TOP > 囲碁 ルール 初心者 - 検索
囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
専用ソフト使用の囲碁ゲームも多々あります。
碁を知りたい。
なのに、打つ機会がない。
相手がいない。碁会所に入ってみたい。でも躊躇する。これが現実のようです。
面白くて、夢中になる碁です。この機会に碁を始めてはいかがでしょうか。ネット碁会所なら、敷居が低いです。
相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。
『考慮時間制』の対局場です。勝敗でスコアが増減します。
対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。
一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
▲TOPページ
当サイトに、お越しいただいて有難うございます。
一局の碁をお楽しみください。
当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
初心者の方も、対局できるようになっております。
ルールを知ったが、対局する機会がない人に最適です。ルールが解らない方は、申し訳ありませんが事前に習得して頂けれは幸いです。
囲碁のルールは単純なのでずか、ゲームは難しいです。
入門者もベテランもロボットと対局できるサイトは多々あります。
実体験に基づいた、オススメ記事もネット上にあります。
「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。
オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
・いつでもどこでも打てる!それがネット碁の魅力
・囲碁はワールドワイドなゲーム
・ユーザーの多さ
・ユーザーの質
・コミュニティ機能の充実
・サポートの充実
・コンテンツの充実
これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。
推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
幽玄の間サイト
KGSの口コミ
KGS
パンダネット
当サイトも、及ばずながら、がんばります。
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
角田軌道
改造気動車
概要
現況 廃止
起終点 起点:槻木
終点:舘矢間[注 1]
駅数 6駅または10駅[1]
運営
開業 1899年8月15日
全通 1900年7月21日
廃止 1930年2月13日
所有者 角田軌道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 19.3 km (12.0 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STR
国鉄:東北本線
HST
槻木
STR exKBHFa
0.0 槻木
STRrf exBHF
清水
exBHF
4.2 小坂
exBHF
6.0 岩崎
exBHF
江尻
exBHF
一本木
exBHF
10.1 桜
exBHF
一里壇
exBHF
12.4 角田
exKBHFe
19.3 舘矢間[注 1]
角田軌道(かくだきどう)は、かつて1899年(明治32年)から1929年(昭和4年)まで、宮城県南部の槻木駅付近を起点に、阿武隈川左岸(西岸)沿いの諸集落を南北に結んでいた鉄道である。当初は「角田馬車鉄道」と称した。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 運行概要
3 歴史
3.1 幻の角田電気鉄道
3.2 年表
4 輸送・収支実績
5 駅一覧
6 接続路線
7 車両
7.1 改造気動車
8 脚注
8.1 注釈
8.2 出典
8.3 参考文献
9 関連項目
概要[編集]
1887年(明治20年)に宮城県仙台区(現・仙台市)を経て塩釜港に面する(初代)塩竈駅(後の塩釜線・塩釜埠頭駅)まで開業した日本鉄道本線(現・JR東日本東北本線)は、旧奥州街道沿いに敷設されて角田盆地を通らなかったため、同線との連絡のため1897年(明治30年)に特許を受けて着工、1899年(明治32年)から1901年(明治34年)にかけて開通した。当初は社名の通り馬車鉄道であったが、のち蒸気機関車を導入した。
経路は、槻木盆地に広がる柴田郡槻木村(現・柴田町)に1891年(明治24年)に開業した槻木駅付近から阿武隈川左岸を南に向かい、同郡船岡村(現・柴田町)および伊具郡東根村(現・角田市)を経て角田盆地に入り、同郡北郷村、桜村、角田町(以上、現・角田市)を貫いて、舘矢間村(現・丸森町)で終点となった。終点の舘矢間と阿武隈川を挟んだ右岸には、丸森町や金山町があった[2]。
1923年(大正12年)9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)を機に東京府東京市がバス事業(円太郎バス)を開始すると全国にもバス事業が広まり、また、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した[3][4]。その結果、低速だった角田軌道は大正時代末期からバスとの競合に晒されて経営が悪化した。奇怪な改造気動車を無認可で導入する(後述)などの試みもあったが、経営は早々に行き詰まり、1929年(昭和4年)に全線営業休止、翌年廃止された。
