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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
橋本宇太郎
橋本宇太郎 九段
名前 橋本宇太郎
生年月日 1907年2月27日
没年月日 1994年7月24日(満87歳没)
プロ入り年 1922年
出身地 大阪府
所属 関西棋院
師匠 瀬越憲作
段位 九段
概要
タイトル獲得合計 8
七大タイトル
棋聖 挑戦者 (1977)
本因坊 3期 (1943・50-51)
王座 3期 (1953・55-56)
十段 2期 (1962・71)
この表について[表示]
橋本宇太郎(はしもと うたろう、1907年〔明治40年〕2月27日 - 1994年〔平成6年〕7月24日)は、昭和の囲碁棋士。第2、5、6期本因坊で本因坊昭宇と号する。大阪府出身、瀬越憲作名誉九段門下。1950年に関西棋院を率いて日本棋院から独立した。才気と闘志溢れる碁風で「天才宇太郎」「火の玉宇太郎」のニックネームを持つ。
1950年7月から1994年7月まで関西棋院総帥、1986年5月から1994年4月まで同棋院理事長。
1945年の第3期本因坊戦での岩本薫七段との挑戦手合において、広島市郊外の五日市町(現:広島市佐伯区)で行われた第2局は原爆下の対局として有名。
2014年7月18日、囲碁殿堂入り(第11回囲碁殿堂表彰)。[1]
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 青年期まで
1.2 本因坊就位
1.3 関西棋院独立
1.4 各棋戦での活躍
1.5 タイトル歴
1.6 その他の棋歴
1.7 受賞等
2 著作
3 代表局
4 注
5 外部リンク
6 関連項目
経歴[編集]
青年期まで[編集]
大阪市の天満北区北同心町の紙屋に生まれた。碁を始めたのは9歳のときで遊び場の近くにたまたま碁会所があり碁席で熱心にのぞいているとそこの人に勧められ碁の道に入る。久保松勝喜代八段門を経て、1920年に上京して方円社の瀬越憲作に入門し、1922年入段。その後若手棋士の研究会六華会にも参加。
1922年-1923年に本因坊対方円社敗退碁戦(地方新聞連盟)にて7人抜き、青年囲碁争覇戦て5人抜き。1924年に方円社特選敗退碁戦(東京日日新聞)にて8人抜き。『棋道』誌1926年3月号-1927年12月号の高段者対青年勝継戦で12人抜き。1935年に時事碁戦(時事新報)にて13人抜きなどの好成績を収め、「天才宇太郎」と呼ばれる。また呉清源来日にあたっては1928年に北京へ赴き、試験碁の相手を務めた。1925年に四段、1931年には神経衰弱で大手合欠場、1933年五段。1933年の日本選手権手合ではトーナメント決勝まで勝ち進むが、呉清源に敗れ準優勝。1934年結婚。
本因坊就位[編集]
1943年第2期本因坊戦では、予選トーナメント決勝でかつての師久保松勝喜代に敗れたが、その久保松が急死したために、欠員補充で橋本が4名の最終リーグ入りし、3戦全勝で関山利仙本因坊への挑戦者となった。挑戦手合5番勝負の第1局勝利の後、第2局半ばで関山病気により打ちかけ、棄権となり、本因坊位に就く。この後、挑戦者決定戦2位の木谷實から挑戦が申し込まれたが、条件が合わず実現されなかった。同年11月に東京を離れて郷里の宝塚に疎開し、対局時ごとに上京するようになる。1945年第3期は岩本薫の挑戦を受け、6番勝負を3勝3敗の後、翌年の再決戦3番勝負で2連敗して敗れる。
1946年、戦後最初の春期大手合で八段昇段。1950年2月に、日本棋院と、1948年に法人として独立していた関西棋院の間で東西対抗戦が行われ、橋本は西軍の主将として出場し、東軍の山部俊郎五段に勝つ。この碁では黒番山部が第1着を天元に打ち、白は2手目でその石にケイマにカカるという破格の序盤で話題になった。次いで行われた勝ち抜き戦では最終局に登場し梶原武雄六段に敗れた。
関西棋院独立[編集]
1950年の第5期本因坊戦の挑戦者となり、岩本薫和本因坊に4連勝で勝って本因坊位に返り咲く。しかしこの後、これまで1期2年で行って来た本因坊戦を当の本因坊である橋本の了承もなく1期1年とする改定が行われた。この問題で関西棋院と日本棋院の対立がさらに紛糾し、関西棋院はこれまで事実上日本棋院の下部組織だった実態から、完全に独立した組織となることを宣言した。これにより日本棋院の最高位であった本因坊位が関西棋院に奪われた形となった。本因坊家が本因坊位を日本棋院に託した経緯もあり日本棋院には「本因坊位を剥奪しろ」という強硬な意見もあったが「実力で取り返すべき」という意見が大勢をしめ翌期以降の本因坊戦は、日本棋院と関西棋院の両方の棋士の参加で行われることとなった。
