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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
朝倉軌道
甘木周辺の鉄道概略図。黒線は現存する鉄道路線
朝倉軌道(あさくらきどう)は、1908年から1940年まで、福岡県朝倉郡を中心とした地域において軽便鉄道・乗合バス・貨物自動車による陸運業を行なっていた日本の企業である。中央軌道や両筑軌道といった周辺の鉄道会社を傘下に置くなどし、この地方の交通の中核にあった。
また、同社の本線格であった二日市町(現・筑紫野市)-甘木町(現・朝倉市)-杷木町(現・朝倉市)の鉄道路線のみを指す場合もある。
目次 [非表示]
1 沿革
1.1 開業まで
1.2 発展期
1.3 転換期
1.4 末期
2 年表
3 輸送・収支実績
4 車両
4.1 客車・ガソリンカー
4.2 機関車
4.3 貨車
5 朝倉軌道(本線)
5.1 路線データ
5.2 駅一覧(休止時)
5.3 運行形態
6 代替交通とその後
7 脚注
8 参考文献
沿革[編集]
開業まで[編集]
甘木川を渡る朝倉軌道の列車。なお、当時の軌道法では、牽引できる客車は原則1両のみであったので、この写真のような列車の運行は非合法のものであった。
甘木へ鉄道路線を引く計画は、九州で最初の鉄道となる九州鉄道が開業(1889年)した直後からたびたび立てられていた。原田駅-甘木の路線を計画した原田甘木間鉄道馬車(1891年)、山家-甘木-吉井の路線を計画した筑豊鉄道、太宰府-二日市-甘木-日田(後に吉井へ計画変更)の路線を計画した北筑鉄道(1896年。後に特許を博多湾鉄道へ譲渡)などである。しかしこれらは、九州で起きた金融恐慌の影響などもあり、いずれも実現しなかった。
このような失敗を経て、1906年(明治39年)に甘木町の具島又二郎らによって計画されたのが朝倉軌道である。当初は鉄道馬車と同様に原田駅-甘木を計画していたが、ちょうど二日市-甘木間の県道(朝倉街道。現・国道386号)が整備されることが決まったため、この県道上に敷設することにして二日市駅起点に計画が変更された。
1908年(明治41年)12月14日、二日市-甘木間15.5kmが開業する。レールは24ポンド(11.9キログラム)を使用し、二日市駅近辺以外はすべて県道上に敷設されていた。また、本社は、現在の筑前町立三輪小学校近辺に存在した[1]。
発展期[編集]
当初は旅客輸送のみを行なっていたが、1909年(明治42年)2月から貨物輸送も開始。甘木絞りに使われる木綿や、特産品である木蝋の輸送が行なわれた。同年4月18日には開業式が行なわれ、この日は甘木町の家ごとに国旗が掲揚され、造花と祝灯で盛大に祝われたという[2]。
開業後の成績は好調であったことから、同年12月には臨時株主総会で恵蘇宿までの延長を決議。翌年着工し、1911年(明治44年)10月23日に甘木-中町間6.5kmを、12月19日に中町-菱野間3.0kmを、1912年(明治45年)1月15日に菱野-恵蘇宿間2.0kmを開業させた。
さらに、1913年(大正2年)12月には、二日市から堅粕村大字犬飼(現・福岡市博多区)まで福岡街道(現・国道3号)上に15.3kmの延長を出願するも、これは鹿児島本線に平行するため却下された。そして、これ以降も路線拡張の計画は進み、1916年(大正5年)4月14日には恵蘇宿から原鶴を経由して杷木に至る7.5kmの、1917年(大正6年)11月10日には山田から吉井町小塚まで2.6kmの特許をそれぞれ取得している。前者は第一次世界大戦の影響で建設が遅れながらも1922年(大正11年)7月15日に開業したが、後者は筑後川に橋を架けることができなかったため1926年(大正15年)に起業廃止された。
また、この頃になると甘木近辺でも乗合バス事業者が出現するようになってきたため、1924年(大正13年)には朝倉軌道でも自動車部を設立。森田自動車部[3]を買収するなどし、甘木-二日市・甘木-杷木などのバス路線や、トラック輸送の営業を開始した。
1928年(昭和3年)5月には、新町(1928-30年頃に依井へ改称[4])で朝倉軌道と接続していた中央軌道(1921年開業)が経営悪化から無許可で運行を休止[5]したことから、朝倉軌道は無許可[6]でこれを譲り受け(譲渡代金は4万円)、同年9月に朝倉軌道田代線(新町-上田代)として運行を再開した。この時が朝倉軌道の最盛期で、営業キロは44.9km(朝倉軌道32.2km・田代線12.7km)を記録している。
1930年(昭和5年)になると、自動車部と周辺他業者との競争が激化する。バス部門においては、赤塗自動車[7]との競争が始まったため、甘木-二日市間で20分毎、甘木-杷木間で40分毎、甘木-吉井間で60分毎とバス本数を増便させた上、「開業25周年記念」として採算を度外視した運賃引き下げ(甘木-二日市間がそれまでの片道50銭から20銭に)を行なった。この争いは仲裁が入り、翌1931年(昭和6年)に赤塗自動車と共同出資で新会社「甘木乗合自動車」を創立することとなって鎮静化した。ただし、この甘木乗合自動車は、その2年後には結局朝倉軌道に吸収されている。また、貨物自動車部門においても、朝倉倉庫・共同運送という同業2社と三つ巴の競争が起こっており、1931年には3社合同で朝倉合同運送という新会社が設立される運びとなった。これは後に戦時統合で日本通運に統合されている。
