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囲碁は、陣地を囲むゲームです。
RPGゲームやアクションゲームとは異なる思考で次の一手を考える、面白いゲームです。
将棋、チェスと並ぶ、究極の思考ゲームとも言われます。
ブラウザーのみで動作するケースを特に囲碁ブラウザゲームと称することもあります。
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相手が見つからないときは、思考エンジンが、お相手します。待ち惚けになりません。
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対局(専用)ソフトを使用しません。ブラウザーのみで動作します。インストール不要なので不安がありません。
一般的なゲームでは、「礼」に重きをおきませんが、知的ゲームでは、礼を重んじる利用者が多いので、礼を心がけたいものです。
将棋に「ハサミ将棋」や「山崩し」があるように、囲碁にも「ポン抜きゲーム」/「石取りゲーム」があります。基本となる「アタリ」の習得に有用です。
ドンジャラも麻雀の基礎ルールの説明には有用ですね。
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当サイトに、お越しいただいて有難うございます。
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当サイトで、御覧頂いているブラウザを使用して囲碁対局ができます。HTML5を使用するので、ソフトのインストールは不要です。
初心者の方も、対局できるようになっております。
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「ネット碁を打ちたいけどどこで打ったらいいのかわからない」という方は、参考にしてください。
オススメするネット囲碁対局場3選
ここによると、
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・ユーザーの質
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これらを鑑みると、
3:幽玄の間
2:KGS
1:パンダネット
だそうです。
推薦者のブログ
幽玄の間の口コミ
幽玄の間サイト
KGSの口コミ
KGS
パンダネット
当サイトも、及ばずながら、がんばります。
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
碁
囲碁
ゲーム
Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
伊藤松和
伊藤 松和(いとう しょうわ、享和元年(1801年) - 明治11年(1878年))は、江戸・明治時代の囲碁棋士。名古屋出身、本因坊元丈門下、八段準名人。幼名は松次郎。天保四傑の一人として数えられる幕末の強手で、軽妙、機知に富む碁風、雅韻があったとも言われる。
目次 [非表示]
1 経歴
2 戦績
2.1 御城碁
2.2 代表局
3 参考文献
4 外部リンク
経歴[編集]
商人の家に生まれ、幼時に加藤隆和とともに名古屋在住の伊藤子元に入門。尾張徳川家の藩士が素質を見込み、文化9年(1812年)12歳で江戸へ登って本因坊元丈に入門。一旦帰郷するが再度奮起して江戸に戻り、本因坊丈和の教えを受け、文政5年(1822年)に初段を許される。五段まで昇った後に帰郷、尾張の松次郎として名を馳せ、天保2年(1831年)には尾州候御目見えの上で名字帯刀を許される。天保8年(1837年)に西国遊歴し、尾道に立ち寄った際に9歳で初段近かった安田栄斎(本因坊秀策)と対局。当初秀策に対し「座敷ホイト」(ホイトは乞食の意味)と放言したが、対局してみて9歳と思えない碁に感嘆した。後に秀策が本因坊跡目になった際、松和は自ら前記の放言の謝罪に訪れたところ、秀策は「自分を奮い立たせた発言であった」と逆に感謝したとされる。
天保11年に再度江戸に出て、本因坊丈策より六段を許される。嘉永2年(1849年)には家元四家外としては珍しく七段に進み、松和と改名、49歳で本因坊秀策とともに御城碁に初出仕、幕府より十人扶持を受けるようになる。
御城碁は文久元年(1861年)まで19局を勤める。そのうち秀策とは4局あり松和全敗。最初の対戦は松和、秀策ともに御城碁3局目にあたる嘉永3年(1850年)の局で、秀策先相先3目勝ちとなったものの、終盤の劫争いで逆転するまで白が優勢を保ち、秀策の御城碁19連勝のうちで最も苦戦した碁と言われ、松和を高く評価する因となった。
神田お玉ヶ池の千葉周作道場の近くに教場を開き賑わったが、火災に遭い上野山下に転居。教場はなおも繁盛したため、明治維新によっても伊藤は生活に苦心することはなかったという。明治3年(1869年)に林秀栄(後の本因坊秀栄)四段と先二の十番碁を打ち、2勝7敗1持碁とする。その後八段準名人に推された。明治11年に上野の自宅で死去。性格温和であったとされる。また酒好きで、1日3度飲んだという。門下に杉山千和、梶川昇、森左抦、他に濃尾地方に数多い。弟の安次郎は四段まで昇った。
戦績[編集]
御城碁[編集]
1849年(嘉永2年)白番中押勝 林柏栄門入、先番3目勝 安井算知
1850年(嘉永3年)白番9目負 安井算知、白番3目負 本因坊秀策
1851年(嘉永4年)白番1目勝 井上松本因碩、先番2目勝 本因坊秀和
1852年(嘉永5年)白番中押負 阪口仙得、白番6目負 本因坊秀策
1853年(嘉永6年)先番中押勝 林柏栄門入、先番5目負 本因坊秀和
1854年(安政元年)先番4目勝 安井算知
1856年(安政3年)先番中押負 本因坊秀策
1857年(安政4年)先番中押負 阪口仙得
1858年(安政5年)白番2目勝 林有美
1859年(安政6年)白番9目負 本因坊秀策、白番7目勝 林柏栄門入
1860年(万延元年)白番中押負 阪口仙得
1861年(文久元年)向三子中押負 安井算英、先番中押勝 阪口仙得
代表局[編集]
「名人の所作」
