TOP > 囲碁 定石 ソフト - 検索
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。
碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。
相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。
面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。
相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。
『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。
対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。
一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。
一局の碁をお楽しみください。
当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
初心者の方も、対局できるようになっております。
ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。
囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。
入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。
「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。
オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質
・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実
これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。
推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
幽玄の間サイト
KGSの口コミ
KGS
パンダネット
当サイトも、及ばずながら、がんばります。
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
琴平電鉄塩江線
塩江線
概要
現況 廃止
起終点 起点:仏生山駅
終点:塩江駅
駅数 12駅
運営
開業 1929年11月12日
廃止 1941年5月10日
所有者 塩江温泉鉄道→琴平電鉄
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 16.2 km (10.1 mi)[1]
軌間 1,435 mm (4 ft 8 1⁄2 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
琴平線
eABZq+l BHFq
0.0 仏生山
exBHF
1.5 船岡
exBHF
2.8 浅野
exBHF
4.0 伽羅土
exBHF
5.4 川東
exBHF
6.7 岩崎
exBHF
8.1 鮎滝
exBHF
9.7 関
exBHF
10.6 安原
exBHF
12.0 中村
exBHF
14.7 岩部
exKBHFe
16.2 塩江
塩江線(しおのえせん)は、かつて香川県香川郡仏生山町(現・高松市仏生山)の仏生山駅と香川郡塩江村(現・高松市塩江地区)の塩江駅を結んでいた琴平電鉄(ことひらでんてつ、現・高松琴平電気鉄道)の鉄道路線。日本内地における、史上唯一の非電化標準軌鉄道線であった。
1929年(昭和4年)に琴平電鉄の子会社である塩江温泉鉄道(しおのえおんせんてつどう)の路線として開業したが、経営難により、のち親会社の琴平電鉄に吸収合併されて同社の塩江線となった。1941年(昭和16年)に廃止となっている。
路線は「高松の奥座敷」と呼ばれる塩江温泉に至る国道・県道を沿うように敷設されており[2]、廃止後60年以上を経てなお一部に廃線遺構が残る。また、廃線跡のうち仏生山駅から高松市香川町浅野にかけては道路となっているが、本路線がガソリンカーでの運行であったことから、この道路には「ガソリン道」という通称がある。さらにその先の同市香川町川東下から同市塩江町安原下にかけての廃線跡は香川県道269号塩江香川高松自転車道線(香東川自転車道)となっている。
代替交通としてことでんバス塩江線が高松駅 - 塩江間に運行されている。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧と接続路線