路線データ[編集]
廃止時点のもの
路線距離(営業キロ):19.3km
軌間:762mm
駅数:6駅または10駅[1](起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
動力:全線馬力→蒸気(末期に無認可で気動車を運行)
運行概要[編集]
1923年(大正12年)9月25日改正当時『時刻表復刻版 戦前・戦中編』時間表 十五年十月号より
旅客列車本数:日6往復
所要時間:全線1時間10分
歴史[編集]
1897年(明治30年)1月に丸森の斎藤信太郎は沿線の有力者らと共に馬車軌道を営業することを計画し、同年5月に県より特許状が下付された。同年10月に社名を角田馬車鉄道とし本社は角田町におき、社長は湯村保治が就任した[5]。株主は403人(3500株)でそのうち317人(2504株)が伊具郡の住人であった。その後計画を変更する必要があり[注 2]ようやく1898年(明治31年)8月に起工となった。このころ千住馬車鉄道が廃止されることになり車両や軌条を始め車両修理機械、机、椅子、時計などの備品を入手。さらには運輸、修理、保線の責任者まで移籍することになった。
1899年(明治32年)1月の総会で工事が9分通り完成したことが報告され同年4月に開業式を開くことに決定された。しかし都合により同年8月に延期され槻木 - 角田間が開業となった。開業後の旅客数は好調であり、その後1900年(明治33年)7月には舘矢間まで延伸開業した。さらに1901年(明治34年)7月には丸森舟橋までの延長 (600m)も計画された[注 3]。ところがこの好調な時期は長く続かず1903年(明治36年)には不景気や凶作(前年比5割減)の影響を受け旅客数、貨物量とも大幅な減少となった[6]。ついに1912年(明治45年)7月の定期総会において業績不振による無配の責任をとり、湯村は社長を退任することを表明した。
次に社長に就任した平間平助(槻木町)は1915年(大正4年)11月に馬の確保が難しいこと、馬糧費の高騰、馬の疲弊よる定時運行の支障などの問題に対処するため馬力から蒸気への動力変更願いを提出した。また翌年10月には角田軌道へ社名変更し、1917年(大正6年)6月に蒸気機関車が槻木 - 角田間に走るようになった。ただし角田 - 舘矢間間は第一次世界大戦後の不況による資材の高騰や蒸気化しても採算がとれないことから今まで通り馬車による運行であった。まもなく三代目社長の竹谷源平の決断により自動車に切り替えることになり、この区間は廃止することになった。そしてアメリカ・フォード製の乗合自動車により角田から舘矢間を経由し金山まで至る路線が運転された。しかし蒸気化し一部廃線したにもかかわらず会社の経営は不振をきわめ[7] 保守もままならなかった。枕木は腐朽し、機関車は故障した[8] 。遂に1924年(大正13年)11月には運転休止せざるを得ない状況に陥っていた[注 4]。このように経営不振に喘いでいる角田軌道に対し1925年(大正14年)4月に角田町では軌道を買収することを決議し、仮契約を結ぶことになったが、同年9月には契約を解約してしまう[9]。また槻木町では1914年(大正3年)から5年間にわたり2200円寄付したり、石炭費の補助をするなど[10] 救済策を打ち出していた。
幻の角田電気鉄道[編集]
角田軌道が沿線の自治体からの補助によりかろうじて存続している一方で沿線では新たな鉄道が計画された。それは東北本線大河原駅を起点として角田、丸山、金山町に至る約22kmの電気鉄道であり、国鉄と同じ軌間1067mmであった。大河原駅を起点としたのは阿武隈川氾濫のたびに被害を被る槻木 - 江尻を避け、また仙南温泉軌道と連絡することを考えたものであった。この鉄道敷設免許は1926年(大正15年)9月29日に下付された[11]。発起人の中には角田軌道の経営陣の名もみられ、軌道の買収を目論んでいたと思われる。資本金は85万円であったが不況で資金の目処もつかず工事延長願いを繰り返していたすえに1930年(昭和5年)にその延長願いも却下され実現しなかった[12]。
年表[編集]
1897年(明治30年)
5月18日 馬車鉄道敷設の特許が下付[13][14]
10月14日 角田馬車鉄道設立[13]
1899年(明治32年)8月15日 槻木 - 角田間開業[15]
1900年(明治33年)7月21日 角田 - 舘矢間間開業、全線開通[1][15][注 5]
1916年(大正5年)1月7日 角田軌道に社名変更[16]
1917年(大正6年)6月11日 槻木 - 角田間を動力変更(蒸気)[17][18]
1918年(大正7年)6月15日 角田 - 舘矢間間(動力 馬力)を廃止[19]
1929年(昭和4年)
5月6日 休止許可[20][21]
10月5日 営業停止(事実上の全線廃止)[17]。実際には休止許可以前から休業状態だったともされる
11月1日 会社解散を決議[17]
1930年(昭和5年)2月13日 前日付での廃止認可に伴い正式廃止[22][20]
1935年(昭和10年)10月15日省営自動車白中線(白石駅 (宮城県)-磐城角田-舘矢間-常磐線中村駅-原釜間)運輸営業開始[23]
1937年(昭和12年)9月1日 省営自動車船岡線(磐城角田 - 一本木 - 船岡間)運輸営業開始[24]
