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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。
一局の碁をお楽しみください。
当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
初心者の方も、対局できるようになっております。
ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。
囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。
入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。
「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。
オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
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これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。
推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
幽玄の間サイト
KGSの口コミ
KGS
パンダネット
当サイトも、及ばずながら、がんばります。
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
大分交通耶馬渓線
耶馬渓線
概要
現況 廃止
起終点 起点:中津駅
終点:守実温泉駅
駅数 19駅
運営
開業 1913年12月26日
廃止 1975年10月1日
所有者 耶馬渓鉄道→大分交通
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 36.11 km (22.44 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
過去の軌間 762 mm (2 ft 6 in)(1929年まで)
最小曲線半径 160 m (520 ft)
電化 全線非電化
最急勾配 16.7 ‰
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線[注釈 1](廃止当時)
凡例
国鉄:日豊本線
BHFq eABZq+r
0.00 中津駅 標高5.61m
exBHF
3.44 古城駅 -1944
exBHF
3.95 八幡前駅 標高26.48m
exBHF
4.39 大貞公園駅 -1944
exBHF
5.16 大貞公園駅 1944- 標高32.63m
exBHF
6.38 上ノ原駅 標高39.02m
exBHF
7.34 諌山駅 標高43.13m
exBHF
9.37 真坂駅 標高52.97m
exBHF
10.44 野路駅 標高46.10m
exTUNNEL2
第1トンネル 24.4m
exTUNNEL2
第2トンネル 31.7m
exTUNNEL2
仏崎トンネル 57.3m
exWBRÜCKE
屋形川
exBHF
14.28 洞門駅 標高52.91m
exWBRÜCKE
第1山国川橋梁 山国川 91m
exBHF
15.85 羅漢寺駅 標高59.72m
exTUNNEL2
曽木トンネル 30.2m
exBHF
17.71 冠石野駅 標高67.28m
exBHF
20.31 耶馬渓平田駅 標高86.62m
exTUNNEL1
耶トンネル 131.0m
exBHF
23.30 津民駅 標高104.09m
exTUNNEL2
城井トンネル 61.0m
exWBRÜCKE
第2山国川橋梁 110m
exBHF
24.80 耶鉄柿坂駅 標高114.30m
exWBRÜCKE
第3山国川橋梁 110m
exTUNNEL1
第1トンネル 143.5m
exTUNNEL2
第2トンネル 12.6m
exTUNNEL2
第3トンネル 29.4m
exTUNNEL2
第4トンネル 68.5m
exTUNNEL2
第5トンネル 35.5m
exBHF
28.57 下郷駅 標高137.04m
exWBRÜCKE
第4山国川橋梁 68m
exBHF
29.77 江淵駅 標高146.91m
exTUNNEL2
第6トンネル 53.2m
exBHF
31.44 中摩駅 標高158.85m
exBHF
33.18 白地駅 標高174.07m
exBHF
34.17 宇曾駅 標高182.48m
exKBHFe
36.11 守実温泉駅 標高196.92m
脇線に停車中の車両
タブレット交換
耶馬渓線(やばけいせん)は、かつて大分県中津市の中津駅から同県下毛郡山国町(現・中津市)の守実温泉駅に至る、大分交通が運営していた鉄道路線である。地元では「耶鉄」と称される。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 運行形態
4 歴史
4.1 年表
5 駅一覧
6 接続路線
7 輸送・収支実績
8 車両
8.1 保存・譲渡車両
9 廃線跡の現状
10 文化財
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
概要[ソースを編集]