1931年3月には、新両筑軌道(旧・両筑軌道)[8]甘木-秋月間を買収。社名を両筑軌道に戻した上で形の上では別会社として経営したが、実質的には朝倉軌道の支線として、秋月-甘木-依井-田代というルートで本線・田代線と一貫の運転を行なっていた。ただし、この際には運輸委託等の手続きを一切行なっていない[5][6]。
転換期[編集]
しかし、この頃になると、昭和恐慌に加え乗客がバスに移るようになっていったこともあり、軌道線の状況は徐々に厳しいものになっていった。1930年(昭和5年)頃にはバスに対抗するため無認可で軌道線の運賃を3割引き下げ(二日市-杷木間:99銭→70銭・二日市-甘木間:49銭→35銭)ており、このため客車収入が半減近くまで減少した。これを補うため、客車を無許可で単端式ガソリンカーに改造し、スピードアップと運行コストの圧縮を図る。この自社製ガソリンカーは、1932年ごろに初めて導入され、1934年(昭和9年)には旅客列車の全てで使用されるようになっていたとみられている(同年6月1日のダイヤ改正で、二日市-甘木間がそれまでの70分から55分に、二日市-杷木間が145分から120分に短縮されているため)[9]が、詳細は判明していない。通常、このような改造を行なう場合には、鉄道省監督局技術課へ設計図などを含めた書類一式を提出し許可を得なければならないのだが、朝倉軌道の場合はこの書類が実態を全く反映していない極度に杜撰なものであったためである。なお、車両に関する詳細については後述する。
1933年(昭和8年)2月16日には、水害を理由に田代線の上小郡-上田代間(全線中、最も成績が悪かった)の休止許可を得た。しかし、実際にはもっと早い段階に無許可で運行休止がされていただろうとも推測されている[10]。その上、休止後すぐに、無許可で線路は撤去してしまっていた。ただし、道路上に敷設された軌道は、運行の有無にかかわらず軌条間およびその左右0.61mの管理と占有料支払の義務が生じる[11]ことから、当時は朝倉軌道に限らず無許可での線路撤去は珍しいことではない[10]。
さらに翌1934年(昭和9年)9月には、飛行隊-上小郡間をやはり無許可で運行休止。これは当局に露見し「法規ヲ無視シタル不都合ノ行為」と県知事へ照会されたが、結局廃止申請が行なわれ、1936年(昭和11年)6月14日に廃止が許可された。無許可での休止については不問とされた。
末期[編集]
1935年(昭和10年)12月、太刀洗飛行場への輸送力増強などを目的に、基山-大刀洗-甘木を結ぶ国鉄甘木線(現・甘木鉄道甘木線)の建設が正式に決定される。1937年(昭和12年)5月には工事が開始された。甘木線が開業すると朝倉軌道の経営に大打撃が与えられることは必至であったため、この頃から朝倉軌道は補償請求のための財産増加を図るようになり、貨客ともに輸送量が減っているにもかかわらず両筑産業(旧・両筑軌道。1936年に改称)から客車4両・貨車8両を購入(ただし車幅が認可最大幅を超えていた)したり、建設費の償却を停止したりするなどしている。また、甘木線の完全な平行路線となる田代線の残存部分では、飛行隊への貨物輸送のみを1日2回(時刻不定)行なうという形で細々と営業を継続していた。
1938年(昭和13年)には、バス事業を九州乗合自動車(1943年7月1日、西日本鉄道に合併)と両筑産業(東福岡交通を経て西日本鉄道に合併)[12]へ譲渡し、再び鉄道専業となった。
そして、甘木線開業の4日前となる1939年(昭和14年)4月24日、朝倉軌道は甘木線開通に伴う運輸営業廃止と補償を申請。同年7月8日には休止を申請し、8月21日には全線が運行休止された。沿線住民からは、これに対して特に陳情などはなかった[13]。そして、1940年(昭和15年)4月19日全線が廃止され、翌日に会社解散が認可される。こうして、朝倉軌道はその歴史を終えた。なお、翌1941年(昭和16年)7月16日に決定された補償金の交付額は、18万2,353円50銭であった。これは申請していた金額よりも少ない物であり、朝倉軌道側の書類の不備を理由に、鉄道省側が並行区間を独自に決めたからであるとされている。
1930年ごろからの朝倉軌道は、客車収入がかつてに比べて半分程度まで落ちたにもかかわらず、赤字路線の切り捨てや車両の低コスト化など徹底した合理化で支出をそれ以上に削減することで利益を出し、最後まで無借金を貫く経営を行なっていた。これらをもって鉄道研究家の湯口徹は「底知れぬしたたかさを痛感する」と評している[14]。
年表[編集]
1906年(明治39年)6月 具島又二郎ほか23名が「朝倉軌道敷設特許願」提出。
1907年(明治40年)3月28日 二日市-甘木間特許取得。
1908年(明治41年)12月14日 二日市-甘木間15.5kmが開業。
1909年(明治42年)2月 貨物輸送を開始。
1909年(明治42年)4月18日 開業式が行なわれる。
1909年(明治42年)12月 恵蘇宿までの延長を決議。
1910年(明治43年)4月8日 甘木-恵蘇宿間特許取得。
1911年(明治44年)10月23日 甘木-中町間6.5kmが開業。
1911年(明治44年)12月19日 中町-菱野間3.0kmが開業。
1912年(明治45年)1月15日 菱野-恵蘇宿間2.0kmが開業。
