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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
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KGS
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
宇島鉄道
宇島鉄道
概要
現況 廃止
起終点 起点:宇島駅
終点:耶馬渓駅
駅数 12駅(路線廃止時)
運営
開業 1914年1月21日
廃止 1936年8月1日
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 17.7 km (11.0 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
最急勾配 16.7 ‰
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
国鉄:日豊本線
0.0 宇島
exBHF
2.2 千束
exBHF
2.7 塔田
exBHF
3.6 黒土
exBHF
4.6 広瀬橋
exBHF
5.5 安雲
exBHF
6.0 光林寺 -1918
exBHF
7.2 友枝
exBHF
8.8 下唐原
exSTR
↓1934廃止
exBHF
10.7 中唐原
exBHF
11.1 上唐原 -1918
exBHF
12.1 百留
exBHF
14.9 原井
exBHF
16.3 鮎返 -1929
exKBHFe
17.0 耶馬渓
WASSERq
山国川
exHSTq
洞門 耶馬渓鉄道
宇島鉄道(うのしまてつどう)は、かつて福岡県築上郡八屋町(現・豊前市)の鉄道省日豊本線宇島駅から分岐し、大分県との県境付近の耶馬渓駅までを結ぶ鉄道路線(軽便鉄道)を有していた鉄道事業者である。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 運行概要
3 沿革
4 駅一覧
5 接続路線
6 車両
6.1 車両数の変遷
7 輸送・収支実績
8 廃線跡の現状
8.1 遺構
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要[編集]
耶馬渓観光の客を見込んで、前年開業した耶馬渓鉄道(後に大分交通耶馬渓線となり、1975年(昭和50年)全廃)と争う形で1914年(大正3年)に開業した。だが大分県の県境付近までしか伸ばせず、営業成績も低迷した[1]。1921年(大正10年)[2]と1925年(大正14年)に耶馬渓鉄道羅漢寺駅までの延長線敷設の申請をするも耶馬渓鉄道と併行しているため不要として却下されてしまう[3]。1934年(昭和9年)、1936年(昭和11年)の2回にわたり廃止となった。
なお、この路線の宇島 - 耶馬渓間は1896年(明治29年)に設立が計画された日田鉄道(宇島 - 日田 - 久留米 - 若津港)とほぼ重なっている。
路線データ[編集]
路線距離:宇島 - 耶馬渓間 17.7km
軌間:762mm
最急勾配:16.7‰[4]
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
運行概要[編集]
1932年(昭和7年)12月6日改正当時
旅客列車本数:宇島 - 友枝間2往復、宇島 - 耶馬渓間3往復
所要時間:全線1時間2分 - 6分
なお、特等車と並等車が存在した。
沿革[編集]
1911年(明治44年)9月30日 宇島 - 耶馬渓間の軽便鉄道敷設認可[5]。
1912年(明治45年)3月27日 宇島鉄道設立(資本金200,000円、発行株数4,000株[4][5])。
1914年(大正3年)
1月21日 宇島 - 耶馬渓間を開業[6][5](建設費368,120円)。
10月16日 下唐原駅(キロ換算で宇島起点9.8kmから9.3kmへ[7])・上唐原駅を移設[8]。塔田駅・中唐原駅・百留駅を開業[8]。
1918年(大正7年)9月10日 鮎返駅開業、塔田駅・光林寺駅・上唐原駅廃止、下唐原駅を移設[9](キロ換算で宇島起点9.3kmから8.8kmへ[7])。
1929年(昭和4年)
5月23日 鮎返駅の廃止認可[7]。
9月2日 塔田駅の開業認可[7]。
1931年(昭和6年)8月 八屋 - 友枝間の乗合自動車営業を開始[10]。
1934年(昭和9年)12月1日 下唐原 - 耶馬渓間廃止[11]。
1936年(昭和11年)8月1日 全線廃止[12]。宇島自動車運輸に改称、宇島駅 - 友枝・宇島駅 - 上唐原間の乗合自動車営業に切り替わる。
1942年(昭和17年)7月 乗合自動車営業を停止。
駅一覧[編集]
宇島駅 - 千束(ちづか)駅 - 塔田駅 - 黒土駅 - 広瀬橋駅 - 安雲(あくも)駅 - 光林寺駅 - 友枝駅 - 下唐原(しもとうばる)駅 - 中唐原駅 - 上唐原駅 - 百留(ひゃくどめ)駅 - 原井駅 - 鮎返(あゆがえり)駅 - 耶馬渓駅
接続路線[編集]
宇島駅:鉄道省日豊本線
車両[編集]
開業時には以下の車両が新製された。コッペル製Bタンク式蒸気機関車3両、大日本軌道製ボギー客車(定員並等48人)3両、四輪有蓋貨車2両、四輪有蓋緩急車2両、四輪無蓋貨車16両、四輪無蓋緩急車2両、ボギー木材車2両[13]。1915年(大正4年)にはボギー客車3両、内並等車1両、特等並等合造車2両(定員特等12人、並等24人)を増備している[14]。