1913年(大正2年)に耶馬渓鉄道として開業。のちに大分交通の路線となった。山国川に沿って延びるこの鉄道は、沿線に青の洞門、羅漢寺、守実温泉などの観光地を控えていた。1970年代に入り、沿線の過疎化による利用者の減少と道路整備が進んだこと、さらに国鉄中津駅の高架化(1977年(昭和52年)完成)に伴う費用の応分の負担を要求されたことから、バス転換の方針が打ち出され、1975年(昭和50年)に全線が廃止された。
路線データ[ソースを編集]
路線距離(営業キロ):中津 - 守実温泉間 36.1km
軌間:1,067mm(廃止時点)
駅数:19駅(起終点駅含む。廃止時点)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞式
運行形態[ソースを編集]
1971年(昭和46年)時点で1日あたり中津 - 守実温泉間下り6本、上り8本、中津 - 耶鉄柿坂間2往復、中津 - 洞門間2往復が運行されていた。その他、平日には中津 - 大貞公園までの区間運転も行われていた。
歴史[ソースを編集]
開業時は軌間762mmであったが、国鉄との輸送に支障を生じるため1067mmへの改軌が大正末期から課題となっていたものの、不況期であり延期されていた。しかし、1927年(昭和2年)6月に専務から社長に就任した小畴寿[注釈 2]が軌間拡幅工事に着手することを決定。資金は日本興業銀行から90万円[2]を借り入れることになった[注釈 3]。工事は1928年(昭和3年)5月に着工し、1929年(昭和4年)8月に完成した。車両は鉄道省からの払下げをうけることになり、8月24日から運行を開始した。
ところが昭和金融恐慌のさなか、収入は予想に反して伸び悩み、利子は年に6万3千円[3]にものぼって、耶馬渓鉄道は経営危機に陥ってしまう。小畴社長は社長以下俸給一割減と人員削減を打ち出したが、従業員から反発をまねくことになり現場は混乱し、地元紙は連日この騒動を報道した。大株主であった中津町[4]の町長らが調停に乗り出し、小畴は社長から専務に降格することとなった。
その後も経営不振が続き、1931年(昭和6年)に減資。1935年(昭和10年)に日本興業銀行より半田貢[注釈 4]が送り込まれ社長に就任し[5]、銀行管理下におかれた[6]。同年ガソリンカーを導入し燃料費削減をするなど強力に合理化を推進し、経費を削減していった。一方、観光開発にも力を入れ、耶馬渓町鴫良の温泉掘鑿、深耶馬山彦旅館の買収、鴫良梅林の造成などを手掛け、ガソリンカーに女性ガイドを乗車させて沿線の観光案内を行った[注釈 5]。社員は北九州の会社、工場、役所をまわり耶馬渓を宣伝した[7]。こうした結果、1938年(昭和13年)上期には4年ぶりの復配となった。
さらに、その後の戦時景気による輸送量の増加とガソリン規制による乗合自動車の衰退により業績は向上していった。1942年(昭和17年)からは軍需工場神戸製鋼中津工場の工事が本格し、工場への引込線も建設された。周辺には住宅や寮が建設され、1944年(昭和19年)の乗客数は300万人に上った[8]。
1938年(昭和13年)8月に半田が社長を辞任すると、10月に社長に就任したのは九州電気軌道社長の村上巧児であった。交通事業調整委員会から私鉄統合の要請を受け、地元大分の耶馬渓鉄道と交渉した結果からであった[9][注釈 6]。その後、1941年(昭和16年)8月には、門司鉄道局で九州電気軌道に対し小倉電気軌道を統合[注釈 7]するよう慫慂した席上、福博電車、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道、耶馬渓鉄道、別府大分電鉄[注釈 8]の五社併合を至急実施するよう言い渡された[11]。つまり、当初の構想は、後に西日本鉄道(西鉄)となる福岡県の鉄道だけでなく、大分県の鉄道も併せて統合しようとするものであった。しかし、結果的には県別に統合されることになり、大分県では1945年(昭和20年)4月に大分交通が発足した。西鉄は全株式の21.4%を保有し、村上は会長に就任した[12]。
年表[ソースを編集]
1911年(明治44年)7月28日 - 耶馬渓鉄道に対し鉄道免許状下付(豊田-津民間)[13]
1913年(大正2年)12月26日 - 耶馬渓鉄道が中津 - 樋田(後の洞門)間を開業[14]。軌間762mm
1914年(大正3年)12月11日 - 樋田 - 柿坂(後の深耶馬、耶鉄柿坂)間が開業[15]
1920年(大正9年)12月16日 - 諫山駅が開業[16]
1922年(大正11年)5月30日 - 鉄道免許状下付(下毛郡城井村-同郡三郷村間)[17]
1924年(大正13年)6月16日 - 柿坂 - 守実(後の守実温泉)間が開業し全通[18]
1929年(昭和4年)8月24日 - 全線の軌間を762mmから1,067mmに改軌
1944年(昭和19年)
3月1日 - 大貞公園駅が約800mほど上ノ原駅寄りに移転、同駅から分岐する神戸製鋼所中津工場(後の中津鋼板)への引き込み線運用開始
10月25日 - 中津 - 大貞公園間の古城駅廃止、同駅間に八幡前駅開業
1945年(昭和20年)4月20日 - 別府大分電鉄・国東鉄道・耶馬渓鉄道・宇佐参宮鉄道・豊州鉄道(もとの日出生鉄道)・別杵自動車が合併し、大分交通発足。大分交通耶馬渓線(中津支社)となる
1961年(昭和36年)2月15日 - 江渕駅が開業