1913年(大正2年)12月 二日市-犬飼間を出願。
1916年(大正5年)4月14日 恵蘇宿-杷木間特許取得。
1917年(大正6年)11月10日 山田-小塚間特許取得。
1922年(大正11年)7月15日 恵蘇宿-杷木間5.2kmが開業。
1924年(大正13年) 自動車部設立。森田自動車部を買収。
1926年(大正15年) 山田-小塚間の起業廃止。
1928年(昭和3年)9月12日 福岡県知事へ旧中央軌道の肩代わり運行を報告。
1929年(昭和4年)1月11日 形式上の田代線運転開始日。
1931年(昭和6年) 赤塗自動車と共同出資で甘木乗合自動車を設立。朝倉倉庫・共同運送と合同で朝倉合同運送を設立。
1931年(昭和6年)3月 新両筑軌道を買収。
1933年(昭和8年) 甘木乗合自動車を吸収。
1933年(昭和8年)2月16日 水害を理由に田代線上小郡-上田代間休止許可。
1934年(昭和9年)9月 田代線飛行隊-上小郡間運行休止。
1937年(昭和12年)7月20日 飛行隊-上田代間が正式に廃止。
1937年(昭和12年)8月30日 ガソリン機関車の認可を申請。
1938年(昭和13年) バス事業を両筑産業と九州乗合自動車へ譲渡。
1938年(昭和13年)1月11日 瓦斯倫動力併用認可。
1939年(昭和14年)4月24日 甘木線開通に伴う運輸営業廃止と補償を申請。
1939年(昭和14年)7月8日 休止を申請。
1939年(昭和14年)8月7日 休止許可。
1939年(昭和14年)8月21日 全線運行休止。
1940年(昭和15年)4月12日 廃止許可。
1940年(昭和15年)4月19日 鉄道全線廃止。
1940年(昭和15年)4月20日 会社解散認可。
1941年(昭和16年)7月16日 補償金18万2,353円50銭の交付が決定。
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 収入(円) 支出(円) 利益(円)
1908(明治41)年 64,793 366個 14,559 6,449 8,110
1909(明治42)年 224,758 8,646個 41,582 25,960 15,622
1910(明治43)年 246,097 15,875 48,948 26,010 22,938
1911(明治44)年 311,779 15,772 55,823 31,656 24,167
1912(大正元)年 474,225 20,371 79,085 49,555 29,530
1913(大正2)年 490,880 27,763 84,206 52,122 32,084
1914(大正3)年 436,753 27,577 78,317 44,498 33,819
1915(大正4)年 472,800 28,782 74,907 46,906 28,001
1916(大正5)年 603,058 36,043 85,362 47,396 37,966
1917(大正6)年 483,218 34,322 97,110 68,228 28,882
1918(大正7)年 565,018 32,536 124,126 97,318 26,808
1919(大正8)年 646,662 35,734 171,608 150,012 21,596
1920(大正9)年 513,404 26,848 192,715 165,621 27,094
1921(大正10)年 591,082 42,619 197,928 143,770 54,158
1922(大正11)年 691,114 38,958 227,384 145,915 81,469
1923(大正12)年 752,161 41,337 248,895 152,553 96,342
1924(大正13)年 773,778 46,740 246,510 155,842 90,668
1925(大正14)年 790,351 57,417 238,944 155,215 83,729
1926(昭和元)年 813,872 55,758 220,927 161,337 59,590
1927(昭和2)年 766,508 39,835 186,624 138,416 48,208
1928(昭和3)年 783,492 39,037 193,931 150,381 43,550
1929(昭和4)年 752,350 27,701 181,171 139,672 41,499
1930(昭和5)年 613,273 26,585 141,924 117,531 24,393
1931(昭和6)年 710,072 38,225 113,110 78,349 34,761
1932(昭和7)年 764,059 17,050 105,895 64,342 41,553
1933(昭和8)年 673,206 30,788 117,313 71,678 45,635
1934(昭和9)年 669,325 27,698 119,330 74,093 45,237
1935(昭和10)年 514,561 24,042 105,477 57,312 48,165
1936(昭和11)年 423,154 27,080 109,097 46,133 62,964
1937(昭和12)年 371,977 25,276 92,578 59,980 32,598