翌年の第6期本因坊戦の挑戦者は日本棋院の坂田栄男七段となり、挑戦手合7番勝負は東西の緊張の中で行われた。橋本は一時は1勝3敗と追い詰められたが、第5局の行われる昇仙峡に向かう途中で身延山に参詣し、対戦場に着くと「首を洗って来ました」と記者にコメントを残し、心機一転その後3連勝して防衛し、本因坊位を関西棋院に保持した。続く第7期は挑戦者の高川格七段に敗れ、本因坊位は日本棋院に奪還されたが、第6期の防衛により「棋戦への本因坊不参加」という切り札を手にした関西棋院は各種棋戦への関西棋院の参加を認めさせ、これにより日本棋院に対抗する勢力としての存続の基盤が固まったとされている。
ただこの結果、関西囲碁界は関西棋院と日本棋院関西総本部とに分裂し、「弱体の関西がさらに弱くなった。分裂は、関西のために大きな損失だった」と橋本は後年回顧している[2]。
各棋戦での活躍[編集]
呉清源とは1948年と1951年の2度の十番碁を行い、橋本が先相先という結果となった。
1952年、全本因坊全八段戦出場(雁金準一に勝ち、木谷實に負け)。1954年に九段昇段。その後も各棋戦においてトップ棋士としての成績を残し、十段2期、王座3期などのタイトルを獲得。1977年の第1期棋聖戦では69歳で決勝七番勝負に進んだ(藤沢秀行九段に1勝4敗で敗れる)。1973年から7期連続で名人リーグに在籍。72歳での名人リーグ入りは最年長記録。1982年には75歳で本因坊リーグ入り。87歳での死去まで現役棋士として第一線で活躍した。
詰碁創作の名手として「東の前田、西の橋本」と言われ、1954年から始めた読売新聞(大阪版)の詰碁掲載は約40年間12,600回に及び、生涯で発表した詰碁は1万5千題ほどある。前田陳爾による「詰碁名作ベストテン」(1972年)でも古典に伍して当代の代表として「その七」に置かれている。
門下に、宮本直毅九段、宮本義久九段、東野弘昭九段、本田邦久九段ら。
タイトル歴[編集]
本因坊 1943、1950、1951年
十段 1962、1971年
王座 1953、1955、1956年
NHK杯テレビ囲碁トーナメント 1956、1963年
早碁選手権戦 1970年
プロ十傑戦 1970年
関西棋院早碁名人戦 1960年
関西棋院第一位決定戦 1968、1969、1980年
大手合優勝者決戦トーナメント優勝 1936年春・秋、1938年秋
大手合優勝 甲組・第一部 1931年秋、1939年秋、1946年春
その他の棋歴[編集]
院社対抗戦 1926年 2勝1敗
○小野田千代太郎六段、○高部道平六段、×雁金準一七段
対呉清源十番碁
第1次 1946-48年 呉清源 6-3-1ジゴ 橋本(互先、8局目まで6勝2敗で呉が先相先に打ち込む)
第2次 1950-51年 呉清源 5-3-2ジゴ 橋本(橋本先相先)
対藤沢庫之助十番碁 1954-55年 橋本 7-3 藤沢(互先、6局目まで5勝1敗で橋本が先相先に打ち込む)
本因坊就位記念対局 1943年 1-1 藤沢庫之助
呉清源対本因坊三番碁
1943年 2-0-1ジゴ(先相先)
1950年 0-3(互先)
受賞等[編集]
1955年 兵庫県文化賞
1969年 紫綬褒章
1973年 大阪文化賞
1977年 勲三等旭日中綬章
1981年 大倉賞
1983年 神戸市文化賞
2014年 囲碁殿堂表彰
著作[編集]
『勝負のこころ』浪速社 1970年
『囲碁専業五十年』至誠堂 1972年
『幻庵因碩(日本囲碁大系11) 』筑摩書房 1975年
『橋本宇太郎全集』(全6巻)筑摩書房 1976年
『橋本宇太郎(上)(下)(現代囲碁大系6,7)』講談社 1980年
『激闘譜第一期棋聖決定七番勝負―藤沢秀行VS橋本宇太郎 』読売新聞社 1979年
『橋本宇太郎 詰碁歳時記』囲碁データハウス 1993年 (ゲームソフト)
『風と刻―橋本宇太郎詰碁名作選』(全三巻)松籟社 1994年
その他、詰碁の解説書等、棋書多数。
代表局[編集]
1943年12月(日不詳) 本因坊・呉八段三番碁第2局 橋本昭宇(先相先白番)-呉清源
呉との三番碁は中部日本新聞他2紙主催で、橋本は宝塚から日本棋院に上京し、いつ空襲が来るか分からないという状態で呉と橋本もゲートル姿で打たれた。1局目は先番橋本2目勝ち。2局目は橋本白番で、序盤に右下隅で黒の厚みができ、その後右上隅の三々をめぐる攻防となった。隅の死活は黒1(77手目)でコウの形となるが、白は自石の強化、左方黒への侵入と、隅の無条件生きを狙う白2で応じる。黒もすぐに隅には打たずに3と切っていくが、白は24まで巧妙にサバいた形で、なお隅のコウも残ったままで、白の面白い形勢となった。277手完、ジゴ。橋本は「ずいぶんたくさん碁を打ってきたが、人に見てもらえるのは、この局ぐらいのものだ」と語っている。
注[編集]
^ http://www.nihonkiin.or.jp/news/2014/07/11_31.html 橋本宇太郎九段が囲碁殿堂入り
^ 「本因坊400年・手談見聞録」毎日新聞2011年12月1日付東京夕刊
外部リンク[編集]
関西棋院
関連項目[編集]
本因坊
関西棋院
