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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
赤穂鉄道
赤穂鉄道線
播州赤穂駅で開かれた赤穂鉄道開通式1921年4月14日
播州赤穂駅で開かれた赤穂鉄道開通式
1921年4月14日
概要
現況 廃止
起終点 起点:有年駅
終点:播州赤穂駅(現在の播州赤穂駅とは別駅)
駅数 9駅
運営
開業 1921年4月14日
廃止 1951年12月12日
所有者 赤穂鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 12.7 km (7.9 mi)
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
電化 全線非電化
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
STRq
国鉄:山陽本線
exSTRrg
0.0 有年
exBHF
2.3 富原
exBHF
3.8 真殿
exBHF
5.7 周世
WASSERl exWBRÜCKE WASSERq WASSER+r
千種川
exBHF WASSER
6.5 根木
exBHF WASSER
7.6 目坂
exBHF WASSER
9.4 坂越
exSTR STRrg WBRÜCKEq
国鉄:赤穂線
exSTR HST WASSER
坂越
exBHF STR
10.2 砂子
HSTq xKRZ STRrf
播州赤穂
exKBHFe
12.7 播州赤穂
赤穂線と当鉄道は
同時に存在していない
赤穂鉄道(あこうてつどう)は、かつて国鉄山陽本線の有年駅から播州赤穂駅(現在の播州赤穂駅とは別駅)間の鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。
本項では、主に運営していた鉄道路線について記述する。
目次 [非表示]
1 概要
2 路線データ
3 運行概要
4 沿革
4.1 年表
5 駅一覧
6 輸送・収支実績
7 車両
7.1 蒸気機関車
7.2 ディーゼル機関車
7.3 客車
7.4 車両数の推移
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
概要[編集]
播磨国(兵庫県西部)の西端にあり、赤穂藩(赤穂事件などで著名)の城下町であった赤穂町(後に赤穂市)は、瀬戸内海に面し、塩田を擁する製塩地としても知られていた。しかし、1890年(明治23年)に山陽鉄道が路線(現在の山陽本線)を山間部に敷設すると鉄道ネットワークから取り残されたため、鉄道を同線の有年駅から町中心部まで敷設しようとする発案が幾度か挙がったが、いずれも予算問題で立ち消えとなっていた。
しかし1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されたことから、これを契機として軌間762mmの軽便鉄道の敷設が決定され1915年(大正4年)に会社創設、1921年(大正10年)に開業した。
赤穂鉄道は塩の輸送のほか、観光誘致にも積極的で、赤穂周辺においてバス事業も展開した。
戦後、山陽本線相生駅と接続する国鉄赤穂線が開業することになったため、1951年(昭和26年)に廃止となった[1]。
路線データ[編集]
路線距離:有年 - 播州赤穂間12.7km
駅数:9
軌間:762mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
動力:蒸気・内燃
運行概要[編集]
1950年(昭和25年)11月改正時
旅客列車本数:日9往復
所要時間:全線44 - 45分
沿革[編集]
播州赤穂に通じる鉄道としては、4つの構想があった。最初の構想は、1896年(明治29年)に出た播州鉄道の構想で、ほぼ赤穂鉄道のルートで有年に出て、さらに北の上郡を目指したものであったが、軌間の選択でもめて実現しなかった。
続いて明治30年代に赤穂鉄道の構想が打ち出された。これはほぼ現在のJR赤穂線のルートに沿って岡山県側の西大寺まで結ぶものであったが、これも実現しなかった。また1907年(明治40年)には播備鉄道の構想が打ち出され、龍野から姫新線と赤穂線のルートに近い経路で播州赤穂まで結ぶものであったが、これも実現しなかった[2]。
1910年(明治43年)に4番目に打ち出された播美線の計画が、実際に建設された赤穂鉄道へ通じるものとなった。これは上郡からさらに岡山県北部の美作地方までを結ぶものであった。1913年(大正2年)2月8日に軽便鉄道の敷設申請を提出して、すぐに許可を取得した。実際には播美線の計画は縮小されたため、上郡までの建設になった。
1915年(大正4年)5月7日に赤穂鉄道株式会社が発足したが資金的に苦しく、有年以北の上郡までの区間は見送り、また坂越支線も中止して播州赤穂 - 有年間のみを建設することになった。1921年(大正10年)4月14日に開業した。
開業後は赤穂からの塩の輸送が行われ、赤穂の塩をさらに全国に広めて赤穂の産業発展に貢献した。また積極的に観光開発に努め、赤穂義士の史跡などを生かして京阪神方面からの観光客を輸送した。赤穂周辺の住民の生活は赤穂鉄道の開通により大幅に便利になったという。
営業実績の方は当初はふるわず、赤字がしばらく続いた。昭和初期には蒸気機関車に代わってガソリンカーが導入され、列車の増発が行われると共に播州赤穂駅の移転・改築が行われた。業績は次第に上向き、1938年(昭和13年)頃からは配当も行えるようになった。
第二次世界大戦後、年間輸送量が100万人を超えるピークを迎えた。その後は落ち着くが、特に経営に支障はない状態で安定していた。しかし国鉄赤穂線が建設されることになり、これに役割を引き継いで発展的に解消することになった。1951年(昭和26年)12月11日22時に最終列車が播州赤穂駅に到着、翌12月12日から国鉄赤穂線が開業して赤穂鉄道は廃止となった。
年表[編集]
1913年(大正2年)3月28日鉄道免許状下付(赤穂郡塩屋村-同郡坂越村間)[3]
1915年(大正4年)5月7日 赤穂鉄道設立[4][5]
1921年(大正10年)4月14日 有年駅 - 播州赤穂駅間が開業し、有年、高雄村、坂越、播州赤穂の各駅が開設[6]
1925年(大正14年)10月1日 富原、周世、目坂、砂子の各駅が開設[7]
1929年(昭和4年)自動車兼業許可[8][9]
1951年(昭和26年)12月12日 全線廃止。その後会社解散
駅一覧[編集]
駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 開設日 接続路線・備考
有年駅 - 0.0 1921年4月14日 国鉄:山陽本線
富原駅 2.3 2.3 1925年10月1日
真殿駅 1.5 3.8 1922年3月29日 当初は貨物駅[10]
周世駅 1.9 5.7 1925年10月1日
根木駅 0.8 6.5 1921年4月14日 1925年9月1日に高雄村駅から改称[11]
目坂駅 1.1 7.6 1925年10月1日
坂越駅 1.8 9.4 1921年4月14日