1938(昭和13)年 340,616 19,249 95,646 56,950 38,696
1939(昭和14)年 84,571 2,065 19,372 36,697 -17,325
1908・1909年度の貨物輸送量のみ単位は個。1915年までは鉄道院年報、1916-1920年は鉄道院鉄道統計資料、1921年以降は鉄道省鉄道統計資料に依る。
車両[編集]
客車・ガソリンカー[編集]
転車台で方向転換中の朝倉軌道3。他例のない「両端とも流線型の木造単端式気動車」という特異さから、朝倉軌道の車両の中でも特に取り上げられる頻度が高く[15]、同社を語る際に欠かせない車両となっている。前面にラジエーターグリルとエンジン始動クランクが見える。二日市で杵屋栄二撮影(1939年)
客車を牽引する朝倉軌道のガソリンカー。書類上は存在しないはずの「15」という車番が見え、素性不明。車軸はローラーベアリング化されている模様。二日市で杵屋栄二撮影(1939年)
開業当初はボギー式客車7両が存在した。以後は営業規模の拡大と共に両数が増え続け、1928年には23両まで増加している。
その後、1933年7月1日になって、客車8両を単端式ガソリンカーに改造する申請がなされた。日本において、私鉄が客車を気動車に改造した例は同時期(1930年代前半)の神中鉄道や頸城鉄道などでも見られたが、それらは前後進容易な両運転台構造を導入していた。従って一方向進行が基本の単端式気動車を新規導入することは既に時代錯誤であったが、敢えての導入は改造の簡易さが理由と考えられる。
ここで提出された仕様書によれば、ガソリンカーはフォードA型エンジンを使用し、定員は40人、寸法は長さ8,540mm×幅1,680mm×高さ2,090mmというスペックであったが、残されている車両写真には設計図と同型のものはなく、図面通りの車両が本当に作られていたのかすら、不明である。
しかも、この申請は当局に認可されなかった。規定の様式で書かれていない、設計書と図面が食い違っている、設計そのものに問題点がある(ブレーキが手ブレーキの一軸制動[16]という、ブレーキ力が著しく弱いものであるなど)など、朝倉軌道の書類に問題点が多かったためであるが、中でも最大の問題であったのは、認可されている車両最大幅が1,676mmであったにもかかわらず、設計図の車両幅は1,830mmであったことである。
軌道の車両最大幅は、元々、敷設する道路(朝倉軌道の場合は県道)の幅を基にして設定されていた。都道府県道を管理するのは都道府県当局であり、そして、朝倉軌道が当局へ認可申請を行なうにあたっては、県(福岡県庁)を経由していた。県がここで車両最大幅の問題に目をつぶったとすれば、道が拡幅されていない(=認められる車両幅が大きくなっているはずがない)ということを分かっていながらこれを通したということになり、県当局自身の責任問題になってしまう。これでは認可される筈はない。
そもそも、新造ではなく既存客車の改造であるということは、最大幅が1,830mmとなる客車が以前から存在していたということになる。この理由については、認可最大幅が朝倉軌道本線より大きかった中央軌道や両筑軌道で使われていた(そして、それら路線で使うことはできても本線で使うことは許されていなかった)車両が、本線で使用される車両に混ざったのではないかと推測されている[17]。
なお、このような車両を朝倉軌道が申請した理由について湯口徹は、仕様書に「建具材ハ総て欅材ヲ用ヒ」「優美ニ仕上ヲナス」など「設計の審査に関係のないことばかりを延々と列挙」[17]してあることや、実態がどうであれ書類上は「1,676mm」と書いておけば認可を通ったはずなのにそれをしていないことから、「朝倉軌道車両担当者の話にならない頭の悪さと要領の悪さ、そのくせ無知、横着、強情[18]」から、「当局が認可できない理由がまったく理解できなかったのではないか」と推測している[17]。
しかし、認可が下りないことは朝倉軌道にとってさしたる問題ではなかった。そもそも、申請以前にガソリンカー2両が試作改造済みであったと推測されている[18]会社であり、認可に関係なく客車のガソリンカーへの改造は次々と行なわれていった。
申請では8両全てが同形ということになっているが、残っている写真[19]では1両ごとに形態・車幅・窓の数などが異なっており、実際はあり合わせの雑多な客車を元に、手当たり次第に改造が行なわれたものとみられている[20]。これらの車両については、正式な設計図などが存在していないが故に、詳細については判明していない部分も多いが、残された写真などから、片ボギー[21]の単端式で、駆動部分はこれ以上ないほど簡易なもの[22]であったとみられている[9]。後輪ボギーの単端式という形態は、日本はおろか世界的にも珍しい(アメリカの零細メーカーであるワトソン・モーター社が製造した例がある程度[23])ものであった。
このように許認可制度を全く気にしない朝倉軌道に対し、当局は度々書類の督促を行なったが、返信が中々来なかったり、来たはいいが必要事項が全く抜けていたりで、状況はほとんど進展しなかった。さらに、一旦ガソリンカーに改造したものの再び客車に戻された(初期試作の2両など)ものや、代用燃料である木炭ガス発生炉を無認可で取り付けたものなども登場して、混迷の度は深まっていった。当局を相手に、ここまで杜撰さを貫き通した鉄軌道会社は、日本でも希な存在であろう。
