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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
仙北鉄道
JR東日本瀬峰駅の東側に立つ「仙北鉄道瀬峰駅跡」碑
JR東日本瀬峰駅の東側に立つ
「仙北鉄道瀬峰駅跡」碑
概要
現況 廃止
駅数 登米線:14駅
築館線:6駅
(両線とも瀬峰駅含む)
路線 登米線:瀬峰駅 - 登米駅
築館線:瀬峰駅 - 築館駅
運営
開業 登米線:1921年7月5日
築館線:1923年7月22日
廃止 登米線:1968年3月25日
築館線:1950年3月1日
所有者 仙北鉄道→宮城バス
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
軌間 762 mm (2 ft 6 in)
最小曲線半径 201.2 m (660 ft)
運行速度 最高45 km/h (28 mph)
最急勾配 10 ‰
テンプレートを表示
[隠す]停車場・施設・接続路線[1]
凡例
exKBHFa
12.6 築館
exWBRÜCKE
萩沢川橋梁
exBHF
9.3 玉荻
exBHF
6.2 太沢
exTUNNEL1
葉ノ木山隧道 243m
exBHF
新生園前
exBHF
1.5 藤里
STRrg xKRZu
東北本線
0.0 瀬峰
STR3 exSTR
exBHF
2.7 沼崎下
exBHF
4.5 西郷
exBHF
7.5 高石
exBHF
10.0 板倉
exBHF
12.5 佐沼
exBHF
13.8 東佐沼
exBHF
16.7 石森
exBHF
19.2 上沼
exBHF
20.9 浅水
exABZl+l exKBHFr
22.6 米谷
exBHF
24.4 小島
exBHF
26.4 浅部
exKBHFe
28.6 登米
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仙北鉄道
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仙北鉄道(せんぽくてつどう)は、かつて宮城県栗原郡瀬峰町(現・栗原市)の瀬峰駅と同県登米郡登米町(現・登米市)の登米駅、瀬峰駅と栗原郡築館町(現・栗原市)の築館駅を結んでいた、2つの路線からなる軽便鉄道である。1968年に全線が廃止された。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 会社組織
1.1.1 本社
1.1.2 鉄道
1.1.3 バス
1.1.4 その他
1.2 路線データ
1.2.1 登米線
1.2.2 築館線
2 歴史
3 駅一覧
3.1 登米線
3.2 築館線
3.3 接続路線
4 車両
4.1 蒸気機関車
4.2 ディーゼル機関車
4.3 気動車
4.4 客車
4.5 貨車
4.6 その他
4.7 車両数の変遷
5 関連会社
5.1 その他
6 出典
7 参考文献
8 関連項目
概要[ソースを編集]
栗原郡の中心である築館町および登米郡の中心である佐沼町(現・登米市)と近郊都邑を、東北本線と連絡して米などの農産物輸送および旅客輸送を図る目的で、1921年に開業した。
当初蒸気動力であり、1930年頃に軌間の762mmから1067mmへの改軌と電化なども検討されたが実現せず、気動車(ガソリンカー)の導入を経て戦後はディーゼル動力化され、最後まで非電化であった。
戦時中には、宮城県東北部における交通統合の主体となる。これにより広大な営業エリアのバス事業者となった。後に、塩釜交通、古川交通[2]、仙台鉄道の3社を系列に収めている。3社は合併し宮城バス(初代)となった。
鉄道末期の1964年には、その宮城バス(初代)を吸収合併し、宮城バス(2代)に改名、同時に本社を瀬峰町から仙台市に移転する。瀬峰町には鉄道管理所が設置されて、鉄道線名については「宮城バス仙北鉄道線」と称した。この名称から仙北鉄道が宮城バスに吸収されたように見えるが、誤りである。
当時の仙北鉄道は宮城県最大のバス路線網を持つ会社に発展していたものの、鉄道の経営状態はピークを過ぎていたため、将来バス専業会社に移行することを見越しての合併であった。鉄道線廃止時点でも、その採算自体はまだ危機的状況にまでは至っていなかった。将来の設備更新費用等を勘案すればバス化する方が輸送力増強・合理化の面から得策とした、長期的経営判断によるものであった。
会社組織[ソースを編集]
事業所及び住居表示は1970年9月時点のもの(鉄道は1968年)
本社[ソースを編集]
本社、営業部、仙台貸切営業所、不動産部 宮城県仙台市中央一丁目6-31[3]
(子会社)宮城サービス、東北観光[4]
鉄道[ソースを編集]
鉄道管理所 宮城県栗原郡瀬峰町下田70-2
バス[ソースを編集]
仙台地区管理所・仙台営業所 宮城県仙台市昭和町3-33[5]
塩釜営業所[6]、松島営業所[7]、吉岡営業所[8]
石巻地区管理所・石巻営業所 宮城県石巻市新東中里114[9]
石巻案内所[10]、飯野川営業所、女川営業所[11]
気仙沼地区管理所・気仙沼営業所 宮城県気仙沼市弁天町二丁目2-3[12]
気仙沼案内所[13]、津谷営業所、志津川営業所
佐沼地区管理所・佐沼営業所 宮城県登米郡迫町佐沼字天神前45-2[14]
柳津営業所、築館営業所[15]
古川地区管理所・古川営業所 宮城県古川市大柿字的場138[16]
涌谷営業所、中新田営業所
その他[ソースを編集]
気仙沼ハイヤー営業所、仙台貨物営業所、築館貨物営業所、東京事務所
路線データ[ソースを編集]
廃止時点のもの
登米線[ソースを編集]
路線距離(営業キロ):28.6km
軌間:762mm
駅数:14駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:票券閉塞式
なお、全線開業後の1924年(大正13年)に米谷浅水駅(後の米谷駅)から、志津川にいたる路線を重役会において審議決定し、運輸局に申請したが、1925年(大正14年)に不許可となり、路線延長はならなかった。
廃止後、路盤の多くが宮城バスの専用道路となったが、維持費用の負担が重荷となり現在はすべて自治体に移管されている。代替バス路線は1970年に宮城交通登米線となり、国鉄民営化の数年後まで連絡運輸を行っていた。1995年には分離子会社の宮交登米バスとなったが、新田・佐沼 - 仙台の高速バス(特急仙台 - 佐沼線)開業による利用率減少で2005年10月1日廃止、登米市民バス(ミヤコーバス受託)に引き継がれた。
築館線[ソースを編集]
路線距離(営業キロ):12.56km
軌間:762mm
駅数:6駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
1923年(大正12年)、築館線の開通や栗原軌道の開業に影響された一迫町の有志による、築館線延長計画が持ち上がった。仙北鉄道は築館駅から花山村に至る路線延長を決定し、1924年(大正13年)6月7日に鉄道敷設認可を総理大臣に申請した。計画では築館 - 一迫町(真坂) - 川口 - 花山というルートだった。登米線志津川延長と同じく1925年(大正14年)3月に申請は不許可となり、路線延長計画は断念した。その後、路線権は地元有志に譲渡され「迫鉄道」として会社設立までしたが、結局建設には至らず、会社解散となり路線延長は完全に消え去った。
途中の新生園前 - 太沢間にあった葉ノ木山隧道 (北緯38度40分55秒東経141度3分31秒) は、日本の軽便鉄道では珍しく長いトンネルで、レンガ造りで全長は243mに達した。難工事であったという(なお、このトンネルは2012年現在でも遺構として残存しているが、一部が崩落し、内部の路盤も水没している)。
廃止後は路盤の多くが所々に離合所を設けた幅4mの専用道路となり、バスやトラック(定期運行)が運行されていた。瀬峰駅ではプラットホームや腕木式信号機もそのまま使用されており(バスの出入り口がホームと反対になった場合には乗客は一旦地面に降りてからホームへ登る)、築館駅でも駅本屋が残されて出改札・待合所として使用されていたほか、初期には葉ノ木山隧道にもバスが通っていた。なお、現在までにすべて自治体に移管されたり消滅したりしている。
鉄道廃止後の代替輸送は仙北鉄道バスに始まり、宮城バス、宮城交通を経て、宮交栗原バスの玉沢線として、その後の会社の系譜に沿って運行されてきたが、2006年9月30日に赤字路線整理のために廃止された。廃止後は栗原市民バス(グリーン観光バス委託)に引き継がれ、鉄道開業以降続いてきた宮城交通関連会社から完全に離れることになった。
歴史[ソースを編集]
1918年(大正7年)12月17日 登米軽便鉄道に対し登米線、瀬峰 - 登米間免許[17]
1919年(大正8年)3月31日 仙北鉄道設立(社長 荒井泰治)[18][19]
1919年(大正8年)4月1日 登米線着工
鉄道には地元民から大きな期待がかけられており、地元から建設工事への協力や援助が多くあったほか、工事に楽隊が参加したり、工事の組ごとに一斗樽の景品付きの競争を取り入れたりと和やかな雰囲気で進行した。
1919年(大正8年)9月1日 築館線、築館 - 瀬峰間免許[20]
1919年(大正8年)12月17日 登米線工事認可
1921年(大正10年)7月5日 登米線、瀬峰 - 佐沼間開通[21]
1921年(大正10年)10月5日 登米線、佐沼 - 登米間開通[22]
1921年(大正10年)10月10日 - 12日 登米線開通式および開通祝賀会開催
開業式は10月10日から12日まで3日間ぶっ続けで行われ、山車がねり歩き、数百発の打ち上げ花火が上げられるほどであったという。なお、このときに地元の有力者から吉野桜の苗木が多数寄付され、各駅に植えられた。