砂子駅 0.8 10.2 1925年10月1日
播州赤穂駅 2.5 12.7 1921年4月14日 赤穂線の播州赤穂駅より南側の位置(現在のウエスト神姫赤穂営業所)にあった。
輸送・収支実績[編集]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1921 93,072 1,900 42,264 27,655 14,609
1922 189,420 5,409 77,835 54,794 23,041
1923 190,209 15,615 88,552 62,503 26,049 減資差益金62,911 雑損金53,841 32,902 25,254
1924 201,289 10,347 87,470 63,143 24,327 雑損金7 27,658 27,128
1925 229,793 14,405 92,516 68,934 23,582 24,739 28,631
1926 252,416 44,374 106,991 85,371 21,620 雑損55 21,658 27,594
1927 259,452 41,448 110,447 86,598 23,849 雑損500 19,373 26,336
1928 284,582 41,632 117,033 102,229 14,804 10,833 17,815 30,750
1929 257,465 60,933 110,630 92,854 17,776 14,953 33,201
1930 224,461 44,308 94,748 81,023 13,725 自動車業1,287
雑損償却金2,339 9,923 35,946
1931 220,294 12,787 76,023 55,749 20,274 自動車業3,812 償却金21,514 9,362 17,939
1932 200,783 15,201 74,241 43,469 30,772 自動車業1,329 償却金5,500 7,452
1933 204,558 10,769 73,109 41,699 31,410 自動車業1,507 償却金5,500 6,655
1934 198,033 7,683 68,845 39,476 29,369 自動車業5,367 償却金9,251 5,703
1935 206,168 8,048 71,281 40,647 30,634 自動車業233 5,382
1936 222,726 5,492 73,795 37,725 36,070 自動車業3,211
償却金7,096 4,619
1937 243,681 11,762 84,617 43,605 41,012 自動車運送業13,213 自動車業6,399
雑損償却金10,176 3,580
1939 342,217 28,329
1941 570,216 23,992
1945 1,117,213 33,263
鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版より
車両[編集]
開業から廃止までの間に、蒸気機関車6両、ディーゼル機関車2両、気動車6両、客車延べ30両、貨車延べ31両が在籍した。
蒸気機関車[編集]
1形(1)
1894年(明治27年)、米ボールドウィン製の車軸配置0-6-0(C)型10トン級サドルタンク機関車。開業時に竜崎鉄道から購入したものである。もとは太田鉄道が開業用に用意したものであるが、軌間を762mmから1,067mmに改めたために、注文流れとなったものである。1936年(昭和11年)に廃車解体。
2形(2)
1902年(明治35年)、独クラウス製の車軸配置0-4-0(B)型8.5トン級ウェルタンク機関車。開業時に龍崎鉄道から購入したもので、1940年に廃車解体。
3形(3)
1921年(大正10年)、独コッペル製の車軸配置0-6-0(C)型9.3t級ウェルタンク機関車。これも開業用に用意したものだが、自社発注機である。1951年の廃止まで在籍した。後に国有化され、ケ220形となった宇和島鉄道の機関車と同系である。
4形(4)
1924年(大正13年)、独コッペル製で、3とはほぼ同形である。後年、サイドタンクを延長している。1951年の廃止まで在籍。
C1形(13)
1894年(明治27年)、米ボールドウィン製の車軸配置10トン級0-6-0型サドルタンク機関車。1とは同形で、太田鉄道の注文流れ品である。1941年に鉄道省から譲り受けたもので、旧番号はケ600形(ケ600)。1950年まで使用され、走行装置はDLC10形ディーゼル機関車(D102)に使用された。
C10形(1010)
1942年(昭和17年)、本江機械製の車軸配置0-6-0型10トン級サイドタンク機関車。規格型機関車で、種別は丁C10である。1951年の廃止まで在籍した。赤穂鉄道は、この機関車の同形機を他に2両発注しているが、入線記録はない。これらは、工事用機械(車蒸51, 52)として鉄道省の手に渡っている。
ディーゼル機関車[編集]
DLC10形(ハ6)
1950年(昭和25年)、森製作所改造によるディーゼル機関車。戦後の機関車不足を補うために、元ガソリンカーの客車ハ6の座席を取り払い、室内にディーゼルエンジンを置いて、ディーゼル機関車としたものである。走行装置は、片ボギーからボギー車となった。当初の計画ではD101に改番する予定であったが、ハ6のまま1951年の廃止まで在籍し、1952年に静岡鉄道に譲渡され、駿遠線で普通の気動車として使用された。
DLC10形(D102)
1950年(昭和25年)、森製作所製の凸形ディーゼル機関車。13号蒸気機関車の走行装置を使用して、製造されたものである。1951年の廃止まで在籍し、その後は静岡鉄道に譲渡され、駿遠線で使用された。
客車[編集]
ロ1、ハ11・12、フハ6 - 8
開業時に竜崎鉄道から購入したもので契約書には旧番号の記載はなく特別14人乗客車1両、30人乗客車2両、16人乗客車3両の計6両で竜崎鉄道の記録上の保有車両4両(い1、は1・2、はに1)でありのこり2両はよくわからない[12]。ロ1は1925年(大正14年)にハ1に改造された。廃車は6両とも1928年(昭和3年)。
車両数の推移[編集]
年度 蒸気機関車 ガソリンカー 客車 貨車
有蓋 無蓋
1921 2 7 2 8
1922 3 8 3 8
1923-1924 3 8 3 12
1925 4 9 4 12
1926 4 10 4 12
1927 4 10 4 18
1928-1929 4 2 10 4 18
1930 4 3 4 4 24
1931-1935 4 5 6 4 24
1936 3 5 7 4 24
1937 2 6 12 3 18
脚注[編集]
^ 「運輸審議会の決定」『官報』1951年12月27日(国立国会図書館のデジタルコレクション)
