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井上幻庵因碩 氏に関する検索
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
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Wikipediaの記事を引用/参考します。(CC BY-SA 3.0)
井上幻庵因碩
井上 幻庵因碩(いのうえ げんなんいんせき、1798年(寛政10年) - 1859年(安政6年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十一世井上因碩、八段準名人。井上家は代々因碩を名乗ったため、隠居後の号である幻庵を付けて幻庵因碩と呼ぶ。相続前には橋本因徹、服部立徹、井上安節と改名。名人の技倆ありと言われながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈、安井知得仙知、本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。本因坊丈和との名人碁所を巡る暗闘(天保の内訌)でも知られる。碁盤全体を使うスケールの大きな棋風が特色。別号として橘齋もある。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 丈和との暗闘
1.2 晩年
1.3 御城碁成績
2 代表局
3 世系書き換え
4 著作
5 参考文献
6 関連文献
7 外部リンク
経歴[編集]
出生地、実名は不明。姓は橋本、自著『囲碁妙伝』では武門の生と記している。字は可義。6歳で井上家の外家である服部因淑に入門。文化6年(1809年)12歳で初段となり、師の因淑の元の名である因徹を名乗る。翌年服部家の養子となって服部立徹と改名。文政2年(1819年)に跡目として井上家に入り井上安節を名乗る。幼少からの厳しい修行により、この時には奥歯4本が抜けていたという。同年五段で、御城碁に初出仕、本因坊元丈に先二の二子局でかろうじて1目勝ちとし、この碁は元丈一生の出来栄えと言われる。文政7年(1824年)に十世井上因砂因碩が隠居して家督を継ぎ、十一世井上因碩となり、また六段昇段。この文政7、8年に「的然として昇達」と自身で述べ、8年の仙知に先番10目勝ちの碁に対し関山仙太夫は「黒打方極妙」と評している。
丈和との暗闘[編集]
天保の内訌においては、丈和ともう一方の主役だった。丈和は因碩の11歳年長であり、対戦は因碩15歳の時の先二の手合から始まり先相先まで70局、幻庵の35勝28敗3持碁4打ち掛けであった。文政11年(1828年)1月に丈和は八段準名人に昇り、その翌月に因碩も八段準名人に昇る。その後丈和の名人碁所就位において6年後に地位を譲るという密約を交わし、因碩は丈和の碁所を認める口上書を提出するが、天保2年(1831年)に名人碁所に就位した丈和は約束を守らず、因碩は碁所就位の運動を起こす。天保6年(1835年)7月、松平家碁会において弟子の赤星因徹を丈和と対局させるが敗れる。(因徹吐血の局)
天保10年(1839年)に丈和が引退すると、因碩は名人碁所の願書を提出、これに本因坊丈策が異義を申し出て、天保11年(1840年)に丈策の跡目で当時21歳の秀和との四番争碁を打つことになる。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先4目勝ちとなり、途中2度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。その後、天保13年(1842年)にも秀和と2度対局するが、秀和の先番を破れず、名人碁所を断念する。その後弘化2年(1845年)、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子(水谷順策)となっていたのを井上家跡目に迎え、井上秀徹とする。同年太田雄蔵と十番碁を行うが(雄蔵先)、棋譜は3局までのみ残っている。
晩年[編集]
弘化3年(1846年)、浪華滞在中に、後に秀和の跡目となる安田秀策と数局対局し、その中の1局が耳赤の一局として知られる。
またこの年の江戸城火災に際して、幕府が諸大名に築城費用を課したことを諌める上書を提出し、閉門に処せられた。しかしこの後将軍家慶は諸侯への課金を減じ、因碩は処分を解かれ、その名が大いに轟いたとも言われる。
嘉永元年(1848年)に隠居して幻庵を号し、秀徹が十二世井上因碩となる。しかし秀徹は嘉永3年(1850年)に門人斬殺の事件を起こして退隠、後継者を予定していた服部正徹が旅行中であったため、林家門人の松本錦四郎に家督を継がせて十三世井上因碩とした。
嘉永6年(1853年)には、弟子の三上豪山を伴い清国に渡航を企てるが、玄界灘にて暴風雨に遭い挫折する。この帰途に資金に困り、九州佐賀地方で免状を乱発したため、実力の伴わない初段を「因碩初段」と称されるようになった。