車両数の変遷[編集]
年度 機関車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1914 3 3 4 20
1915-
1919 3 6 4 20
1920 3 6 4 22
1921-
1932 3 6 4 30
1933 3 6 4 26
1934 3 6 4 30
1935 3 6 4 30
鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1914 87,898 1,787 7,739 10,852 ▲ 3,113 17,563 8,949
1915 84,059 2,778 8,349 15,583 ▲ 7,234 21,555 18,127
1916 79,971 5,368 8,544 11,545 ▲ 3,001 15,287 18,355
1917 107,536 7,627 11,454 16,955 ▲ 5,501 創立費償却金482雑損償却金204 14,574 18,424
1918 131,948 18,074 22,618 24,749 ▲ 2,131 欠損償却金1,654 14,756 18,541
1919 161,111 28,829 37,392 41,608 ▲ 4,216 雑損金1,232 14,914 18,608
1920 178,679 13,910 39,360 49,073 ▲ 9,713 雑損金43 15,163 19,008
1921 150,343 9,565 33,362 31,894 1,468 19,438
1922 133,453 8,042 30,245 33,449 ▲ 3,204 19,432
1923 101,406 4,674 23,595 24,912 ▲ 1,317 14,905 19,424
1924 75,164 4,203 19,710 19,748 ▲ 38 14,499 1,064
1925 78,090 3,180 17,316 17,382 ▲ 66 7,255
1926 79,034 2,841 16,562 17,189 ▲ 627 雑損1,804 29
1927 74,889 1,903 14,349 15,894 ▲ 1,545 雑損7,578 85
1928 80,440 2,779 17,131 18,142 ▲ 1,011 沿線八ヵ町村補助金2,000 償却金11,230 599
1929 77,316 3,365 17,448 18,826 ▲ 1,378 沿線八ヵ町村補助金2,000 823
1930 66,798 2,710 14,768 14,636 132 雑損5 721
1931 55,825 1,811 11,256 10,970 286 自動車466 521
1932 40,729 1,189 8,853 8,648 205 自動車847 雑損627 644
1933 34,980 2,056 8,276 9,260 ▲ 984 自動車1,013 445
1934 24,376 1,890 6,738 9,269 ▲ 2,531 自動車1,020 415
1935 20,416 644 5,199 6,794 ▲ 1,595 自動車973 32
1936 9,784 775 3,237 4,439 ▲ 1,202 自動車714 償却103
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料各年度版
廃線跡の現状[編集]
廃線より60年が経過し、全線に亙って痕跡を追跡するのは困難をきわめる。 特に宇島駅 - 黒土駅付近の線路跡は市街地に完全に飲み込まれ追跡が難しい面はあるが、一部線路の盛土が残っている(塔田駅 - 黒土駅間)。また、黒土駅 - 広瀬橋駅間には、側溝に架かる橋の跡(レンガ積み)が残っており、線路跡に沿って草が生えているので、ルートが比較的分かりやすい。 黒土駅跡や安雲駅跡さらに友枝駅跡は農協の施設になっているが、ホーム等の駅自体の痕跡は全く見られない。 中唐原駅跡 - 百留駅付近は線路跡と思われる築堤が農道として使用されている。 その先の百留駅 - 原井駅 - 耶馬渓駅間は福岡県道16号線に飲み込まれ痕跡は見られない。 なお、終点の耶馬渓駅の先の山国川には、鉄道橋として建設されたと思われる石積みの橋脚と赤いポニートラスの橋が道路橋として対岸の本耶馬渓町(現・中津市本耶馬渓町)樋田集落とを結んでいたが、道路改修に伴い平成初頭に解体撤去された。
遺構[編集]
終着の耶馬渓駅舎はそのまま現存し、公民館となっている。 ただし、管理者が居られるので訪問にあたっては注意が必要である。
脚注[編集]
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^ 『帝国鉄道年鑑』昭和3年版では1926年(昭和元年)の営業成績が営業収入16,562円に対して欠損627円を出している。1日1マイル平均は旅客78人、貨物6t。
^ No.19「延長線敷設免許申請却下ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・宇島鉄道・営業廃止・大正六年~昭和十三年』
^ No.23「延長線敷設免許申請却下ノ件」『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・宇島鉄道・営業廃止・大正六年~昭和十三年』
^ a b 広瀬梅次郎 (1966年). 豊前市産業百年史.