結局当局は、1923年以前からの車両については「調査資料不詳ニツキ会社届出ヲ正ト認メテ処理セリ」とするなど詳細な調査を諦め、1938年1月11日にガソリンカーを認可した。申請から経過した時間は4年半であり、これは日本の鉄道における最長記録である[10]。しかも、認可こそされたが車両幅が1,830mmである問題は未だに解決しておらず、「頼むから1,680mmの図を提出して一件落着にしてくれ、の悲鳴が行間からにじみでているようだ。こんな会社との交渉はもうこりごりが本音であろう」と湯口徹が評する[24]照会文書が送られている。この問題は、同年9月3日に「1,830mm」が誤記であったと朝倉軌道が返答したことによってようやく決着した。
このような経緯を経て、1938年6月28日になって当局はようやく朝倉軌道の車両を把握する。ただし、これも完全に正確なものではなく、特に車両番号に関しては、存在しないはずの番号が記されたガソリンカーの写真が残っており[25]、書類には記すのが楽な番号を書いていただけではないのかとも推測されている[26]。
なお、ガソリンカー導入にあたっては、二日市駅など3駅に転車台敷設の認可申請(1933年7月13日)が行なわれたが、この際、申請書に記されていた構内配線図が問題となっている。実は二日市・杷木において構内配線が当局に無許可で変更されていた(時期不明)のだが、現実の構内配線図を申請書に記してしまっていたために、これが当局に露見したのである。当局に「二日市及杷木駅構内平面図ハ既提出図面ト相違ス配線及構造物ヲ変更セルモノナラバ相当変更ノ手続ヲナスコト」と照会された朝倉軌道は、これを21カ月にわたって無視したあげく、最終的には転車台の認可申請を取り下げることで追及をかわした。
ただし、転車台は実際には敷設されており(使用している様子を写した写真も残っている)、つまり無許可で設置・使用していたことになる。ここでも朝倉軌道の杜撰さは遺憾なく発揮されていた。
機関車[編集]
開業当初は、雨宮製作所製蒸気機関車4両と、石油発動機関車6両[27]を有していた。石油発動機関車とは、焼玉エンジンを動力とするもので、筑後軌道など福岡県内の軽便鉄道路線で使用されていたものである。蒸気機関車が客車用、石油発動機関車が貨物用であったが、1年あまりで石油発動機関車は使用されなくなった[28]。その後は蒸気機関車が数を増やしていき、1928-30年にかけては19両まで増加したが、以後は客車がガソリンカーに改造されることになったため減少していき、最終的には3両となっている。
1937年8月30日には、自社の手作りとなるガソリン機関車2両の使用が申請された(ただしこれも、1936年から無認可で使用されていたとみられている[26])。エンジンはビュイック1927年式を使用しており、逆転機は備えていなかったが3段と4段の変速機を二重に装着することで代用としていた。最大寸法は4,930mm×1,650mm×2,110mm。また、2両のうち1両には木炭ガス発生炉が付いていた(無認可)。これは、「荷物自動車ノ中古品ヲ流用シタルモノニ付詳細ナル設計図又ハ『カタログ』御座ナク候」と書類が完全に存在していないことに予防線を張っておいたことなどが功を奏し、朝倉軌道の認可申請としては早い時期となる1938年5月26日に認可された。
なお、第二次世界大戦前の日本においてガソリン機関車を自社で手作りした会社は、北九州鉄道、十勝鉄道と朝倉軌道のみである。
貨車[編集]
朝倉軌道ムチ11。杵屋栄二撮影
開業当初はボギー式貨車(3トン積み)4両と四輪貨車(2トン積み)4両の合計8両があった。
廃止直前の1938年には、書類上ではボギー有蓋車2両・ボギー3枚側無蓋車11両・ボギー4枚側無蓋車5両・ボギー木材車4両・四輪有蓋車2両・四輪無蓋車3両が存在していたことになっているが、ガソリンカー同様に存在しないはずの番号が記載された車両が写っている写真も存在し、実際の状況の詳細は掴めていない。
なお、貨車記号は「ユ」「ム」がそれぞれ有蓋車と無蓋車を、「チ」「タ」がそれぞれ長(ボギー車)と短(二軸車)を、「ヒ」が平貨車を表していた。
朝倉軌道(本線)[編集]
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):32.2km
軌間:914mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
駅一覧(休止時)[編集]
甘木駅の様子。左側が朝倉軌道、右側が両筑軌道である
二日市 - 朝倉街道 - 針摺峠 - 柴田川 - 杉馬場 - 中牟田 - 石櫃 - 篠隈 - 長者町 - 当所 - 栗田- 久光 - 依井 - 甘木川 - 甘木 - 石ノ橋 - 地蔵茶屋 - 一里塚 - 筑前十文字 - 櫨畑 - 中町 - 久保鳥 - 比良松 - 古毛 - 菱野 - 山田 - 恵蘇宿 - 志波 - 高山 - 原鶴 - 久喜宮 - 杷木(志波、高山、原鶴の3駅に関しては正確な廃止時期が不明であり、休止時以前に正式廃止されていた可能性もある)[4]
二日市で鹿児島本線と、朝倉街道で九州鉄道(現・西鉄天神大牟田線)と(当時の朝倉街道駅を撮影した写真には「甘木杷木方面ゆき のりかへ」の標識が見られる[10])、依井で中央軌道と、甘木で両筑軌道とそれぞれ連絡していた。なお、甘木は国鉄(現在の甘木鉄道甘木線および三井電気軌道(現在の西鉄甘木線)の甘木駅と異なり朝倉街道上に存在しており、現在、西鉄バス二日市の甘木バスセンターが設置されている場所にあった。また、終点の杷木駅も現在、西鉄バス二日市および日田バスの杷木発着所が設置されている場所にあった。