5 輸送・収支実績
6 車両
6.1 車体
6.2 走行機器
6.3 経過
7 脚注および参考資料
8 関連項目
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):16.2km[1]
軌間:1435mm
駅数:12駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:通券式
運行形態[編集]
当初狭軌の1067mm軌間で計画され、敷設免許も狭軌で取得されたが、1435mm標準軌用の貨車を本線格の琴平電鉄から直通させることを考慮し、1928年(昭和3年)に軌間変更願を出して標準軌での敷設に変更している。直通貨車についてはガソリン機関車で牽引する計画であったが実現が遅れ、その間にトラック輸送の方が効率的と判断されて頓挫した。従って本路線はその全期間を通じ、旅客輸送専業の路線であった。
開業後間もない1930年(昭和5年)時点の時刻は仏生山発午前5:14 - 午後9:54、塩江発午前6:04 - 午後10:44で、一日21往復、50分毎に運転されていたが、その後25分毎とし、本線格の琴平電鉄の全電車に接続するようにされた。しかし頻発サービスの効果は薄く、琴平電鉄合併後は再び50分毎運転に戻された。輸送実績は開業直後の1930年度がピークで、以後は年々低下し続けた。
駅5か所、停留所7か所。
1930年当時の全線所要時間42分、運賃40銭。
車両はガソリンカーで、ほとんど1両での運転であった。
歴史[編集]
1927年(昭和2年)
4月22日 琴平電鉄線高松駅(現・高松琴平電気鉄道瓦町駅) - 琴電琴平駅間全通。塩江温泉に直通する鉄道建設の機運が高まる
12月15日 鉄道免許状下付(香川郡仏生山町-同郡塩江村間 動力 瓦斯倫 軌間1067mm)[3]
1928年(昭和3年)8月21日 琴平電鉄の子会社として塩江温泉鉄道を設立(本社は高松市の琴平電鉄本社内に置く)[4][5]。同年より建設工事開始
1929年(昭和4年)11月12日 塩江温泉鉄道線として仏生山 - 塩江間が開業[6]
1938年(昭和13年)
5月1日 塩江温泉鉄道は、赤字が好転せず親会社である琴平電鉄に吸収合併。同社の塩江線となる[7]
秋頃 台風の襲来により線路・橋梁が流失。復旧に時間がかかり赤字が拡大
1941年(昭和16年)5月10日 不要不急線とみなされたことにより、塩江線を廃止[8]。線路等は戦時の鉄資材供出に充てられた
駅一覧と接続路線[編集]
事業者名・所在地は営業当時のもの。全駅香川県に所在。営業キロは仏生山起点、今尾 (2009) による。
駅名 駅名の読み 営業
キロ 接続路線 備考 所在地
仏生山駅 ぶっしょうざん 0.0 琴平電鉄:琴平線 仏生山町
船岡停留所 ふなおか 1.5 浅野村
浅野駅 あさの 2.8
伽羅土停留所 からと 4.0
川東駅 かわひがし 5.4 川東村
岩崎停留所 いわさき 6.7 1940年以降に廃止
鮎滝駅 あゆたき 8.1
関停留所 せき 9.7 安原村
安原停留所 やすはら 10.6 中徳停留所(開通当初)
中村駅 なかむら 12.0 塩江村
岩部停留所 いわぶ 14.7
塩江駅 しおのえ 16.2
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1929 195,098 7,475 5,144 2,331 雑損164償却金343 1,724
1930 334,745 49,269 43,231 6,038 雑損442 19,527
1931 249,194 40,838 32,353 8,485 22,096
1932 207,205 35,818 31,429 4,389 22,157 7,891
1933 198,469 34,463 37,807 ▲ 3,344 雑損216 22,639 15,642
1934 261,795 32,925 37,484 ▲ 4,559 雑損償却金5,005 21,940 37,307
1935 209,887 31,871 40,788 ▲ 8,917 雑損償却金7,263 21,020 37,264
1936 205,307 30,384 44,803 ▲ 14,419 償却金3,300 19,635 37,366
1937 184,380 27,263 43,940 ▲ 16,677 償却金650 17,255 18,504
鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
車両[編集]