1966年(昭和41年)4月 - 中津鋼板が工場閉鎖、同時に引き込み線の使用休止
1971年(昭和46年)10月1日 - 野路 - 守実温泉間 (25.7km) が廃止
1975年(昭和50年)10月1日 - 中津 - 野路間 (10.4km) が廃止
駅一覧[ソースを編集]
廃止時点のもの
中津駅 - 八幡前(はちまんまえ)駅 - 大貞公園駅 - 上ノ原駅 - 諫山駅 - 真坂駅 - 野路駅 - 洞門駅 - 羅漢寺駅 - 冠石野(かぶしの)駅 - 耶馬渓平田駅 - 津民駅 - 耶鉄柿坂駅 - 下郷駅 - 江渕駅 - 中摩駅 - 白地駅 - 宇曽駅 - 守実温泉駅
接続路線[ソースを編集]
中津駅:国鉄日豊本線
輸送・収支実績[ソースを編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1914 250,359 3,057 29,036 20,932 8,104 損失償却金501 2,865 7,581
1915 254,383 18,414 50,614 32,068 18,546 創業費償却金1,000 8,260 27,907
1916 274,110 23,568 55,375 32,982 22,393 設立費償却金1,000 7,749 26,510
1917 348,973 27,343 70,522 37,217 33,305 創立費償却金1,000 3,067 14,614
1918 411,994 32,706 97,454 61,503 35,951 2,768 5,564
1919 503,232 41,719 145,956 77,717 68,239 5,070
1920 561,603 39,370 195,294 113,794 81,500 7,711
1921 620,528 33,454 207,994 115,331 92,663
1922 640,657 31,151 205,744 115,212 90,532
1923 654,598 28,656 198,933 102,052 96,881 配当準備金繰入7,500 6,483
1924 759,222 30,382 222,734 118,392 104,342 準備金繰入3,810 雑損金24 13,505 2,944
1925 848,220 40,916 261,232 152,698 108,534 旅館業120 22,490 33,984
1926 870,941 51,668 275,746 192,507 83,239 旅館業69雑損131 24,327 34,061
1927 811,091 51,243 262,774 166,367 96,407 旅館業353 雑損824 23,962 34,226
1928 736,540 58,654 263,727 169,971 93,756 旅館及自動車業151
雑損1,644 18,338 35,613
1929 691,716 59,257 211,591 125,323 86,268 自動車業2,522 雑損償却金20,595 23,042 36,090
1930 654,242 55,041 226,660 122,252 104,408 自動車旅館業6,790 償却金22,000 63,364 37,284
1931 555,195 38,142 177,971 102,373 75,598 雑損78自動車其他1,494 66,041 31,137
1932 559,993 37,207 158,663 94,925 63,738 温泉業8,376雑損480 63,845 34,491
1933 563,921 39,185 153,796 96,371 57,425 自動車8,835 62,664 37,559
1934 605,079 45,290 160,339 108,077 52,262 温泉及自動車業9,096 償却金14,000 56,106 18,742
1935 616,438 53,644 176,167 134,084 42,083 自動車業3,315
雑損償却金42,641 39,736
1936 684,561 64,607 207,466 130,014 77,452 自動車業17,126
雑損償却金4,804 50,196
1937 737,335 67,568 218,093 128,221 89,872 雑損償却金22,825
自動車業29,994 49,336
1939 1,085,084 84,816
1941 1,319,345 84,379
1943 1,746,201 126,711
1945 2,635,599 114,862
1952 2,332,609 61,359
1958 2,373千 55,502
1963 2,536千 40,561
1966 2,249千 16,650
1970 958千 -
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版より
車両[ソースを編集]
1929年改軌時、全て国鉄からの払い下げ。蒸気機関車7両、客車14両、貨車36両
1-4 蒸気機関車 元国鉄1440形1442・1443・1446、国鉄1400形1418
5-7 蒸気機関車 元国鉄600形621・622・671
ホロハ1-4 元国鉄コハ2001-2004(形式2000)
ロ1 元国鉄ロ831(形式827[19])、元九州鉄道の客車