天保12年(1841年)の本因坊秀和との対局は、松和先相先の白番で、布石から機敏に打ち細碁に持ち込んで持碁とし、松和一生の傑作とされる。この碁を見た丈和と井上幻庵因碩は「秀和の碁として一点の非難すべきなし。然るに松次郎、白を以て持碁となせるは名人の所作なり」と評したという。
Matsujiro-shuwa-18410308-32-46.jpg
白1(32手目)から9が名調子で、さらに白11、15と軽妙に進出しつつ下辺黒に圧力をかける。すでに細碁の局面で、この後黒から中央で仕掛けていくが、白がうまく打ち回した。
秀和とは天保10年の名古屋在時から互先で打ち始め、その後先相先、弘化2年(1845年)に松次郎定先となった。
「古今の長局」
天保10年(1839年)の九世安井算知 (俊哲)との互先の先番2目勝ちの碁は、中盤と終盤に大石の生死を巡る劫争いが延々争われて405手の長手順となったことで知られ、古今唯一の長局と呼ばれた(現在の記録は1950年の大手合、山部俊郎-星野紀戦の411手)。
参考文献[編集]
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
橋本昌二『松和・雄蔵(日本囲碁大系第13巻) 』筑摩書房 1975年
田村竜騎兵『物語り 囲碁英傑伝』毎日コミュニケーションズ 2005年
福井正明『碁界黄金の十九世紀-江戸後期から明治‐日本の碁を頂点に導いた名手たち』日本棋院 2007年
外部リンク[編集]
木石庵「伊藤松和」
カテゴリ: 江戸時代の囲碁棋士日本の囲碁棋士名古屋市出身の人物1801年生1878年没
東二見駅
東二見駅
東二見駅(南口)
東二見駅(南口)
ひがしふたみ
Higashi-futami
◄SY 24 山陽魚住 (1.7km)(1.3km) 西二見 SY 26►
兵庫県明石市二見町東二見藤寄417-9
北緯34度42分0.06秒 東経134度53分18.06秒
駅番号 ●SY 25
所属事業者 山陽電気鉄道
所属路線 本線
キロ程 27.3km(西代起点)
梅田から64.4km
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 3面5線
乗車人員
-統計年度- 4,232人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1923年(大正12年)8月19日
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東二見駅
配線図
凡例
↑山陽魚住駅
5 4 3 2 1
STRg STRf
ABZlf ABZlg
BUE BUE
STRrg ABZrf ABZlf STRlg
STRrg
STR+BSr STR+BSl
STR+BSr STR+BSl STR+BSr
STR+BSr STR+BSl STR+BSr
STR+BSr STR+BSl STR+BSr
STR+BSr STR+BSl STR+BSr
STR STR+BSl STR+BSr STR+BSl STR+BSr
STR ABZlf ABZlg ABZrg STRrf
STR STR ABZlf ABZlg
KDSTe KDSTe STRg STRf
↓西二見駅
東二見駅(ひがしふたみえき)は、兵庫県明石市二見町東二見藤寄にある山陽電気鉄道本線の駅。駅番号はSY 25。
全ての列車が停車する。駅の西側(姫路方向)に東二見車両基地があり、早朝、夜間や一部時間帯にはこの駅を始終点とする列車も設定されている。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 接続バス路線
2.1 南側(浜国)
2.2 北口
3 利用状況
4 駅周辺
5 歴史
6 隣の駅
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
駅構造[編集]
島式3面5線のホームを持つ橋上駅。定期券発売所、コインロッカー(改札外)、フレンズショップ(駅売店)がある。改札口は1ヶ所のみ。南北双方に入口がある。
改札口とホームおよび駅入口を結ぶエレベーターが2008年6月に完成。また、駅周辺も駐停車場や市営有料駐輪場等が整備され、市西の玄関口としてバリアフリー化が進んでいる。かつては駐輪場がなく、駅周辺に放置自転車が多数あり、問題となったが、改善された。
2011年冬に駅南側旧浜国道をまたぐ歩道橋が東二見駅橋上駅舎と直結で整備された。
山陽電鉄では初導入となる液晶式(LCD)の発車標を改札口とホームに備えている。
のりば[編集]
1・2 ■本線(下り) 高砂・姫路・網干方面
3・4 ■本線(上り) 明石・三宮・大阪方面
5 ■本線(上り) (車両交換時の乗換ホーム)
内側2線(2番線と3番線)が主本線、外側2線(1番線と4番線)が待避線である。
4番線の線路は、3・4番線ホームと5番線ホームに挟まれている。その5番線ホームは駅舎から繋がっていないため、通常は立ち入ることができず、一部の上り普通列車が当駅で車両交換を行う際にのみ使われる。その際に当駅止となる交換元列車が4番線に入り両扉を開放した上で、車庫より5番線に入線した交換先の列車へ連絡する。この場合、当駅からの乗客は4番線の当駅止列車を通り抜けて5番線の列車に乗ることになる。(姫路方面から入線した場合、車庫への入庫が4番線しか対応していない為。)
1番線・2番線からは神戸方面へ、3番線・4番線からは姫路方面への出発も可能であるが現行ダイヤでは設定が無い。
上り列車が東二見車庫へ入庫する場合は4番線に入線する。
上りは当駅の次は須磨か東須磨まで終着駅が無いため、終電が早い(直通特急は23時24分発阪神尼崎行、普通は23時34分発の東須磨行が最後)。
下りについては終着駅が多いので日付変更後まである。(姫路行は23:58発S特急と0:10発直通特急、飾磨行は0:11発普通、高砂行は0:26発の普通がある。)
下りの乗務員は、当駅で交代する。
改修後の北口
改修後の南口階段部分
改修後の南口連絡通路接続部分コンコース方向
下りプラットホーム
入線する列車
LCDの案内装置
改修前の南口階段部分