1922年(大正11年)7月6日 西郷駅新設[23]
1923年(大正12年)7月22日 築館線、瀬峰 - 築館間開通[24]
1925年(大正14年)9月25日 築館 - 金田村間免許[25]
1928年(昭和3年)4月19日 築館 - 金田村間免許を迫鉄道へ譲渡[26](1931年9月16日失効)
1929年(昭和4年)11月3日 乗合自動車営業開始(佐沼 - 登米)
1934年(昭和9年)5月17日 ガソリン動力併用認可。(7月6日実施)[19]以後気動車の導入と駅の新設が進む。
1934年(昭和9年)7月6日 沼崎下、板倉、浅部駅新設
1941年(昭和16年)9月1日 新生園前駅新設
1944年(昭和19年)10月31日 三陸自動車と合併
1945年(昭和20年)6月4日 金華山自動車、千葉自動車、松山人車軌道、大宮司自動車、千田自動車を吸収合併
1947年(昭和22年)7月1日 米谷浅水駅を米谷駅、水越駅を浅水駅に改称
1947年(昭和22年)9月16日 カスリーン台風により佐沼 - 登米間・築館 - 太沢間で11日間不通
1948年(昭和23年)9月17日 アイオン台風被害により築館線不通(のち瀬峰 - 大沢間復旧)。
1949年(昭和24年)7月1日 塩釜交通営業開始(出資企業)
1949年(昭和24年)10月10日 9月1日のキティ台風の襲来により築館線復旧断念、築館線休止、バスによる代行輸送[27]。
1950年(昭和25年)3月1日 築館線廃止、バス転換
1950年(昭和25年)10月1日 東佐沼駅新設
1953年(昭和28年)6月24日 仙北石油設立(出資企業)
1954年(昭和29年)9月18日 バス気仙沼営業所落成(現在のミヤコーバス気仙沼案内所)
1956年(昭和31年)4月16日 小島駅新設
1957年(昭和32年)7月14日 バス飯野川営業所落成(後のミヤコーバス飯野川駐在所、現在廃止)
1960年(昭和35年)5月1日 仙台鉄道に経営参加
1964年(昭和39年)4月14日 社名を宮城バスに改称
1968年(昭和43年)3月25日 登米線廃止、バス転換
1970年(昭和45年)10月1日 仙南交通、宮城中央バスと合併、宮城交通(初代)発足
駅一覧[ソースを編集]
登米線[ソースを編集]
旧登米駅舎(2007年4月)
1968年頃
瀬峰 - 沼崎下 - 西郷 - 高石 - 板倉 - 佐沼 - 東佐沼 - 石森 - 上沼 - 浅水 - 米谷 - 小島 - 浅部 - 登米
瀬峰は東北本線瀬峰駅の東側にあり、東北本線の駅と跨線橋でつながった島式の旅客ホーム1本と、東北本線との間に貨物上屋付きの貨物ホーム1本があった。また、構内には車庫を併設しており、DL庫(2線)、気動車庫(2線)ともう1棟(2線)の車庫や数棟の管理棟や倉庫が建っており、小型のターンテーブルなどもあった。築館線廃止後のバスも旅客ホームから発着しており、バスが走行する部分は尾小屋鉄道小松駅のようにレールの間を板敷きにしていた[28]。
沼崎下はホーム1本と間口2間程度の木造の待合室があるだけの小駅。
西郷はホーム1本と間口3間程度の木造の待合室のほかに、機回し線と数棟ある農業倉庫用の引き込み線が1本あった。
高石は交換設備のある駅で、相対式にホーム2本にそれぞれ駅本屋と待合室があるほか、駅本屋側のホームに貨物用の側線・ホーム・貨物上屋があった。
高石、上沼というバス停があるが、関連施設は現存していない。
板倉はホーム1本と間口2間程度の木造の待合室があるだけの小駅。廃線後待合室が移築されてバス停の待合室に転用された。
上沼は高石と似た交換設備のある駅で、相対式にホーム2本にそれぞれ駅本屋と待合室があるほか、駅本屋側のホームを切り欠く形で貨物用の側線・ホーム・貨物上屋があった。
佐沼はミヤコーバス佐沼営業所となる。駅舎は廃止後もバスターミナルとして残っていたが、1978年6月の宮城県沖地震で倒壊してしまう。その後、プレハブ造りのバスターミナルが設置されたほか、周辺も区画整理されたため、痕跡はほとんど残っていない。
石森は、漫画家石ノ森章太郎の出身地である。
米谷はスイッチバック構造で、駅本屋のあるホーム1本と短いホームのある機回し線、側線が2本と貨物ホーム・貨物上屋があった。廃線後に駅本屋が移築され、民家に転用された。建設時には長谷山(北緯38度42分6秒東経141度16分57秒)にトンネルを掘って抜けた北上川岸にスイッチバック式の駅を設置する案やスイッチバックとせずにカーブで通り抜ける案が検討されていたが、最終的には米谷市街から川を渡って500mほどの位置に盛土をしてスイッチバック式の駅を設けることとなった。
小島の待合室は廃線後バス停の待合室に転用された。
登米は、駅本屋のあるホーム1本と短いホームのある機回し線、貨物側線や貨物上屋、倉庫数棟があったほか、車庫が併設されており、3線の車庫棟や小型のターンテーブルなどがあった。廃線後も(一部は道路拡張に伴って解体されたものの)駅本屋駅舎が残りミヤコーバス登米駐在所となって、仙北鉄道の資料等も展示されていた。しかし、老朽化のため2007年12月17日より駅舎が解体され[29]、跡地にツルハドラッグ宮城登米店が建てられた。開業時には本社や機関庫、客車庫もあったが、1924年に瀬峰に移転している(一説には登米の水が機関車のボイラーに合わなかったためといわれている)。
末期の有人駅は瀬峰、高石、佐沼、石森、上沼、米谷、登米の各駅で、その他は無人駅(停留所)だった。
築館線[ソースを編集]
1946年頃
瀬峰 - 藤里 - 新生園前 - 太沢 - 玉荻 - 築館
藤里駅跡には仙北鉄道藤里停留所跡の碑がある(他にも築館線跡の碑がある)。
太沢には貨物側線や線路班の施設があり、バス専用道となった後も道路保守の基地とされていたほか、ホーム、駅舎も残り待合室もそのまま使用されていた。廃線後に駅本屋や線路班詰所が民家に転用された。
築館駅跡は、ミヤコーバス築館営業所となった。
接続路線[ソースを編集]
事業者名等は廃止時点のもの。瀬峰線・築館線共通。
瀬峰駅:国鉄東北本線
車両[ソースを編集]
蒸気動力で開業したが、1934年からは旅客輸送にガソリンカーを導入。戦後はガソリンカーのディーゼル化と共に、ディーゼル機関車の導入を早くから進め、1953年に蒸気機関車を追放する無煙化と完全ディーゼル化を終えている。先進的かつ意欲的な措置であった。
蒸気機関車[ソースを編集]
C131, 132
C形、タンク式、1919年製。アメリカのポーター製機関車で建設工事から使用されていた13t機。元の番号は1, 2で価格はそれぞれ24,101.63円と24,097.37円。自重13.00t、軸距6'4"、シリンダ9×14"、動輪直径2'6"。入線後まもなくサイドタンクを前方へ延長、背面に炭庫を追加。廃車は1952年。
C133
C形、タンク式、1920年製。アメリカのポーター製機関車で開業に合わせて増備された11t機(価格23,710.96円)。元の番号は3。自重12.12t、軸距5'6"、シリンダ8×14"、動輪直径2'0"。C136と入替わりで1946年に廃車、日本硫黄沼尻鉄道部に譲渡されC121となり、その後1953年に廃車、DC122のベースとなった。
C134, 135
C形、タンク式、1923年製。アメリカのポーター製機関車で築館線開業に合わせて増備された13t機で、C131, 132とほぼ同型、主要寸法も同一であるが価格は19,304.98円とだいぶ安くなった。元の番号は4, 5。C135のみ1940年に岩崎レールで弁装置をスチンブンソン式からワルシャート式に改造している。仙北のポーター機はキャブが鉄と木を併用したものであったが、C135は鉄製キャブに改造された写真も残っている。廃車は1953年。
C156
C形、タンク式、1945年製。立山重工業製の15t機で、尾小屋鉄道3, 5と同系列の機関車である。戦時中の燃料不足に伴い1942年申請、1943年認可となった機関車であるが、鋼材の不足により完成が遅れた。廃車は1953年で、足回りをDC102に流用した。
C157
C形、タンク式、1930年製。雨宮製作所製機関車の15t機で、もと釜石製鉄所の152号機だったものを1947年に購入。外観は同じ雨宮製作所製の武利森林鉄道21号(C形11t機)などと同じ系統のもので、自重15.24t、軸距1800mm、シリンダ260×360mm、使用圧力12.4kg/cm2。なお、この機関車が立山重工業のC形15t機シリーズのベースとなったため、C156と同系列ともいえる。廃車は1951年。
C158
C形、タンク式、C157と同時に釜石製鉄所から購入した15tのアウトサイドフレーム機で、釜石製鉄所の古老の話によれば仙北に譲渡した2両のうちの1両はドイツのハノーバー(ハノマーグ)製だったとのことであるが、仙北の記録では1932年雨宮製作所製で釜石製鉄所での旧番は4118となっており、しかも釜石製鉄所には4118という機関車は存在しないため、詳細は不明。廃車は1951年。なお、釜石鉱山鉄道にもC形15t、アウトサイドフレームのハノマーグ製機関車11-15号が存在していた。
のべ8両が在籍。アメリカのポーター社製機関車が5両を占めた。開業時に投入されたものと、戦中・戦後の燃料不足時に投入されたものに大別できる。番号は1941年に気動車・客車と同時に改番された。
ディーゼル機関車[ソースを編集]
1950年以降の気動車のディーゼル化が良好な成績を収めたため、貨物列車牽引もディーゼル化することとなり、3両のディーゼル機関車が増備された。いずれも福島県の協三工業製である。客貨両用で運用され、仙北鉄道は急な勾配がないこともあり10両以上の編成の貨物列車も走っていた。
DB071型