^ a b c 『帝国鉄道年鑑』昭和3年版
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年1月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d 『今尾 (2009)』
^ a b 「軽便鉄道停車場位置変更及停留場設置」『官報』1914年10月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道停車場及停留場新設廃止並位置変更」『官報』1918年9月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ フォード自動車(定員6人)1台『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道営業廃止」『官報』1934年12月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道営業廃止実施」『官報』1936年8月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ No.20「運輸営業開始ノ件」7頁『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便・宇島鉄道株式会社・営業廃止・明治四十四年~大正五年』
^ No.30「客車増加届ノ件」No.31「客車設計ノ件」『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便・宇島鉄道株式会社・営業廃止・明治四十四年~大正五年』
参考文献[編集]
『豊前市史』下、豊前市、1991年、pp. 188-194。
弓削信夫 『福岡鉄道風土記』 葦書房、1999年。
『鉄道廃線跡を歩く』6、JTB、1999年、pp. 152-153。
『埋もれた轍』九州・沖縄篇、ビコム。(ビデオ、DVD)
帝国鉄道協会(編纂) 『帝国鉄道年鑑』 帝国鉄道協会、東京市麹町区有楽町、1928年5月、昭和3年版、pp. 429-430。本書中、統計は「昭和1年」の表記を使っているため本項目もそれに倣った。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』12 九州沖縄、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790030-2。
『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便・宇島鉄道株式会社・営業廃止・明治四十四年~大正五年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
『第一門・監督・二、地方鉄道・イ、免許・宇島鉄道・営業廃止・大正六年~昭和十三年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
外部リンク[編集]
廃線跡を旅する>宇島鉄道
執筆の途中です この項目は、鉄道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
カテゴリ: かつて存在した日本の鉄道事業者九州地方の鉄道路線 (廃止)日本の軽便鉄道福岡県の交通史豊前市の歴史かつて存在した日本のバス事業者
大隈軌道
[隠す]大隈軌道
路線総延長 2.23 km
軌間 914 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
exSTRq
国鉄:上山田線 -1988
exSTRlg
0.0 大隈駅
exKBHFe
2.23 大隈町(貞月)
大隈軌道(おおくまきどう)は、かつて福岡県嘉穂郡大隈町(現・嘉麻市)にあった鉄道省筑豊本線(後の上山田線、現・廃止)の大隈駅から市街地を結んだ馬車軌道およびその運営会社である。自動車の発達により廃止された。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 歴史
2.1 年表
3 輸送・収支実績
4 運行状況
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
路線データ[編集]
路線距離:大隈駅 - 大隈町(貞月) 2.23km
駅数:2(中間駅なし)
軌間:914mm = 3ft
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
動力:馬力
歴史[編集]
大隈町内で地元有志の発起により大隈軌道を設立。筑豊本線大隈駅と大隈町の市街地を結ぶための馬車軌道を開通させた。町と駅を結ぶ唯一の交通機関だった。
ところが大正末期になると乗合バスが登場した。また昭和初期には大隈タクシーも開業し、住人の足となっていった。こうした状況に馬車軌道は乗客の急減をまねき、ついに廃止となりバス会社となった[1]。その後は大隈駅から大隈町よりさきの桑野までの乗合バスにより運行した。バスは1日あたり桑野まで6往復、大隈町まで11往復した。この乗合バス会社もやがて西日本鉄道に吸収合併されたという。