接続バス路線[編集]
南側(浜国)[編集]
山陽バス
71系統:西二見・西二見駅経由 南二見行
神姫バス
国道土山・稲美中央公園経由 上新田北口行
Tacoバス
(12) 西岡東ルート 二見市民センター・ふれあいプラザあかし西・ぼたん寺口・山陽魚住駅経由西二見駅・ JR魚住駅行
(17) 二見・左回りルート 城之上西・二見市民センター・山陽東二見駅(当駅)・イトーヨーカドー・西二見駅・岡の下経由 JR土山駅南口行
北口[編集]
Tacoバス
(16) 二見・右回りルート 二見中学校・中の又経由 JR土山駅南口行
利用状況[編集]
乗降者数 8,097人(2009年11月10日調査)加古川市・播磨町民の乗客のほとんどが、ここで乗り換える(加古川市内に直通特急などの停車する駅が存在しないため)。そのため、山陽電鉄全線中10位以内に入る主要駅となっている。
以下に各年の乗降客数を示す。
年度 乗車人員総数 内 定期利用者数 出典
人/日 増減 順位 人/日 増減 利用率 神 明 播 加 高 姫
1956(S31) 3,225 [1]
1957(S32)
1958(S33)
1959(S34) 3,685 [2]
1960(S35) 3,995 8.418% [3]
1961(S36) 4,369 9.364% [4]
1962(S37) 4,914 12.458% [4]
1963(S38) 5,391 9.714% [4]
1964(S39) 5,933 10.054% [4]
1965(S40) 6,071 2.327% [4]
1966(S41) 6,121 0.812% [5]
1967(S42) 6,255 2.193% [5]
1968(S43) 6,455 3.198% [5]
1969(S44) 6,671 3.353% [5]
1970(S45) 6,652 -0.287% [5]
1971(S46) 6,548 -1.565% 4,805 73.389% [6]
1972(S47) 6,611 0.962% 4,956 3.136% 74.969% [7]
1973(S48) 6,614 0.041% 4,942 -0.276% 74.731% [8]
1974(S49) 6,899 4.308% 5,227 5.765% 75.774% [9]
1975(S50) 6,786 -1.628% 5,074 -2.935% 74.768% [10]
1976(S51) 6,326 -6.782% 4,729 -6.803% 74.751% [11]
1977(S52) 6,559 3.681% 4,879 3.187% 74.394% [12]
1978(S53) 6,523 -0.543% 4,879 0.000% 74.801% [13]
1979(S54) 6,427 -1.470% 4,737 -2.920% 73.700% [14]
1980(S55) 7,022 9.250% 5,367 13.302% 76.434% [15]
1981(S56) 5,304 -24.464% 5,304 -1.174% 100.000% [16]
1982(S57) 7,019 32.335% 5,340 0.671% 76.073% [17]
1983(S58) 6,992 -0.390% 5,219 -2.258% 74.647% [17]
1984(S59) 6,888 -1.489% 5,123 -1.837% 74.383% [17]
1985(S60) 6,732 -2.267% 4,989 -2.620% 74.115% [17]
1986(S61) 6,559 -2.564% 4,778 -4.228% 72.849% [17]
1987(S62) 6,444 -1.754% 4,668 -2.294% 72.449% [18]
1988(S63) 6,584 2.168% 4,742 1.585% 72.035% [18]
1989(H01) 6,630 0.707% 4,778 0.751% 72.066% [18]
1990(H02) 7,033 6.074% 5,107 6.881% 72.614% [18]
1991(H03) 7,090 0.818% 5,132 0.483% 72.372% [19]
1992(H04) 6,956 -1.893% 05/48 5,008 -2.403% 71.997% [20] [19] [21] [22] [23] [24]
1993(H05) 6,882 -1.063% 05/48 4,918 -1.805% 71.457% [20] [19] [21] [22] [25] [26]
1994(H06) 6,737 -2.110% 04/48 4,756 -3.287% 70.598% [20] [19] [21] [22] [25] [26]
1995(H07) 6,740 0.041% 04/48 4,652 -2.189% 69.024% [20] [19] [21] [27] [25] [26]
1996(H08) 6,718 -0.325% 05/48 4,616 -0.766% 68.719% [20] [28] [21] [27] [25] [26]
1997(H09) 6,468 -3.711% 05/48 4,449 -3.620% 68.784% [29] [28] [21] [27] [30] [26]
1998(H10) 6,205 -4.066% 05/48 4,274 -3.941% 68.874% [29] [28] [21] [27] [30] [31]
1999(H11) 5,863 -5.519% 05/48 4,047 -5.321% 69.019% [29] [28] [21] [27] [30] [31]
2000(H12) 5,690 -2.944% 05/48 3,888 -3.927% 68.320% [29] [28] [21] [32] [30] [31]
2001(H13) 5,630 -1.059% 05/48 3,786 -2.607% 67.251% [29] [33] [34] [32] [30] [31]