機械式4段変速、2軸ロッド式、1951年製。仙北鉄道初のディーゼル機関車で、自重7t、L形の小形機。1953年に改造を施され、軸距の延長(1200mmを1700mmに)とキャブの拡張を行っている。エンジンは直列6気筒、排気量10.5Lの「日野DA55」(定格85PS/1200rpm、最大115PS/1800rpm)で全負荷時牽引力185t/31.8km/h。
DC102型
機械式4段変速、3軸ロッド式、1952年製。下回りにC156蒸気機関車の部品を流用したセミセンターキャブの10t機である。エンジンはDB071同様の日野DA55で、全負荷時牽引力222t/33.1km/h。
DC103型
機械式5段変速、3軸ロッド式、1953年製で価格は354万円。DC102と同じくセミセンターキャブの10t機であるが外観はスマートなものとなった。機関は「日野DA55S」(85PS)[30]で、試運転では10‰の勾配で72tを16km/hで牽引した。
機関車のうち、DC103は1968年3月の廃線後に磐梯急行電鉄(沼尻鉄道)に譲渡されて営業運転に充てられたが、譲渡されてすぐの1968年10月には磐梯急行電鉄線が営業休止、翌年廃止となったため、廃車されている。
気動車[ソースを編集]
大正中期のバスやトラックの普及による輸送量の減少に対応するため、1933年10月に役員が十和田鉄道(現・十和田観光電鉄)の導入したガソリンカーの視察を行い、同年11月28日には3両のガソリンカーの購入を決定している。
ガソリンカーは1934年以後増備を重ね、旅客輸送の中心となっていった。気動車はいずれも機械式変速機(4段変速)装備。戦前には半鋼製ガソリンカーを5両投入したが、戦時中の燃料入手難によりキハ2401 - 2404は1948年以降、順次木炭ガス発生装置を搭載して代燃車となり、さらにキハ2404、2405は一時客車化された。
戦後は各車が動力車として復活したが、キハ403は再度客車化されている。その他のボギー車は1953年までにディーゼル機関に載せ替えられたほか、1955年には大型車のキハ2406を増備した。
キハ403を除き、通常、客車を牽引して走ることが多く、ラッシュ時には気動車2両、客車4両の6両の長大編成も走っていた(気動車を先頭と中間、もしくは両端に連結する。なお、中途で換装したディーゼルエンジンの一部は、自社で使用したバスの中古エンジンが流用されたという。
以下項目でのエンジン排気量は概算。出力は特に定格と記した場合を除きグロス最大値。
キハ2401, 2402
定員60人(座席30人)、全長10.6m、車体幅2.0m、自重10.3tの2軸ボギー車。1934年日本車輌製造東京支店製(価格12,900円)で同メーカーの栃尾鉄道キ7や十和田鉄道キハ103とは類似形式。当初キハ1, 2と称した。
車体は前面2枚窓、側面は窓扉配置1D7D1、両端に鋼板製の荷物台を備えるのが特徴で、この荷台の側面にはドアも付いている。
エンジンはアメリカ製の大型汎用ガソリンエンジン「ブダH298」(直列6気筒5.2L、38HP/1000rpm、80.5HP/2800rpm)であった。1948年3月に代燃化されたが、認可上では1951年にガソリンに戻っている。戦後2401は1951年、2402は1953年にディーゼル化され、大型トラック用の「いすゞDA45」(直列6気筒5.1L、55PS/1400rpm、最大90PS/2600rpm)となったが、さらに2402は「いすゞDA120P」(直列6気筒6.1L、75PS/1400rpm、最大125PS/2600rpm)に載替えられた。
台車は鋼材組立の菱枠式であり、うち動力台車は駆動軸の粘着力増加のため心皿中心をずらした「偏心式」である。当初は手ブレーキのみであったが、戦後の1956年と1957年に空気ブレーキを追加している。
キハ403
定員30人(座席18人)、全長6.6m(荷台なし)、車体幅2.0m、自重5.5t、片側1扉の4輪単車で河西鉄道キハ1と同シリーズ。1934年日本車輌東京支店製(価格7,000円)。当初キハ3と称した築館線用の小型レールカー。
車体は正面2枚窓、側面は窓扉配置5D1、のち車体両端に荷台を取り付けた。
エンジンは自動車用の「フォードB」(直列4気筒3.4L 39HP/1500rpm)、変速機は同じく自動車用の「フォードBB」で機関台枠は両軸支え式、機関の排気管を客室座席下に通して暖房としている。一旦代燃化されたが、再度ガソリン化されている。
戦後にキハ403と改番されたが、小型のためディーゼル化されず、1956年にエンジンを降ろして客車化されハフ403形となった。
キハ2404
定員70人(座席36人)、全長10.9m(荷台無し)・11.6m(荷台付)、車体幅2.0m、自重10.8tの2軸ボギー車。1935年日本車輛東京支店製。当初キハ4と称した。キハ1, 2に次いで増備された大型車(窓2個分車体を延長)。
前面は2枚窓、側面は窓扉配置が1D8D2で、車内の運転席横に手荷物置き場を確保する目的から、車体左右で扉位置が窓1個分ずつ食い違っているのが特徴である。当初は荷台なしで、仙北独自の自転車釣り装置を取付けていた(のちにキハ403, 2405にも取付)が、のちに車体片端に代燃装置搭載台を改造した荷台を取付け、その後再度荷台無しに戻った。
エンジンはキハ1, 2と同様「ブダH298」に「フラーMRU」変速機を組み合わせており、スロットル、点火時期、変速、逆転機(駆動台車側運転台のみ)はレバー式、クラッチはペダル式。また、機関の排気管を客室座席下に通して暖房としている。戦後1951年「いすゞDA45」換装でディーゼル化され、1960年に「いすゞDA120P」に載せ替えられた。
台車はキハ2401, 2402と同じの菱枠式(動台車は偏心式)。
キハ2405
定員70人(座席34人)、全長11.5m、車体幅2.01m、自重13tの2軸ボギー車。1941年新潟鐵工所製で価格は36,000円。当初キハ5と称した。
既に気動車の新製が原則不可能であった臨戦態勢の中、築館線近傍の棚倉、花山、砥沢などの鉱山関連での戦時需要に伴う輸送量増加に対応して特認を受け増備されたものである。日本国内向けとしては国鉄・私鉄を通じて戦前最末期の1941年に新製された最後の2両のうちの1両であり、戦前の軽便向け最大の気動車となった。
車体は窓上下の補強帯(ウインドシル・ウインドヘッダー)のない平滑で洗練された外見となっており、前面はキハ2404までと同じ2枚窓ながら、隅にRが付けられた。側面の窓扉配置はキハ2404と同じ1D8D2であった。車端の荷物台は設置されていない。
エンジンも戦前の軽便向け気動車としては最大クラスのアメリカ製ガソリン機関「ウォーケシャ6SRL」(直列6気筒6.9L、78HP/1500rpm、97HP/2000rpm、最大102HP/2400rpm)を搭載した。戦後にディーゼル化され、1951年からの「いすゞDA45」を経て、さらに1957年に「いすゞDA120」(6気筒6.1L、75PS/1400rpm、最大118PS/2600rpm)に再換装されている。
台車は菱枠式だが偏心式ではない。また、仙北鉄道で初めて当初から空気ブレーキを装備した。
キハ2406
全鋼製、定員92人、全長13.4m、車体幅2.01m、自重13.5tの2軸ボギー車。1955年東急車輛製で価格は550万円。
仙北鉄道が戦後唯一製造した気動車であり、軽便鉄道向けとしては日本国内最大の気動車である。出力・速度の向上とともに静かで乗り心地のよいことを主眼に設計された。
外観は前面Hゴム2枚窓の湘南型スタイル、窓扉配置dD7D1でバス窓装備という、当時のトレンドに沿ったモダンなデザインで、暖房効果の高い本格的な軽油燃焼式温風暖房装置「ウエバスト85HL5」を床下搭載したのもサービスアップであった。室内はデコラ化粧板張り、座席配置はセミクロスシートで、クロスシートとロングシートを点対称に併用した構造であり、ドア間7枚の窓の右から2、3枚目の箇所がボックスとなっていた(キハ2405まではロングシート車)。
既にディーゼル機関が普及してからの新造車であり、当初からディーゼルカーとして製作されている。エンジンはセンターアンダーフロアエンジンバス日野・ブルーリボン用の水平シリンダエンジン「DS22」(直列6気筒横型7.0L、70PS/1200rpm、最大125PS/2400rpm)[31]で、ギヤ比は1速:5.983、2速:3.108、3速:1.723、4速:1.000(直結)、逆転機:3.813。
台車は東急独自の形式名「TS-401」を称する菱枠式だが、偏心構造ではない。当初より空気ブレーキを装備。
仙北鉄道に限らず、1940年代以降に保有車両形式を「2400番台」「1400番台」「400番台」に改称した鉄道は東北地方で何社か見られた。戦前に東北地方の私鉄を管轄していた仙台鉄道局が1941年12月に発した、軸数や出力、全長等によって車番を整理せよとする指令に伴うもので、仙台鉄道局を略した「仙鉄式記号」と呼ばれる。仙北鉄道では1951年に気動車、客車が改番されている。この(保有車両数の少ない中小私鉄にとっては必然性を欠く、いささか奇妙な)車番整理命令の名残が、東北の少なからぬ私鉄で戦後でも残っていたのである。
各社で「400番台」車が多かったのは、多数派である2軸ボギー車の場合1両あたり合計4軸となることに起因するものと見られるが、仙北では4輪2軸単車のキハ3についても「キハ403」と改称しており、その詳細な改称事情は伺い知ることはできない。
気動車のうち、キハ2401, 2402は1968年3月の廃線後に磐梯急行電鉄に譲渡されて営業運転に充てられたが、ほどなく1968年10月に磐梯急行電鉄線が営業休止、翌年廃止となったため廃車されている。なお、キハ2401は解体されず、個人に売却されたようである(以降の消息不明)。
客車[ソースを編集]
元々は蒸気機関車に牽引され、後には主として気動車に牽引されていた。すべて木造車で、元々オープンデッキであったものを側扉付きに改装したものが多い。これらのうち中下等合造車(ロハ)は1941年頃に下等(ハ)となりあわせて改番もされた模様。