年表[編集]
1920年(大正9年)
4月5日 - 軌道敷設および運輸営業の特許[2]。
4月 - 大隈軌道株式会社設立。大隈町に本社を置く。
1924年(大正13年)8月6日 - 開業。
1933年(昭和8年)8月10日 - 廃止[3]。
輸送・収支実績[編集]
年度 乗客(人) 収入(円) 支出(円) 益金(円) 支払利子(円) 其他益金(円) 其他損金(円)
1924(大正13)年 31,957 3,242 2,501 741 211 210
1925(大正14)年 96,909 8,120 9,310 ▲1,190 1,194 1,245
1926(昭和元)年 136,218 8,549 7,403 1,146 628 103
1927(昭和2)年 130,653 8,856 7,887 969 541 472
1928(昭和3)年 118,856 9,453 7,954 1,499 150 自動車及馬車3,352 償却金3,055
1929(昭和4)年 111,162 8,509 7,847 662 360 自動車1,631
1930(昭和5)年 67,899 4,439 4,052 387 120 自動車5,738
1931(昭和6)年 10,553 823 3,666 ▲2,843 1,764 自動車3,723
1932(昭和7)年 26,521 846 5,586 ▲4,740 1,764 自動車4,925
1924年度-1925年度は鉄道省鉄道統計資料、1926年度以降は鉄道統計資料より、1933年度は営業報告書未着のため未記載。
終始無配だった。
運行状況[編集]
客車は16人乗り1頭引きで2両所有。貨物の取扱いはなかった。大隈町から先へは乗合馬車に乗り継いでいったという。
脚注[編集]
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^ 『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道特許状下付」『官報』1920年4月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道営業廃止実施」『官報』1936年2月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)による『私鉄史ハンドブック』では7月21日。なお『鉄道統計資料 昭和8年度版』では8.7.11(許可)(国立国会図書館デジタルコレクション)また『嘉穂町誌』には1932年12月に会社解散となっている
参考文献[編集]
『嘉穂町誌』1983年、96-100頁
『福岡県百科辞典 下』西日本新聞社、1982年、433-437頁 担当執筆は谷口良忠
今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州沖縄』新潮社、2009年
亀井一男「地図と鉄道17」『鉄道史料』No48 1987年11月、 なお昭和2年「太宰府」地図には軌道が記入されていない。(記入もれ)
和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、177頁
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
廃線
カテゴリ: 馬車鉄道かつて存在した日本の軌道事業者九州地方の鉄道路線 (廃止)福岡県の交通史かつて存在した日本のバス事業者
北九州鉄道
曖昧さ回避 北九州市でモノレールを運行している鉄道会社「北九州高速鉄道」とは異なります。
北九州鉄道(きたきゅうしゅうてつどう)は、大正時代から昭和時代初期にかけて現在の九州旅客鉄道(JR九州)筑肥線の主要部を建設・運営した鉄道会社である。
佐賀県北部の東松浦郡(唐津)・西松浦郡(伊万里)と他地方を結ぶ鉄道としては既に明治時代にそれぞれ唐津興業鉄道と伊万里鉄道が九州鉄道長崎線に接続する形で建設され、のち九州鉄道を経て国有化され鉄道院唐津線と伊万里線になっていたが、福岡方面へはいずれも大きく迂回する線形となり不便なため、両都市と福岡とを短絡する路線を建設するために設立された。
当時は日本でも数少ない気動車(ガソリンカー、のちディーゼルカー)による運行を行ったり、沿線の名所遊覧図を制作する(吉田初三郎画)[1]等積極的な経営を行ったが、1937年に買収・国有化され、鉄道省筑肥線となった。
目次 [非表示]
1 沿革
2 路線
3 輸送・収支実績
4 車両
4.1 蒸気機関車
4.2 気動車
4.3 客車
4.4 貨車
4.5 車両数の推移
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
沿革[ソースを編集]
1918年(大正7年)10月23日 - 北九州軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(筑紫郡那珂村-西松浦郡大坪村間)[2]。
1919年(大正8年)3月15日 - 北九州軽便鉄道株式会社設立(12月23日に北九州鉄道株式会社に社名変更)。資本金500万円。初代社長に草場猪之吉就任[3][4]。