2002(H14) 5,405 -3.990% 05/48 3,603 -4.848% 66.650% [35] [33] [34] [32] [30] [31]
2003(H15) 5,241 -3.041% 05/48 3,411 -5.323% 65.081% [35] [33] [34] [32] [30] [36]
2004(H16) 5,630 7.423% 04/49 3,537 3.695% 62.822% [35] [33] [34] [32] [37] [36]
2005(H17) 4,126 -26.715% 06/49 2,655 -24.942% 64.343% [35] [33] [34] [38] [37] [36]
2006(H18) 4,101 -0.598% 07/49 2,614 -1.548% 63.727% [35] [39] [34] [38] [37] [36]
2007(H19) 4,038 -1.536% 08/49 2,589 -0.943% 64.111% [40] [39] [41] [38] [37] [36]
2008(H20) 4,123 2.103% 08/49 2,649 2.328% 64.252% [40] [39] [41] [38] [37] [42]
2009(H21) 4,112 -0.266% 08/49 2,622 -1.034% 63.757% [40] [39] [41] [38] [37] [42]
2010(H22) 4,132 0.466% 08/49 2,573 -1.881% 62.268% [40] [39] [41] [43] [37] [42]
2011(H23) 4,077 -1.326% 08/49 2,512 -2.343% 61.626% [40] [44] [41] [43] [45] [42]
2012(H24) 4,079 0.067% 08/49 2,490 -0.872% 61.048% [46] [44] [41] [43] [45] [42]
2013(H25) 4,203 3.022% 08/49 2,532 1.650% 60.235% [46] [44] [47] [43] [45] [48]
駅周辺[編集]
駅南側(浜側)は、昔ながらの漁師町の風情が漂う街並みとなっている。
明石市二見市民センター
明石市立二見幼稚園
明石市立二見保育所
明石市立二見小学校
御厨神社
瑞応寺
明石海浜公園
明石海浜プール
東二見フィッシングセンター
二見ボートパーク
二見郵便局
明石東二見郵便局
二見綜合市場
トーホーストア東二見店
マルアイ東二見店
国道250号(明姫幹線)
兵庫県道718号明石高砂線(旧・国道250号)
明石市立ふれあいプラザあかし西
播州信用金庫二見支店
日新信用金庫二見支店
兵庫南農業協同組合二見支店
みなと銀行二見支店
兵庫県明石警察署東二見交番
御厨神社
43041:二見郵便局
歴史[編集]
1923年(大正12年)8月19日 - 神戸姫路電気鉄道開業と同時に設置。開業当初は加古郡二見町だった。(明石郡では無いが、1951年(昭和26年)1月10日、明石市に編入。)
1927年(昭和2年)4月1日 - 神戸姫路電気鉄道が宇治川電気により合併され、同社の駅となる。
1933年(昭和8年)6月6日 - 宇治川電気の鉄道部門が分離され、山陽電気鉄道の駅となる。
1940年(昭和15年) - 現在地に移転。
1948年(昭和23年)3月1日 - 戦後改めて設定された急行(1984年設定消滅)の停車駅となる。
1953年(昭和28年)10月1日 - 特急停車駅となる。
隣の駅[編集]
山陽電気鉄道
本線
■特急(高砂方のみ運転)
東二見駅 (SY 25) - 高砂駅 (SY 31)
■■直通特急
山陽明石駅 (SY 17) - 東二見駅 (SY 25) - 高砂駅 (SY 31)
■S特急(当駅から西二見方の各駅に停車)
藤江駅 (SY 20) - 東二見駅 (SY 25) - 西二見駅 (SY 26)
■普通
山陽魚住駅 (SY 24) - 東二見駅 (SY 25) - 西二見駅 (SY 26)
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、東二見駅に関連するカテゴリがあります。
日本の鉄道駅一覧
二見駅(曖昧さ回避)
脚注[編集]
^ 『明石市統計書 昭和32年版』 明石市秘書課 広報統計係、昭和32年12月1日刊行 (奥付なし)、p.117
^ 『明石市統計書 昭和35年版』 明石市役所 秘書課広報統計係、昭和35年12月1日刊行 (奥付なし)、p.143
^ 『明石市統計書 昭和36年版』 明石市役所 秘書課広報統計係、昭和36年12月1日刊行 (奥付なし)、p.150
^ a b c d e 『明石市統計書 昭和41年版』 明石市企画室、昭和42年1月刊行 (奥付なし)、p.146
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^ 『明石市統計書1972年版』 昭和47年9月刊行 (奥付なし)、pp.152-153
^ 『明石市統計書(昭和48年版)』 昭和48年9月刊行 (奥付なし)、pp.129-131
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^ 『明石市統計書(昭和50年版)』 昭和50年12月刊行 (奥付なし)、pp.186-187
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^ 『昭和53年版 明石市統計書』 明石市市役所総務部企画課統計係、昭和53年12月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.245-246
^ 『昭和54年版 明石市統計書』 明石市市役所総務部企画課統計係、昭和54年12月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.235-236
