は従前とほとんど変わらなかった。工場への物資輸送がトラックへと切り換えられ、末期は輸送量が激減していたが、国鉄の貨物合理化の流れもあり最終的に廃止された。
当線で使用されていたディーゼル機関車のうち、DB1が高砂市内に、DB2が北沢産業の北沢網干パーキングに保存されている。また太子町米田地区ではレール未撤去の廃線跡が存在する。
1960年代までは蒸気機関車を保有・使用しており、廃車後そのうち2両が三重県のナガシマスパーランドにあった「長島温泉SLランド」に保存されたが、すでに解体されている。
出発点のJR網干駅近傍に残る廃線跡
太子町米田地区に残る廃線跡
揖保川にかかっていた鉄橋につながる廃線跡
路線データ[編集]
路線距離:網干駅 - 浜田港駅5.9km
軌間:1067mm
駅数:4駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:不詳
歴史[編集]
この鉄道は当初北沢商店と名乗っていた。北沢産業の公式サイトの沿革によれば、北沢商店から北沢産業への改称は1943年(昭和18年)9月であるが、1950年(昭和25年)の譲渡契約書では北沢商店名義で記されているし、毎年の『私鉄統計年報』や『私鉄要覧』には北沢商店名で掲載されている[1]
1943年(昭和18年) 東芝姫路工場が操業開始。この頃同工場への専用線が運用開始
1950年(昭和25年)11月 北沢産業(北沢商店)が専用線を譲受
1966年(昭和41年)11月1日 網干駅 - 浜田港駅間の地方鉄道の免許を取得。専用線から地方鉄道に転換[2]
1970年(昭和45年)北沢産業へ改称[2]
1973年(昭和48年)2月27日 木材輸送終了により、中浜田駅 - 浜田港駅間が廃止[2]
1984年(昭和59年)2月1日 国鉄との貨物連絡運輸を廃止。事実上休止となり、浜田機関区からの機関車回送のみとなる
1987年(昭和62年)11月1日 網干駅 - 中浜田駅間が休止[2]
1989年(平成元年)5月1日 全線廃止[2]
駅一覧[編集]
括弧内は起点からの営業キロ
網干駅 (0.0) - 上余部駅 (1.7) - 中浜田駅 (5.2) - 浜田港駅 (5.9)
上余部駅は東芝姫路工場の西端に位置し、同工場からの専用線が接続していた。
中浜田駅は西芝電機工場の西端に位置し、同工場からの専用線が接続していた。
上余部駅 - 中浜田駅間に揖保川を渡る延長213mのトラス橋が存在していた。
戦前の弾丸列車は当線と交差する予定であった。
接続路線[編集]
網干駅:山陽本線
輸送・収支実績[編集]
年度 貨物輸送数量(トン) 鉄道業営業収入(千円) 鉄道業営業費(千円)
1966 5,174
1970 12,540
1978 4,846 12,431 65,105
1979 5,291 14,700 40,298
1980 5,572 15,999 37,150
1981
1982 4,386 21,189 44,277
1983
私鉄統計年報1966.1970年、「私鉄要覧」『年鑑世界の鉄道』1981-1983年版、民鉄主要統計『年鑑日本の鉄道』1985年
脚注および参考文献[編集]
^ 北沢商店と北沢産業が並立した可能性があるが会社には記録が残っていない。林義明・星野真太郎「北沢産業網干鉄道補遺」『レイル (雑誌)』No.85、2013年
^ a b c d e 和久田康雄『鉄道ファンのための私鉄史研究資料』電気車研究会、2014年、138頁
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』9 関西2、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790027-2。
関連項目[編集]
日本の鉄道路線一覧
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 近畿地方の鉄道路線 (廃止)兵庫県の交通史