日本内地用としては唯一の1435mm軌間気動車であった川崎車輌製ガソリンカー5両を開業に際して導入、以後廃線までこの5両のみで営業された。1 - 5号とナンバーが振られていたことはわかっているが、特定の形式名はなく、また「キハ」などの区分名称が付与されていたかどうかは不明である。実際には番号順の竣工ではなく、3 - 5が1929年の開業前に入線、1、2は遅れて1930年に入線した。
大正末期 - 昭和初期は日本における気動車の実用化初期段階で、ガソリンカーの製造は中小零細メーカーで占められていたが、1927年の日本車輌製造を皮切りとして大手の鉄道車両メーカーが参入し始めていた。不況に伴う新分野開拓の目論見によるものである。
川崎車輌は、蒸気機関車や電車などの分野では当時の日本における一流メーカーであったが、ガソリンカーの製造はこの塩江温泉鉄道用の車両が初めてであった(それ以前には工藤式蒸気動車の製造例があったのみで、この分野での技術蓄積はなかった)。それだけに試作的要素が強く、随所に変わった特徴の多い車両である。徹底した軽量化を図り、総重量は公称7t、実重量6.5tにまで抑えている。
車体[編集]
定員40名(うち座席20名)。片側2ドアの半鋼製軽量車体は長さ8m強、幅2.5m強で、小型の路面電車サイズであったが、車体の両端部の幅員をドア部から極端に狭め、運転台部分の前面窓を狭い1枚窓で済ませるという奇妙な形態を採っている[9]。このため正面から見ると極端に幅狭に見えた。ヨーロッパの路面電車に見られるようなこの形態は、カーブ通過時の車体張り出し対策として用いられるものであるが、この塩江線気動車はドア下に水平なステップを装備しているのでカーブではステップが張り出し、実用上の意義が薄く意図不明であった。
側面の客室窓も風変わりで、「広窓・狭窓・広窓」の3枚でセットとなった窓組が3セット並んでいた。広窓は落とし込み式で開閉するが、狭窓は固定式である。日よけは当時普通だった鎧戸や巻き上げ式のブラインドでなく、カーテンを用いていた。独立した乗務員室扉はなく、運転台の両脇窓は戸袋窓になっていて開かなかった。屋上には当時の川崎製の電車などでしばしば見られた、お椀を伏せたような形のベンチレーターが装備されている。
走行機器[編集]
足回りも独特で、仏生山方は1軸の固定軸、塩江方には2軸ボギー台車を装備した、全3軸の片ボギー車であった。
片ボギー式気動車は、零細企業ながら技術開発に意欲的だった気動車メーカーの松井車輌が考案し、1929年初めに中遠鉄道(後の静岡鉄道駿遠線)キハ1形で実用化した手法で、川崎はこれを真似たものであった。
初期の気動車は固定軸2軸を装備した小型の4輪車ばかりで、2軸中1軸を駆動して走行するのが普通だった。しかし、車両の大型化が進むと、4輪単車ではレールに負担が掛かるようになるため、レール負荷が少なく、より安定して走行できるボギー台車が気動車にも導入されるようになった(日本でのボギー式気動車の最初は、やはり松井車輌が1928年に製造した鞆鉄道キハ3形である)。
ボギー車は大型化や曲線通過能力、高速安定性には優れていたが、駆動力に制約を受けるという問題があった。4輪単車なら2軸中1軸を駆動でき、車重の50%を駆動輪にかけて走行できるところ、ボギー車は4軸中1軸しか駆動できず、車重の25%しか粘着力として使えなかった。これでは非力なエンジンの性能を十分に活かすことができなかったのである。ボギー台車内にギアを仕込んで2軸駆動とする技術は当時の日本にはなく、チェーンや蒸気機関車のような側面ロッドによる2軸駆動が一部で用いられたが、当時の日本製チェーンは切れやすく、またロッド駆動は振動が大きいなど、いずれも機能的に不完全で実用性を欠いた。
そこで松井車輌が考案したのが折衷案の片ボギーで、駆動軸は固定式の1軸形として車重の半分をかけ、もう一方の付随車軸はボギー式として曲線通過能力を高めるというアイデアであった。この手法は1930年代中期までいくつかのメーカーによって私鉄向け気動車に用いられている。しかし、一種の折衷案だけに気動車のさらなる大型化には適さず、私鉄気動車用としては日本車輌製造が1931年に考案した「偏心ボギー台車」(駆動用ボギー台車の中心を駆動軸側にずらすことで、駆動軸荷重を大きく取る手法)装備の通常型ボギー車が戦前の主流となっていった。
急峻な1000分の33勾配が連続する路線である塩江線では登坂のための粘着力確保は必須で、川崎の片ボギー採用は松井の追随ではあったが時宜を得た策であった。1軸駆動輪は直径865mm、ボギー台車の車輪は直径690mmと小さく、回転抵抗を小さくするためにローラーベアリングを装備していた。
ドライブトレーンはアメリカ製の汎用機関であるブダDW-6形エンジン(直列6気筒5.4リッター 連続定格出力37.5馬力/1,000rpm)1基を搭載し、これに手動変速機を組み合わせた機械式である。ブレーキ装置は手回しの手動ブレーキのみで、下り坂ではエンジンブレーキを用いて降坂した。