^ 明治43年免許昭和9年失効『鉄道統計資料. 昭和9年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年4月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第24回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年4月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道駅設置」『官報』1925年10月24日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『赤穂鉄道の発掘』18頁
^ 1934年時点『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道貨物停車場設置」『官報』1922年4月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年9月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 白土貞夫「関東鉄道竜ケ崎線―龍崎鉄道・鹿島参宮鉄道竜ケ崎線―(上)」 ネコ・パブリッシング、2013年、46-47頁
参考文献[編集]
安保彰夫 『赤穂鉄道の発掘』RM LIBRARY 55、ネコ・パブリッシング、2004年。ISBN 4-7770-5037-8。
『ひょうご懐かしの鉄道 廃線ノスタルジー』 神戸新聞総合出版センター、2005年、pp. 144-151。ISBN 4-343-00322-1。
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』9 関西2、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790027-2。
関連項目[編集]
日本の廃止鉄道路線一覧
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カテゴリ: 兵庫県の交通史赤穂市の交通赤穂市の歴史近畿地方の鉄道路線 (廃止)かつて存在した日本の鉄道事業者赤穂鉄道日本の軽便鉄道かつて存在した日本のバス事業者
淡路鉄道
淡路交通鉄道線
基本情報
現況 廃止
国 日本の旗 日本
所在地 兵庫県(淡路島)
起点 洲本駅
終点 福良駅
駅数 17駅(廃止当時)
開業 1922年11月26日
全通 1925年6月1日
廃止 1966年10月1日
所有者 淡路交通
運営者 淡路交通
車両基地 宇山車庫
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線距離 23.4 km
軌間 1,067 mm (狭軌)
線路数 単線
電化方式 直流600 V 架空電車線方式
(廃止当時)
最大勾配 25 ‰
最小曲線半径 201.17 m
閉塞方式 単線自動閉塞式(廃止当時)
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線
(廃止当時)[1]
凡例
BOOT
本州方面
exKBHFa
0.0 洲本駅
exBHF
0.7 寺町駅
exWBRÜCKE
洲本川橋梁 洲本川 95m
exSTRrg exABZrf
exKDSTe exBHF
1.1 宇山駅
exBHF
2.0 下加茂駅
exBHF
3.4 先山駅
exBHF
4.8 淡路二本松駅
exBHF
5.6 納駅
exBHF
6.0 山添駅[† 1]
exBHF
7.0 淡路広田駅
exGIPl
8.46 最高地点 標高49.49m
exBHF
10.4 淡路長田駅
exBHF
12.9 掃守駅
exBHF
14.2 自凝島駅
exBHF
15.7 一本松駅
exBHF
17.1 市村駅
exBHF
18.6 神代駅
exBHF
19.8 賀集駅
exBHF
20.4 御陵東駅
exGIPl
21.8 標高30.39m
exBHF
23.1 福良駅 (I) -1938
exKBHFe
23.4 福良駅 (II) 1938-
BOOT
四国方面
淡路鉄道(あわじてつどう)は、かつて兵庫県淡路島において鉄道路線を運営していた鉄道事業者である[2]。
会社は1914年(大正3年)に設立され、1922年(大正11年)に鉄道路線の一部区間営業を開始し、1943年(昭和18年)に戦時中の交通統制で全淡自動車と統合されて淡路交通となった。そのため、淡路交通となってからは、淡路交通鉄道線という路線名であった。通称は淡鉄(だんてつ)。運営していた鉄道路線は、1966年(昭和41年)に廃止された[2]。
本稿では、主にその淡路鉄道、淡路交通が運営していた鉄道路線について記述する。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 路線データ
2 運行
3 歴史
4 駅一覧
5 輸送実績
6 車両
6.1 蒸気機関車
6.2 客車
6.3 気動車
6.4 電車
7 施設
8 その他
9 廃線後の状況
10 脚注
10.1 出典
10.2 注記
11 参考文献
12 関連項目
概要[編集]
淡路島に鉄道を敷設しようという計画は、明治時代から存在し、1911年(明治44年)には賀集新九郎ら地元の資産家ら25名によって洲本 - 福良間の敷設免許が国に申請された。翌年免許され、1914年(大正3年)に淡路鉄道として資本金45万円で設立された。しかし、旱魃などによる資金難や第一次世界大戦時の物価上昇などで工事は遅れ、政府の補助金などの援助もあってようやく当初予定の区間(洲本口 - 市村 16km)を開業させたのが1922年(大正11年)11月22日で乗客と貨物を扱う淡路島初の蒸気機関車による鉄道運行が開始され、全通したのは1925年(大正14年)であった。1924年当時の運行状況は洲本口始発午前6時、最終便午後11時6分1日10便、洲本口 - 賀集間を1時間5分で結んでいた。1931年(昭和6年)からはガソリンカーによる運行に代わった。1942年(昭和17年)淡路交通と改称する[2]。
路線は淡路島を東西に横断する形で敷設された。日本の北海道・本州・九州・四国の主要な四島をのぞいた島における通常の粘着走行方式による鉄道路線は、(中州など四島から直通するものをのぞいて)第二次世界大戦後はこの淡路島のみであった[† 2]。
戦後は、1947年(昭和22年)には電化工事が始まり、翌1948年(昭和23年)に電化が完成して南海電鉄から購入した電車の運行を開始した[2]。1952年(昭和27年)には、前年の国衙踏切での事故を受け踏切の自動化を、さらに同年には閉塞装置の自動化をそれぞれ成し遂げ、列車本数の倍増、木造車の鋼体化、ドアエンジンの採用、さらには最新の駆動装備の試験的導入などの施策がとられた。
しかし、モータリゼーション化で自動車の普及が進んだことなどから、旅客・貨物共に低迷、会社側はサービス改善の傍ら、鉄道部門から希望退職者を募ったり、他部署への異動など幾度のリストラ策を取るが、同時に推進していたバス部門の充実を重きに置くようになると、競合する鉄道部門の累積赤字が増加するなどの悪循環となった。さらにこれに追い討ちをかけるように、1965年9月に集中豪雨により、鉄道線が寸断された。その間代行バスへ移った乗客が、鉄道復旧後も戻らなかったこともあり、これ以上鉄道の存続が困難と判断する。沿線自治体や利用者からの存続要望はあったが[3]、労働組合との交渉も決着したため、1966年(昭和41年)9月30日限りで全廃となった[3]。