1938年(昭和13年)8月1日 省営自動車槻木線(一本木 - 槻木間)運輸営業開始[25]
角田軌道は明治時代中期に開業し、昭和初期という早い時期に廃線となった。その歴史は30年強と比較的短い。過去に宮城県内に存在した鉄道会社各社のほとんどは、バス会社への転業・合併や仙台市交通局等への吸収という形で企業としての系譜が現在にまで至っているが、角田軌道は近郊にあった仙南温泉軌道にも買収されず、後継企業のないままに会社を解散しており、残存する資料は少ない[26]。
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(噸) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 雑収入(円) 雑支出(円) 支払利子(円)
1908(明治41)年 71,681 9,611 7,525 2,086 182
1909(明治42)年 67,403 10,136 8,579 1,557 412
1910(明治43)年 51,339 8,948 7,835 1,113 利子113
1911(明治44)年 57,879 9,766 7,713 2,053 利子120
1912(大正元)年 60,399 274 10,752 8,513 2,239 利子175
1913(大正2)年 53,626 86 9,813 9,317 496 利子210
1914(大正3)年 53,814 1,303 9,846 8,633 1,213 利子218
1915(大正4)年 56,716 1,740 10,088 7,737 2,351 利子220 450
1916(大正5)年 63,009 3,323 12,238 11,553 685
1917(大正6)年 84,187 1,909 15,863 17,580 ▲ 1,717 利子7,391 5,315
1918(大正7)年 82,243 15,745 28,216 26,609 1,607 自動車2,949
不要品売却37,846 2,511 2,278
1919(大正8)年 68,700 4,783 47,819 42,607 5,212 1,911
1920(大正9)年 53,918 4,475 45,938 44,512 1,426 5,283 9,200 2,191
1921(大正10)年 46,206 7,155 43,622 46,953 ▲ 3,331
1922(大正11)年 51,546 3,865 42,549 42,985 ▲ 436
1923(大正12)年 45,387 2,846 37,517 35,157 2,360 1,193 1,939 3,881
1924(大正13)年 38,863 3,868 35,483 40,065 ▲ 4,582
1925(大正14)年 23,969 706 19,134 23,048 ▲ 3,914 町補助金2,000
証書売却益金1,136 3,991
償却金104 3,136
1926(昭和元)年 41,386 1,997 35,976 35,578 398 償却金1,000 3,063
1927(昭和2)年 24,854 1,008 19,397 19,747 ▲ 350 雑損30 5,681
1928(昭和3)年 16,415 90 11,129 13,092 ▲ 1,963 3,923
鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料より
駅一覧[編集]
停車場
槻木駅 - 小坂駅 - 岩崎駅 - 桜駅 - 角田駅 - 舘矢間駅[注 1]
槻木駅は国鉄線槻木駅とは隣接しておらず、非連絡運輸扱い。
角田駅も現在の阿武隈急行線角田駅とは別の場所。
舘矢間駅は丸森町への玄関口となる駅で、近年までミヤコーバスのバス停があった。
接続路線[編集]
事業者名等は廃止時点のもの
槻木駅:鉄道省東北本線(非連帯)
車両[編集]
開業時千住馬車鉄道から譲渡された客車は12両(3、5号は二等車)、貨車5両。蒸気化された1918(大正7)年度は大日本軌道製蒸気機関車3両、30人乗りボギー客車4両、貨車3両。1928(昭和3)年度に客車が1両減でガソリンカーが1両増になった。
改造気動車[編集]
角田軌道を鉄道愛好者の間で有名にしているものに、1928年(昭和3年)に導入された改造気動車の存在がある。この改造気動車は、経営悪化への対策として導入されたもので、自社保有の木造ボギー客車の改造によって製作された。当局には無認可である。
その構造は、中古のフォードT型トラックから車輪・車軸を外し、運転台直後でシャーシを切断して、この前部部分だけをボギー客車の車端に接合した物だった。十分な支えもないトラックシャーシ部分は、エンジンの重みで前方に垂れ下がっていた(しかも軌道線ということからこのボンネット部に救助網まで付いていた)。無認可のため公式な設計図も残されておらず、駆動方式やブレーキ機構などは一切不明である。
運転台が片一方だけで逆転機も備えない単端式であるため、起終点での方向転換が必要になる。しかし、ボギー客車にトラックシャーシを接合した長いサイズでは軽便鉄道蒸気機関車用の転車台には収まりそうもないことから、「起終点にループ線ないしデルタ線を設けたのではないか」と推察されている[20]。