^ 『昭和55年版 明石市統計書』 明石市役所総務部企画課統計係、昭和56年3月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.261-262
^ 『昭和56年版 明石市統計書』 明石市総務部企画課統計係、昭和57年1月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.261-262
^ 『昭和57年版 明石市統計書』 明石市総務部企画課統計係、昭和58年3月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.265-266
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^ a b c d 『明石市統計書(平成4年版)』 兵庫県明石市企画財政部企画課統計係、平成5年3月印刷発行(株式会社 ソーエイ)、p.212
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^ a b c d e 『第74回 神戸市統計書(平成9年度版)』 神戸市震災復興本部総括局復興推進部企画課、平成10年3月印刷発行(交友印刷株式会社)、pp.143-144
^ a b c d e f g h i 『播磨町統計書(平成13年度版)』 兵庫県播磨町企画調整課、平成13年7月発行、p.27
^ a b c 『加古川市統計書(平成7年度版)』 編集:加古川市総務部総務課(平成8年2月)、発行:兵庫県加古川市役所(平成8年3月)、p.105
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^ 『姫路市統計要覧 平成5年版』 姫路市総務局総務部情報管理課、平成6年3月発行、pp.102-103
^ a b c d 『高砂市統計書 平成12年版』 高砂市総務部文書課、平成13年2月発行、p.49
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^ a b c d e 明石市統計書 平成13年版(2001年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e 『第79回 神戸市統計書(平成14年度版)』 神戸市企画調整局企画調整部総合計画課、平成15年3月印刷発行(有限会社 わかばやし印刷)、pp.151-152
^ a b c d e f g 高砂市統計書(16年度) 9.運輸・通信、更新日: 2008年3月14日
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^ a b c d e 平成17年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2014年12月24日
^ a b c d e 明石市統計書 平成18年版(2006年) 更新日:2016年4月22日
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^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成20年(2008年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e f g 高砂市統計書(23年度) 9.運輸・通信、更新日: 2012年2月29日
^ a b c d e 平成22年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2014年12月23日
^ a b c d e 明石市統計書 平成23年版(2011年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e 第89回神戸市統計書 平成24年度版(最終更新日2013年4月8日) 9 陸上運輸・空港
^ a b c d e f 播磨町統計書(2013年版)、更新日:2016年3月1日
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成25年(2013年)版 10.運輸・通信
^ a b c d 平成26年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2015年4月21日
^ a b c 明石市統計書 平成27年版(2015年) 更新日:2016年3月31日
^ a b c 高砂市統計書(27年度) 9.運輸・通信、更新日: 2016年3月7日
^ a b 第92回神戸市統計書 平成27年度版(最終更新日2016年4月7日) 9 陸上運輸・空港
^ 播磨町統計書(2015年版)、更新日:2016年3月1日
^ 姫路市統計要覧 - 平成26年(2014年)版 10.運輸・通信
外部リンク[編集]
東二見駅(山陽電気鉄道)
[表示] Sanyo electric railway logo-2.svg 山陽電気鉄道 本線
カテゴリ: 日本の鉄道駅 ひ山陽電気鉄道の鉄道駅明石市の鉄道駅1923年開業の鉄道駅
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桂ざこば (2代目)
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2代目 桂 ざこばにだいめ かつら ざこば
2代目 桂 ざこば
結び柏は、桂米朝一門の定紋である。
本名 関口 弘(せきぐち ひろむ)[1]
生年月日 1947年9月21日(69歳)
出身地 大阪府大阪市西成区今池
師匠 3代目桂米朝
弟子 4代目桂塩鯛、他
名跡 1. 桂朝丸 (1963年 - 1988年)
2.2代目桂ざこば (1988年 - )
活動期間 1963年 -
活動内容 上方落語
配偶者 あり
家族 関口まい(次女)
所属 米朝事務所
公式サイト 桂ざこば[2]
受賞歴
1985年(昭和60年) 「上方お笑い大賞」金賞