ハフ1-5 元国鉄ハフ4756・4763・4768・4773・4780(形式4745←形式3327[19])、元九州鉄道の客車
ハニ1-3 旧国鉄ハニ3550・3552・3554(形式3550)
ハニ4 旧国鉄ハニ3572(形式3564[19])、元山陽鉄道の客車
1963年時点では蒸気機関車3両、ディーゼル機関車2両、ディーゼルカー7両、客車16両[20]
3・4・1444 蒸気機関車 元国鉄1440形1446・1418・1444
D31・32 ディーゼル機関車 1954年汽車製造製。国鉄DD11形と同性能。詳細は国鉄DD11形ディーゼル機関車#派生形式を参照
キハ101-104「やまばと」「かわせみ」「ひよどり」「せきれい」 1935年及び1937年日本車輌製造製のボギー車。国鉄キハ04形に似たスタイル。耶馬渓鉄道からの引き継ぎ車で元ガソリンカー、キハ101は代用燃料化改造歴あり
キハ105「せせらぎ」 (元北九州鉄道ジハ61→国鉄キハ40341)、詳細は買収気動車を参照
キハ601「やまびこ」・603「かじか」 1956年及び1960年日本車輌製造及び新潟鐵工所製のボギー車。国鉄キハ10系がベースで前面非貫通2枚窓
ホハ1 ボギー客車。耶馬渓鉄道時代の1932年に購入した九州鉄道ハ1→国鉄ホハ2355(形式2350)
ホハ2・4 ボギー客車。当初はホハフ3・5、ホロハ2・4・3・1として使用。1935年にホハ2・4・3・5に変更。1958年にホハ3・5をホハフ3・5に変更。ホハフ5は元山陽鉄道
ホハフ20・21 2軸客車。ホハフ21は元国鉄
ハニフ21・22 2軸客車。履歴はハフ1・3→ハニ1・2→ハニフ21・22。元九州鉄道
ハニフ23 1932年国鉄からの払い下げ車ハ2636、2軸客車(形式2581[19])、履歴はハ3→ハニ3→ハニフ23
ハフ24-26 2軸客車。当初はハフ4・5・2、元九州鉄道
ハフ27 2軸客車。1942年から使用されていた(登録手続きは戦後)。元新宮鉄道ハ12
ハフ13 1951年国東線より転入の片ボギー客車、元国東鉄道キハ13
ハフ14-16 1952年宇佐参宮線より転入の2軸客車、元宇佐参宮鉄道キハ1-3
1967年時点では蒸気機関車2両、ディーゼル機関車3両、ディーゼルカー13両、客車19両、貨車16両。1965年-1966年に廃止された宇佐参宮線、国東線より車両が転入[21]。
宇佐参宮線より転入
ホハフ502・503 元キハ502「みやばと」(元佐久鉄道キホハ58→国鉄キハ40306)・503「かみばと」(元北九州鉄道ジハ21→国鉄キハ40321)
ホハフ101-104 ボギー客車
国東線より転入
D33・34 ディーゼル機関車 1954年日立製作所製。D31・32の同型車
キハ50「ちどり」(元北九州鉄道ジハ51→国鉄キハ40331)
キハ602「しおかぜ」・604「なぎさ」 1956年及び1960年日本車輌製造及び新潟鐵工所製。キハ601・603の同型車
ホハフ21 元キハ21「しらさぎ」 1935年日本車輌製造製のボギー車
ホハフ30-32 元キハ30「かもめ」(元佐久鉄道キホハ57→国鉄キハ40305)・20「はましぎ」・501「さざなみ」(元和歌山鉄道キハ501) いずれもボギー車
ハニフ12 片ボギー客車、元国東鉄道キハ12
耶馬渓線車両の異動
1964年廃車 ホハフ3・ホハ4
1965年廃車 ハニフ23・ハフ24
1966年 D32を旭川通運へ売却
保存・譲渡車両[ソースを編集]
九州鉄道記念館に保存されたハフ25。番号は「チブ37」となっている
キハ102「かわせみ」・キハ104「せきれい」・キハ601「やまびこ」・キハ602「しおかぜ」・ハニフ22
中津市万田の民宿兼レストラン「汽車ポッポ」で保存。
ハフ25
北九州市門司区の九州鉄道記念館で九州鉄道時代の姿に復元し保存。もともとは上記と同様に「汽車ポッポ」で保存されていたが、同館開館時に寄贈された。
キハ603「かじか」
紀州鉄道に譲渡。2012年除籍後、紀伊御坊駅にて動態保存。
以下の車両は解体された。
ハフ27
旧本耶馬渓町の青公園で保存されていたが、1998年に解体された。
キハ604「なぎさ」
紀州鉄道に譲渡。2010年解体、部品取り用になった。
D32
旭川通運に譲渡。のちに解体。
ホハ1
名古屋鉄道が明治村で保存するため引き取ったが、保存が断念され解体された。台車のみ明治村で保存。
廃線跡の現状[ソースを編集]
1982年(昭和57年)にほぼ全線が大分県道411号中津山国自転車道線(メイプル耶馬サイクリングロード)として整備されている。そのうち約22kmが自転車専用道である[22][23]。
中津駅付近は平成初頭まで線路跡が手付かずのまま残されていたが、その後区画整理事業が実施され跡形もなく消え去った。
国道213号線交差部分 - 大貞公園駅付近も県道(大分県道675号臼木沖代線)の拡幅に飲み込まれ跡形もない。
大貞公園駅 - 野路駅手前までは県道の東側の歩道部分が耶鉄跡である。特に大貞公園駅跡付近は桜が植えられ、春には美しい桜並木となる。
野路駅手前には国道212号を乗り越えていた鉄橋がサイクリングロードとして現存しており、さらに野路駅跡はホームが残り、また付近の踏切跡の道路にも「踏切あり」の道路標識が残されており、ここに鉄道が存在したことを物語っている。
野路駅からの線路跡は本格的にサイクリングロードとして転用されている。ただし、樋田集落 - 青の洞門対岸の線路跡は国道212号のバイパスとして転用され、跡形もない。