典拠管理
WorldCat VIAF: 70243363 NDL: 00008494
[表示] タイトル(3冠)8期
カテゴリ: 日本の囲碁棋士広島原爆の被爆者大阪府出身の人物紫綬褒章受章者勲三等旭日中綬章受章者1907年生1994年没
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八家駅
八家駅
Yaka Station 01.jpg
やか
Yaka
◄SY 36 的形 (2.0km)(1.4km) 白浜の宮
SY 38►
所在地 兵庫県姫路市八家前浜1276-2
北緯34度47分2.92秒 東経134度43分18.79秒
駅番号 ●SY 37
所属事業者 山陽電気鉄道
所属路線 本線
キロ程 46.2km(西代起点)
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
乗車人員
-統計年度- 1,455人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1923年(大正12年)8月19日
備考 無人駅
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八家駅
配線図
凡例
↑的形駅
STRg STRf
STR+BSr STR+BSl
STR+BSr STR+BSl
SKRZ-G2BUE
STRg STRf
↓白浜の宮駅
八家駅上下線ホーム
八家駅(やかえき)は、兵庫県姫路市八家前浜にある、山陽電気鉄道本線の駅。駅番号はSY 37。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 利用状況
3 駅周辺
4 接続バス
5 歴史
6 隣の駅
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
駅構造[ソースを編集]
相対式ホーム2面2線の地上駅。駅舎は姫路方面行ホーム姫路寄りにあり、反対側の神戸方面行ホームへは構内踏切で連絡している。改札窓口は無人化されている。
のりば[ソースを編集]
(駅舎側) ■本線(下り) 飾磨・姫路・網干方面
(反対側) ■本線(上り) 明石・三宮・大阪方面
※のりば番号は設定されていない。
利用状況[ソースを編集]
乗降者数 2,903人(2008年11月11日調査)
以下に各年の乗降客数を示す。
年度 乗車人員総数 内 定期利用者数 出典
人/日 増減 順位 人/日 増減 利用率 神 明 播 加 高 姫
1957(S32) 2,189 [1]
1958(S33) 2,130 -2.707% [1]
1959(S34) 2,213 3.910% [2]
1960(S35) 2,351 6.217% [3]
1961(S36) 2,473 5.172% [4]
1962(S37) 2,561 3.578% [5]
1963(S38) 2,652 3.551% [6]
1964(S39) 3,345 26.136% [7]
1965(S40) 2,729 -18.428% [8]
1966(S41) 2,770 1.526% [9]
1967(S42) 2,763 -0.270% [9]
1968(S43) 2,732 -1.106% [10]
1969(S44) 2,724 -0.318% [11]
1970(S45) 2,623 -3.712% [12]
1971(S46) 2,589 -1.262% [13]
1972(S47) 2,582 -0.304% [14]
1973(S48) 2,520 -2.383% [14]
1974(S49) 2,578 2.315% [15]
1975(S50) 2,558 -0.785% [16]
1976(S51) 2,489 -2.716% [17]
1977(S52) 2,440 -1.949% [18]
1978(S53) 2,330 -4.497% [18]
1979(S54) 2,289 -1.790% 1,717 75.030% [19]
1980(S55) 2,274 -0.624% 1,701 -0.975% 74.765% [19]
1981(S56) 2,247 -1.194% 1,667 -1.960% 74.186% [19]
1982(S57) 2,218 -1.317% 1,670 0.189% 75.318% [19]
1983(S58) 2,131 -3.913% 1,602 -4.091% 75.179% [19]
1984(S59) 2,085 -2.141% 1,588 -0.874% 76.152% [20]
1985(S60) 1,951 -6.437% 1,464 -7.783% 75.057% [20]
1986(S61) 1,911 -2.036% 1,428 -2.475% 74.721% [20]