経過[編集]
納期遅延で開業までに十分な走行試験ができないままに運行を開始した結果、トラブルが続出した。川崎初めての気動車で不完全な点が多く、軽量化のために細くし過ぎた車軸から輪心が脱落する事故まで起きた。
メーカー側の出張工事により、ともかくも改良を受けて一応安定した運行を行うようになり、新車の増備もないまま、廃線まで運行された。
この気動車は廃線後、変わった変転をたどった。ガソリンカーとしての駆動装置および台車一切を撤去され、台車を電車用のブリル21E形4輪台車に交換し、屋根にビューゲルを設置して路面電車に改造され、当時日本の勢力下にあった満州国首都の新京市(現・中華人民共和国長春市)に送られたのである。新京市内で運行されている戦時中の姿が記録写真に残されているが、戦後の消息は不明である。
脚注および参考資料[編集]
[ヘルプ]
^ a b 鉄道省 (1937) では16.1km
^ 名取紀之 (2007年7月29日). “塩江温泉鉄道跡を辿る。(上)”. 鉄道ホビダス. ネコ・パブリッシング. 2008年2月24日閲覧。
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1927年12月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年11月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和15年11月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道営業廃止」『官報』1941年6月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 岩部芳樹; 鏡原伸生 (1997-2007年). “ガソリン道(塩江町-高松市仏生山町)”. 21世紀へ残したい香川. 四国新聞社. 2008年2月24日閲覧。
湯口徹 『内燃動車発達史』上・下、ネコ・パブリッシング、2005年。ISBN 4777050874、ISBN ISBN 4777051188。
橋本正夫「広軌の軽便鉄道 塩江温泉への"ガソリン道"を辿って」、『鉄道ファン』通巻299号、交友社、1986年3月。
臼井茂信「新京で見た塩江温泉鉄道のガソリンカー」、『鉄道ファン』通巻303号、交友社、1986年7月。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』11 中国四国、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790029-6。
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、p. 425。ISBN 4-88540-048-1。
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: 四国地方の鉄道路線 (廃止)高松琴平電気鉄道香川県の交通史
高松琴平電気鉄道志度線
志度線
600形電車(房前駅付近)
志度湾を望みながら走る600形電車(房前駅付近)
概要
起終点 起点:瓦町駅
終点:琴電志度駅
駅数 16駅
路線記号 S
運営
開業 1911年11月18日
所有者 東讃電気軌道→四国水力電気→讃岐電鉄→
高松琴平電気鉄道
車両基地 今橋工場(最寄駅・今橋駅)
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 12.5 km (7.8 mi)
軌間 1,435 mm (4 ft 8 1⁄2 in)
最小曲線半径 80 m
電化 直流1,500 V 架空電車線方式
運行速度 最高65 km/h (40 mph)
[折り畳む]路線図
Takamatsu-Kotohira Electric Railroad Linemap.svg
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線
凡例
uexSTR
↑市内線直通
exmBHFa
公園前駅
exBHF
中野町駅
exBHF
藤塚駅
exBHF
東田町駅
ABZq+l
xKRZ+xr STRq
←琴平線→
STR
0.0 S00 瓦町駅
STR eBHF
出晴駅
xABZqr exSTRq eABZrf
←長尾線
BHF
0.6 S01 今橋駅
BHF
1.2 S02 松島二丁目駅
BHF
1.9 S03 沖松島駅
WBRÜCKE
詰田川
BHF
3.0 S04 春日川駅
WBRÜCKE
春日川
eBHF