その先の津民 - 耶鉄柿坂間では、よく取り上げられる沿線随一の名所「第2山国川橋梁」がサイクリングロードとして転用されている。第2山国川橋梁は、2012年(平成24年)7月の九州北部豪雨でほぼ半分が橋脚も含めて破損流失した[24]が、2014年(平成26年)6月1日に復旧した[25]。この付近では耶鉄時代のトンネルもサイクリングロードとしてそのまま残されている。
柿坂付近は再び国道212号に飲み込まれ跡形もない。柿坂には耶馬溪サイクリングターミナルがあり、自転車のレンタルや宿泊も可能である。柿坂より先も国道にも飲み込まれているが、中摩駅 - 白地駅付近は国道より離れ、線路跡の面影をよく残している。
終点の守実温泉駅跡はかつての終着駅としての面影は全くなく、山国町商工会館・大交北部バスの折返場として使用されている。
文化財[ソースを編集]
登録有形文化財
旧耶馬渓鉄道一号厚ヶ瀬トンネル
旧耶馬渓鉄道二号厚ヶ瀬トンネル
旧耶馬渓鉄道平田駅ホーム
脚注[ソースを編集]
注釈[ソースを編集]
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^ 谷口 (1967) による。駅の標高は施工基準面、トンネルは延長。また第1、第2トンネルが各2か所にある。
^ 鉄道省出身技師[1]。
^ 旧債務償還含む。
^ 箱根登山鉄道の主任技師から専務取締役となり、湘南電気鉄道、京浜電気鉄道、海岸電気軌道の役員を歴任。1931年(昭和6年)に興銀への返済が不能となった三河鉄道取締役に、1933年(昭和8年)に伊勢電気鉄道専務に就任している。
^ 『消えた耶馬の鉄道』には観光案内文が30頁にわたり掲載されている。
^ 資本面での連携は行ってない[10]。
^ 1942年(昭和17年)2月合併。
^ 1940年(昭和15年)より村上が社長。
出典[ソースを編集]
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^ 『職員録. 大正10年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『消えた耶馬の鉄道』65頁
^ 『消えた耶馬の鉄道』66頁
^ 『地方鉄道軌道営業年鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第45回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 小川功『企業破綻と金融破綻』、九州大学出版会、318-319頁
^ 『消えた耶馬の鉄道』68、237頁
^ 『消えた耶馬の鉄道』72-73頁
^ 小川功「西日本鉄道の系譜」『鉄道ピクトリアル』No.668
^ 『西日本鉄道百年史』92頁
^ 『西日本鉄道百年史』95頁
^ 『西日本鉄道百年史』108頁
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年7月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年1月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年12月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道停留場設置」『官報』1920年12月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年6月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年6月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b c d 『客車略図 上巻』国立国会図書館近代デシタルライブラリー
^ 堀江光雄「大分交通見学記」『鉄道ファン』No.26
^ 谷口良忠「北九州の鉄道と列車」『鉄道ファン』No.73
^ メイプル耶馬サイクリングロード 中津市
^ メイプル耶馬サイクリングロード サイクルスポーツ.jp
^ “鉄橋崩落、20m流される…九州北部豪雨”. 読売新聞. (2012年7月4日) 2012年7月5日閲覧。
^ “第二山国川鉄橋が復旧 12年豪雨で流失”. 読売新聞. (2014年6月1日) 2014年8月4日閲覧。
参考文献[ソースを編集]
大分合同新聞社 『郷愁のローカル鉄道耶馬渓線:大正2年12月26日~昭和50年9月30日:写真集』 清原芳治、大分合同新聞社、2004年。
坂山角雄(執筆) 『消えた耶馬の鉄道』 耶馬渓鐵道史刊行會、耶馬渓町、1985年。
『思い出の耶馬溪線』 中津かわら版、2005年。
谷口良忠 (1967). “大分交通耶馬渓線”. 鉄道ピクトリアル No. 199 (1967年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり8): pp. 72-89, 100-102.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道史資料保存会(1986年覆刻)、東京、1937年、p. 436。ISBN 4-88540-048-1。
宮脇俊三 『鉄道廃線跡を歩く』1、日本交通公社出版事業局〈JTBキャンブックス〉、1995年、pp. 147-149。ISBN 4-533-02337-1。