1992年(平成4年)「上方お笑い大賞」大賞
備考
上方落語協会理事
表示
2代目 桂 ざこば(にだいめ かつら ざこば、1947年9月21日[1] - )は、上方の落語家、タレント。本名、関口 弘(せきぐち ひろむ)[1]。血液型はO型。2人姉弟の長男(姉1人、)。
大阪府大阪市西成区出身。米朝事務所所属。上方落語協会会員(代表理事)。前名は桂 朝丸(かつら ちょうまる)。出囃子は「御船」(ぎょせん)。愛称は「ざこびっち」。桂雀々とは夫人同士が姉妹であるため義兄弟の間柄。甥(ざこばの妻の弟の子)にJAY'ED。
目次 [非表示]
1 来歴
2 芸歴
3 得意とするネタ
4 人物
4.1 発言
5 人間関係
5.1 師匠・米朝に関して
5.2 その他
6 家族
7 出演番組
7.1 現在放送中の番組
7.2 放送が終了した番組
7.3 過去に出演した番組
7.4 テレビドラマ
7.5 映画
7.6 舞台
8 弟子
8.1 直弟子
8.2 孫弟子
9 レコード・CD
10 著書
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
来歴[編集]
小学校2年生の時、両親が離婚し警察官だった父親に引き取られたが、3か月ほど経って父親は電車に飛び込み自殺した。1963年(昭和38年)、日本橋中学校在学中から学校をさぼり千日劇場などの劇場通いに没頭。その時にたまたま見た3代目桂米朝の芸に一目惚れし、在学中から何度も弟子入り志願したが「この時代高校だけは卒業したほうがええ」と言われ断られ続けた。卒業後の5月に桂米朝に入門が許される。本人の述懐では、米朝の謝絶に遭った後に中学の教師に進学の相談をすると「お前が入れる高校はないぞ」と言われ、米朝にその旨報告し、「なら、しゃーないな」(それなら仕方ない)と入門を許されたという[3]。また就職も勧められ1か月ほど働いていた経験もある。
師匠の米朝は同時に育ての親にもなり、家族同然の内弟子生活を過ごした。このころ、4代目桂文紅の自宅に居候していた時期、また米朝が永六輔に依頼して東京で活動していた時期もある。朝丸時代(千土地興行、大宝芸能所属)千日劇場やトップホットシアターに出演。千日劇場では師匠米朝が司会する「お笑いとんち袋」(関西テレビの大喜利番組)のレギュラーとなり、トップホットシアターでは自作の「動物いじめ」で売り同劇場の看板芸人となった。「動物いじめ」ネタはレコード化もされたが、ネタの内容に動物愛護団体からクレームが付いた。
スポット的ではあるが、テレビ番組の収録で吉本興業の花月劇場チェーンや、松竹の角座の舞台にも立った。
全国的には「ウィークエンダー」での「テレビ三面記事」のレポーターとしての出演がある。
後は東京で活動するようになったが低迷し、大阪に拠点を戻す。2006年(平成18年)以降、大阪のテレビ、ラジオを含めて9本のレギュラー番組を持つ。60歳を過ぎ落語会を開催したいとしている[4]。ただ、最近は軟化し、レギュラー番組の出演は10月の改編期を過ぎても降板せずに引き続き続投したり、「65歳までは頑張る」と軌道修正ともとれる発言もしている。
噺のスタイルは「朴訥」。
大阪市内に寄席「動楽亭」を開いている。
米朝一門の中では桂枝雀死後、実質的に弟子筆頭として、桂南光とともに米朝の存命中は補佐する形で一門の運営を主導しており、米朝没後もその地位は変わっていない(ざこばの兄弟子月亭可朝は他の一門のメンバーと別の事務所に所属していることもあり、米朝一門の運営に直接関わっていない)。ざこばと南光は米朝一門の大半が所属する米朝事務所の専務取締役(ざこば)・常務取締役で(南光)ある。
2017年5月27日、左中大脳動脈閉鎖症、塞栓性脳梗塞と診断され、入院加療となった[5][6][7]。
芸歴[編集]
1963年(昭和38年)5月 桂米朝に入門[1][8]し3か月後京都の留置所で「子ほめ」で初舞台[9]。
1966年(昭和41年)初の独演会「朝丸自身の会」開催
1985年(昭和60年)「上方お笑い大賞」金賞受賞
1988年(昭和63年)2代目「桂ざこば」を襲名[1](襲名の際は初代の墓に参り法要をしている)
1992年(平成4年)「上方お笑い大賞」大賞受賞
1994年(平成6年)上方落語協会を脱退
会長選出方法などをめぐって当時の執行部(特に露の五郎)と対立した桂枝雀一門が脱退し、その脱退問題を話し合う場で、理事の1人が会費滞納を理由に枝雀一門を非難した。その非難に「枝雀兄ちゃんを悪くいうんか」と怒ったざこばが一門を率いて脱退した。
2004年(平成16年)6月21日 上方落語協会に復帰
2007年(平成19年)7月7日 噺家生活45周年・還暦記念公演「桂ざこばの会」を京都の南座で開催
2008年12月 西成区山王のマンション2階に寄席小屋「動楽亭」を開設
2011年 大阪市民表彰受賞。
2012年 噺家生活50周年
2017年 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
得意とするネタ[編集]
子は鎹、らくだ、お玉牛、崇徳院、一文笛、肝潰し、厩火事、遊山船、強情、天災、坊主茶屋、不精の代参 など
人物[編集]
好きな人物への思いやりが強く、2004年の自身の弟子である桂喜丸の告別式やお別れの会などでの泣き様は尋常ではなかった[10]。2016年1月に死去した桂春團治の「お別れの会」でも泣き崩れる姿が報じられている[11]。一時確執のあったやしきたかじんについても同様であった(詳細は後述)。
裁判員制度には否定的なスタンスであり、「たかじんのそこまで言って委員会」などで制度を強く批判している。
趣味はギャンブル(カジノ)でよく海外に訪れる。またオーストラリアに訪れた際は現地で競走馬をセリで落とし「チョウマル」と名付けデビューも果たしている。
トイプードルを2匹飼っている。
桂吉朝がざこばに電話をした際、落語家の物真似が得意な吉朝は、いたずら心を出して桂春團治の声色を使った。ざこばはすっかり春團治からの電話だと信じ込み、吉朝の物真似だと知るや「洒落んならん」と激怒した。もっともざこばは、桂米二に同じ手を自らも試みた[12]。
発言[編集]