また、各駅において駅舎は基本的に建てられておらず、車庫などを除けばバス停の標識程度の建造物さえ存在しなかった[29]。このため、切符は車内で車掌より購入することになっていた[30]。
運行形態[編集]
二日市-杷木の全通当初は、法定速度が13km/hであったこともあり、二日市-杷木間の所要時間が150分、二日市-甘木間の所要時間が75分であった。その後、1931年10月1日改正のダイヤでは、二日市発杷木行が6時20分発から20時20分発まで2時間おきに8往復、二日市発比良松行が7時10分発から19時10分発まで2時間おきに7往復運行されていた。所要時間は二日市-杷木が145分、二日市-甘木が70分であった。
旅客輸送が全てガソリンカーに置き換えられたとみられている1934年6月1日改正時では、二日市発杷木行が6時20分発から20時20分発まで1時間おきに15往復、二日市発甘木行が6時50分発から18時50分発まで1時間おきに13往復運行されていた。所要時間は二日市-杷木が120分、二日市-甘木が55分。
廃止直前になると、二日市発杷木行が6時発から19時発まで7往復、二日市発甘木行が6時30分発から18時発まで11往復、二日市発比良松行が1往復、それぞれ運行されていた。所要時間は二日市-杷木が115分に短縮されている。
代替交通とその後[編集]
沿革の項目にもあるように、廃止以前から並行区間にバス路線が存在しており、1943年当時は九州乗合自動車、東福岡交通が廃線跡にほぼ並行して路線を運行していた。それらの2社が1943年7月10日に西日本鉄道に統合された後は行先番号40番・甘木幹線(JR二日市-朝倉街道-篠隈-甘木-比良松-杷木)が引き継いでおり、停留所名もかつての駅名と同じものが多数存在している。また、朝倉軌道が出願するも却下された博多延伸であるが、西日本鉄道により福岡南バイパス・福岡都市高速経由で博多駅 - 甘木を結ぶバス(行先番号400番)が運行されている。
脚注[編集]
^ 『甘鉄物語』 91頁
^ 『甘木市史 下巻』 203頁
^ 甘木近辺でバス事業を行なっていた
^ a b 『日本鉄道旅行地図帳12号 九州 沖縄』 p42
^ a b 「朝倉軌道気動車探求記(前編)」 67頁
^ a b 軌道法第十六条「軌道経営者ハ主務大臣ノ許可ヲ受ケタル場合ニ限リ軌道ノ譲渡又ハ事業若ハ運転ノ管理ノ委託若ハ受託ヲ為スコトヲ得」に抵触する。
^ 甘木近辺の個人業者の合併事業であった
^ 1921年6月の筑後川洪水で軌道が分断される大被害を受けてから苦しい経営状態が続いていた
^ a b 「朝倉軌道気動車探求記(前編)」 71頁
^ a b c d 「朝倉軌道気動車探求記(前編)」 68頁
^ 軌道法第十二条「軌道経営者ハ軌条間ノ全部及其ノ左右各〇・六一メートルヲ限リ道路ノ維持及修繕ヲ為スヘシ」
^ (2008)『西日本鉄道百年史』126頁
^ 「朝倉軌道気動車探求記(後編)」 64頁
^ 「朝倉軌道気動車探求記(後編)」 65頁
^ 『甘鉄物語』『全国軽便鉄道』『内燃動車発達史 上巻』など
^ 通常の鉄道車両においては、全ての車軸にブレーキが作用するようになっているが、朝倉軌道の場合は前輪にのみ作用するように設計されていた
^ a b c 「朝倉軌道気動車探求記(前編)」 70頁
^ a b 『内燃動車発達史 上巻』 300頁
^ 長唄の三味線奏者(人間国宝)で鉄道愛好家でもあった杵屋栄二の撮影が多い。
^ 『内燃動車発達史 上巻』 301頁
^ 当初の試作品は後輪ボギー、後に改造されたものは前輪ボギーとなっている
^ クランクシャフトからスプライン軸を介し、いきなり動軸を傘歯車で駆動させていた。
^ 『内燃動車発達史 上巻』 302頁
^ 「朝倉軌道気動車探求記(前編)」 72頁
^ 書類上、ガソリンカーの車番は1から10まで(4・9は欠番)となっていたが、15という番号が記された車両写真が残っている
^ a b 「朝倉軌道気動車探求記(後編)」 63頁
^ 2輌とする文献もある。(湯口徹 『石油発動機関車』 ネコ・パブリッシング、2009年)
^ 「朝倉軌道気動車探求記(前編)」 66頁
^ 『甘鉄物語』 94頁
^ 『甘鉄物語』 96頁
参考文献[編集]
朝倉町教育委員会『朝倉町史』 朝倉町、1986年
甘木市史編さん委員会『甘木市史 下巻』 甘木市、1982年
飯田栄彦『甘鉄物語』 甘木鉄道、2004年
今尾恵介『地形図でたどる鉄道史 西日本編』 JTB、2000年
今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳12号 九州 沖縄』 新潮社、2008年
岡本憲之『全国軽便鉄道 失われたナローゲージ物語300選』 JTB、1999年
筑紫野市史編さん委員会『筑紫野市史 下巻』 筑紫野市、1999年
杷木町史刊行委員会『杷木町史』 杷木町、1983年
三輪町教育委員会『三輪町史』 三輪町、1970年
湯口徹「朝倉軌道気動車探求記-ある軌道の1930年代(前編)」、『鉄道ピクトリアル』1997年9月号(通巻642号)、電気車研究会、66-72頁