1920年(大正9年)10月19日 - 鉄道免許状下付(福岡市大字住吉町-筑紫郡堅粕町間)[5]。
1922年(大正11年)12月13日 - 鉄道免許失効(福岡市大字住吉町-筑紫郡堅粕町間指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[6]。
1923年(大正12年)12月5日 - 福吉 - 浜崎間が開業[7]。
1924年(大正13年)
4月1日 - 前原 - 福吉間開業[8]。
7月7日 - 浜崎 - 虹ノ松原間開業[9]。
1925年(大正14年)
4月15日 - 姪浜 - 前原間開業[10]。
6月15日 - 新柳町(国有化時筑前高宮駅に改称、1983年廃止) - 姪浜・虹ノ松原 - 東唐津間開業[11]、福岡 - 唐津市内間が結ばれる。
11月20日 - 南博多 - 新柳町間開業[12]。
1926年(大正15年)10月15日 - 博多 - 南博多分岐点間開業。博多から東唐津までが開業する。南博多駅が貨物駅となる[13]。
1928年(昭和3年)
5月31日 - 九州水力電気から北筑線姪浜 - 加布里間を譲り受ける。
6月1日 - 北筑線姪浜 - 加布里間廃止[14]。
9月11日 - 内燃動力併用認可を得る。
客車を改造したガソリンエンジン付気動車の導入を計画するが頓挫。1930年(昭和5年)に新製ガソリンカー6両を投入し内燃運転開始にこぎつけた。
1929年(昭和4年)6月20日 - 東唐津 - 山本間開業[15]。
1933年(昭和8年)6月19日 - 重油動力併用認可を得る。
気動車にディーゼルエンジンを導入。同年以降1936年(昭和11年)までに6両のディーゼルカーを新製、主力車となった。ディーゼルカーの導入は戦前私鉄としては全国でも数少ない試みであった。
1935年(昭和10年)3月1日 - 山本 - 伊万里間が開業し博多 - 伊万里間が全通[16]。
1936年(昭和11年)7月9日 - 山本発伊万里行のガソリンカーが、午後6時15分頃に牟田部甲斐田踏切北方50mの箇所に差し掛かった際、路盤が崩壊し車両が脱線。車両は3m下の松浦川に転落し、乗客の死者7名、重軽傷9名、行方不明3名を出す大惨事となった。原因は連日の豪雨で地盤がゆるんでいたためであった[17]。
1937年(昭和12年)10月1日 - 買収により国有化され、路線は筑肥線となる[18]。会社そのものは北九州鉄道自動車と称して存続、バス事業のみの会社となる。
1941年(昭和16年) - 昭和自動車に自動車事業[19]を譲渡。
路線[ソースを編集]
国有化直前の路線を示す。南博多駅は一時博多側のターミナルであったが、国鉄博多駅へ乗り入れたときに貨物支線上の貨物駅となり、国有化時に独立した駅としては廃止された。しかし、その後も博多駅構内の住吉貨物積卸場という扱いで、貨物の取扱を第二次世界大戦後まで継続していた。
博多 - 東唐津 - 山本 - 伊万里
住吉信号所 - 南博多(貨物線)
輸送・収支実績[ソースを編集]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1924 235,395 2,943 61,746 57,854 3,892 償却金2,000 0
1925 406,969 9,235 185,401 141,500 43,901 雑損16,730 116,355 158,364
1926 565,666 14,145 306,567 250,456 56,111 雑損775 208,868 270,430
1927 631,408 53,764 379,549 321,606 57,943 50 224,060 275,720
1928 618,386 92,344 365,156 315,878 49,278 自動車1,043 雑損1,796 214,898 342,529
1929 633,749 105,861 353,224 327,157 26,067 雑損350償却金24,000自動車4,512 249,234 346,107
1930 806,499 137,967 398,086 311,306 86,780 雑損21,873自動車ホテル31,187 216,078 355,500
1931 875,646 126,876 383,886 344,142 39,744 雑損74,869自動車92,514 208,728 365,077
1932 964,903 135,278 376,414 258,055 118,359 雑損償却金190,595自動車24,583 190,793 335,242
1933 1,167,137 141,384 399,713 278,577 121,136 雑損188,620自動車16,834 189,311 353,113
1934 1,265,437 154,543 429,679 270,098 159,581 雑損127,869自動車6,236 163,814 174,200
1935 1,611,590 170,907 539,265 357,896 181,369 雑損償却金36,391自動車6,243 191,693 164,640