出演番組における発言が、問題視されたりマスコミで報じられた以下のケースがある。
2009年4月に無期限謹慎が発表されたタレント北野誠に関して、同月14日、自身がレギュラーを務めるABCのラジオ番組「元気イチバン!!芦沢誠です」にて、「北野誠、がんばれよ!」「何を言うたんや北野誠!」とエールを送るとともに「バーニング!」と特定の芸能プロによる圧力を連想させる奇妙な叫び声をあげ、共演の局アナ芦沢誠を凍りつかせたとされる[13][14]。
2009年8月30日、「乱!総選挙2009」MBSローカル版において、公明党の苦戦を伝える文脈の中で「落ちるということは信心が足らんということなんですか?」と発言し、CM明けに局アナが謝罪した[15]。
人間関係[編集]
師匠・米朝に関して[編集]
内弟子時代に米朝の自宅にて居候していた頃、背中の皮膚病で悩まされ、塗り薬を塗っていたが、薬の悪臭がひどく米朝家のお手伝いさんに嫌がられていた。ある時に米朝はざこばを手招きし、薬をその背中に塗ってくれた。その薬は一向に効かず、改めて別の病院で受けた注射でようやく治ったが、ざこばは米朝の思い遣りに感激し恩に感じ、一生付いていこうと心に決めた[16]。
米朝の長男である明(現:5代目桂米團治)がまだ赤ん坊の頃、子守を言いつけられていたざこばは、明を背中に背負ったままキャバレーに入り浸っていたといわれるが、これは兄弟子である月亭可朝のこと。赤ん坊がいた方が店の女の子からモテるというのが理由。また、明が幼稚園の頃、明を自転車に乗せていて転び、額に怪我を負わせた[16]。
襲名に関して米朝は、「米朝」の名をやっても良いが本人が欲しがらないだろうと言っており、ざこば自身も小米朝(現:米團治)が継ぐべきだとしていた。小米朝が落語家になることを米朝はあまり勧めていなかったが、ざこばと枝雀が米朝を口説き落として小米朝の弟子入りが実現した経緯もあり、その当時から米朝の名は小米朝が継ぐものと決めていたようである。結局、小米朝は米朝の名を継がず、5代目桂米團治を襲名した。
その他[編集]
やしきたかじんとは、1988年6月の「ナイトinナイト(ABC)」収録中、待ち時間の長さに腹を立てたざこばが、司会のたかじんと口論の末、本番中に帰ったことに始まり、約5年に渡り犬猿の仲であった。1993年2月、たかじん司会の「たかじんnoばぁ~(読売テレビ)」でざこばがゲストとして出演。たかじんと酒を酌み交わしながら、激しく本音をぶつけ合った。その結果、2人は仲直りすることに成功。以来たかじん司会の番組で共演するようになる。だが、2014年1月にたかじんは逝去する。同年2月に放送された「たかじん追悼スペシャルそこまで逝って委員会」(読売テレビ)に、ざこばが出演し、前述の和解のVTRが流された後、号泣していた[17]。
家族[編集]
タレントの関口まいは実娘で次女(長女は一般人なので名前は公表していないが、米朝一門の歌舞伎座公演で、妻子の名前を枕として喋ったことがある)。2010年3月25日、初孫(まいの第一子)誕生。同年9月には長女にも第一子が生まれ、現在2人の孫が居る。まいのブログでは相変わらずの子煩悩ならぬ孫煩悩ぶりな様子が娘のブログで報告されている。ざこばのカラオケの十八番が「娘よ」で、唄っていると泪でボロボロになる。ざこばは孫に「朝丸」を継がせると発言しており、落語会に孫をお目見えさせたこともある[18]。
出演番組[編集]
現在放送中の番組[編集]
ちちんぷいぷい(毎日放送、毎週月曜)
そこまで言って委員会NP(旧:たかじんのそこまで言って委員会)(読売テレビ・関東など一部を除くNNS系列・OBS・MRT、毎週日曜)
探偵!ナイトスクープ(ABCテレビ、毎週金曜、不定期に顧問として出演)
昼間っから激論バラエティ 胸いっぱいサミット!(旧:たかじん胸いっぱい)(関西テレビ、毎週土曜、不定期に出演、前身番組のたかじん胸いっぱいでは2009年3月までレギュラー出演)
放送が終了した番組[編集]
桂朝丸のモーニングサークル(KBS京都ラジオ)
ウィークエンダー(日本テレビ)
ざこば・鶴瓶らくごのご(ABCテレビ)
おっちゃんVSギャル(ABCテレビ)
文珍なぞなぞランド(ABCテレビ)
新伍のお待ちどおさま(TBS)
新伍Niタッチ!(毎日放送)
かんさい珍版・瓦版(毎日放送)
ザ・対決!(フジテレビ)
三枝の愛ラブ!爆笑クリニック(関西テレビ)
痛快!エブリデイ(関西テレビ、毎週月曜)
ときめきタイムリー(よみうりテレビ)
中居くん温泉(よみうりテレビ)
ざこばの場(ABCラジオ)
ラブラブダッシュ!(CBCテレビ)
元気イチバン!!芦沢誠です(ABCラジオ、毎週火曜)
丑三つ亭(毎日放送、単発、不定期)
米朝よもやま噺(ABCラジオ、毎週日曜、不定期のゲスト出演ながら最多だった)
過去に出演した番組[編集]
バラエティー生活笑百科(NHK大阪放送局制作、NHK総合テレビ、毎週土曜)
大阪ほんわかテレビ(読売テレビ、毎週日曜)
笑点(日本テレビ、毎週日曜)
知っとこ!(放送開始 - 2012年3月まで、毎日放送制作、TBS系列、毎週土曜)
おはようパーソナリティ道上洋三です(ABCラジオ、2013年1月11日にゲスト出演[19])
テレビドラマ[編集]
いらっしゃいませ!(1980年、関西テレビ)
裸の大将放浪記(1981年、関西テレビ)
先生お・み・ご・と!(1982年、関西テレビ)
やすしの水戸黄門(1984年 - 1985年、ABCテレビ)
京都妖怪地図(1986年、ABCテレビ)
女と刑事(1986年12月8日、関西テレビ)
必殺仕事人V・風雲竜虎編(1987年、ABCテレビ)
次郎長三国志東海道の暴れん坊(1988年、テレビ朝日)
京絵皿の秘密殺人(1988年12月7日、関西テレビ)
隣家の寝室(1989年2月13日、関西テレビ)
ハワイからきた殺人者(1989年10月6日、関西テレビ)
付き馬屋おえん事件帳(1990年、テレビ東京)
会長の遺産(1990年1月15日、関西テレビ)
わんぱく天使(1990年 - 1991年、関西テレビ)
華の宴(1991年 - 1992年、読売テレビ)
大忠臣蔵(1994年、TBS)
名奉行 遠山の金さん(1994年、テレビ朝日)
赤穂浪士(1999年、テレビ東京)