湯口徹「朝倉軌道気動車探求記-ある軌道の1930年代(後編)」、『鉄道ピクトリアル』1997年10月号(通巻643号)、電気車研究会、60-65頁
湯口徹『内燃動車発達史 上巻:戦前私鉄編』 ネコ・パブリッシング、2004年
カテゴリ: かつて存在した日本の軌道事業者かつて存在した日本のバス事業者九州地方の鉄道路線 (廃止)日本の軽便鉄道福岡県の交通史
芦屋鉄道
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芦屋鉄道
概要
現況 廃止
起終点 起点:遠賀川駅
終点:西芦屋駅
駅数 6駅(廃線時)
運営
開業 1915年4月13日
廃止 1932年4月25日
所有者 芦屋鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 6.0 km (3.7 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STRq eABZq+r
国鉄:鹿児島本線
exSTR3
0.0 遠賀川
exABZg+1
国鉄:芦屋線経路
exBHF
1.7 松ノ元
exBHF
2.6 鬼津
exBHF
3.5 島津 -1918
exBHF
4.2 浜口 (II) 1917-
exBHF
4.4 浜口 (I) -1917
exBHF
5.3 東芦屋
exHST
筑前芦屋*
exKBHFe
6.0 西芦屋
*筑前芦屋は国鉄芦屋線の駅
芦屋鉄道(あしやてつどう)は、かつて福岡県遠賀郡遠賀村(現・遠賀町)の鉄道省鹿児島本線遠賀川駅より分岐し、同郡芦屋町の西芦屋駅までの間を結んでいた鉄道路線を有していた鉄道事業者である。本項ではその鉄道路線についても記す。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 駅一覧
4 接続路線
5 路線沿革
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 車両数の推移
8 廃止後の状況
9 脚注および参考文献
10 関連項目
概要[編集]
それまで遠賀川の水運を利用していた筑豊地方の石炭の運搬を目的として建設された鉄道であり、芦屋町内の有志桑原伝次郎ほか9人の発起により鉄道免許状(当初は軌道特許状)が下付された。会社の本社は芦屋町市場街光明寺下に置かれた。
1915年(大正4年)開業した路線は、客車1両、貨車1両の混合列車を小さな蒸気機関車が牽引して運行された。 しかし資本金65,000円を上回る建設費99,741円[1]の不足分は借入金にたより、高利の利子は経営を圧迫した。さらに筑豊石炭の輸出港の地位を若松港に奪われた芦屋では輸送量も限られており、開業時より経営は厳しかった。 そのため鉄道財団を担保とした低利の借り換えや政府補助金の獲得など欠損の圧縮につとめていたが路線バスの発達により乗合自動車業者が若松、折尾、遠賀川、海老津各方面から芦屋に連絡するようになり、芦屋鉄道も乗合自動車路線を芦屋-折尾間で6人乗り自動車2台で運転回数10回で対抗していたが、昭和の初頭に運休となり、1932年(昭和7年)廃止された。
廃線後、この鉄道の跡地のほとんどが進駐軍専用側線として建設された日本国有鉄道(国鉄)芦屋線に利用されたが、1961年(昭和36年)に米軍芦屋基地が返還されるとともに芦屋線も廃止となり、芦屋町から鉄道は消えた。
路線データ[編集]
路線:遠賀川 - 西芦屋間
営業キロ:6.06km
軌間:762mm
駅数:廃線時6
電化区間:なし(全線非電化)
複線区間:なし(全線単線)
動力:蒸気
駅一覧[編集]
遠賀川 - 松ノ元 - 鬼津 - 島津 - 浜口 - 東芦屋 - 西芦屋
起点は西芦屋
西芦屋、東芦屋、遠賀川各駅のみ駅員配置
接続路線[編集]
遠賀川駅:鉄道省鹿児島本線
路線沿革[編集]
1911年(明治44年)
5月20日芦屋軌道に対し軌道特許状下付(遠賀郡芦屋町-同郡島門村度渡間)[2]
11月27日[1] 芦屋軌道設立[3]。
1912年(大正元年)
9月3日 芦屋軌道に対し鉄道免許状下付[4]。
11月13日 軌道特許状を返納
12月25日 芦屋鉄道に改称[1]
1915年(大正4年)4月13日 西芦屋 - 遠賀川間開業、西芦屋・東芦屋・浜口・島津・鬼津・松ノ元・遠賀川の各駅開業[5]。
1917年(大正6年)1月10日 浜口駅を島津寄りに0.2km移転[6]。1916年12月18日認可[7]。
1918年(大正7年)11月15日 島津駅廃止[7][8]。
1931年(昭和6年)
7月24日 旅客営業休止[7]。
10月27日 臨時株主総会において会社解散を決議[1]。
11月30日 貨物営業休止[7]。
1932年(昭和7年)4月25日 全線廃止[7][9]。
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1915 79,792 695 6,466 10,866 ▲ 4,400 6,469 4,632
1916 93,339 909 7,901 10,049 ▲ 2,148 6,671 5,093
1917 126,735 1,354 13,810 12,815 995 4,275 4,485
1918 108,110 684 11,635 19,460 ▲ 7,825 4,051 4,962