安政6年(1859年)没、諡は方義。安政4年の吉田半十郎との二子局が、最後の棋譜として残されている。
自身、兵法家をもって任じていたと言われ、「孫子」「論語」などの造詣も深く、著書でもしばしば引用している。幻庵ー秀和の碁を調べた丈和は「因碩の技、実に名人の所作なり、只惜しむらくは其時を得ざるにあり」と述べている。また因碩の名作とされる安井算知 (俊哲)戦(天保6年、算知先、白3目勝)に関山仙太夫は「此時因碩既に妙に達す。本局は後学の範となすに足る」と評した。『囲碁妙伝』では「勝負のみにて強弱を論ずるは愚の甚だしき也、諸君子運の芸と知りたまえ」の語を残している。
御城碁成績[編集]
1819年(文政2年)二子1目勝 本因坊元丈
1820年(文政3年)先番11目勝 林元美
1821年(文政4年)先番12目負 本因坊丈和
1822年(文政5年)二子中押勝 安井知得仙知
1823年(文政6年)先番2目勝 服部因淑
1824年(文政7年)先番2目勝 本因坊元丈
1825年(文政8年)向二子中押勝 林伯悦
1826年(文政9年)先番13目勝 安井知得仙知
1830年(天保元年)向二子中押負 安井俊哲
1832年(天保3年)向二子中押負 林伯栄
1836年(天保6年)白番ジゴ 安井俊哲
1842年(天保13年)白番1目負 安井算知
同年 白番4目負 本因坊秀和
代表局[編集]
秀和との争碁第1局を敗れた1年半後の天保13年(1842年)、旗本磯田助一郎宅で対局の機会を得た。5月16日から18日まで二日半かけて打たれ、 先番秀和の6目勝となったが、白は序盤から局面をリードし、幻庵の名局の一つと言われる。
譜1. 2隅を空けたまま白1(16手目)から3、13と奔放に打って上辺を大模様にする。
Gennan-Shuwa18420516-1.jpg
譜2. 白は左下で黒一目を切り離し、白1(66手目)から上辺も大きく囲って白5まで白優勢だが、白7、9が打ち過ぎで、後に黒Aのコウを狙われて苦戦となった。
Gennan-Shuwa19420516-2.jpg
終盤で黒1目勝と思われたが、白の見損じで5目損し、黒6目勝となった。この碁で名人の道を断たれた悔しさが5目損の手を打たせたとの、後世の見方もある。
世系書き換え[編集]
井上家は元は井上玄覚因碩を一世としていたが、幻庵因碩は井上家の家格を上げるために、玄覚因碩の師であった二世名人中村道碩を井上家一世とする書き換えを行ったと見られる。そのため、幻庵因碩は家督を継いだ時には十世であったが、後に十一世を名乗るようになった。
また、本因坊道策以来、名人(九段)と上手(七段)の間を「半名人」(八段)と呼んでいたのを、「準名人」という呼び方にしたのが幻庵因碩で、次第にこちらが定着していった。
著作[編集]
棋譜の評を付けた嘉永5年(1852年)『囲碁妙伝』が著名。序に「局前無人局上無石」の語があり、後の岩本薫も色紙に揮毫した。
他に修業時代までの打碁を収めた『奕図』(1819年)、及び『囲碁終解録』(1844年)がある。
参考文献[編集]
安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
林裕、橋本宇太郎『幻庵因碩 日本囲碁大系(11)」筑摩書房 1975年 ISBN 4480691111
江崎誠致「名棋士物語 幻庵因碩」(『棋道』1982年2月号)
福井正明『幻庵因碩 打碁集-局前人なく局上石なし』誠文堂新光社 2005年(1809-1857年の棋譜155局を収録)ISBN 4416705034
幻庵因碩『囲碁妙伝(上)(下)』高木祥一編 教育社 1991年 ISBN 4315510777, 4315510785
『囲碁妙伝』(囲碁名著文庫10)池田書店 1983年
安倍吉輝『英傑幻庵因碩』日本棋院 2001年
関連文献[編集]
高木彬光「渡海志願」(日本推理作家協会編『殺意のカクテル』(光文社 1974年)所収)
因碩晩年の清国渡航の企てを描いた小説。
百田尚樹『幻庵』文芸春秋、2016年
外部リンク[編集]
木石庵「井上幻庵因碩」
カテゴリ: 江戸時代の囲碁棋士1798年生1859年没
山陽明石駅
山陽明石駅*
山陽電鉄側の駅出入口(南口)
山陽電鉄側の駅出入口(南口)
さんようあかし
Sanyo-Akashi
◄SY 16 人丸前 (0.8km)(1.2km) 西新町 SY 18►
兵庫県明石市大明石町一丁目4-1
北緯34度38分55.49秒 東経134度59分35.75秒
駅番号 ●SY 17
所属事業者 Sanyo electric railway logo-2.svg山陽電気鉄道
所属路線 本線
キロ程 15.7km(西代起点)
梅田から52.8km
駅構造 高架駅
ホーム 2面4線
乗車人員
-統計年度- 14,041人/日(降車客含まず)
-2015年-
開業年月日 1917年(大正6年)4月12日**
乗換 明石駅(JR神戸線)
* 改称経歴(1931年の駅統合以降)
- 1943年 明石駅前駅→電鉄明石駅
- 1991年 電鉄明石駅→山陽明石駅
** 兵庫電気軌道明石駅前駅としての開業日。1931年に神戸姫路電気鉄道明石駅を統合。
テンプレートを表示