なお、当路線は改正鉄道敷設法別表の「八七、淡路國岩屋ヨリ洲本ヲ經テ福良ニ至ル鐡道」の一部をなしていた。1953年(昭和28年)には別表に須磨付近 - 岩屋付近と福良 - 鳴門付近の区間(いずれも「八六ノ二」)が追加され、本四ルートの一つ「本四淡路線」の一部となったが、具体化する前に当路線は廃止となった。本四淡路線はその後1973年(昭和48年)の本四架橋の基本計画で新幹線規格のみでの建設とされ、事実上四国新幹線に計画が吸収されている。新幹線の場合は性質上駅間距離が長いために淡路島内に駅が設置されないか、もしくは淡路島内に駅が設置される場合でも淡路鉄道のように駅が多くなく島内に数駅程度となる。
廃線跡は1980年代前半まで線路と橋脚が取りのぞかれた程度であったが、現在は大部分が道路となって整備されている。現在の淡路交通宇山車庫(バス)は当時は鉄道の車庫で、淡路交通の本社がある旧洲本バスターミナルは当時の洲本駅であった[3]。
廃線跡に沿っている路線バスは
淡路交通市内線(洲本港 - 洲本 - 宇山 - 県病前 - 先山 - 二本松[† 3])
同 長田線(洲本 - 二本松 - 広田 - 長田 - 掃守 - 湊)
同 市線[† 4](市 - 掃守 - 湊)
同 縦貫線(岩屋 - 洲本 - 広田 - 市 - 国衙 - 福良)
同 都志線(洲本高速バスセンター - 洲本 - 下加茂 - 都志)[† 5]
の太字部分にほぼ相当するが、市線、市内線は1990年代に廃止されている(宇山 - 県病前間は鉄道線とはルートが異なっていた)。また淡路交通縦貫線については洲本 - 広田 - 市間について峠を迂回していた鉄道線とはルートが異なる。
路線データ[編集]
廃線時点
路線距離:洲本 - 福良間:23.4km
軌間:1067mm
駅数:17(起終点駅含む。廃線までに廃止された山添駅のぞく)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V、1948年までは非電化)
閉塞方式:単線自動閉塞(当初はタブレット閉塞)
運行[編集]
特記のない時代は旅客輸送のみを記す。
1924年(大正13年)7月22日改正時
運行本数:9往復
所要時間:洲本口 - 賀集間58-62分
1934年(昭和9年)11月1日改正時
運行本数:16往復(気動車・汽車混用で終日おおむね1時間間隔)
所要時間:洲本 - 福良間54-84分
1955年(昭和30年)3月21日改正時[4]
定期普通旅客列車
運行本数:28往復。下り洲本発6時10分から21時40分まで、上り福良発5時から20時30分まで日中30分毎早朝深夜1時間毎
所要時間:洲本 - 福良間50分
編成:電動車1両、または電動車1両と制御車1両、あるいは電動車2両
不定期普通列車
設定本数:定期終列車後に2往復
不定期急行列車
設定本数:日中30分毎、下り29本、上り31本。そのうち1往復程度を鳴門の観潮客用に運転(時期によって変化する観潮に適した時間に運航される観潮船に連絡するように運転)。
所要時間:途中無停車で36分
貨物列車
設定本数:1往復。洲本発12時22分福良着13時44分、福良発15時洲本着16時18分
編成:モニ500にワフ1両
1965年(昭和40年)11月当時
運行本数:30往復(日中30分間隔)
所要時間:洲本 - 福良間47-55分
なお、廃止直前には減便を行い日中は1時間に1本の運転だった[5]
歴史[編集]
1911年(明治44年)12月 地方鉄道敷設免許申請
1912年(大正元年)10月25日 鉄道免許状下付(津名郡洲本町-三原郡福良町間)[6][† 6]
1914年(大正3年)
4月 淡路鉄道の会社設立総会
11月25日 起工式[7]
1922年(大正11年)
11月 機関車1両、客車6両、貨車6両購入
11月26日 洲本口(後、宇山[8])- 市村間で営業を開始[9][10]
1923年(大正12年)
4月 機関車2両購入
11月 客車7両、貨物4両購入
11月22日 市村 - 賀集間開業[11]
1925年(大正14年)
5月1日 洲本 - 洲本口間開業[12]
5月 一本松停留所を停車場に変更
6月1日 賀集 - 福良間開業[13]。全線開通。洲本大浜公園にて、全線開通式を挙行。
1926年(大正15年)10月 郵便物の輸送を開始
1927年(昭和2年)
3月5日 山添駅開業(納 - 淡路広田間。後に廃止)
4月 長田停留所を停車場に変更
1928年(昭和3年)9月 宇山に車両工場設置
1930年(昭和5年)11月先山停留所を停車場に変更。
1932年(昭和7年)
洲本 - 宇山間を除く全線の軌条を60ポンドに変更
5月 ガソリン気動車の使用開始
1933年(昭和8年)
2月18日 八幡駅を廃止し、御陵東駅開業
4月9日 納駅開業
1938年(昭和13年)
福良の海岸埋め立てにより路線延伸、福良駅を300m移設
7月 山添停留所廃止
1940年(昭和15年)12月淡鉄式鉄道用瓦斯発生炉完成
1943年(昭和18年)
6月 全淡自動車を合併
7月 社名を淡路交通と改称
11月 洲本駅を増改築
1944年(昭和19年)
8月 自凝島駅改築
11月 御陵東停留所を停車場に変更
1945年(昭和20年)7月福良駅一部焼失(客車2両全焼、1両半焼)
1946年(昭和21年)1月 洲本 - 岩屋間の鉄道建設申請書提出
1947年(昭和22年)1月15日 電化工事起工
1948年(昭和23年)
1月 南海電鉄より電動客車(電車)5両購入
2月11日 電車運転を開始
5月 キハ1号気動車を2006号電動客車に改造
9月 キハ6号気動車を2007号電動客車に改造
11月 電車モーター10台購入
1949年(昭和24年)
5月 洲本駅が電車バス総合駅として完成
11月キハ5号気動車を2008号電動客車に改造、宇山変電所新設
1950年(昭和25年)9月電動貨車購入(省払下)
1951年(昭和26年)
8月 国衙踏切にて、電車、バス衝突事故。死者2名、重軽傷者7名
9月 キハ2号を制御客車に変更
11月 掃守変電所廃止、市村変電所開始
12月 キハ4号を制御客車に変更
1952年(昭和27年)
6月 市村駅に発条転轍機設置
7月 主要踏切に自動踏切警報機を設置
1954年(昭和29年)
5月 賀集、掃守、広田駅に発条転轍機を設置
9月 単線自動信号機設置
12月 電動客車2008号垂直カルダン駆動に改造
1956年(昭和31年)
3月 南海電鉄より電動客車2両購入
11月 本社を宇山から洲本に新築移転
1960年(昭和35年)
7月 電化時から使用されていた木造電車置き換えのために、阪神電鉄から609号、610号電動客車2両購入
塩屋筋踏切自動踏切遮断機新設
1966年(昭和41年)
8月8日 地方鉄道廃止申請書を運輸省に提出
9月22日 廃線正式認可
9月30日 さよなら運転を実施。全線無料で開放した。また、蒸気機関車や電車の絵を刷り込んだ「鉄道廃線記念乗車券」5000枚を各駅に割り当て、無料配布した。なお、最終電車は洲本発午後3時20分(黒川光嘉運転士、中川啓彰車掌)福良発午後3時23分(野上春男運転士、河野源一車掌)。[14]
10月1日 全線廃止
駅一覧[編集]
各項目とも廃線時点のもの。全駅兵庫県に所在。
駅名 駅間キロ 営業キロ 所在地