1936 1,821,734 165,994 644,999 429,110 215,889 雑損償却金19995自動車34,359 183,112 94,263
1937 1,651,922 151,452 574,686 365,162 209,524 自動車1,569 雑損49,104自動車37,491 152,145 59,424
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
車両[ソースを編集]
蒸気機関車[ソースを編集]
開業から国有化までの間に在籍したのは計10両で、国有化時には8両が在籍した。
1 : 1923年、日本車輌製造製の建設用に購入された車軸配置0-4-0型タンク機関車。1936年2月廃車。
2, 3 : 1923年、日本車輌製造製の車軸配置2-4-2(1B1)型タンク機関車。国有化後は280形(280,281)に改称。
4 : 1923年譲受の旧鉄道省2852。1897年、米国ピッツバーグ製の車軸配置2-6-0(1C)型タンク機関車。1929年廃車後、据え付けボイラー代用となる。
5 - 8 : 1925年、汽車製造製の車軸配置2-6-2(1C1)型タンク機関車。国有化後は3420形(3420 - 3423)に改称。
9 : 1929年譲受の旧鉄道省633。1896年、英国ナスミス・ウィルソン製の車軸配置2-4-2(1B1)型タンク機関車。国有化後は旧番に復帰。
10 : 1934年譲受の旧鉄道省3406。1898年、米国ピッツバーグ製の車軸配置2-6-2(1C1)型タンク機関車。国有化後は旧番に復帰。
気動車[ソースを編集]
「買収気動車」も参照
キハ5・6・7
キハ8・9
ジハ20・21
ジハ50・51
ジハ60・61
「キハ」はガソリンエンジン、「ジハ」はディーゼルエンジンを搭載。1935年(昭和10年)以降製造のジハ50・51と60・61は前年にアメリカ合衆国で製造されたステンレス製車両パイオニア・ゼファーを意識した銀色塗装で、さらに博多 - 伊万里間全通後の長距離運用も考慮して便所が設置された。便所の設置は戦前の気動車としてはきわめて希な例であった。
客車[ソースを編集]
二軸車、ボギー車合わせて7形式28両が在籍し、全車が国有化された。
ハフ30 - 35
1923年、開業用に日本車輌製造で製造されたオープンデッキ式の二軸車。全長は8,179mm、定員は40人。国有化後は2280形(ハ2280 - 2285[20])と改称された。1941年にハ2285を播丹鉄道に払い下げハフ26となる。客車は買収直前に一部廃車しているので再国有籍となったか不明[21]
ハ36, 37
ハ38, 39
1924年、前原以東延伸用に日本車輌製造で製造されたオープンデッキ式の二軸車。車体長は9.3mと大型化された。ハ36, 37は客室のみの定員40人、ハ38, 39はトイレを設けたため、定員は36人となった。国有化後は2280形(ハ2286 - 2289[20])と改称された。1940年熊延鉄道に払い下げハ47-50となる[22]
ハ40 - 44
ハフ45 - 49
1925年、南博多 - 東唐津間全通時に増備された日本車輌製造製のオープンデッキ式二軸車。いずれもトイレ付で定員は36人。国有化後は2280形(ハ2290 - 2299[20])と改称された。ハ2293は1949年に南薩鉄道へハフ53(1)の代償[23]としてハフ53(2)となり1969年廃車。
ユニ1, 2
郵便室1t、荷物室3tの郵便荷物合造二軸車。日本車輌製造製。デッキは設けられていない。国有化後は4850形(ユニ4850, 4851)と改称された。
ホハフ1 - 3
ホハフ10 - 12 → ホハフ4 - 6
1926年、博多延伸時に日本車輌製造で製造された全長17m級の木造二軸ボギー客車。鉄道省のナハ12500形に相当し、ホハフ1 - 3は簡易仕切りにより車掌室を設け定員76人、ホハフ10 - 12は定員80人であったが、1934年にホハフ1 -3同様に改造し、続番に改称された。国有化後は14050形(ナハフ14050 - 14054)、手ブレーキを取り外していた1両は12360形(ナハ12360)に改称された。
貨車[ソースを編集]
以下の11形式49両が鉄道省に引き継がれた。
ワ500形(ワ500 - ワ504) → ワ20400形(ワ20400 - ワ20404)
ワ505形(ワ506 - ワ514) → ワ1形(ワ9354 - ワ9362)
ワブ530形(ワブ530 - ワブ532) → ワフ19500形(ワフ19500 - ワフ19502)
カ550形(カ550) → カ1形(カ244)
ト200形(ト200 - ト205) → ト200形(ト200 - ト205)
ト206形(ト206 - ト208) → ト4700形(ト4854 - ト4856)
フト209形(フト209, フト210) → ト4700形(ト4857 - ト4858)
ト213形(ト213) → ト213形(ト213)
トム300形(トム300 - トム314) → トム1形(トム2141 - トム2155)