1919 107,051 694 16,764 29,321 ▲ 12,557 未収入株金諸費用721 4,252 5,367
1920 148,974 1,095 39,607 31,648 7,959 2,036
1921 161,018 774 38,063 30,238 7,825
1922 156,122 791 38,218 30,963 7,255 1,058
1923 157,671 890 37,917 29,616 8,301 1,137
1924 155,901 965 37,274 31,180 6,094 3 278 2,844
1925 132,786 767 31,194 28,374 2,820 雑損330 438
1926 111,751 774 23,487 24,184 ▲ 697 雑損268 786
1927 100,931 889 21,135 19,167 1,968 590 470
1928 93,381 823 19,323 20,152 ▲ 829 自動車13 218
1929 86,702 794 17,127 17,545 ▲ 418 自動車1,433 361
1930 66,552 809 12,217 21,646 ▲ 9,429 自動車644 513
1931 14,840 358 3,781 3,931 ▲ 150 自動車41 33
鉃道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版
車両[編集]
開業時に用意された車両は石川鉄工所(東京市京橋区月島)製[10]の蒸気機関車(1,2)と客貨車6両。その後石川島造船所若松分工場から1919年製の蒸気機関車を購入し2代目2号機とした。旧2号機は千代田組九州支店に売却された。他には雨宮製作所(大日本軌道鉄工部)の蒸気機関車(3.4)、三等ボギー客車大阪加藤車両製作所製(3.4)、合資会社黒田商会製(5.6)や客車改造のガソリンカーが在籍していた。
車両数の推移[編集]
年度 蒸気機関車 ガソリンカー 客車 貨車
有蓋 無蓋
1915 3 2 2 2
1916 3 4 2 2
1917-1918 2 4 2 2
1919-1922 3 4 2 2
1923 3 5 2 2
1924 3 6 0 2
1925-1927 3 6 2 2
1928-1929 3 2 6 2 2
1930-1931 3 2 4 2 2
廃止後の状況[編集]
前述のとおり、廃線後の跡地は1947年(昭和22年)に開業された芦屋線に転用されている。詳細は芦屋線の項を参照。
終点だった西芦屋駅は芦屋町役場前の新町スポーツ広場付近、隣駅の東芦屋駅は芦屋線の筑前芦屋駅から南側200mほど離れた場所にあったらしい。
脚注および参考文献[編集]
^ a b c d 『芦屋町誌』489-492頁
^ 『鉄道院年報. 明治44年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第20回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年9月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年4月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道停留場位置変更」『官報』1917年1月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d e 今尾 (2009) による
^ 官報によれば1919年7月18日届出 「軽便鉄道停留場廃止」『官報』1919年7月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道運輸営業廃止」『官報』1932年5月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 確認されている機関車の製造実績は芦屋鉄道の2両と篠山鉄道初代1号と越後鉄道→大和鉄道→有田鉄道初代3号の4両のみ
『芦屋町誌』、1972年。
『福岡県百科辞典 下』西日本新聞社、1982年、433頁 担当執筆は谷口良忠
『九州諸会社実勢. 第2次(大正6年刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
倉地英夫・大谷節夫 『九州の鉄道』 西日本新聞社、1980年。
今尾恵介(監修) 『九州・沖縄』 新潮社〈日本鉄道旅行地図帳 12〉、2009年。ISBN 978-4-10-790030-2。
臼井茂信『機関車の系譜図 3』交友社、364、417、419頁
国立公文書館所蔵『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便・蘆屋鉄道株式会社・営業廃止・明治四十四年~大正五年』
国立公文書館所蔵『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・蘆屋鉄道・営業廃止・大正六年~昭和七年』
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
芦屋線
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