山陽明石駅(さんようあかしえき)は、兵庫県明石市にある、山陽電気鉄道本線の駅。駅番号はSY 17。
西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線(JR神戸線)の明石駅南側に隣接している。全列車が停車する。
目次 [非表示]
1 駅構造
1.1 のりば
2 利用状況
3 駅周辺
4 歴史
4.1 年表
5 隣の駅
5.1 かつて存在した路線
6 参考文献
7 関連項目
8 脚注
9 外部リンク
駅構造[編集]
待避設備を備えた島式ホーム2面4線の高架駅。改札口は東西1ヶ所ずつにあり、基本的に駅員は西改札のみ配備される。
のりば[編集]
1・2 ■本線(下り) 姫路・網干方面
3・4 ■本線(上り) 神戸三宮・大阪方面
内側2線(2番線と3番線)が主本線、外側2線(1番線と4番線)が待避線である。
2009年3月20日のダイヤ改正で当駅で行う普通列車と特急列車の接続を昼間時に限り変更。当該時間帯の特急列車の通過待ちは霞ヶ丘駅で行う。また平日1本のみ当駅終着の下り普通列車も設定されている。2012年3月20日のダイヤ改正で、平日夕方に当駅発新開地行き普通車が1本新設された。この普通車は東二見~山陽明石間は回送、山陽明石4番線に入線、後続の直通特急を待避した後に発車する。
神戸側に6連対応の引上線がある(高架化以前は神戸側姫路側双方に引上線があった)。3番線と4番線は姫路側にも出発信号機が設置されており、3・4番線からも姫路方面への出発が可能である(2016年現在は設定が無い)。
プラットホーム
天文科学館から駅を俯瞰
利用状況[編集]
乗降者数 28,545人(2009年11月10日調査)
山陽電鉄48駅のうち最も乗降客数が多い[1]。
姫路方面から乗車してきた乗客の多くがこの駅でJR神戸線に乗り換える。JRとは競合関係にあるためか、駅到着時もJRへの乗り換え案内は一切行われないが、対するJRは逆に、山陽電鉄への乗り換え案内を行っている。
以下に各年の乗降客数を示す。
年度 乗車人員総数 内 定期利用者数 出典
人/日 増減 順位 人/日 増減 利用率 神 明 播 加 高 姫
1937(S12) 5,625 [2]
1938(S13) 6,264 11.362% [2]
1939(S14) 7,568 20.827% [2]
1940(S15) 10,754 42.088% [2]
1941(S16) 16,896 57.119% [2]
1942(S17)
1943(S18)
1944(S19)
1945(S20)
1946(S21)
1947(S22)
1948(S23)
1949(S24) 6,911 [3]
1950(S25)
1951(S26) 12,735 [4]
1952(S27) 14,120 10.874% [4]
1953(S28) 12,784 -9.459% [4]
1954(S29) 12,898 0.892% [4]
1955(S30) 12,693 -1.594% [4]
1956(S31) 14,056 10.746% [5]
1957(S32)
1958(S33)
1959(S34) 14,126 [6]
1960(S35) 15,165 7.360% [7]
1961(S36) 16,814 10.870% [8]
1962(S37) 18,181 8.129% [8]
1963(S38) 19,138 5.263% [8]
1964(S39) 20,780 8.582% [8]
1965(S40) 21,384 2.904% [8]
1966(S41) 21,564 0.846% [9]
1967(S42) 23,411 8.563% [9]
1968(S43) 24,000 2.516% [9]
1969(S44) 25,386 5.776% [9]
1970(S45) 25,416 0.119% [9]
1971(S46) 25,852 1.714% 17,279 66.840% [10]
1972(S47) 25,027 -3.190% 17,238 -0.238% 68.878% [11]
1973(S48) 24,307 -2.879% 16,507 -4.243% 67.910% [12]
1974(S49) 24,405 0.406% 16,384 -0.747% 67.131% [13]
1975(S50) 24,373 -0.135% 16,082 -1.839% 65.985% [14]
1976(S51) 20,921 -14.164% 13,849 -13.884% 66.200% [15]
1977(S52) 21,088 0.799% 13,679 -1.227% 64.869% [16]
1978(S53) 20,532 -2.637% 13,679 0.000% 66.627% [17]
1979(S54) 19,962 -2.776% 13,041 -4.667% 65.331% [18]