開業時に合わせて1921年に用意された日本車輌製造の木造車のグループ。当初オープンデッキであったものをのちに側扉付きに改造。全長8.23m、全幅1.98m。
ハ1401(←ハ1←ロハ1)
自重4.34t、定員42人(座席30人)。当初の価格は4,801.31円。1941年に車内仕切撤去、1953年側扉設置・デッキ廃止。妻面貫通扉付。
ハニフ1402(←ハ2←ロハ2)
自重4.46t、定員26人(座席18人)。側扉設置・デッキ廃止後、1955年に中等室部を荷物室へ改造、コロ軸受化。
ニフ1405(←ハ5←ハ1)
自重4.4t、荷重3t。1954年側扉設置・デッキ廃止、客室を荷物室へ自社工場にて改造。緩急車代用としても使用された。
ハフ1406(←ハ6←ハ2)
自重4.27t、定員42人(座席30人)。当初の価格は4,596.51円。1949年富士産業にて手ブレーキを設置、1953年側扉設置・デッキ廃止。妻面貫通扉付。
ハ1407(→静岡鉄道駿遠線ホハ29→ハ29)(←ハ7←ハ3)
自重4.34t、定員42人(座席30人)、1954年譲渡。
ハ1408(→静岡鉄道駿遠線ホハ30→ハ30)(←ハ8←ハ4)
自重4.34t、定員42人(座席30人)、1954年譲渡。
ニフ1409(←ハ9←ハ5)
自重4.4t、荷重3t。1955年に自社工場にて荷物車化改造。
1922年に増備された雨宮製作所製の木造車のグループ。当初から密閉式デッキで丸妻。全長8.992m、全幅2.038m。
ハニフ1403(←ハ3←ロハ3)
自重4.06t、定員24人(座席16人)。当初の価格は4,680円。1951年に協三工業にて中等室を荷物室へ改造。1955年にコロ軸受化。
ハフ1410(←ハ10←ハ6)
自重3.89t、荷重3t。妻面貫通扉付。当初の価格は4,326.38円。
1925年に増備された丸山製作所製の木造車で、当初オープンデッキであったものをのちに側扉付きに改造した車両。全長8.687m、全幅2.038m。
ハニフ1404(←ハ4←ロハ4)
自重3.98t、定員28人(座席18人)。当初の価格は2,799.35円。1948年に3等車化、1957年コロ軸受化ののち、1950年には側扉設置・デッキ廃止、中等室を荷物室へ改造。
ハ1411(←ハ11←ハ7)
自重3.82t、定員42(座席24人)。当初の価格は2,699.35円。1948年に登米駅で火災で車体を全焼、国鉄盛岡工場で木造車体のまま復旧したため、各部の造りが国鉄式であった。妻面貫通扉付。
築館線用気動車キハ403を客車化
ハフ407(←キハ403←キハ3)
キハ403を1956年に客車化。エンジンを降ろしたのみで荷物台もついたままであった。
貨車[ソースを編集]
穀倉地帯を走る路線であることから米の輸送量が多く、これに対応して有蓋貨車を中心に48両の貨車が在籍しており、すべて木造の2軸車であった。
有蓋車
ワフ51-54
1920年日本車輌製、5t積み、自重2.12t、全長5.232m。建設工事時から使用されていた30両のうちの1形式。
ワフ65, 66
1922年雨宮製作所製、6t積み、自重2.74t、全長5.232m。
ワ61-611
1920年日本車輌製、6t積み、自重1.92t、全長5.232m。建設工事時から使用されていた30両のうちの1形式。
ワ612-617
1923年雨宮製作所製、6t積み、自重2.69t、全長5.232m。
ワ618-622
1941年岩崎レール商会製、6t積み、自重2.95t、全長5.18m。
ワ623-627
1941年岩崎レール商会製、6t積み、自重2.95t、全長5.26m。
ワ628
1920年日本車輌製、6t積み、自重2.5t、全長5.27m。建設工事時から使用されていた30両のうちの1形式。
無蓋車
トフ61-63
1920年日本車輌製、6t積み、自重1.63t、全長5.27m。建設工事時から使用されていた30両のうちの1形式。
ト61-69
1920年日本車輌製、6t積み、自重1.52t、全長5.27m。建設工事時から使用されていた30両のうちの1形式。
チ62, 62
1920年日本車輌製、6t積み、自重1.16t、全長5.185m。建設工事時から使用されていた30両のうちの1形式。
その他[ソースを編集]
保線用モーターカー
1950年富正産業製のモーターカーを1952年に栗原電鉄から譲り受けたもの。4.5PSのエンジン付きで5人乗り。
国鉄より借用の蒸気機関車
1944年3月1日から5月24日まで国鉄から軽便蒸気機関車を1両借用した。詳細は不明であるがCタンク機であったという。
車両数の変遷[ソースを編集]
年度 機関車 動車 客車 貨車 合計 備考
蒸気 ディーゼル ガソリン 木炭 ディーゼル 2・3等合造 3等 3等手荷物合造 手荷物 有蓋 無蓋
1920(大正9)年 2 15 15 32 [備考 1]
1921(大正10)年 3 2 5 15 15 40 [備考 2]
1923(大正12)年 5 3 6 23 15 52 [備考 3]
1925(大正14)年 5 4 7 23 15 54 [備考 4]
1934(昭和9)年 5 3 4 7 23 15 57 [備考 5]
1935(昭和10)年 5 4 4 7 23 15 58
1941(昭和16)年 5 5 4 7 28 20 69 [備考 6]
1943(昭和18)年 5 3 2 11 28 20 69 [備考 7]
1945(昭和20)年 8 3 2 11 28 20 72 [備考 8]
1946(昭和21)年 7 3 2 11 28 20 71 [備考 9]
1948(昭和23)年 7 2 3 11 28 20 71 [備考 10]
1950(昭和25)年 7 4 1 11 28 20 71 [備考 11]
1951(昭和26)年 3 1 1 1 3 10 1 28 20 68 [備考 12]
1952(昭和27)年 1 2 1 4 9 2 28 20 67
1953(昭和28)年 1 3 1 4 9 2 30 18 68
1954(昭和29)年 3 1 4 6 2 1 31 17 65 [備考 13]
1955(昭和30)年 3 1 5 4 3 2 31 17 66
1956(昭和31)年 3 5 5 3 2 33 15 66
1957(昭和32)年 3 5 5 3 2 33 15 66
^ 建設工事のため新造
^ 登米線開通
^ 築館線開通
^ 特別大演習のため客車増備
^ 燃料費削減と速度向上、列車回数増加のためガソリンカー導入
^ 軍需物資輸送のため貨車増備
^ ガソリン不足のためガソリンカーを木炭車に改造
^ 軍需物資輸送のため蒸気機関車増備
^ 終戦のため余剰機関車を沼尻鉄道に譲渡
^ 燃料費削減のためガソリンカーを木炭車に改造
^ ディーゼル化計画が始められる
^ 混合列車廃止のため手荷物合造車に改造始める
^ 蒸気機関車全廃。客車2両を静岡鉄道に譲渡
『仙北鉄道社史』462頁より
関連会社[ソースを編集]
仙北石油
ガソリンスタンドを経営、直営会社として設立されて現存している。宮城交通の株式を3.6パーセント保有する6番目の株主である。宮城交通は仙北石油株式の一部を保有しているが、関連会社の扱いではなくなっている。
三陸貨物自動車
買収したバス会社、三陸自動車の貨物部門だった。三陸貨物に社名変更して現存する。名鉄運輸グループに参加しているほか、宮城交通の持分法適用関連会社である。
県北自動車整備工業
出資会社から、直営会社に変更。現存しており、宮城交通→ミヤコーバスの車両整備を請け負うことがある。現在、宮城交通は、県北自動車整備工業の株式の一部を保有しているが、関連会社の扱いではなくなっている。なお、東日本急行が仙台 - 佐沼線を開業した際、当初は単独運行だったために佐沼での夜間滞泊場所として使用していたことがある。
塩釜交通
1948年設立。1958年、塩竈地区におけるバス路線強化のため出資して傘下へ入れている。仙塩線や七ヶ浜町へ路線を開業し、現在のミヤコーバス塩釜営業所の前身といえる。その後、1962年に仙北鉄道の主導で同じく傘下に入れた仙台鉄道、古川交通と合併して宮城バス(初代)となる。その宮城バスも仙北鉄道と合併して、宮城県内のバス会社再編をすることになる。
ボディカラーは桃色を下地に前面から窓回りと下部が赤、側面には白いラインと塩竈市が港町であることから、トビウオのエンブレムを付けていた
その他[ソースを編集]
取締役だった都築智慧蔵(1910年 - 2001年、元・三陸自動車社長)は、後に宮城交通社長に就任するが、同時に宮城テレビ放送の初代社長も兼任(1970年 - 1972年)、その後は会長(1972年 - 1974年)となり、1976年に相談役を退任するまで関係していたが、仙北鉄道・宮城バスとの資本関係はない。現在、都築家は宮城交通・東日本急行の主要株主である。
出典[ソースを編集]
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^ 今尾 (2008)、亀谷 (1966)
^ 陸前乗合自動車より分離
^ 現在の東京建物仙台ビル
^ 元々は仙台鉄道の子会社だった。
^ 後の宮城交通本社、2003年泉区に移転。
^ 現在のミヤコーバス塩釜営業所、少し移転している。
^ 後の宮城交通松島案内所、現在廃止。
^ 現在のミヤコーバス吉岡営業所、少し移転している。
^ 現在のミヤコーバス石巻営業所
^ 2000年廃止
^ 現在のミヤコーバス女川車庫
^ 現在のミヤコーバス気仙沼営業所
^ 後のミヤコーバス気仙沼案内所、2010年窓口営業廃止。
^ 現在のミヤコーバス佐沼営業所
^ 現在のミヤコーバス築館営業所
^ 現在のミヤコーバス古川営業所