洲本駅 すもと - 0.0 洲本市
寺町駅 てらまち 0.7 0.7
宇山駅 うやま 0.4 1.1
下加茂駅 しもがも 0.9 2.0
先山駅 せんざん 1.4 3.4
淡路二本松駅 あわじにほんまつ 1.4 4.8
納駅 おさめ 0.8 5.6
(山添駅)[† 1] やまぞえ 0.4 6.0 三原郡緑町
淡路広田駅 あわじひろた 1.0 7.0
淡路長田駅 あわじながた 3.4 10.4
掃守駅 かもり 2.5 12.9 三原郡三原町
自凝島駅 おのころじま 1.3 14.2
一本松駅 いっぽんまつ 1.5 15.7
市村駅 いちむら 1.4 17.1
神代駅 じんだい 1.5 18.6
賀集駅 かしゅう 1.2 19.8 三原郡南淡町
御陵東駅 ごりょうひがし 0.6 20.4
福良駅 ふくら 3.0 23.4
なお、下加茂、先山、納、長田、自凝島、神代、御陵東の各駅は乗車券販売を近隣の商店等に委託する、委託駅であった。
輸送実績[編集]
年度 1950年 1955年 1960年 1965年
旅客輸送密度(人/日) 2,178 2,562 3,370 4,960
地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報各年度版
車両[編集]
電化の際には、南海電気鉄道から木製の小型電車(モハニ1003など)を購入して投入した。その後は、気動車を改造した電車(モハニ2007など)や、垂直カルダン駆動方式を採用した電車(モハ2008)など、風変わりな車両も投入された。なお、保存車両はない。
[icon] この節の加筆が望まれています。
蒸気機関車[編集]
開業時から電化まで使用された。
1 - 1920年10月H.K.Porter製。1920年10月購入。最大寸法長さ6401×幅2127×高さ3404mm、運転整備重量13.38t、空車時9.45t、実用最高気圧11.95kg/cm、シリンダー228.6×355.6mm。煙突は煙害を考慮して高くしていた。1949年1月21日付けで廃車。神戸製鋼所に譲渡。
2 - 1922年3月O.Koppel製。1923年4月竣工。1928年3月7日には容量が少なく補給に時間がかかるなどの理由で水槽、石炭槽を拡大。14日にはスチームブレーキを搭載。最大寸法長さ6018×幅1970×高さ3633mm、運転整備重量13.82t、空車時10.97t、実用最高気圧12.37kg/cm、シリンダー248×400mm、1号機同様、煙突が高くされていた。1950年11月27日付けで廃車。他の機関車に比べ廃車が遅いのは、翌1950年に国鉄から電動貨車モヤ4003号がモニ500号として入線するまで、貨物を牽いていたからである。
3 - 2号機と同じ。
4 - 1914年3月H.K.Porter製の元長州鉄道1046、1926年鉄道省より2122円で払い下げを受ける。1927年9月30日竣工。煙突は先端が太くなるパイプ式、最大寸法長さ7210×幅2286×高さ3505mm、運転整備重量18.29t、空車時13.24t、実用最高気圧10.90kg/cm、シリンダー279×356mm、動輪径711mm。1949年1月21日廃車。
2および3は、購入が遅れて開業に間に合わず、瀬戸電気鉄道から1号機、阿波電気軌道から3号機をそれぞれ1923年(大正12年)1月まで借用していた。 2 - 4は廃車後しばらく宇山構内で留置されていたが、鉄材の価格が高騰するころに解体された。
客車[編集]
いずれも単車で、播州鉄道からの6両は営業開始時に、揖斐川電気からの7両は路線延長時の1923年(大正12年)にそれぞれ購入している。これらの出自はロハ1・2、ハフ5を除き南海が電化時に不用になった客車を放出したものである[15]。
ロハ1・2号 - 1918年5月梅鉢鉄工製 元は播州鉄道イロ6・7号。最大寸法長さ9768×幅2475×高さ3506mm。定員24人(うち特等室10人・並等14人)。自重7.01t。軸間3962mm。デッキつき(扉、鎖なし)。1926年ロ1・2号と変更。特等20人となる。1939年9月30日、ハ1・2号に再度変更。同時にロングシート化と共に扉設置、定員28人となる。1952年3月10日廃車。
ハ3・4号 - 1898年南海鉄道工場製。元は播州鉄道ロ3・4号。最大寸法長さ8193×幅2603×高さ3657mm。自重5.22t 定員24人(のち28人)。3号は1938年9月14日廃車。4号は1937年10月18日廃車。
ハフ5号 - 1902年山陽鉄道兵庫工場製。元は播州鉄道フハ73号。最大寸法長さ8193×幅2603×高さ3657mm。自重5.62t 定員29人。1949年12月10日廃車。
ハフ6号 - 1902年南海鉄道工場製。元は播州鉄道フハ80号。最大寸法長さ8193×幅2603×高さ3657mm。自重6.24t 定員34人。1940年ロングシート化吊革設置。定員40人の仕様となる。1949年12月31日廃車。その後自凝島駅近くの民家の庭に車体が置かれていた[16]
ハ7 - 11号 - 7号は1900年汽車会社製。8号は1903年日本車輌製。9号は1899年南海鉄道工場製。10号は1899年汽車会社製。11号は1900年汽車会社製。元揖斐川電気ハ29・37・38・32・33号。最大寸法長さ8193×幅2603×高さ3657mm。自重6.35t。定員50人。5ブロックごとの客室に分かれ、それぞれ両側に出入り口があった。1949年12月10日廃車。
ハフ12・13号 - 1899年南海鉄道工場製。元揖斐川電気フハ39・29号。最大寸法長さ8193×幅2603×高さ3657mm。自重6・71t。定員40人。5ブロックに分かれ、4ブロックが客室。1ブロックが車掌室。片側に5つの出入り口があった。うち、ハフ12号は1939年、中央部の2か所の出入り口を廃止し、ロングシート化の上、吊革を設置し、定員40名(うち座席25名)に改造。1949年12月10日廃車。
気動車[編集]
1931年(昭和6年)ごろから輸送力増強のためにガソリンカーが導入された。戦中は木炭で走る代燃車となり[† 7]、電化後はすべて電車となった。
キハニ1・2号 - 1931年川崎車両製。正面は非貫通3枚窓で、運転台に日よけの庇が設けられていた。二段窓(上段固定・下段上昇可能)。福良寄りに荷物室が設置。最大寸法長さ12840×高さ3500×幅2600mm。定員80名(座席32名)、自重14t、機関はアメリカブダ社製BA5型ガソリンエンジン(6気筒)1基=出力59.68kW(1800rpm)を搭載。1941年木炭ガス発生装置設置に伴い自重15.3t、最大長さ13260mmとなる。電化に伴い、1号は1948年、モハニ2006号、2号は1951年クハ111号に改造された。
キハニ3号 - 1931年日本車両製。正面非貫通2枚窓で、二段窓(上段固定・下段上昇可能)。福良寄りに荷物室が設置。屋根が深い。最大寸法長さ13120×高さ2640×幅3555mm。定員80名(座席36名)、自重15.5t、機関はウオーケッシャ6SRL型ガソリンエンジン(6気筒)1基=出力58kW(1500rpm)搭載。1942年木炭ガス発生装置設置に伴い自重16.00t、最大長さ13520mmとなる。さらに、機関をGMF13型90kWに取り換えたことで自重が17.30tとなる。電化に伴い、1956年、モハ2009号に改造された。