広田尚敬(監修) 『ロストレールウェイの旅・九州篇』(ビデオ)』 文藝春秋社。
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺3頁。
関連項目[ソースを編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
宇島鉄道
両備軽便鉄道6号形蒸気機関車 - 同形機の6, 7が改軌以前の当線で使用された。
国鉄1440形蒸気機関車
大分県道411号中津山国自転車道線(メイプル耶馬サイクリングロード) - 跡地に整備されたサイクリングロード
外部リンク[ソースを編集]
親しみのある耶馬溪線 中津市ホームページ
メイプル耶馬サイクリングロード 中津市ホームページ
耶馬渓鉄道の歴史 鉄人OO号
大分交通耶馬溪線 津島軽便堂写真館
大分交通耶馬溪線 40年前の鉄道風景
廃線探索 大分交通耶馬溪線 歩鉄の達人
カテゴリ: 九州地方の鉄道路線 (廃止)大分交通耶馬渓鉄道大分県の登録有形文化財
日本鉱業佐賀関鉄道
[隠す]日本鉱業佐賀関鉄道
路線総延長 9.2 km
軌間 762 mm
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
国鉄:日豊本線
STRq
幸崎駅
exSTRlg
0.0 日鉱幸崎駅
exBHF
日鉱本幸崎駅
exBHF
日鉱大平駅
exBHF
日鉱大志生木駅
exTUNNEL2
大志生木トンネル
exBHF
日鉱小志生木駅
exTUNNEL1
小志生木トンネル
exBHF
日鉱辛幸駅
exTUNNEL1
古宮トンネル
exBHF
日鉱古宮駅
exTUNNEL2
金山トンネル
exBHF
日鉱金山駅
exKRW+l exKRWgr
exSTR exKBHFe
9.2 日鉱佐賀関駅
exKBSTe
日本鉱業佐賀関製錬所
日本鉱業佐賀関鉄道(にっぽんこうぎょう さがのせきてつどう、通称 佐賀関線)は、かつて大分県北海部郡佐賀関町(現・大分市)の日鉱幸崎駅から日鉱佐賀関駅までを結んでいた、日本鉱業(日鉱、現・JX金属)が運営していた鉄道路線である。
太平洋戦争勃発により海上輸送が厳しくなったため佐賀関半島北岸に建設が進められた鉄道であったが、工事は難航し終戦後開業となり軍需輸送にはまにあわなかった。開業から僅か17年の1963年(昭和38年)に廃止された。
廃線跡の大半は、地元の生活道路や遊歩道・サイクリングロード等として活かされている。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 車両
6.1 蒸気機関車
6.2 内燃機関車
6.3 気動車
6.4 客車
6.5 貨車
6.6 車両数の推移
7 廃線後の状況
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
路線データ[編集]
路線距離(営業キロ):9.2km
軌間:762mm
駅数:9駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:
交換可能駅:1(日鉱大志生木)
運行形態[編集]
廃止直前は全線の所要が25 - 30分、区間列車含め20往復の本数が確保されていた。 大志生木から古宮にかけて日本鉱業の社宅があったため、通勤時の大志生木 - 佐賀関間はかなりの混雑だった。
当初、旅客・貨物とも蒸気機関車牽引で運行されていたが、1951年(昭和26年)には国鉄大隅線の前身の大隅鉄道のカホ1形を国鉄買収時に編入した元ガソリン動車2両(1930年日本車輌本店製。払い下げ時は無動力の客車)にディーゼルエンジンを載せて再気動車化(ケコキハ510・511)し、同年に若松車輌で新車のディーゼルカーとしてケコキハ512を製作した。これにより旅客列車が気動車化された。またディーゼル機関車も導入されている。
列車には女性車掌が乗務しており、鉄道職員には珍しい茶色の制服を着用していた。
歴史[編集]
1922年(大正11年)4月11日 - 鉄道敷設法公布。幸崎-佐賀関間が予定線となる(鉄道敷設法別表一覧#第117号)。
1933年(昭和8年)3月28日 - 省営自動車佐賀関線が開通[1][2]
1946年(昭和21年)3月11日 - 日本鉱業の専用鉄道として開業。
1948年(昭和23年)
5月16日 - 地方鉄道に変更。
6月11日 - 旅客営業を開始。
1949年(昭和24年)6月7日 - 昭和天皇が佐賀関行幸の際に利用。
1960年(昭和35年)3月1日 - 貨物運輸廃止。
1963年(昭和38年)5月15日 - 廃止。
駅一覧[編集]
(駅名は廃止時点のもの)
日鉱幸崎駅 - 日鉱本幸崎駅(ほんこうざき) - 日鉱大平駅(おおひら) - 日鉱大志生木駅(おおじゅうき) - 日鉱小志生木駅(こじゅうき) - 日鉱辛幸駅(からこう) - 日鉱古宮駅(ふるみや) - 日鉱金山駅(かなやま) - 日鉱佐賀関駅
接続路線[編集]
日鉱幸崎駅:国鉄日豊本線(幸崎駅)
車両[編集]
蒸気機関車[編集]
ケ218形(ケ219)
1918年雨宮製作所製の車軸配置0-6-0(C)、12トン級タンク機関車。1945年3月入線、1950年廃車。
ケ800形(ケ800 - ケ802)
1930年若津鉄工所製の車軸配置2-4-2(1B1)、20トン級タンク機関車。1945年5月入線。ケ801は1949年、住友別子鉱山鉄道に譲渡。ケ800は1956年、ケ802は1953年廃車。