1987(S62) 1,826 -4.450% 1,346 -5.778% 73.682% [20]
1988(S63) 1,840 0.759% 1,338 -0.586% 72.698% [21]
1989(H01) 1,801 -2.142% 1,300 -2.839% 72.181% [21]
1990(H02) 1,798 -0.166% 1,297 -0.221% 72.141% [21]
1991(H03) 1,801 0.188% 1,294 -0.203% 71.859% [21]
1992(H04) 1,807 0.331% 32/48 1,305 0.857% 72.236% [22] [23] [24] [25] [26] [21]
1993(H05) 1,934 7.035% 25/48 1,366 4.640% 70.620% [22] [23] [24] [25] [27] [28]
1994(H06) 2,020 4.426% 23/48 1,391 1.859% 68.884% [22] [23] [24] [25] [27] [28]
1995(H07) 2,064 2.166% 24/48 1,381 -0.727% 66.934% [22] [23] [24] [29] [27] [28]
1996(H08) 2,054 -0.458% 24/48 1,368 -0.958% 66.597% [22] [30] [24] [29] [27] [28]
1997(H09) 1,975 -3.857% 24/48 1,304 -4.686% 66.023% [31] [30] [24] [29] [32] [28]
1998(H10) 1,972 -0.122% 24/48 1,312 0.656% 66.537% [31] [30] [24] [29] [32] [33]
1999(H11) 1,822 -7.620% 24/48 1,181 -10.051% 64.786% [31] [30] [24] [29] [32] [33]
2000(H12) 1,774 -2.652% 24/48 1,106 -6.280% 62.371% [31] [30] [24] [34] [32] [33]
2001(H13) 1,682 -5.151% 24/48 1,013 -8.447% 60.204% [31] [35] [36] [34] [32] [33]
2002(H14) 1,585 -5.811% 25/48 943 -6.938% 59.484% [37] [35] [36] [34] [32] [33]
2003(H15) 1,459 -7.929% 26/48 857 -9.138% 58.703% [37] [35] [36] [34] [32] [38]
2004(H16) 1,399 -4.091% 28/49 818 -4.510% 58.446% [37] [35] [36] [34] [39] [38]
2005(H17) 1,340 -4.253% 28/49 780 -4.593% 58.239% [37] [35] [36] [40] [39] [38]
2006(H18) 1,375 2.598% 28/49 773 -0.885% 56.262% [37] [41] [36] [40] [39] [38]
2007(H19) 1,373 -0.126% 29/49 773 0.000% 56.334% [42] [41] [43] [40] [39] [38]
2008(H20) 1,413 2.908% 29/49 789 2.072% 55.876% [42] [41] [43] [40] [39] [44]
2009(H21) 1,365 -3.423% 29/49 782 -0.927% 57.320% [42] [41] [43] [40] [39] [44]
2010(H22) 1,345 -1.395% 30/49 772 -1.335% 57.355% [42] [41] [43] [45] [39] [44]
2011(H23) 1,368 1.699% 29/49 804 4.122% 58.721% [42] [46] [43] [45] [47] [44]
2012(H24) 1,361 -0.501% 29/49 802 -0.164% 58.920% [48] [46] [43] [45] [47] [44]
2013(H25) 1,435 5.419% 28/49 850 5.953% 59.219% [48] [46] [49] [45] [47] [50]
駅周辺[ソースを編集]
八家地区は灘のけんか祭りで知られる松原八幡神社の氏子の旧七カ村の一つである。駅は八家川の東岸にある。川の西岸は住宅や工場の密集地であるのに対し、東岸は小高い山が連なっていて、飾磨方から来るとおおむね当駅を境に車窓の雰囲気が変わってくる。