天の瞳2(2001年、テレビ朝日)
やもめ記者万年さん(2002年、BSジャパン)
明日は陽のそばで(2002年11月16日、関西テレビ)
水戸黄門 1000回記念3時間スペシャル(2003年12月15日、TBS)
痛快エブリデイを抹殺せよ!?(2004年3月21日、関西テレビ)
子ほめ(2007年12月8日、関西テレビ)
官僚たちの夏(2009年、TBS)
Y・O・U やまびこ音楽同好会(2013年11月30日、関西テレビ)
映画[編集]
泥棒貴族・ボディハンター(1996年)
御法度(1999年)
殺しやPAZUZU(2000年)
影の交渉人 ナニワ人情列伝(2009年)
はやぶさ/HAYABUSA(2011年) - 中和神社宮司 役
舞台[編集]
銀二貫(2017年6月、大阪松竹座)
弟子[編集]
直弟子[編集]
桂塩鯛
桂喜丸(2004年4月14日死去)
桂出丸
桂わかば
桂ひろば
桂ちょうば
桂そうば
桂あおば
桂りょうば(桂枝雀の長男)
あなば、はかばなど、初高座も上がらず名前もつかずに廃業した弟子は数知れず居る。
孫弟子[編集]
(桂塩鯛の弟子)
桂米紫
桂鯛蔵
桂小鯛
レコード・CD[編集]
「朝丸の動物いじめ」 (テイチクレコード)
「尽くさんかい」 (作詞・作曲:桂ざこば プロデュース:円広志、1999年、インディーズ)
「THE ざこば」 (EMI MUSIC JAPAN、CDとDVD)※2008年3月26日
著書[編集]
『桂ざこばのざっこばらん』(2006年2月、ベストセラーズ)ISBN 4-584-18918-8
『わかってぇなぁ! 桂ざこばのざっこばらん2』(2008年6月、ベストセラーズ)ISBN 978-4584130896
『ざこBar 酒とテレビと落語と〇〇』(2013年2月、朝日新聞出版) ISBN 978-402251057-0
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ a b c d e “桂ざこば|米朝事務所”. 2013年1月15日閲覧。
^ 桂米朝事務所 公式サイト
^ 雑誌『醸界春秋』1999年1月15日号に掲載
^ 産経新聞2006年7月27日の記事「桂ざこば、60歳でマスコミ引退し落語家に専念」より
^ “桂ざこば休演のお知らせ”. お知らせ. 米朝事務所 (2017年5月28日). 2017年5月28日閲覧。
^ “お知らせ 大阪松竹座公演『銀二貫』桂ざこば 休演のお詫びとお知らせ”. 松竹株式会社 (2017年5月28日). 2017年5月28日閲覧。
^ “桂ざこば、脳梗塞入院にエールの声続々 「そこまで言って委員会」映像で心配の声”. J-CASTニュース (2018年5月28日). 2018年5月28日閲覧。
^ “桂 ざこば”. 株式会社タレントデータバンク. コトバンク. 2015年8月17日閲覧。
^ “桂ざこば 初舞台は拘置所で爆笑の連続”. デイリースポーツ (2015年8月16日). 2015年8月17日閲覧。
^ 2004年4月18日デイリースポーツ 芸能面 などより。
^ “「お師匠はん、大好きでした…」 春団治さんお別れの会、ざこばさん泣き崩れ”. 産経新聞. (2016年1月26日) 2016年1月30日閲覧。
^ 『わかってぇなぁ! 桂ざこばのざっこばらん2』(KKベストセラーズ)第1章「犬も食わない!尽きない話」
^ “局アナも凍りついた…桂ざこば“北野誠”に禁句エール” (2009年4月15日). 2009年4月15日閲覧。
^ “「バーニング!」桂ざこば ラジオで北野誠にエールも憶測呼ぶ不規則発言” (2009年4月15日). 2009年4月15日閲覧。
^ “信心が足りなかった - YouTube” (2009年9月2日). 2015年1月17日閲覧。
^ a b 『桂ざこばのざっこばらん』(KKベストセラーズ)第4章「フーテン落語家」
^ “桂ざこば、たかじんさん映像に号泣「もう映さんといてや~」”. サンケイスポーツ (2014年1月26日). 2014年12月30日閲覧。
^ 『わかってぇなぁ! 桂ざこばのざっこばらん2』(KKベストセラーズ)第5章「どうかよろしゅうに頼んます!」
^ “堂々上々 道上洋三が行く 第16回 ゲスト 芸能生活50年 桂ざこばさん”. おはようパーソナリティ道上洋三です (2013年1月11日). 2014年3月21日閲覧。
参考文献[編集]
『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』(出版文化社 2006年)
桂小米朝インタビュー 「追悼 桂吉朝」『落語ファンクラブ』vol.2(白夜書房 2006年)
桂ざこば - 米朝事務所公式プロフィール
協会員プロフィール:桂ざこば - 上方落語協会公式プロフィール
インタビュー<日曜日のヒーロー>第410回桂三枝 - ニッカンスポーツ2004年4月18日の記事
NIKKEI NET 京の噺家 桂米二でございます 第30回「エイプリルフール」 - NIKKEI NET2004年4月2日の記事
関連項目[編集]
落語家一覧
米朝一門
やしきたかじん
なるみ - 愛称「ざこびっち」の名付け親
外部リンク[編集]
桂ざこば - 桂米朝事務所による公式サイト
桂ざこば (@sekiguchi11) - Twitter
動楽亭 寄席情報
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表 話 編 歴
探偵!ナイトスクープ
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カテゴリ: 落語家吃音の人物大阪市出身の人物1947年生存命人物
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最終更新 2017年6月10日 (土) 15:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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