^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1919年1月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『日本全国諸会社役員録. 第29回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1919年9月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年7月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年10月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道停留場設置」『官報』1922年7月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年7月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 「鉄道免許状下付」『官報』1925年9月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 3月30日許可「鉄道譲渡」『官報』1927年4月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 仙北鉄道社史ではこの日を築館線の廃止日とする
^ 「昭和31年 国鉄」 当該部分あり
^ 河北新報ニュース(記事を読むには、会員登録が必要)
^ 6気筒10.5Lの「日野DA57S」(定格85PS/1300rpm、最大130PS/1700rpm)との記述もある
^ 国鉄キハ03などと同型品。東急車輌はこの種の特殊小型気動車に、コンパクトな日野製水平シリンダーエンジンを多用した。
参考文献[ソースを編集]
今尾恵介(監修) 『2 東北』 新潮社〈日本鉄道旅行地図帳:全線・全駅・全廃線〉、東京、2008年。ISBN 978-4-10-790020-3。
亀谷英輝「仙北鉄道」、『鉄道ピクトリアル』No. 1861966年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり7、1966年、 pp. 6-7, 29-39。(再録:『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年。)
仙北鉄道株式会社社史編纂委員会 『仙北鉄道社史』。
宮城バス株式会社社史編纂委員会 『宮城バス社史』。
湯口徹 『奥の細道』上、プレス・アイゼンバーン、東京。
関連項目[ソースを編集]
廃線
カテゴリ: かつて存在した日本の鉄道事業者東北地方の鉄道路線 (廃止)宮城県の交通史宮城交通
南海平野線
Question book-4.svg
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曖昧さ回避 この項目では、廃線となった軌道の南海平野線について説明しています。未成線となった高速鉄道の南海平野線については「南海平野線 (未成線)」をご覧ください。
Nankai corporate mark old.svg 平野線
末期の主力車両モ205形(画像は阪堺電軌に継承後)
末期の主力車両モ205形
(画像は阪堺電軌に継承後)
基本情報
現況 廃止
国 日本の旗 日本
所在地 大阪府の旗 大阪府大阪市
種類 軌道(路面電車)
路線網 大阪軌道線
起点 今池停留場
終点 平野停留場
停留場数 11停留場
開業 1914年4月26日
廃止 1980年11月28日
所有者 Nankai corporate mark old.svg 南海電気鉄道
運営者 Nankai corporate mark old.svg 南海電気鉄道
車両基地 大和川車庫
使用車両 使用車両の節を参照
路線諸元
路線距離 5.9 km
軌間 1,435 mm (標準軌)
線路数 複線
電化方式 直流600 V 架空電車線方式
テンプレートを表示
[隠す]停留場・施設・接続路線
廃止当時の状況
凡例
eABZq+l BHFq
0.0 今池 阪堺線
exBUE
堺筋
exBHF
0.4 飛田
uexSKRZ-Mu
阪神高速14号松原線
uxKRZ+xl uBHFq
上町線
exBHF
1.2 阿倍野(斎場前)
exBUE
庚申街道
exBHF
1.7 苗代田
exBUE
あびこ筋
xKRZt
大阪市営地下鉄御堂筋線
exBHF
2.2 文ノ里
exBHF
2.7 股ヶ池
xKRZu
国鉄:阪和線
exBHF
3.3 田辺
exBHF
3.8 駒川町
xKRZu
近鉄:南大阪線
exBHF
4.3 中野
exWBRÜCKE
今川
exBUE
今里筋
exBHF
5.4 西平野
exBUE
国道309号
exKBHFe
5.9 平野
平野線(ひらのせん)は、大阪府大阪市西成区の今池停留場から同市平野区の平野停留場までを結んでいた南海電気鉄道の軌道路線。
今池駅で南海阪堺線(現在の阪堺電気軌道阪堺線。厳密にいうと、今池駅から約100m南側にある南海天王寺支線と立体交差する鉄橋を越えた地点)から分岐し、現在の阪神高速14号松原線にほぼ沿う形で平野駅までを結んでいた。平野駅は現在の西日本旅客鉄道関西本線(JR西日本)の平野駅や大阪市営地下鉄谷町線の平野駅とは全く別の位置にあった。
開業以来、大阪市中心部と同市南東部を結ぶ交通手段として重要な役割を担ってきたが、1980年(昭和55年)11月27日に阿倍野 - 西平野間の路線のほぼ真下に沿って大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間の路線が延伸開業したため、それまで担ってきた役割を同線に譲るかたちで同日限りで廃止され、66年の歴史に幕を閉じた。
目次 [非表示]
1 路線データ
2 歴史
2.1 年表
3 運行形態
3.1 運行系統
3.2 運行ダイヤ
3.2.1 平日
3.2.2 日・祝日・及び12月30日 - 1月4日
4 阿倍野駅の構造
5 軌道
6 主な交差鉄道路線
7 主な交差道路
8 行先表示
8.1 行先表示幕
8.2 運行標識
8.2.1 恵美須町 - 平野系統
8.2.2 天王寺駅前 - 平野系統
9 使用車両
10 駅一覧
11 運賃
11.1 普通運賃
11.2 定期旅客運賃
12 幻の柏原延伸計画
13 幻の高速鉄道化計画
14 短命に終わった南海平野線代行バス
14.1 停留所の位置
15 廃止後の状況
16 外部リンク
路線データ[編集]
管轄:平野運輸区
路線距離(営業キロ):今池 - 平野間 5.9km
軌間:1435mm
駅数:11駅(起終点駅含む)
複線区間:全線
電化区間:全線電化(直流600V)
変電所:中野変電所
車両基地:大和川車庫(現在の阪堺電気軌道我孫子道車庫)
車両工場:大和川検車区(現在の阪堺電気軌道大和川車両区)
歴史[編集]
1913年 (大正2年)2月14日、阪南電気軌道株式会社が大阪府西成郡今宮村今池(現在の大阪府大阪市西成区萩之茶屋付近) - 大阪府東成郡平野郷町(現在の大阪府大阪市平野区平野本町)間の軌道敷設の認可を得て工事を開始した。阪南電気軌道は半年後の1913年 (大正2年)7月16日に阪堺電気軌道株式会社と合併したため、同社が工事を引き継いだ。そして、1914年 (大正3年)4月26日に今池 - 平野間5.9kmが阪堺電気軌道(初代)平野支線として開業した。1915年には南海鉄道と合併し、南海平野線となった。
沿線は当時、郊外の農村地帯だったが、同線の開業により住宅地として発展することとなった。そして、大阪市都心部 - 平野方面への旅客流動が既存の恵美須町駅方面よりも、天王寺駅(阿倍野駅で上町線に乗り換え、または徒歩)へと向かう乗客が増加したことから、上町線と平野線とが平面交差する阿倍野交差点に連絡線を建設し、1929年から天王寺駅前 - 平野間の直通運転を開始した。また旅客の増加に伴い、1929年 (昭和4年)12月8日からは2両連結運転を開始した。
しかし1951年(昭和26年)12月20日、それまで天王寺止まりであった大阪市営地下鉄1号線(のちの御堂筋線)が昭和町駅まで延伸された。昭和町駅は南海文ノ里停留場と近接していたことから、それに伴い平野線乗客の多くが文ノ里停留場で昭和町駅へと乗り換えるようになった。そのために乗客が減少し、2両連結運転も中止された。
その後、沿線の宅地開発とこれに伴う著しい人口増加に対応するため、1971年 (昭和46年)12月の都市交通審議会において、「この地域に高速鉄道の整備が必要」と答申された。
それを受けて大阪市交通局が1973年 (昭和48年)3月から平野線の阿倍野 - 西平野間に並行するルートで、大阪市営地下鉄谷町線・天王寺 - 八尾南間10.5kmの延伸工事を始めた。
また、阪神高速道路公団(現在の阪神高速道路株式会社)が、阿倍野入口と松原JCTとを結ぶ阪神高速14号松原線の建設を計画していたことから、1978年(昭和48年)11月26日に、10年間の使用貸借契約を条件として、阿倍野 - 西平野間4.2kmの専用軌道区間の鉄道用地を阪神高速道路公団に売却した。谷町線と阪神高速松原線は同時並行で着工された。
谷町線は、南海平野線の代替に加えて、それまで大阪市営バスしか交通手段がなかった平野区長吉方面と大阪市都心部とを直結する輸送機関として、1980年 (昭和55年)11月27日に開業した。これに伴い平野線は、1980年 (昭和55年)11月28日に廃止された。1980年11月27日の1日に限り、谷町線と平野線の両方が同時に運行していた。