11, 14
11は1927年日立製作所製、14は1927年汽車製造製の、いずれも車軸配置0-6-0(C)、15トン級タンク機関車で、ケ801と交換で住友別子鉱山専用鉄道から譲り受けたもの。1953年廃車。
内燃機関車[編集]
DB1
1953年3月若松車輌製、車軸配置B形の15トン級ディーゼル機関車。セミセンターキャブを持つ凸形機で、動軸はロッドで連結されている。廃止まで在籍。1965年、秋田県の日本鉱業釈迦内探鉱所に移籍。白沢駅側線で使用のため1067mmに改軌[3]。
GB1, GB2
1935年加藤製作所製。精錬所内軌道から転用。8トン級のガソリン機関車。1956年借入認可。1960年返却。
気動車[編集]
ケキハ510形(ケコキハ510, 511)
ケコキハ512
客車[編集]
250形(ケコハ250, 256)
470形(ケコハ481, 487, 494(497), 500)
ホハフ1形(ケホハフ1, 2, 3, 5, 6)1929年東洋車輌製住友別子鉱山鉄道より購入
貨車[編集]
無蓋車
ケト100 - 134、ケト200 - 224、ケチ(ケホチ)10 - 12、ケチ(ケホチ)350 - 354、ケセ41, 43, 54, 55, 58, 59, 64, 86
タンク車
ケタ(ケホタサ)1, 2、ケタ(ケホタサ)3, 4、ケタム(ケホタム)5
有蓋車
ケワフ(ケホワフ30)
車両数の推移[編集]
年度 蒸気機関車 内燃機関車 内燃動車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1948 5 8 76
1950 4 8 52
1954 1 1 3 6 6 42
1958 0 2 3 5 6 32
1960 1 3 5 1 2
高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、213頁
廃線後の状況[編集]
1990年代初めまでは大部分が未舗装の生活道路として利用されていたが、土地区画整理事業により次第に姿を消している。特に日鉱幸崎 - 日鉱本幸崎は国道197号のバイパス道路建設とJR幸崎駅の専用線が撤去され宅地化されたことにより一気に痕跡を消して行った。逆に日鉱大平付近などは未舗装の生活道路やそのまま利用されている橋桁など廃線跡の情緒が残る風景を現在でも提供してくれる。
日鉱辛幸から日鉱金山にかけては、サイクリングロードとして整備されていたり、当時のトンネルがそのまま使用されていたりと、廃線跡がうまく再利用されている姿を確認することができる。なお、佐賀関線には4箇所のトンネルがあった。そのうち現在でも現役で使用されているのは大志生木トンネルと金山トンネルの2つで、蛍光灯の付け替えなど管理がなされ、地元の人達の利用も多い。残りの小志生木トンネルと古宮トンネルは完全にコンクリートブロックで塞がれてしまっている。
日鉱佐賀関駅は現在の大分バス佐賀関バスセンターにあたり、手前のカーブで旅客線と貨物線が分岐していた。貨物線はそのまま佐賀関駅の入口前(現在歩道となっている部分)を通り、佐賀関製錬所敷地内まで通じていた。1980年(昭和55年)頃に最後まで残っていた貨物線のレールが撤去され、周辺整備の前までは道路に割り込むように白いコンクリートの帯が製錬施設の中まで伸びて廃線跡であることを主張していたが、道路拡張の際に消滅した。
日鉱幸崎駅跡付近
この空地そのものは日鉱幸崎駅と直接の関係はないが、その名残であった幸崎駅の貨物施設のあった場所である。廃線跡は1990年代後半まで新興住宅地に取り込まれつつも草木に隠れて築堤が存在していたが、現在は完全に宅地化され消滅している。
日鉱本幸崎駅跡(写真中央)
国鉄バス「本幸崎」であったバス停は大分バス「神崎中学校」に変更されている。かつては見通しの良い直線であった線路跡も、国道197号のバイパス道路によって視界を絶たれてしまっている。
廃線跡は生活道路
国指定史跡「築山古墳」入口前でバイパスを抜け出した廃線跡はしばらくアスファルト道路に変貌しているが、日鉱大平駅が近付くと未舗装になり、1980年代から変わらぬ風景を提供し始める。
日鉱大平駅跡
写真中央の消火栓付近が駅跡である。
列車撮影適所跡
幸崎を出て初めて海岸線に出る。現在はこの付近も遊歩道として整備が進み、各所で舗装が始まっている。
今でも現役の元鉄橋
軽便鉄道の単線が通っていた鉄橋という性質上、幅は狭く、歩行者と自転車の往来がやっとである。長年海風に晒されたことによって傷みが激しくなり、至る所で補修または架け替えられている。
日鉱大志生木駅跡付近
駅は写真の建物の裏にある幼稚園付近。
大志生木隧道
日鉱大志生木駅を出るとトンネルがある。併走している国道197号は山を削った切り通しになっており歩道は車道と白線で区切られただけである。このトンネルは危険な国道を避けるための人道として今も壁面の補修や蛍光灯の整備が行われ、地元の人に利用されている。
日鉱小志生木駅跡付近
トンネルがやや海に向かっているが、当時の海岸線は現在よりも山寄りで、駅も旧道沿いにあった。道路整備の前までは国鉄バス停留所の前に日鉱幸崎駅跡と同様のプラットホームが存在していたが、消滅してしまった。写真の緑地帯は駅跡を潰した後に設置されたものであり、当時の様子を窺い知ることはできない。
小志生木隧道跡