1980(S55) 18,690 -6.368% 11,874 -8.950% 63.530% [19]
1981(S56) 18,258 -2.316% 11,381 -4.153% 62.335% [20]
1982(S57) 17,696 -3.076% 11,000 -3.346% 62.161% [21]
1983(S58) 17,227 -2.647% 10,518 -4.384% 61.053% [21]
1984(S59) 16,934 -1.702% 10,342 -1.667% 61.074% [21]
1985(S60) 17,351 2.459% 10,803 4.450% 62.261% [21]
1986(S61) 17,044 -1.769% 10,512 -2.688% 61.678% [21]
1987(S62) 16,655 -2.283% 10,142 -3.518% 60.898% [22]
1988(S63) 16,860 1.234% 10,288 1.432% 61.017% [22]
1989(H01) 16,803 -0.341% 10,236 -0.506% 60.916% [22]
1990(H02) 17,707 5.381% 10,833 5.835% 61.179% [22]
1991(H03) 19,444 9.810% 11,827 9.181% 60.829% [23]
1992(H04) 20,197 3.875% 02/48 12,562 6.208% 62.195% [24] [23] [25] [26] [27] [28]
1993(H05) 20,819 3.079% 02/48 13,079 4.122% 62.824% [24] [23] [25] [26] [29] [30]
1994(H06) 21,107 1.382% 01/48 13,153 0.566% 62.318% [24] [23] [25] [26] [29] [30]
1995(H07) 24,132 14.330% 01/48 15,342 16.642% 63.579% [24] [23] [25] [31] [29] [30]
1996(H08) 21,477 -11.001% 01/48 13,553 -11.661% 63.108% [24] [32] [25] [31] [29] [30]
1997(H09) 20,468 -4.694% 01/48 12,926 -4.629% 63.151% [33] [32] [25] [31] [34] [30]
1998(H10) 19,063 -6.867% 01/48 12,066 -6.655% 63.294% [33] [32] [25] [31] [34] [35]
1999(H11) 17,545 -7.962% 01/48 11,301 -6.335% 64.413% [33] [32] [25] [31] [34] [35]
2000(H12) 16,701 -4.809% 01/48 10,625 -5.988% 63.615% [33] [32] [25] [36] [34] [35]
2001(H13) 16,255 -2.674% 01/48 10,112 -4.822% 62.211% [33] [37] [38] [36] [34] [35]
2002(H14) 15,660 -3.658% 01/48 9,671 -4.362% 61.756% [39] [37] [38] [36] [34] [35]
2003(H15) 15,296 -2.327% 01/48 9,411 -2.691% 61.526% [39] [37] [38] [36] [34] [40]
2004(H16) 14,874 -2.758% 01/49 9,052 -3.814% 60.858% [39] [37] [38] [36] [41] [40]
2005(H17) 14,800 -0.497% 01/49 9,145 1.029% 61.792% [39] [37] [38] [42] [41] [40]
2006(H18) 14,764 -0.241% 01/49 8,995 -1.648% 60.920% [39] [43] [38] [42] [41] [40]
2007(H19) 14,666 -0.668% 01/49 8,934 -0.670% 60.919% [44] [43] [45] [42] [41] [40]
2008(H20) 14,690 0.168% 01/49 9,088 1.717% 61.861% [44] [43] [45] [42] [41] [46]
2009(H21) 14,321 -2.518% 01/49 8,984 -1.146% 62.732% [44] [43] [45] [42] [41] [46]
2010(H22) 14,329 0.057% 01/49 9,066 0.915% 63.270% [44] [43] [45] [47] [41] [46]