3.8 西潟元駅
WBRÜCKE
新川・相引川
BHF
4.3 S05 潟元駅
eBHF
4.6 屋島グランド前駅
BHF exKBHFl
5.0 S06 琴電屋島駅
STR
屋島ケーブル→
exSTRrg eABZrf
exWBRÜCKE WBRÜCKE
相引川
exBHF BHF
5.7 S07 古高松駅
exSTRlf eABZlg
WBRÜCKE
JR高徳線
HST STR
JR古高松南駅
STR BHF
6.7 S08 八栗駅
STR eBHF
7.4 白羽駅
STR BHF
7.8 S09 六万寺駅
HST STR
JR八栗口駅
STR BHF
8.7 S10 大町駅
HST BHF
9.3 S11 八栗新道駅
STR STR
JR讃岐牟礼駅
LSTR BHF
10.0 S12 塩屋駅
LSTR eBHF
10.3 塩屋海水浴場前駅
BHF
10.6 S13 房前駅
BHF
11.5 S14 原駅
LSTR eBHF
11.8 志度西口駅
HST KBHFe
12.5 S15 琴電志度駅
STR
JR志度駅
志度線(しどせん)は、香川県高松市の瓦町駅と香川県さぬき市の琴電志度駅を結ぶ高松琴平電気鉄道(ことでん)の鉄道路線。
高松と志度を結ぶ初めての鉄道として東讃電気軌道により開業。沿線には屋島・八栗山・志度寺などの名所がある。全線にわたって国道11号と並行している。ラインカラーはローズピンク。かつては青色で、車体前面の行先表示板も青色地のものが用いられていた。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧と接続路線
4.1 廃止区間
4.2 過去の接続路線
5 車両
5.1 東讃電気軌道、四国水力電気、讃岐電鉄の車両
6 その他
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):12.5km
軌間:1435mm
駅数:16駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(直流1500V)
保安設備:琴電形ATS
閉塞方式:自動閉塞式
車両基地:今橋工場(最寄駅・今橋駅)
最高速度:65km/h[1]
最小曲線半径:80m
運行形態[編集]
すべて普通列車である。瓦町 - 琴電志度間の列車が20分間隔で運転され、平日朝夕には瓦町 - 大町間の区間運転列車が加わる。この時、瓦町 - 大町は10分間隔となる。基本的には2両編成での運行であるが、朝ラッシュ時を中心に3両編成になる列車がある。
回送も含めた全列車に車掌が乗務し、精算や車内補充券(パンチによる穴あけ式)の発売、IruCaへチャージ、無人駅での集札、車内放送などを行う。
なお、以前は瓦町から琴平線の高松築港へ直通(瓦町駅でスイッチバック)していたが、1994年に開始された瓦町駅改良工事により路線が分断されたために、直通運転は廃止された。
歴史[編集]
1911年(明治44年)
11月18日 東讃電気軌道が今橋 - 志度(現在の琴電志度)間を開業[2]。
11月1日 5路線の免許を受ける(高松市西浜町 - 栗林村、高松市五番町 - 高松市玉藻、高松市古新町 - 高松市新港町、大川郡志度町 - 大川郡津田町、大川郡津田町 - 松尾村)[3]。
1912年(大正元年)8月4日 鉄道免許取消(津田町-松尾村間)[4]。
1913年(大正2年)10月15日 出晴(現在の瓦町駅志度線口付近) - 今橋間が開業[5]。
1915年(大正4年)
4月22日 公園前 - 出晴間が開業[6]。
6月24日 鉄道免許失効(五番町-玉藻間、古新町-新港間、志度-津田間)[3]。
1915年(大正4年)
8月10日 軌道特許状下付(高松市内町-香川郡栗林村間)[7]。
8月10日 鉄道免許取消(高松市西浜町-栗林村間)[8]。
1916年(大正5年)
9月13日 軌道特許状下付(高松市玉藻町-高松市内町間)[9]。
12月25日 四国水力電気が東讃電気軌道を合併[10]。四国水力屋島遊覧電車と呼称。
1917年(大正6年)
5月20日 高松駅前 - 公園前が開業[11]。
7月13日 築港前 - 高松駅前が開業[11]。
8月 公園前 - 藤塚間に中ノ村駅開業。
1921年-1923年 中ノ村駅を中野町駅に改称。
1922年(大正11年)11月1日 陸軍特別大演習のため、12月25日まで春日川駅を休止し、西潟元駅との間に(臨)春日川東駅開設。
1925年(大正14年)8月1日 屋島駅を屋島登山口駅に改称。
1929年(昭和4年)4月21日 屋島登山口駅を従来より360m東の現在地に移設。
1931年(昭和6年)
2月 屋島グランド前駅を廃止。
3月16日 西潟元駅を廃止し、約500m東に潟元駅開業。