木場港
木場ヨットハーバー(ひめじきば海の駅)
白浜海浜公園
木庭山
木庭神社
八家地蔵
日本水産姫路総合工場
のじぎく自生地
姫路八家郵便局
姫路市立八木小学校
姫路南自動車学校
マルアイ八家店
国道250号
小赤壁
小赤壁公園
接続バス[ソースを編集]
神姫バス
93系統山電八家駅前バス停(的形循環線 姫路駅南口行)
歴史[ソースを編集]
1923年(大正12年)8月19日 - 神戸姫路電気鉄道開業と同時に設置。
1927年(昭和2年)4月1日 - 神戸姫路電気鉄道が宇治川電気により合併され、同社の駅となる。
1933年(昭和8年)6月6日 - 宇治川電気の鉄道部門が分離され、山陽電気鉄道の駅となる。
1966年(昭和41年)12月1日- それまで旅客とともに貨物輸送に大きな役割を果たしてきたが、貨物の小口扱いの廃止によって貨物営業を廃止。
1968年(昭和43年)
8月 - 貨物側線および渡り線を撤去。
12月 - ホームを4連用に延長。
隣の駅[ソースを編集]
山陽電気鉄道
本線
■特急・■■直通特急
通過
■S特急・■普通
的形駅 (SY 36) - 八家駅 (SY 37) - 白浜の宮駅 (SY 38)
脚注[ソースを編集]
^ a b 『市勢要覧 姫路 1958年版』 姫路市役所 企画室、昭和34年3月1日発行、昭和34年2月10日印刷(第一印刷株式会社)、52頁。(山陽電鉄本社調)
^ 『姫路市勢要覧 昭和34年版』 姫路市企画室、昭和35年3月31日発行、昭和35年3月25日印刷(有限会社 中山印刷所)、36頁。(資料 山陽電鉄KK。昭和29年1月~12月の集計)
^ 『姫路市勢要覧 1961年版』 姫路市役所、昭和36年5月25日発行、昭和36年5月20日印刷(有限会社中山印刷所)、38頁。(山陽電鉄 K. K. 昭和35年1月~12月の集計)
^ 『姫路市勢要覧 1962年版』 姫路市役所、昭和37年4月15日発行、昭和37年4月10日印刷(有限会社中山印刷所)、38頁。昭和36年1月~12月の集計
^ 『姫路市勢要覧 1963年版』 姫路市役所、昭和38年10月15日発行、昭和38年10月1日印刷(第一印刷株式会社)、42頁。昭和37年1月~12月の集計
^ 『姫路市勢要覧 1964年版』 姫路市企画室 調査統計課、昭和39年11月5日発行、昭和39年10月15日印刷(第一印刷株式会社)、44頁。昭和38年1月~12月の集計
^ 『姫路市勢要覧 1965年版』 姫路市企画室調査統計課、奥付に発行日記載なし(印刷所 有限会社中山印刷)、38頁。昭和39年1月~12月の集計
^ 『姫路市勢要覧 1967年版』 姫路市企画室調査統計課、奥付に発行日記載なし(印刷 内海印刷株式会社)、統計表12頁。
^ a b 『姫路市勢要覧 1968年版』 姫路市 企画室 企画課、奥付に発行日記載なし(印刷所 有限会社 中山印刷所)、統計表13頁。
^ 『姫路市勢要覧 1969年版』 姫路市 企画室 企画課、奥付に発行日記載なし(印刷所 山野印刷株式会社)、統計表13頁。
^ 『姫路市勢要覧 1970年版』 姫路市 企画室 企画課、奥付に発行日記載なし(印刷所 大日本印刷株式会社)、統計表15頁。
^ 『姫路市勢要覧 1971年版』 姫路市企画室企画課、奥付に発行日記載なし(印刷 岸本印刷株式会社)、統計表14頁。
^ 『姫路市勢要覧 1972年版』 姫路市企画室企画課、奥付に発行日記載なし(印刷所 凸版印刷株式会社)、統計表13頁。
^ a b 『姫路市統計要覧 昭和49年版』 姫路市企画室企画課、昭和49年8月1日発行(印刷所 小野高速印刷株式会社)、73頁。
^ 『姫路市統計要覧 昭和50年版』 姫路市企画室企画課、昭和50年9月1日発行(印刷所 小野高速印刷株式会社)、71頁。
^ 『姫路市統計要覧 昭和51年版』 姫路市企画室企画課、昭和51年9月1日発行(印刷所 小野高速印刷株式会社)、71頁。
^ 『姫路市統計要覧 昭和52年版』 姫路市企画室企画課、昭和52年10月1日発行(印刷所 小野高速印刷株式会社)、71頁。
^ a b 『姫路市統計要覧 昭和54年版』 姫路市理財局企画財政部企画課、昭和54年12月1日発行(印刷所 高橋総合印刷株式会社)、p.80
^ a b c d e 『姫路市統計要覧 昭和59年版』 姫路市企画局調整課、昭和60年3月発行、p.148, p.150
^ a b c d 『姫路市統計要覧 昭和63年版』 姫路市企画局総合企画室、平成元年3月発行、p.106(「注)定期乗車人員算定方法について、59年度までは交通量調査の資料を基礎としていたが、60年度からは、実績を採用している。」との記載あり)
^ a b c d e 『姫路市統計要覧 平成5年版』 姫路市総務局総務部情報管理課、平成6年3月発行、pp.102-103