チ211形(チ211, チ212) → チ211形(チ211 - チ212)
チ214形(チ214, チ215) → チ1形(チ445 - チ446)
ワ505は、一時入換動車に改造されキ1となった。成績が良ければ、本線での客車牽引も目論まれたが、結局不首尾に終わり、貨車に戻されカ550とされている。
車両数の推移[ソースを編集]
年度 機関車 動車 客車 貨車
蒸気 ガソリン ガソリン ディーゼル 有蓋 無蓋
1924 4 10 9 5
1925 4 20 12 19
1926 8 28 21 19
1927 8 28 21 21
1928 8 28 21 21
1929 8 28 19 21
1930 8 3 28 19 31
1931 8 1 6 28 17 31
1932 8 1 6 28 17 31
1933 8 8 28 18 31
1934 8 8 28 18 31
1935 9 6 4 28 18 31
1936 9 5 6 28 18 31
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
脚注[ソースを編集]
^ 「空想沿線紀行」『J train』38号 (2010年夏)に掲載
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1918年10月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』、『日本全国諸会社役員録. 第28回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「私鉄探求・北九州鉄道」『レイル』No.5、10頁
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年10月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道免許失効」『官報』1922年12月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年12月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年4月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年7月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年4月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年6月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年11月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鐵道運輸開始並旅客運輸廃止」『官報』1926年10月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軌道営業廃止」『官報』1928年8月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年7月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1935年3月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 宮島醤油ホームページ『筑肥線物語』
^ 「鉄道省告示第360号」『官報』1937年9月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 1934年時『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c かつて元関西鉄道の客車につけられており2代目もしくは3代目となる『客車略図 上巻』209頁、210頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 湯口徹「播丹鉄道とその車輛」『レイル (雑誌)』No.51、17頁
^ 田尻弘行 『熊延鉄道』 ネコ・パブリッシング、2003年、40-41頁
^ 定期検査を委託していた国鉄西鹿児島工場で入場中のハフ53(1)を紛失したため。高井薫平・田尻弘行『鹿児島交通南薩鉄線』(上)ネコ・パブリッシング、2008年、42頁
参考文献[ソースを編集]
谷口良忠「私鉄探求・北九州鉄道」『レイル』No.5-6 1978年8-9月号
和久田康雄 『私鉄史ハンドブック』 電気車研究会、1991年12月1日、初版、p.172(日本語)。
関連項目[ソースを編集]
筑肥線
買収気動車
日本の気動車史
北筑軌道
外部リンク[ソースを編集]
「北九鉄認可近し」『福岡日日新聞』1918年8月8日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
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