キハニ4号 - 1933年日本車両でキハニ3号の増備車両として作られる。仕様・改造は前者と同じ。電化後は1952年にクハ112号となる。
キハニ5号 - 1935年日本車両製。正面の下部分がV字の形となる。正面非貫通2枚窓。二段窓(上段固定・下段上昇可能)。福良寄りに荷物室が設置。最大寸法長さ15294×高さ2720×幅3880mm・自重18t・定員100人(座席42人)の大型な車体である。機関は日本車両製NSK120型ガソリンエンジン(6気筒)=出力90kW(1300rpm)搭載。1941年真っ先に木炭ガス発生装置設置されるが、運転台の反対側に付けられ車体長は変わらず、自重が18.9tとなる。さらに1942年、発生装置を車体外に移設し、車体長15900mm、自重19.3tとなる。電化後は1950年モハニ2008号に改造される。
キハニ6号 - 1937年日本車両で、キハニ5号の増備車両で車両として作られる。機関のみ日本車両製GMF13型ガソリンエンジン(6気筒)=出力90kW(1300rpm)であったが、他はキハニ5号と同じ。1942年木炭ガス発生装置設置、車体長15700mm、自重19.3tとなる。電化にともない、1948年モハニ2007に改造された。
電車[編集]
1948年(昭和23年)の電化により、南海電鉄の中古車を購入したのを皮切りに、気動車の改造や大手私鉄からの購入で増備され、木造車の鋼体化も進み、廃止時までの主力となった。車体色は始め茶色だったが、その後茶とクリームの2色となり、最後は下段水色、上段クリームの塗り分けとなった。モニ500は一時期、茶色に黄色の帯が入った塗装であった。
モハニ1000型 1001号 - 1907年日本車両製。もとは南海電1型3号(のちデホ30号)。1948年、当時運輸省が行った国電モハ63型の私鉄割り当てに対する中小私鉄への供出車として南海から淡路鉄道に譲渡されたものである。1931 - 33年の間に南海から加太電気鉄道に売却され一時デホ30と名乗っていたが、戦時中、加太電気鉄道が南海に吸収合併されて、再び南海籍になり、またしても淡路鉄道に渡るという流転の経歴を持っていた。正面3枚窓、ダブルルーフの木造車。最大寸法長さ15328×幅2640×高さ4007mm。定員100人(座席60人)。自重20.50t・電動機WH-101H50PS×2。ギア比1:493、制御機は東芝製直接式。台車は加藤ボールドウィン、パンタグラフは洲本寄りに設置。1953年制御車クハ101となる。
モハニ1000型 1002号 - 1909年東京天野工場製。元は南海電2型105号(のちクハ708号 さらにクハ1830号)、これも加太電気鉄道に移ってデホ31号となり、南海合併後は南海に戻り、1948年淡路鉄道に譲渡。正面5枚窓、ダブルルーフのタマゴ型木造車で、関西私鉄を中心に多く見られる形式であった。最大寸法長さ15990×幅2640×高さ3950mm。定員90人(座席60人)。自重23.0t。電動機WH-101H50PS×4、ギア比18:66、制御器ゼネラル・エレクトリック社K-38直接式、台車はブリル27GE1。福良寄りに手荷物室設置。パンタグラフは福良寄り。1954年、車体を鋼体化。電動機をTDK30型72PS×4とし、ギア比3:67、台車加藤製ボールドウイン、制御器RPC-101型総括式、最大寸法長さ15990×幅2520×高さ4120mm。定員100人(座席64人)自重26.0tとなる。さらに1958年ドアエンジン設置。1960年貫通化。1961年には電動機をMT4型85kW×4、台車はTR14となり、クハ112と組んで運行されていた。
モハニ1000型 1003号 - 製造、仕様は1002型と同じ、元南海電2型107号(のちクハ710号、さらにクハ1831号)、加太電気鉄道デホ32号。1948年1002号と共に譲渡。1956年、制御器をMK総括式に変更、AMJ自動ブレーキに取り換えるなどの小改造を行っている。1959年、台枠・屋根を解体、側溝・外板を鋼材にかえて半鋼製車に改造し、自重24.5t、定員90名(座席50名)となるが、正面5枚窓、ダブルルーフの丸みを帯びた古風な外観はそのままであった。1962年、電動機WH-558-J6型75kW×4、ギア比20:69、台車ブリル27MCB2に改造、自重28.50t、最大高4028mmとなり、末期は2009号と組んで運行されていた。
モハニ1000型 1004号 - 1921年川崎造船製。元南海電5型117号(のち105号、モハ525号、モユニ525号、モハ502号)。1948年淡路鉄道に譲渡。1002・1003号同様の正面5枚窓、ダブルルーフのタマゴ型4扉の木造車。最大寸法長さ15990×幅2640×高さ3950mm。定員90人、自重29.20t、制御器PC-5型、電動機WH-101H50ps×4。ギア比18:66。台車ブリル77E2。洲本寄りの扉に荷物室設置。客室との間は手摺りで仕切られていた。パンタグラフは福良寄り。1950年に台車をTR14に取り換え自重は32・2t、最大高6960mmとなる。さらに電動機を75ps×4とする。1961年廃車。
モハニ1000型 1005号(のちモハ1005号) - 製造年および仕様は1004号と同じ。元南海電5型118号(のちモハ106号、モハ526号、モユニ526号、モハ501号)。モハ1004号と共にセットで譲渡。ほどなく3扉となる。1961年に鋼体化され、1010,1011と似たようなスタイルの正面貫通式3枚窓、二段上昇窓となる。改造で荷物室は廃止されモハ1005号と改称、最大寸法長さ15990×幅2520×高さ4200mm、自重32.0t、定員90名(座席52名)、電動機はTDK30型53kW×2、ギア比19:65。台車は鋼体化前一時DT10、後にTR14となる。車内は片側のクロスシートとなったため、シートピッチの都合上、1010,1011とは異なり側面の窓は5枚となった。後年制御器をPC-12Aに交換。
モハニ2000型 2006号 - 旧ガソリンカーキハニ1号。1947年電車化。電動機TDK85PS×2。制御器東洋電機製DBI-K4型直接式。モーターは床下のシャフトを用いて動かしていた。集電装置はビューゲルだったが1948年の竣工に際しては、パンタグラフに改められた。1955年、台車をブリル27GEIに、電動機WH-10150ps×4(旧1002号のものを再利用)、制御器をPC-12A型総括式、制動器をAMJ自動ブレーキとし、片運転台化。1957年、洲本側を貫通化、制御器をMK総括式。1958年にはドアエンジンとした。総括式後はクハ111と組んで使用された。
モハニ2000型 2007号(のちモハ2007号) - 旧ガソリンカーキハニ6号。1948年電車化。電動機は2006号と同じTDK85PS×2。制御器は東洋電機製DBI-K4型。モーターは床下のシャフトを使用。1955年竣工時にはさらに、近鉄式軌条塗油装置が取り付けられていた。1956年には制御器をPC12型カム軸式、AMJ直通ブレーキとし、直角カルダン式の駆動装置が取り付けられた。このとき最大高4150mm、自重21.1tとなる。1958年、手荷物室を廃止して形式をモハに変更。乗務員扉を従来の運転台側のみから反対側にも設置され、ドアエンジン装備も行われた。1962年貫通化工事完成。のち電動機もTDK-516A×2であった。