平野線の最終営業日となった1980年 (昭和55年)11月27日は、始発電車から終日無料として開放された。この日限りで姿を消す平野線、また平野線専用車両として運用され廃線と同時に廃車となることが決定していたモ205型電車を惜しんで、沿線住民や鉄道ファンらが早朝から詰め掛けた。沿線の各駅では、明浄学院高等学校の吹奏楽部による『蛍の光』の演奏、幼稚園児から乗務員への花束贈呈、鉄道友の会主催のお別れ会、西平野駅では地車囃子の演奏などの行事が開催された。
年表[編集]
(明治の終わり頃)
阪南電気軌道が大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道敷設を計画。
1912年(大正元年)
阪南電気軌道が大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイル軌道敷設を出願。
1912年(大正元年)
『軌道法』に基づき、大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道敷設特許、並びに命令書が交付される。
1913年(大正2年)2月14日
大阪府西成郡今宮村字今池から大阪府東成郡平野郷町に至る3.48マイルの軌道敷設の認可を得て、阪南電気軌道株式会社設立され、正式に発足。
資本金60万円(現在の価格に換算すると、約10億3000万円)。
1913年大正2年)
阪南電気軌道株式会社に対して工事施工認可が下りる。
1913年(大正2年)
今池 - 平野間5.9kmの軌道敷設工事着工。
1913年(大正2年)7月16日
旧・阪堺電気軌道が阪南電気軌道を合併し、今池 - 平野間の軌道敷設事業を継承するとともに、資本金を360万円(61億8317万円)に資本増強。
1914年(大正3年)4月26日
旧・阪堺電気軌道株式会社が今池 - 平野間5.9kmの路線を平野支線として旅客営業を開始。全区間4銭。
1915年(大正4年)4月
阪堺電気軌道と南海鉄道との切符の共通取扱開始。
1915年(大正4年)6月21日
阪堺電気軌道が南海鉄道と合併し、旧・阪堺電気軌道平野支線は、南海鉄道平野線となる。
(不明)
平野 - 柏原間の延伸を計画。
(不明)
平野 - 柏原間の軌道敷設を出願。
1921年(大正10年)6月7日
軌道法に基づき、南海鉄道に対して平野線、平野 - 柏原間の軌道敷設特許、並びに命令書が交付される。
1922年(大正11年)3月
路面電車としては日本国内初となる色灯三位式自動閉塞信号機を導入。
1923年(大正12年)
天王寺土地株式会社から文ノ里駅の駅施設が寄付される。
1923年(大正12年)
苗代田 - 股ヶ池間に文ノ里駅を新設し、旅客営業を開始。
1929年(昭和4年)9月1日
南海鉄道上町線と平面交差する阿倍野(斎場前)交差点に南海鉄道上町線・天王寺駅前方面への連絡線が完成。
1929年(昭和4年)12月8日
2両連結運転開始。「天王寺駅前 - 平野」系統の運行を開始。
1934年(昭和9年)9月21日
室戸台風の被害を受ける。
1935年(昭和10年)8月10日
中野 - 平野間に中野変電所を新設。
1935年(昭和10年)9月13日
平野 - 柏原間の軌道敷設免許失効。
1940年(昭和15年)4月1日
大阪市電との連絡運輸開始。
1941年(昭和16年)6月15日
大阪市電との連絡運輸を廃止。
1942年(昭和17年)2月15日
中野 - 平野間に西平野駅を新設し、旅客営業を開始。
1944年(昭和19年)6月1日
戦時中の戦時企業統合政策である『陸上交通事業調整法』によって、南海鉄道が関西急行鉄道と合併し、近畿日本鉄道が発足。近畿日本鉄道平野線となり、天王寺営業局の所属となる。
1947年(昭和22年)6月1日
旧・南海鉄道の路線が南海電気鉄道に分離譲渡。同社大阪軌道線の一路線となり、南海電気鉄道平野線となる。
1949年(昭和24年)1月10日
集電装置がトロリーポールからビューゲルになる。
1954年(昭和29年)4月11日
戦時中から休止となっていた「天王寺駅前 - 平野」系統の運行を再開。
1960年(昭和35年)6月
2両連結運転中止。
1966年(昭和41年)
日曜祝日ダイヤを導入。
1972年(昭和47年)6月
集電装置がビューゲルからパンタグラフになる。
1973年(昭和48年)3月 - 地下鉄谷町線天王寺 - 八尾南間の延伸工事着手。
1976年(昭和51年)7月1日
料金箱制を導入し、普通乗車券の発売を廃止。
1978年(昭和53年)4月16日
5分毎の運転を実施。
1978年(昭和53年)11月26日
西平野 - 阿倍野間の用地を10年間の使用貸借契約を付帯条件に阪神高速道路公団(現在の阪神高速道路株式会社へ売却。
(不明)
阪神高速14号松原線の建設工事に伴い、中野 - 西平野間の線路を建設中の高架下の工事用仮線に移設。
1979年(昭和54年)10月
阪堺線のワンマン化(上町線は1976年〔昭和51年〕7月1日から既にワンマン化)により、廃車予定のモ205型が平野線専用となる。
1980年(昭和55年)8月21日
南海電気鉄道が平野線 今池 - 平野間5.9kmの旅客営業の廃止を建設大臣と運輸大臣に許可申請(廃止日は大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間の延伸開業後)。
1980年(昭和55年)11月11日
運輸審議会において、南海電気鉄道平野線 今池 - 平野間5.9kmの廃止が認可される。
1980年(昭和55年)11月23日
「平野線さようなら記念乗車券」(100円券3枚セット)を発売。
1980年(昭和55年)11月27日
最終運行日。平野線「さよなら電車」を運行。
平野線全線、及び阪堺線の恵美須町 - 今池間、上町線の天王寺駅前 - 阿倍野間の平野線直通運転区間を終日無料開放。
午後11時23分、平野発・恵美須町行最終電車が発車。66年の歴史に幕を閉じる。
1980年(昭和55年)11月28日
書類上の廃止日。
※平野線の廃止3日後の1980年(昭和55年)12月1日に、南海電気鉄道の大阪軌道線(阪堺線・上町線)が分社化され、現在の阪堺電気軌道株式会社が発足。
運行形態[編集]
運行系統[編集]
南海電気鉄道平野線は今池 - 平野間5.9kmの路線であるが、平野線のみを走る列車の設定はなく、阪堺線と直通運転を行う恵美須町 - 今池 - 平野間(恵美須町 - 今池間が阪堺線)と、上町線と直通運転を行う天王寺駅前 - 阿倍野 - 平野間(天王寺駅前 - 阿倍野が上町線)の2系統で運行されていた。これは平野線が阪堺線の今池駅から分岐する支線として建設された経緯(平野線が開業した当時の路線名は「平野支線」であった)があったからである。
なお、方向幕が導入された初期には、「邊田」(旧書体で「田邊」)と「野中」(旧書体で「中野」)という行先表示があったので、年末年始などの繁忙期や朝夕のラッシュ時、あるいは緊急時などに田邊止まり、あるいは中野止まりの列車が運行されていた可能性はある(恵美須町駅の行灯形の行き先表示灯にも『田辺』の表示が残っていた)。
盤面の地色 文字の色 系統 経路 備考
恵美須町 - 平野 恵美須町 - 今池 - 阿倍野 - 田辺 - 平野 恵美須町 - 今池間は、阪堺線への直通運転区間
天王寺駅前 - 平野 天王寺駅前 - 阿倍野 - 田辺 - 平野 天王寺駅前 - 阿倍野間は、上町線への直通運転区間
運行ダイヤ[編集]
以下に平野線廃止直前の平野駅のダイヤを示す。
平野線廃止直前の平野駅においては、白いサボの恵美須町行きと青いサボの天王寺駅前行きとが交互に発着していた。
平日[編集]
行先
恵美須町 天王寺駅前
5時 22分・42分 29分・49分
6時 2分・22分・40分・50分・55分 10分・31分・45分
7時 3分 - 8分毎 9分 - 12分毎
8時 2分 - 5分毎 6分 - 9分毎
9時 3分 - 12分毎 12分毎
10時 12分毎 12分毎
11時 12分毎 12分毎
12時 12分毎 12分毎
13時 12分毎 12分毎
14時 12分毎 12分毎
15時 12分毎 12分毎
16時 5分 - 10分毎 10分 - 12分毎
17時 5分 - 10分毎 6分 - 12分毎
18時 4分 - 7分毎 6分 - 10分毎
19時 6分 - 8分毎 6分 - 10分毎
20時 5分 - 10分毎 8分 - 10分毎
21時 5分 - 10分毎 14分 - 16分毎
22時 0分・15分・33分・53分 6分・23分・44分
23時 1分・11分・23分
日・祝日・及び12月30日 - 1月4日[編集]
行先
恵美須町 天王寺駅前
5時 22分・42分 29分・48分
6時 3分・21分・43分 10分・28分・50分
7時 15分毎 12分 - 18分毎
8時 15分毎 12分 - 18分毎
9時 8分 - 10分毎 8分 - 10分毎
10時 8分毎 8分毎
11時 8分毎 8分毎
12時 9分 - 10分毎 8分 - 11分毎
13時 9分 - 10分毎 9分 - 11分毎
14時 8分 - 11分毎 9分 - 11分毎
15時 8分 - 11分毎 8分毎
16時 6分 - 10分毎 6分 - 10分毎
17時 10分毎 10分毎
18時 10分毎 10分毎
19時 12分毎 12分毎
20時 12分毎 12分毎
21時 6分 - 15分毎 15分 - 17分毎
22時 0分・15分・33分・53分 7分・23分・44分
23時 1分・11分・23分
阿倍野駅の構造[編集]
起点の今池駅は、平野線が駅の南方で分岐するだけのことであり、駅施設的には他の途中駅と変わらず、現在でも駅の佇まいはほぼ当時のままである。ただし平野線と上町線とが接続する阿倍野駅については、交通量の多い阿倍野交差点における併用軌道上で平面交差しており、阿倍野駅のホームは平野線用と上町線用の計4つのホームが存在した。