5月 志度駅を従来より50m東の現在地に移設し、志度駅前駅に改称。
1935年(昭和10年)5月10日 八栗 - 六万寺間に白羽駅開業。
1937年(昭和12年)以降 藤塚 - 瓦町間の東田町駅廃止。
1942年(昭和17年)4月30日 四国水力電気が鉄道事業を讃岐電鉄[12]に譲渡。
1943年(昭和18年)11月1日 讃岐電鉄・琴平電鉄・高松電気軌道が合併し高松琴平電気鉄道発足[13]。志度駅前駅を琴電志度駅に改称。築港前 - 公園前間が市内線、公園前 - 琴電志度間が志度線となる。
1945年(昭和20年)
1月26日 不要不急線指定により八栗 - 琴電志度間を休止、資材供出される。
7月4日 公園前 - 出晴間が、築港前 - 公園前間の市内線と同時に空襲被害のため休止。
7月30日 空襲で焼失した出晴駅を廃止し、瓦町駅を琴平線琴電高松駅に統合。
1949年(昭和24年)10月9日 八栗 - 琴電志度間が復旧、営業再開。六万寺駅は牟礼駅に改称。白羽駅、八栗新道駅、原 - 琴電志度間の志度西口駅は休止のまま。
1950年(昭和25年)4月16日 屋島登山口駅を琴電屋島駅に改称。
1951年(昭和26年)塩屋 - 房前間に季節臨時駅として塩屋海水浴場前駅を開設。
1953年(昭和28年)10月20日 琴平線築港(仮駅、現在の高松築港)まで直通開始。
1954年(昭和29年)1月1日 琴電高松駅を瓦町駅に改称。
1955年(昭和30年)
2月1日 牟礼駅を六万寺駅に改称。
2月25日 八栗新道駅開業。
1957年(昭和32年)8月15日 1945年(昭和20年)から休止中の公園前 - 瓦町間が、市内線(この年1月8日廃止)に続いて廃止。
1966年(昭和41年)8月2日 全線の架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
1969年(昭和44年)10月 琴電屋島 - 八栗間経路変更、古高松駅移転。高松北バイパス建設による。
1970年(昭和45年)塩屋 - 房前間の塩屋海水浴場前駅を廃止。
1971年(昭和46年)8月20日 松島四丁目駅を松島二丁目駅に改称。
1976年(昭和51年)8月1日 今橋駅付近で正面衝突事故、重軽傷者224名を出す。戦災を除けばことでん史上初の事故廃車で、有責事故によるものでは唯一。詳細は鉄道事故の項目を参照。
1979年(昭和54年)3月1日 ATS設置。
1992年(平成4年)11月5日 沖松島駅を琴電志度方へ移転。
1994年(平成6年)6月26日 瓦町駅改良工事着手に伴い琴平線・長尾線と分断され、孤立線となる。高松築港直通廃止。
1996年(平成8年)12月21日 瓦町新駅舎完成[14]。
1998年(平成10年)7月13日 - 初の冷房車となる600形の営業運転を開始[15]。
2007年(平成19年)7月31日 冷房化100%達成。これにより、志度線の全車が両開き扉、自動加速制御、WN駆動方式、ディスクブレーキ装着の元名古屋市営地下鉄の車両で統一された。
駅一覧と接続路線[編集]
全駅香川県に所在。
駅番号 駅名 駅間キロ 営業キロ 備考・接続路線 所在地
S00 瓦町駅
(瓦町FLAG) - 0.0 1915年4月22日開設
高松琴平電気鉄道:琴平線 (K02)・長尾線 (N02) 高松市
- 出晴駅 - - 1913年10月15日開設、1945年7月30日廃止
S01 今橋駅 0.6 0.6
S02 松島二丁目駅 0.6 1.2
S03 沖松島駅 0.7 1.9
S04 春日川駅 1.1 3.0
- 西潟元駅 - 3.8 1931年3月16日廃止
S05 潟元駅 1.3 4.3 1931年3月16日開設
- 屋島グランド前駅 - - 1931年2月廃止
S06 琴電屋島駅 0.7 5.0
S07 古高松駅 0.7 5.7
S08 八栗駅 1.0 6.7 四国ケーブル:八栗ケーブル(徒歩連絡)
- 白羽駅 - 7.4 1935年5月10日開設、1945年1月26日休止(廃止日不明)
S09 六万寺駅 1.1 7.8
S10 大町駅 0.9 8.7
S11 八栗新道駅 0.6 9.3 四国旅客鉄道:高徳線(讃岐牟礼駅)
S12 塩屋駅 0.7 10.0
- 塩屋海水浴場前駅 - - 1951年開設(季節臨時駅)、1970年廃止
S13 房前駅 0.6 10.6
S14 原駅 0.9 11.5
- 志度西口駅 - 11.8 1945年1月26日休止(廃止日不明) さぬき市
S15 琴電志度駅 1.0 12.5 四国旅客鉄道:高徳線(志度駅)
特記以外は1911年11月18日開設
廃止区間[編集]
1957年8月15日廃止。
公園前駅 - 中野町駅 - 藤塚駅 - 東田町駅 - 瓦町駅
過去の接続路線[編集]