当時の運輸業界誌の雑報でこの「気動車」の試運転が報じられ、槻木 - 角田間を40分ほどの快速で走破したという。この記事では、角田軌道が3t積み貨車にエンジンを搭載することを計画している旨が報じられているが、この「貨物気動車」計画が実現したかは全くわかっていない。
脚注[編集]
[ヘルプ]
注釈[編集]
^ a b c 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』(電気車研究会、1993年)では「館矢間」となっているが、正誤表 (PDF) で「舘矢間」に訂正。
^ 白石川にかかる私設の白幡橋に軌道を敷設するためには拡幅の必要があった。この橋の私設許可期限が明治32年1月だったので、県により架け換えることになり会社もその費用を負担した。また北郷では地権者と折り合いがつかずやむなく経路を変更したが県の知れるところとなり譴責を受けた。『宮城県史 5』680頁
^ 明治35年2月に却下になった『丸森町史』565頁
^ 大正14年6月20日に再開された。『角田町郷土誌』64頁
^ 開業後県の検査により不備を指摘され、改造をして完了したのは翌年10月2日となった。『宮城県史 5』 681頁
出典[編集]
^ a b c 今尾 (2008)
^ 1.白石市・蔵王町・七ヶ宿町 (PDF) (宮城県)
^ 写真で見るバスの歴史I(公益社団法人日本バス協会)
^ エネルギー-科学技術の進歩と現代生活(財団法人日本原子力文化振興財団)
^ 『日本全国諸会社役員録. 明治34年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 明治36年度上半期営業報告書『柴田町史』377-379頁
^ 仙南日日新聞大正12年5月1日「角田軌道仮差押」、5月2日「重役連袂辞職」の報道がある。『柴田町史』383頁
^ 大正12年9月25日仙南日日新聞に機関車の故障による運休に対し謝罪広告をだしている。『柴田町史』382頁
^ 『角田町郷土誌』65頁
^ 『柴田町史』381-383頁
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1926年10月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『宮城県史 5』706-708頁
^ a b 『帝国鉄道年鑑』473頁
^ 「特許状」『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』247-252頁
^ a b 『鉄道院年報 軌道之部 明治41、42、43年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「商業登記簿抄本」『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』93頁
^ a b c 『宮城県史 5』 681頁
^ 「軌道工事一部竣工報告」『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』218頁
^ 『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』243頁
^ a b c 湯口 (2004)51頁
^ 補助金めざし私鉄の猛襲不景気と自動車に押され四苦八苦の四百余社1930年5月25日付東京日日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
^ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1930年4月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道省告示第461号」『官報』1935年10月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道省告示第284号」『官報』1937年8月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道省告示第174号」『官報』1938年7月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 国立公文書館所蔵鉄道省文書は大正8-12年及び大正15年-昭和5年分が鉄道省の火災により失われている『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』6頁
参考文献[編集]
湯口徹 『内燃動車発達史』上巻、ネコ・パブリッシング、2004年。ISBN 4777050874。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』2 東北、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790020-3。
『角田町郷土誌』1956年
『角田市史2 通史編 下』1986年
『柴田町史 通史編 2』1992年
『丸森町史 通史編』1984年
『宮城県史 5』1960年
『角田軌道(元角田馬車鉄道)、角六電気軌道(一)・自大正元年至昭和十一年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目[編集]
廃線
カテゴリ: 東北地方の鉄道路線 (廃止)宮城県の交通史馬車鉄道日本の軽便鉄道かつて存在した日本の軌道事業者かつて存在した日本のバス事業者角田市の歴史