平野線の阿倍野駅のホームは、阿倍野交差点の東側に位置する千鳥式ホームで、下り平野方面の線路には緊急時の渡り線が存在した。天王寺駅前発平野行きの電車が、上町線の下り線用ホームを発車すると、阿倍野交差点を左折東進、平野線へ入線後、再び平野線の下り線用ホームに停車したのに対して、平野発天王寺駅前行きの電車は、平野線の上り線用ホームのみに停車し、発車後、交差点を右折北上して上町線の天王寺駅前駅へと向かった。これは当時、上町線の下り線用ホームは阿倍野交差点の北側にあったのに対し、上り線用ホームが阿倍野交差点の南側にあったためである(4つのホームのうち、このホームだけ道路上の白線のみで安全地帯が無かった)。平野から来た列車の扱いは操車係員が恵(恵美須町)・天(天王寺駅前)の何れかのボタンを押し、構内信号が青と同時にブザー・チャイムが鳴り発車する方式を取っていた。なお平野線の廃止後、阿倍野再開発事業によって、あべのベルタ東側の交差点に新駅が新設され(安全地帯も設置)、下りホームとの相対式となっている。
なお、平野線の阿倍野駅ホームは、「阿倍野(斎場前)」として、駅の表示や車内における車掌の停車案内において、上町線のそれと区別されていた(少し前まで交差点名にも「斎場前」が残っていたが、現在は改称されている)。「斎場前」というのは、かつて大阪一といわれた「大阪市営南斎場(阿倍野斎場)」に由来する。火葬施設はのちに瓜破斎場(平野区)に統合されて移転するが、今も都心の一等地に存在する広大な敷地の「大阪市営南霊園(阿倍野墓地)」に、その名残を留めている。
軌道[編集]
軌道種別 区間 キロ程 道路名 平野線全線における割合
専用軌道 今池 - 飛田 0.4km 86.4%
阿倍野 - 平野 4.7km
併用軌道 飛田 - 阿倍野 0.8km 大阪市道津守阿倍野線 13.6%
平野線は南海大阪軌道線の中で最も専用軌道区間が多かったことから郊外電車のような趣もあり、前述したような連結運転なども行われた。
苗代田 - 文の里間には、大阪府道28号大阪高石線(あびこ筋)と交差する踏切が、中野 - 西平野間には、今里筋と交差する踏切があり、交通渋滞を引き起こしていた。また、計画道路として、文ノ里 - 股ヶ池間には松虫通が、西平野 - 平野間には主要地方道大阪内環状線(現在の国道479号)の建設が進みつつあったことから、これらの道路と交差する踏切も、交通渋滞を引き越こすことが予測された。
主な交差鉄道路線[編集]
今池駅
南海電気鉄道天王寺支線(立体交差)
※南海電気鉄道天王寺支線と立体交差する位置は、阪堺線との分岐点の手前にあり、正確には平野線の線路上ではない。
南海電気鉄道阪堺線(平面交差)
※ここが平野線の起点
飛田駅
南海電気鉄道上町線(平面交差)
阿倍野駅(斎場前)
苗代田駅
大阪市営地下鉄御堂筋線(地下立体交差)
文ノ里駅
股ヶ池駅
日本国有鉄道阪和線(高架立体交差)
田辺駅
駒川町駅
近畿日本鉄道南大阪線(高架立体交差)
中野駅
西平野駅
平野駅
阿倍野駅 - 西平野駅間
大阪市営地下鉄谷町線(地下)
※最終営業日の1980年(昭和55年)11月27日のみ。
主な交差道路[編集]
今池駅
堺筋
飛田駅
大阪市道津守阿倍野線(併用軌道)
阿倍野駅(斎場前)
庚申街道(平野方面)
苗代田駅
庚申街道(今池・阿倍野方面)
あびこ筋
文ノ里駅
股ヶ池駅
田辺駅
駒川町駅
中野駅
今里筋
国道309号線(平野方面)
西平野駅
国道309号線(今池・阿倍野方面)
平野駅
飛田駅 - 西平野駅間
阪神高速道路14号松原線
行先表示[編集]
平野線に入線する列車は、円形の板を使用し、恵美須町 - 平野が白地に黒文字、天王寺駅前 - 平野が青地に白文字で、それぞれ始終着駅を並列表記していた。
戦後、新造されたモ351形、モ501形車両の行先表示が布製の方向幕式で登場し、ワンマン改造されたモ121形、モ151形、モ161形、モ205形(一部のみ)、モ301形車両、それに元京都市電のモ251形の行先表示も布製の方向幕式となった。
南海電気鉄道は、平野線廃止の数年前より、大阪軌道線の車両を対象に上町線、阪堺線のワンマン運転開始に伴う改造が順次行っていったが、そのうちモ161形の一部はツーマン運転への切替が可能で、改造後、平野線の廃止までの僅かの間、「ワンマンカー」の表示板を裏返し、「平野」行きの方向幕を掲出して、車掌を乗せ平野線に入線するという半ば暫定的な姿がみられた。また、ワンマン非対応車であり、平野線廃止と同じくして全車廃車となる予定だったために、それまで小型車でワンマン運用には不向きである阪堺線を中心に運用されていたモ205形は、ワンマン改造されずに廃止を迎えた平野線に集中的に運用され、最末期は逆に平野線の「顔」ともなった。モ205形は廃止時まで行先板を使用していた。なお、その後に車両計画に変更があり、3両のみワンマン改造され、阪堺電気軌道に継承されている(既に廃車)。
ちなみに、平野線が廃止される2年前の1978年(昭和53年)9月30日限りで全廃された京都市電1800形の6両が譲渡され、大阪軌道線のモ251形として運用を始めている。ワンマン改造車共通の方向幕のため「平野」が存在しており、数えるほどではあるが平野線での運用が確認されている。
現在、阪堺電気軌道に引き継がれている南海時代からの車両モ161形、モ251形(既に廃車になっているが、256号車がイベント用として我孫子道車庫に動態保存されている)、モ351形、モ501形の、旧タイプ(もはや、皆無に等しいがモ161形174号車には残っている)の方向幕を参考に示す。
行先表示幕[編集]
モ161形・モ351形・モ501形各車両
番号 表示
1 住 吉
2 住 吉 公 園
3 天王寺駅前
4 あ び こ 道
5 あ び こ 道
6 浜 寺 駅 前
7 え び す 町
8 平 野
9 東 湊
10 天 神 の 森
11 臨 時
12 試 運 転
5・11・12は赤文字表示、8はしばらく残っていたが現在は赤文字で貸切と表示
旧型車(形式不明)
寺 王 天
道子孫我
邊 田
野 中
野 平
須 美 恵
寺 濱
濱 大 堺
院 宿
須 髙
前 陵 御
下 ノ 宮
運行標識[編集]
※実物は円形。
恵美須町 - 平野系統[編集]
通常の電車
平
野 恵
美
須
町
最終電車
平
野 恵
美
須
町
天王寺駅前 - 平野系統[編集]
通常の電車
平
野 天
王
寺
駅
前
最終電車
平
野 天
王
寺
駅
前
使用車両[編集]
車両形式 現状 備考
車両番号 状態
モ101型 全車廃車
モ121型(旧大阪市交通局1601形) 全車廃車※
モ151型 全車廃車 151号車 サンフランシスコ市営鉄道で動態保存
153号車 大阪市城東区にある個人宅で保存。
モ161型 現用
モ201型 全車廃車
モ205型 全車廃車 211号車 大阪府大阪市住吉区にある阪堺電気軌道の
社員研修所の教材としてのカットボディーに改造。
212号車 大阪府堺市堺区にある賢明学園幼稚園で保存。
217号車 和歌山県和歌山市にある和歌山県立和歌山交通公園で保存。
223号車 大阪府東大阪市にある鴨高田神社で保存。
229号車 大阪府大東市にある大阪産業大学で保存。
237号車 大阪府大阪市天王寺区にある四恩学園で保存、ただし原型はほとんど留めていない。
247号車 カナダ・エドモントン市にある保存鉄道・エドモントン放射鉄道協会に動態保存。
248号車 大阪府藤井寺市にある大井垣添児童園で保存。
モ251型(旧京都市交通局1800型) 全車廃車 255号車 アメリカ合衆国アリゾナ州のツーソンにあるオールド・プエブロ・トロリーに動態保存。
256号車 大阪府大阪市住吉区にある我孫子道車庫に動態保存。
モ301型 全車廃車
モ351型 現用
モ501型 現用
モ121型車両の制御装置・ブレーキ・営業機器などは、モ601型に流用されている。
入道雲塗装車については平野線では黄緑塗装のモ161型が基本的に利用されていたが、上町線ワンマン運転開始前の準備期間には水色のモ161型(170以降)とモ301型や橙色塗装のモ351型・モ501型も平野線に定期列車で入線している。
駅一覧[編集]
全駅大阪府大阪市に所在。接続路線の事業者名は廃止時点のもの。
路線名 駅名 駅間キロ 営業キロ 阪堺線直通 上町線直通 接続路線 代替駅 所在地
阪堺線 恵美須町駅 (0.6) (1.0) ● 大阪市営地下鉄:■ 堺筋線 浪速区
南霞町停留場 (0.4) (0.4) ● 日本国有鉄道:大阪環状線・関西本線(新今宮駅)
南海電気鉄道:南海本線(新今宮駅)
大阪市営地下鉄:■ 御堂筋線・■ 堺筋線(動物園前駅) 西成区
今池停留場 0.0 0.0 ● 【乗換指定駅】
南海電気鉄道:阪堺線(住吉・浜寺駅前方面)・天王寺支線(今池町駅)
平野線
飛田停留場 0.4 0.4 ● 阪堺線:今船停留場
上町線 天王寺駅前駅 (0.5) (0.5) ∥ ● 日本国有鉄道:大阪環状線・関西本線・阪和線(天王寺駅)
近畿日本鉄道:南大阪線(大阪阿部野橋駅)
大阪市営地下鉄:■ 御堂筋線・■ 谷町線(天王寺駅)
南海電気鉄道:天王寺支線(天王寺駅) 阿倍野区
阿倍野駅
(斎場前) 0.8 1.2 ● ● 【乗換指定駅】
南海電気鉄道:上町線(住吉・住吉公園方面) 谷町線:阿倍野駅
平野線
苗代田停留場 0.5 1.7 ● ● 谷町線:文の里駅
文ノ里停留場 0.5 2.2 ● ●
股ヶ池停留場 0.5 2.7 ● ● 谷町線:田辺駅
田辺停留場 0.6 3.3 ● ● 東住吉区
駒川町停留場 0.5 3.8 ● ● 谷町線:駒川中野駅
中野停留場 0.5 4.3 ● ●
西平野停留場 1.1 5.4 ● ● 谷町線:平野駅 平野区
平野停留場 0.5 5.9 ● ●
今池駅は、阪堺線の今池駅との共同使用駅であったため、平野線の廃止後も存続している。
阿倍野(斎場前)駅は、上町線の阿倍野駅との同駅扱いの乗換指定駅であったものの、共同使用駅ではなかったため、平野線の廃止と同時に廃駅。