琴電屋島駅:屋島登山鉄道屋島ケーブル(屋島登山口駅:徒歩連絡) - 2004年10月16日休止、2005年8月31日廃止。
公園前駅:高松琴平電気鉄道市内線 - 1945年7月4日休止、1957年1月8日廃止
車両[編集]
2011年5月現在、旅客車20両が所属している。現在はすべて元名古屋市交通局の車両で、600型800番台が片運転台の制御車であるほかは、すべて2両固定編成である。
600形(20番台) - 元、名古屋市営地下鉄250形・700形・1000系列中間車 6編成12両
600形(800番台) 4両
700形 - 元、名古屋市営地下鉄300形・1200形 2編成4両
前出の通り、1994年以降志度線は孤立線となっているため、通常の車両検査は今橋駅隣接の今橋工場で行われ、大規模な検査は仏生山工場へ車両をトレーラーで陸送して実施している。
なお琴電の所有する各路線は架線電圧や車両のサイズなど、直通可能な路線や使用可能な車両の組み合わせが、各路線ごとに独特の変遷を遂げてきたが、詳細については「高松琴平電気鉄道#運転形態及び変遷」を参照。
東讃電気軌道、四国水力電気、讃岐電鉄の車両[編集]
東讃電気軌道開業時に川崎造船所製の木製単車12両(A形1-12)を用意した。四国水力電気時代の1918年に長崎電気軌道で製造された木製単車4両(B形13-16)は軌道線(公園前-高松駅前-築港前間)で使用。1928年に鋼製ボギー車(C形51-56)が軌道線用として新製されると13-15は鉄道線に移籍した。16は後に撒水車に改造されている。
その他[編集]
JR高徳線とも競合関係にあるが、所要時間等の面で志度線は劣勢に立たされている。
2013年(平成25年)7月19日、Google ストリートビューに路線画像が公開された[16]。
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ 寺田裕一『データブック日本の私鉄』ネコ・パブリッシング、2002年、p.156
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1911年11月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『鉄道院年報. 大正4年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『四水三十年史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年11月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年4月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道院年報. 大正4年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道免許取消」『官報』1915年8月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1916年9月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『四水三十年史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『鉄道院鉄道統計資料. 大正6年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 10月25日許可「鉄道譲渡許可」、「軌道譲渡許可」『官報』1943年11月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道ジャーナル』第31巻第8号、鉄道ジャーナル社、1997年8月、 87頁。
^ 『鉄道ジャーナル』第32巻第10号、鉄道ジャーナル社、1998年10月、 92頁。
^ 「ことでん」のストリートビュー公開、電鉄社員が撮影機材を背負い徒歩撮影 - インターネットウォッチ、インプレス社、2013年7月19日記事
参考文献[編集]
今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 11号中国四国』新潮社、2009年
和久田康雄『日本の市内電車 ―1895 - 1945―』成山堂書店、2009年
関連項目[編集]
日本の鉄道路線一覧
外部リンク[編集]
『東讃電鉄沿線名所案内』(国立国会図書館デジタルコレクション)
東讃電気軌道により明治45年4月に出版された沿線案内で、当時の運行・計画路線や運賃、各停留所(駅)ごとに名所を紹介した内容。
カテゴリ: 香川県の交通四国地方の鉄道路線高松琴平電気鉄道部分廃止路線
s