モハニ2000型 2008号(のちモハ2008号) - 旧ガソリンカーキハ二5号。1950年電車化。制御器KR-8、電動機50PS×4、台車ブリル772E(旧1004号)、自重21.0t。1954年、運輸省の補助金を受けて駆動方式を垂直カルダンに改造したが、これは中小私鉄が当時最新式の駆動形式をとるという大英断であった。同時に台車はDT10に、電動機は神戸製鋼製TBQ-25,75PS×4に、制御器をRPC101型にそれぞれ改造し、自重26.2t、最大高4400mmとなる。1955年には台車を改造。台車枠と釣合梁を振動防止のためのゴムで挟むイコライザ止めで結び、軸受けをコロ軸にするなどの改良を行い、自重23.8t、最大高4320mmとなる。1958年、荷物室を撤去し、形式をモハに変更。乗務員扉を従来の運転台側のみから反対側にも設置して、貫通化、ドアエンジン装備を行い、自重24.0t、定員100人(座席42人)、最大高4270mmとなる。なお、路線廃止後も水間鉄道への譲渡待ちの1010,1011と共にしばらく宇山車庫で解体を免れ留置されていたが、結局解体されてしまった。
モハ2000型 2009号 - 旧ガソリンカーキハニ3号。旧ガソリンカーの中では一番遅く1956年電車化。モハニ1001号の電動機WH-101H 50ps×2を流用。制御器はPC総括式。電車化に際して手荷物室も撤去。最大寸法も長さ13120×幅2640×高さ4050mm、自重17.5t、定員90人(座席40人)となる。1958年ドアエンジン装備。晩年はモーターを撤去。パンタグラフを上げないで1003号と組んでいた。
モハ1000型 1010号 - 1011号とともに1956年、南海から譲渡。旧南海電8型132号で1924年梅鉢鉄工製。正面5枚窓ダブルルーフの木造車であった。120号、158号、705号と改番を重ね、淡路入線時は1025号であった。定員90名(座席56名)、自重31.50t、制御器日立PR-200=N5型総括式、台車はブリル27MCB2、電動機はGE-218B,52kW×4、ギア比22:65。1957年早くも昭和車両において半鋼体化。最大寸法長さ15900×幅2542×高さ4300mm、定員90人(座席52人)、自重33.0t、正面3枚窓貫通化というまとまった外見になる。1956年電磁直通ブレーキを装備、自重が33.2tとなる。廃線後、1011号とともに水間鉄道に譲渡。モハ362号となったが、南海電鉄より1201形の譲渡(水間鉄道ではモハ501形ほか)による車両置き換えに伴い、1971年ごろ廃車となった。
他の木造車も同じような鋼体車両に改造する予定もあったというが、結局このスタイルは1005に踏襲されたのみだった。
モハ1000型 1011号 - 1956年南海から譲渡。旧南海電5型120号で1921年川崎造船製。前述の1004・1005と同形式。108号、528号、718号、703号、1027号を経て淡路に入線。1957年、1010号とともに半鋼体化。以降は1010号や1005号と組んでいた。廃線後、1010号とともに唯一解体を免れ水間鉄道に譲渡。モハ363号となる。始め、淡路鉄道の塗装色であったが、1010号ともども茶色に改装。これまた1971年ごろまで使用されていた。
モハ600型 609号、610号 - 電化時に南海電鉄から貰い受けた木造車であったモハ1004、クハ101の編成を淘汰するために、1961年に阪神電鉄から1924年藤永田造船所製609号、610号2両をもらい受け、台車や部品を自社工場で調達して走らせた。最大寸法長さ14270×幅2600×高さ3944。なお、両車とも、淡路交通の在来車より車幅が狭いため、ホームとの隙間を減らすためにステップを設置していた。609号は旧1002号の台車加藤製ボールドウィン、610号はクハ101のブリル27GE1を流用、電動機はTDK30型53kW×2を、制御器はゼネラル・エレクトリック社PC-5型をそれぞれ2両とも使用したが、制動器は阪神時代のままAMAだったので、他車とは連結できなかった。正面5枚窓貫通式の独特の前面を持ち阪神時代の面影を強く残していた。なお、初めはモハ1012・クハ103号にする予定で(のち両車とも電動車化して1013号に変更)あったが、既に4か所も釘抜き番号が装備されていたことから、あえて改番にも及ばないとして変更しなかった。
クハ100型 101号 - 元はモハニ1001号、1953年クハとなる。最大寸法長さ15328×幅2640×高さ3550mm。自重19t、定員100人(座席65人)。1961年廃車。
クハ110型 111号 - 元キハニ2号、1952年クハとなる。福良側運転台撤去により定員が90人(座席36人)に増加、自重13.0tとなる。さらに1957年、手荷物室撤去、福良側の貫通幌設置、運転室の拡大、乗務員扉増設などの改良を行い、2006号と組んでいた。
クハ110型 112号 - 元キハニ4号、1952年にキハニ2号と共にクハ化され、福良側運転台撤去、定員100人(座席43人)、自重14.5tとなる。1959年運転室拡大、両側の貫通化。乗務員扉設置による改造で定員100人(座席40人)となった。1002号と組んでいた。
モニ500号 - 旧国鉄モヤ4003号。1919年日本車両製木造の無蓋電動貨車(1920年製の説もあり)。貨車牽引のため残されていた蒸気機関車の代替として、1950年払い下げを受ける。600V用に改造、また連結器を連環式に改造し路線廃止まで使用していた。最大寸法長さ15900×高さ2744×幅4200mm。自重10t。1952年鋼体化され、最大寸法15900×2700×4200mm、自重30tとなる。主として保線作業や貨車牽引、廃線時には資材撤去作業に従事した。
施設[編集]
電化時には掃守変電所(電動発電機300kW、200kW各1函館市交通局より譲受[17])を新設。1949年宇山変電所(電動発電機200kW2台)を新設。1951年市村変電所(水銀整流器300kW)を新設し掃守変電所を廃止。1957年に宇山変電所に回転変流器750kW2台を新設し電動発電機を市村発電所に移設し予備とした[18]。
その他[編集]
他と全くつながりを持たない鉄道であったためか、戦後も連環式連結器を保有していた。このため、名古屋鉄道(名鉄)が12号機関車や蒸気動車キハ6401を保存する際に、当路線で保管されていた連結器を譲り受け復元にこぎ着けたという逸話がある[19]。
ABCアーカイブから、営業当時の走行風景を映した映像がビデオ化され発売されている。各駅や車内の様子も収められており、大変貴重な資料である。→甦る淡路交通と播磨の鉄道
2014年に死去した鉄道愛好家・原信太郎の自宅に残された映像記録をデジタル復元する中で、1965年2月に撮影された淡路鉄道の16mmフィルムが発見され、2015年3月に横浜市の原鉄道模型博物館で特別に上映された[20]。映像の一部はこれを報じた神戸新聞により、YouTube上にニュース映像として公開されている[1]。