運賃[編集]
普通運賃[編集]
廃止当時の普通運賃は以下のとおり。
区間 運賃
大人 小児
1区間 大阪市内のみ乗車 100円 50円
堺市内のみ乗車
2区間 大阪市内 - 堺市内間を連続して乗車 140円 70円
【乗り換え指定駅】
阿倍野・今池・住吉・我孫子道での乗り換え
定期旅客運賃[編集]
1976年(昭和51年)7月から実施された上町線のワンマン運転に合わせて平野線の文ノ里駅の切符売り場も閉鎖され、朝ラッシュ時のみ集札要員が配置されるだけの無人駅となり、平野線内の有人駅は平野駅のみとなった。
この運賃表は、文ノ里駅の切符売り場が閉鎖された当時の文ノ里駅の定期旅客運賃表である。
駅名 経由 通勤定期 通学定期 備考
1か月 3か月 6か月 1か月 3か月 6か月
天王寺駅前 阿倍野 1,900円 5,420円 10,260円 740円 2,110円 4,000円 上町線連絡
恵美須町 今 池 2,500円 7,130円 13,500円 1,060円 3,030円 5,730円 阪堺線連絡
南霞町 2,200円 6,270円 11,880円 900円 2,570円 4,860円
今池 2,200円 6,270円 11,880円 900円 2,570円 4,860円
飛田 1,900円 5,420円 10,260円 740円 2,110円 4,000円
阿倍野 1,600円 4,560円 8,640円 580円 1,660円 3,140円
苗代田 1,600円 4,560円 8,640円 580円 1,660円 3,140円
田辺 1,900円 5,420円 10,260円 740円 2,100円 4,000円
駒川町 1,900円 5,420円 10,260円 740円 2,100円 4,000円
中野 2,200円 6,270円 11,880円 900円 2,570円 4,860円
平野 2,200円 7,130円 13,500円 1,060円 3,030円 5,730円
天下茶屋 今 池
今池町 2,500円 7,130円 13,500円 1,060円 3,030円 5,730円 天王寺支線連絡
難波 2,800円 7,980円 15,120円 1,220円 3,460円 6,590円 天王寺支線 天下茶屋駅経由
南海本線連絡
住ノ江 3,300円 9,450円 17,820円 1,530円 4,370円 8,270円
宿院 今 池 3,800円 10,830円 20,520円 1,800円 5,130円 9,720円 阪堺線連絡
綾野町 3,800円 10,830円 20,520円 1,800円 5,139円 9,720円
我孫子道 3,150円 8,580円 17,010円 1,380円 3,940円 7,460円
北天下茶屋 2,500円 7,130円 13,500円 1,060円 3,030円 5,730円
住吉公園 阿倍野 2,800円 7,980円 15,120円 1,220円 3,480円 6,500円 上町線連絡
帝塚山四丁目 2,500円 7,130円 13,500円 1,060円 3,030円 5,730円
北畠 2,200円 6,270円 11,880円 900円 2,570円 4,860円
幻の柏原延伸計画[編集]
平野線は、平野からさらに中河内郡柏原町現在の(柏原市)方面への延伸を計画し、認可を受けていたが、1929年に発生した世界恐慌の影響や1931年に勃発した満州事変に始まる戦争への突入によって実現しなかった。
動力:電気
軌間:1435mm
区間:平野 - 柏原間
キロ程:9.756km
概算建設費:220万6655円
特許年月日:1921年(大正10年)6月7日
工事施工許可年月日:1925年(大正14年)12月24日
工事着工期限:1926年(大正15年)6月23日
工事施工期限:1934年(昭和9年)6月23日
幻の高速鉄道化計画[編集]
「南海平野線 (未成線)」も参照
1963年(昭和38年)3月29日の「都市交通審議会答申第7号」において、専用軌道が続く平野線の阿倍野 - 平野間を高速鉄道化し、上町線への乗り入れ区間である天王寺 - 阿倍野間に高速新線を建設することによって、大阪市営地下鉄谷町線と相互直通運転を実施することが答申されたが実現しなかった。
短命に終わった南海平野線代行バス[編集]
大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間の延伸の際、阿倍野 - 平野間は既存の平野線の阿倍野 - 西平野間に沿う形で建設されたが、今池 - 阿倍野間は谷町線のルートから外れた(厳密に言うと、西平野 - 平野間も谷町線のルートから外れているが)ため、平野線の飛田駅から程近い大阪市道津守阿倍野線(飛田 - 阿倍野間の併用軌道があった道路)と堺筋(今池 - 飛田間の踏切があった道路)とがT字に交差するロータリー(現:天下茶屋東1交差点)西側にあった阪堺線の踏切両側(今池 - 松田町間)に今船駅を新設し、この駅を平野線の飛田駅の代替駅とし、今池 - 飛田間をこれに置き換えた。
そして、残る飛田 - 阿倍野間は、南海観光バス・天下茶屋営業所が運行するマイクロバスによる代行輸送となったが、阪堺電気軌道となった阪堺線と上町線との接続の悪さに加え、実際の運行距離よりも阿倍野での折り返し回送(阿倍野交差点は転回禁止)の距離方が長かったことによる効率性の悪さが仇となって結局、1年程で廃止された。
停留所の位置[編集]
飛田:旧南海平野線飛田駅
阿倍野:少年グランド(現:阿倍野図書館)前
廃止後の状況[編集]
廃線跡はほとんどが生活道路と化している。
今池分岐点 - 飛田電停間
分岐点と堺筋との交差点の専用軌道跡には雑居ビルが建っている。
大阪市道津守阿倍野線 天下茶屋東1丁目交差点から阿倍野交差点までの道路南側に残る架線支柱。
平野線の廃止に伴い、架線を支える支柱としての役目は終えたが、廃止以後も、大阪市西成区玉出東1丁目にある現在の阪堺電気軌道玉出変電所からの電気を阪堺線を経由し、上町線に送る送電線の架線支柱としての役目を担うことになった。その際、支柱番号は、上町線の饋電線を意味する「上 キ」となっている。
阿倍野区阪南町1丁目にある阿倍野苗代田郵便局。
1944年(昭和19年)6月1日に開局した当時、平野線の苗代田駅前にあったことから「苗代田」が局名となり、平野線の廃止後も、郵便局名の変更もなく今日に至っている。
文ノ里駅跡の記念碑
現在の阪神高速14号松原線の高架下、そして地下鉄谷町線文の里駅の7号出入口付近にあった平野線の文ノ里駅跡の前に平野線の歴史や駅の沿革を記した駅名版を模した記念碑が建っている。これは、廃止後地元の文ノ里商店連合会から南海電気鉄道に、長年親しんできた文ノ里駅の跡を偲ぶモニュメントをとの要望を受け、同社が1981年(昭和56年)3月に建立したものである。
東住吉区針中野2丁目に残る石の道標
刻まれている文字は「はりみち」と「でんしやのりば」。前者は江戸・元禄年間から今も続き、「針中野」の地名の由来ともなった「中野小児鍼」を指す。一方、後者の「でんしやのりば」は、道標の建立日が大正3年(1913年)4月とあることから、この月に開通した南海鉄道平野線中野駅であることは明らかである(なお、この近くを走る近鉄南大阪線針中野駅が開業したのは、大正12年のこと)。建立者名は「新吉」とあり、当時の中野小児鍼の院長である。
平野区背戸口5丁目にある「背戸口公園」
西平野駅跡に作られた公園で、公園内に設置されているレリーフには、阪堺線と上町線への直通運転区間を含めた当時の路線図とモ205型電車が描かれているほか、公園内の地面は線路をイメージした模様となっている。
西平野 - 平野間
この区間は背戸口公園(前述)とプロムナード平野(後述)に挟まれた形で廃線跡に住宅数件とカラオケBOX「ビッグエコー」が建っている。現在この区間の中間ぐらいの位置に国道479号線が交差しているが、その国道は平野線廃止後に整備された道路である。
平野区平野本町1丁目にある「プロムナード平野」
終着駅であった平野駅、および平野運輸区の建物跡と、その手前数百メートルの線路跡地を活用し、当時としてはモダンな八角形の屋根が特徴だった旧駅舎を模したベンチ、晩年、上町線と阪堺線とのワンマン化に伴い平野線専用として走っていたモ205形電車のレリーフ、信号機、レンガ敷きのレール、それに当時、平野駅で実際に使われていた車止めレールや駅ホームの骨組を利用した藤棚などがある。
元々の計画では、平野駅の駅舎やホームが保存される予定であったため、モ205型240号車もホームに留置されていたが、のちに駅舎とともに解体され、現在のように整地されるに至った。これがきっかけとなって平野のまちづくり運動が生まれた。
平野区平野本町1丁目にある「平野南海商店街」
終着駅であった平野駅に面していることからこの名が付けられ、廃止後も商店街名の変更もなく今日に至っている。
外部リンク[編集]
ADSL版「南海平野線」(動画)
南海平野線沿線地図
減速進行 「天王寺支線」 地形図にカーソルを重ねると地下鉄谷町線の上に平野線が表示される
[表示]
表 話 編 歴
Nankai group logo.svg 南海電気鉄道の路線
[表示]
表 話 編 歴
日本の路面電車
カテゴリ: 近畿地方の鉄道路線 (廃止)南海電気鉄道の廃線かつて存在した路面電車路線大阪府の交通史
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最終更新 2017年8月20日 (日) 07:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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