^ a b c d e 『第74回 神戸市統計書(平成9年度版)』 神戸市震災復興本部総括局復興推進部企画課、平成10年3月印刷発行(交友印刷株式会社)、pp.143-144
^ a b c d 『明石市統計書(平成8年版)』 兵庫県明石市企画財政部企画課統計係、平成9年3月印刷発行(株式会社 ソーエイ)、p.216
^ a b c d e f g h i 『播磨町統計書(平成13年度版)』 兵庫県播磨町企画調整課、平成13年7月発行、p.27
^ a b c 『加古川市統計書(平成7年度版)』 編集:加古川市総務部総務課(平成8年2月)、発行:兵庫県加古川市役所(平成8年3月)、p.105
^ 『高砂市統計書 平成8年版』 編集:総務部総務課、発行:高砂市役所(平成8年11月)、p.49
^ a b c d 『高砂市統計書 平成12年版』 高砂市総務部文書課、平成13年2月発行、p.49
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成10年(1998年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e 『加古川市統計書(平成12年度版)』 兵庫県加古川市総務部総務課、平成13年3月発行、p.107
^ a b c d e 明石市統計書 平成13年版(2001年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e 『第79回 神戸市統計書(平成14年度版)』 神戸市企画調整局企画調整部総合計画課、平成15年3月印刷発行(有限会社 わかばやし印刷)、pp.151-152
^ a b c d e f g 高砂市統計書(16年度) 9.運輸・通信、更新日: 2008年3月14日
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成15年(2003年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e 平成17年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2014年12月24日
^ a b c d e 明石市統計書 平成18年版(2006年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e f 播磨町統計書(2007年版)、更新日:2016年3月1日
^ a b c d e 『第84回 神戸市統計書(平成19年度版)』 神戸市企画調整局企画調整部総合計画課、平成20年3月印刷発行(有限会社 わかばやし印刷)、pp.127-128
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成20年(2008年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e f g 高砂市統計書(23年度) 9.運輸・通信、更新日: 2012年2月29日
^ a b c d e 平成22年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2014年12月23日
^ a b c d e 明石市統計書 平成23年版(2011年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e 第89回神戸市統計書 平成24年度版(最終更新日2013年4月8日) 9 陸上運輸・空港
^ a b c d e f 播磨町統計書(2013年版)、更新日:2016年3月1日
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成25年(2013年)版 10.運輸・通信
^ a b c d 平成26年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2015年4月21日
^ a b c 明石市統計書 平成27年版(2015年) 更新日:2016年3月31日
^ a b c 高砂市統計書(27年度) 9.運輸・通信、更新日: 2016年3月7日
^ a b 第92回神戸市統計書 平成27年度版(最終更新日2016年4月7日) 9 陸上運輸・空港
^ 播磨町統計書(2015年版)、更新日:2016年3月1日
^ 姫路市統計要覧 - 平成26年(2014年)版 10.運輸・通信
関連項目[ソースを編集]
日本の鉄道駅一覧
外部リンク[ソースを編集]
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八家駅(山陽電気鉄道)
[表示] Sanyo electric railway logo-2.svg 山陽電気鉄道 本線
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