日鉱小志生木駅からそのまま海岸線を進み、国道の下を潜ってトンネルに入って行く。1980年代まではトンネルの入口に簡単な障害物が置かれているのみであったが、中に当時使用されていた鉄道資材などが置かれているという噂が立ち、侵入する者が現れたため、コンクリートブロックで完全に塞がれてしまった。
日鉱辛幸駅跡付近
日鉱辛幸駅跡付近からはサイクリングロードとして整備されている。壁沿いに草木に覆われたコンクリートの帯が伸びているが、これは廃線跡の全線に渡って埋設されている工業用水道の水道管である。
パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所
サイクリングロードを進むと、やがて終点となるパンパシフィック・カッパー(PPC)(旧日鉱製錬)佐賀関製錬所の通称「大煙突」が見えてくる。
古宮隧道跡
サイクリングロードはそのまま海岸線を佐賀関に向かって延びているが、水道管は途中で突然山の中に消える。その先には、やはりコンクリートブロックで塞がれたトンネルを発見することができる。廃線跡を辿るのであれば、道を辿るのではなく水道管を辿ることになる。
古宮隧道
国道197号の古宮隧道下に佐賀関側の入口跡がある(写真中央)。廃線後しばらくは生活道路の終点ということで放置され草木に覆われていたが、皮肉なことにバイパス道路建設により手前部分の廃線跡が整地されることで容易に近付けるようになった。日鉱古宮駅は国道九四フェリー乗場入口付近にあったが、完全に消滅している。日鉱金山駅は佐賀関病院(製錬所病院→佐賀関町立病院→現在は移転)の前にあったが、これも痕跡を見出すことは難しい。
日鉱佐賀関駅
海が埋め立てられ道路も整備されてしまったため、往時を想像することは難しいが、写真中央にコンクリートで舗装されている部分があり、これがかつての海岸線である。正面の大分バスが停車している所から写真左は海であった。
線路は写真の撮影地点付近で分岐していた。旅客線は写真中央にある現在の佐賀関バスセンター(日鉱佐賀関駅→国鉄バス佐賀関駅→JRバス佐賀関駅→現在)へと至っていた。貨物線は右手の現在歩道となっている部分を通り、佐賀関駅の入口前を抜け、車庫(機関車格納庫→国鉄バス車庫→JRバス車庫→廃止)前を通って製錬所の敷地内へと至っていた。この付近からは道路と重なっており、路面電車の軌道のように敷設されていた。
製錬所正門
終点。写真中央右の時計がある辺りに施設があり、貨物線が引き込まれていた。(建物は写真の時計背後の建物に付属するような形で存在していた)
廃線後も、道路には白いコンクリートの帯が旅客駅前から直線状に延び、現在守衛の詰所となっている辺りから急カーブを描いて建物の中へと通じていた。ここも道路拡張の際に完全に消滅してしまった。
脚注[編集]
^ 「鉄道省告示第86号」『官報』1933年3月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 岩堀春夫「専用線の機関車」『鉄道ファン』No.282
参考文献[編集]
鉄道ファン21号(1963年3月号) - 「消え行く路線をたづねて 日本鉱業佐賀関鉄道」
鉄道ピクトリアル160号(1964年7月臨時増刊号) - 「日本鉱業・佐賀関鉄道」谷口良忠
湯口徹『南の空、小さな列車』(下)プレスアイゼンバーン、1989年
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所
外部リンク[編集]
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」で提供している過去の航空写真(廃線跡)
日鉱幸崎 - 日鉱大平
国鉄幸崎駅の北から東へ延びる道路が廃線跡。カーブから直線に入り舗装道路を横切った直後に日鉱幸崎駅跡。
国鉄幸崎駅の北からやや北西寄りに延びる道を直進すると川の手前で行き止まる。行き止まり付近が濃硫酸の搬入施設。国鉄線からの引込線と留置されたタンク車も見える。
日鉱大平 - 日鉱大志生木
西から国道197号の山側を並走し、一旦海側へ出た後に再び戻り、トンネルを通って小志生木へ抜ける
日鉱大志生木 - 日鉱辛幸
西から日鉱小志生木までは上の写真と重複。写真上部中央の半島先端から出ている海岸線を東向きに延びる道が廃線跡。半島先端部分が小志生木トンネル出口
日鉱辛幸付近 - 日鉱佐賀関
西から海岸線に沿って伸びる。砂浜付近の画像は紛らわしいが、廃線跡は必ず岩場の壁伝いに走っている。
国道197号のトンネル下付近で廃線跡もトンネルに入り、国道197号よりも山寄りに出る。
国道九四フェリーが写っている港から見て順に「国道197号新線」「国道197号旧線」「廃線跡」の順に東へ道路が延びる。
廃線跡に沿って金山トンネル西側に4つ並ぶ建物は日本鉱業の古宮社宅である。日鉱古宮駅跡。
金山トンネル東側にある変則十字型の建物は製錬所病院。日鉱金山駅跡。
再び国道197号よりも海側に移動し、佐賀関漁港(上浦港)に入ったところで旅客線(海側)と貨物線(山側)に分岐している。
日本鉱業佐賀関線 - インターネット・アーカイブ2002年10月30日のアーカイブ、2014年2月15日閲覧。
佐賀関鉄道廃線跡を訪ねて - 2014年2月15日閲覧
日本鉱業佐賀関鉄道跡歩きの一齣
九州の私鉄入場券に関する考察 - 現役当時の佐賀関駅を写した絵葉書と日鉱小志生木駅の写真を掲載している
カテゴリ: 九州地方の鉄道路線 (廃止)日本鉱業佐賀関鉄道専用鉄道日本の軽便鉄道大分県の交通史