淡路島を舞台とした和田浩治主演の映画『くたばれ愚連隊』(日活、1960年)内には、淡路鉄道の走行シーンがカラーで収録されている。これは、日活の映画撮影に淡路交通が協力したためで、他にも創業者賀集新九郎の屋敷がロケに使われている。
廃線後の状況[編集]
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洲本駅はかつての洲本バスターミナル(現在は淡路交通本社としてのみの使用)にあたる。また、バスターミナル西側にあるガソリンスタンドは「洲本駅前給油所」という名前で、駅が存在した当時を偲ばせる。また、付近の電柱の管理番号の地名には「駅前」または、「エキマエ」と書かれているものが多数ある。
宇山駅は現在の淡路交通バスの車庫になっている(宇山車庫・宇山第2車庫)。
淡路二本松駅跡の道路交差点名は駅名と同じ「二本松」である。ただしバス停の二本松は少し南に離れた旧国道側にある。
下加茂駅跡(下加茂バス停)にプラットフォームが最近[いつ?]まで残っていたが県道工事により撤去された。
納駅から広田駅にかけての旧緑町内の区間の一部の廃線跡は道路に転用されず、そのままあぜ道や、築堤として残っている。
福良駅は現在の福良バスターミナルにあたる。廃止後も長らく旧ホームがバス乗り場として使われたが、老朽化により、現在の建物に建て替えられた。
洲本 - 福良間の線路跡をたどって行くと河川や、用水路を跨ぐ部分に石造りの橋脚跡が複数見られる。一部は上に木の板や、コンクリートを載せられ現在も歩行者のみの橋として利用されている。
1992年には先山駅で下内膳遺跡の発掘調査が行われた[21]
二本松、長田、一本松、賀集など、道路となった駅跡は交差点に転用された場所も多く、今でもその部分は道路幅が広い。
脚注[編集]
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出典[編集]
^ 江本 (1960) による。標高は施工基準面
^ a b c d [『淡路島みなとの歴史』(2014年5月 兵庫県港湾協会)]
^ a b c “島に列車走った44年間”. 読売新聞兵庫版. (2014年1月6日). オリジナルの2014年2月1日時点によるアーカイブ。 2015年12月10日閲覧。
^ 江本 (1960) による
^ 鉄道ファンNo.457"島の鉄道 淡路交通回想"より
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1912年10月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 江本 (1960) では1914年6月
^ 1925年7月1日「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年7月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年12月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 江本 (1960) では1922年11月21日
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年11月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始並営業哩程変更」『官報』1925年5月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年6月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 神戸新聞1966年9月30日付
^ 澤内一晃「南海の二軸客車」『鉄道ピクトリアル』No.835
^ 1998年時点「島の鉄道 淡路交通回想」III」、101頁
^ 中川浩一「私鉄高速電車発達史」『鉄道ピクトリアル』No.218、40頁
^ 藤井信夫「淡路交通」『鉄道ピクトリアル』No.262、64-65頁
^ 橋本英樹・近藤是・白井昭「12号蒸気機関車 (PDF) 」(中部産業遺産研究会シンポジウム資料、2004年)P8。
^ 淡路鉄道の映像上映 勇姿再び 横浜の博物館 - 神戸新聞NEXT2015年3月6日
^ 下内膳遺跡
注記[編集]
^ a b 山添駅は廃線までに廃止されている
^ 第二次世界大戦終結まではこのほかに沖縄県(沖縄本島など。また南大東島のもの(地方鉄道法や軌道法によらず、通常の鉄道営業には含まれない専用鉄道)は戦後も1983年(昭和58年)まで運行。通常の粘着走行方式外では、2003年に開業した沖縄都市モノレール線がある。→沖縄県の鉄道を参照)、そして外地と呼ばれた太平洋戦争前の日本領である台湾・樺太がある。
^ 先山 - 二本松区間廃止時は先山 - 二本松は桑間交差点経由で運行されていたためルートは異なる。県病前 - 先山も市内線路線廃止前に区間廃止されている。
^ 「西淡・湊・市線」とはルートは異なる。
^ 2006年(平成18年)10月1日以降、下加茂は2013年4月30日まで県病前
^ 官報では福良町について「同縣同郡福良町」と記載されているが、当時の福良町は津名郡ではなく三原郡である。なお『鉄道省文書』収録の官報掲載案では当該箇所に二重線が引かれ三原郡に訂正されている(No1「軽便鉄道敷設の件」3頁『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便・淡路鉄道・大正元年 - 大正五年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可))
^ 木炭自動車が多用されたのと同様の理由による。最初に改造されたのはキハニ5号であるが、特に勾配区間での出力低下が著しく、23.4km全線をガソリン燃料車なら40分30秒で走れるところ、木炭車は46分30秒を要したという。 湯口徹 『内燃動車発達史(下巻)』 ネコ・パブリッシング、2005年7月30日 発行、p251。ISBN 4-7770-5118-8。
参考文献[編集]
荒井文治・高橋弘ほか. “島の鉄道 淡路交通回想 I - III”. 鉄道ファン Nos. 456-458 (1999年4月号-6月号).
淡路交通株式会社 "三十五年の歩み"
江本広一 (1960). “淡路交通”. 鉄道ピクトリアル (1960年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり1): pp. 61-65, 84-85.(再録:『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道史資料保存会(1986年覆刻)、東京(覆刻は大阪)、1937年、p. 394。ISBN 4-88540-048-1。
和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺2頁。
関連項目[編集]
千葉宮次郎 - 政治家、実業家。淡路鉄道取締役。
佐渡鉄道 - 佐渡島に計画された鉄道路線。
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