2011(H23) 14,214 -0.803% 01/49 9,000 -0.725% 63.319% [44] [48] [45] [47] [49] [46]
2012(H24) 14,140 -0.520% 01/49 8,970 -0.335% 63.437% [50] [48] [45] [47] [49] [46]
2013(H25) 14,255 0.814% 01/49 9,090 1.344% 63.771% [50] [48] [51] [47] [49] [52]
駅周辺[編集]
明石駅を参照。接続バス路線については明石駅バスのりばを参照。
山陽明石駅高架下には「グルメファクトリー」が併設されており、東西改札口のほか地下でも、食料品店を中心にさまざまな店舗が営業している。地下部分においては大小の飲食店が長く営業を続けていたが、山陽電鉄の再開発計画により、2009年11月18日より地下全フロアは食品スーパーMISUGIYAの店舗となった。平成28年にはピオレ明石が開業した。
歴史[編集]
神戸姫路電気鉄道の明石駅前駅、1924年3月20日撮影
山陽電鉄の明石駅につながる駅として最初に建設されたのは、兵庫電気軌道の明石駅前駅である。兵庫電気軌道は兵庫から電気鉄道を西に延ばして明石に到達し、1917年(大正6年)4月12日開業した。この際、現在の国道2号沿いに線路を敷設し、明石駅前交差点の北西側に明石駅前駅を設置した。さらにそこから西へ線路は伸び、大明石町1丁目交差点の手前から南へカーブして、魚の棚西端付近に南北方向に明石駅が設置された。これは、明石港からの淡路連絡を考慮したものであった。明石駅の南約70 mの場所に播淡聯絡汽船の乗り場があった。
続いて、1923年8月19日に別会社である神戸姫路電気鉄道によって、明石駅前 - 姫路駅前(現在の山陽姫路)間が開業した[53]。両社は架線の電圧など規格が異なっており、当初は直通は行われず駅も別にあった。神戸姫路電気鉄道は、ほぼ現在の山陽電鉄のルートに沿って西から線路を延ばし、国鉄明石駅南口の広場の南側、兵庫電気軌道の駅のほぼ北隣に明石駅前駅を設置した。これは、高架化によって山陽電鉄の駅がJRの駅側に寄せられるまで電鉄明石駅が存在していた場所である。
1927年に両社が宇治川電気に合併して同一事業体となると、両社の規格の差を解消して直通運転を行うことになった。まず、神戸姫路電気鉄道の側の線路を付け替えて、1927年12月6日から兵庫電気軌道の明石駅前駅に乗り入れるようになり、この時に一旦神戸姫路電気鉄道の明石駅前駅は廃止された。その後、神戸姫路電気鉄道の明石駅前駅の跡地で新しい明石駅前駅の工事が進められ、また大蔵谷駅付近から旧兵庫電気軌道の線路の付け替え工事が行われてほぼ現在のルートとなり、1931年12月23日に開業した。この時、旧兵庫電気軌道の明石駅前駅は廃止となった。
年表[編集]
1917年(大正6年)4月12日 - 兵庫電気軌道の兵庫 - 明石間完成時に、明石駅前駅として開業。
1923年(大正12年)8月19日 - 神戸姫路電気鉄道により、明石 - 姫路間開業。同線の明石駅を設置。
1927年(昭和2年)
1月1日 - 兵庫電気軌道が宇治川電気に合併され、同線の明石駅前駅は同社の駅となる。
4月1日 - 神戸姫路電気鉄道が宇治川電気に合併され、同線の明石駅は同社の駅となる。
12月6日 - 旧神戸姫路電気鉄道明石駅前駅の西方から旧・兵庫電気軌道明石駅前駅との間に連絡線を設け、旧神戸姫路電気鉄道の明石駅前駅を旧兵庫電気軌道の駅に移転・統合。
1928年(昭和3年)8月28日 - 兵庫 - 姫路間直通運転開始。
1931年(昭和6年)12月22日 - 明石駅前駅 - 明石駅間を廃止。翌日に大蔵谷駅 - 明石駅前間を軌道移設し、駅を統一。
1933年(昭和8年)6月6日 - 宇治川電気の鉄道部門が分離され、山陽電気鉄道の駅となる。
1934年(昭和9年)9月18日 - この日より設定された特急の停車駅となる。
1943年(昭和18年)11月20日 - 電鉄明石駅に改称。
1944年(昭和19年)4月20日 - 特急運転中止。
1949年(昭和24年)4月15日 - 特急運転再開、改めてその停車駅となる。
1991年(平成3年)
4月3日 - 明石市内連続立体化工事による高架化完成。
4月7日 - 山陽明石駅に改称。
1995年(平成7年)
1月17日 - 阪神・淡路大震災で山陽電鉄本線が不通。翌日(1月18日)営業再開するが、当駅から西代方は不通のまま。
1月27日 - 霞ヶ丘 - 山陽明石間運転再開(同年6月18日に全線復旧)。
2012年(平成24年)
5月 - 新運行システム導入に伴い、フルカラーLED発車標と接近・発車メロディの導入を開始。
隣の駅[編集]
山陽電気鉄道
本線
■■直通特急
舞子公園駅 (SY 13) - 山陽明石駅 (SY 17) - 東二見駅 (SY 25)
■S特急
霞ヶ丘駅 (SY 12) - 山陽明石駅 (SY 17) - 藤江駅 (SY 20)
■普通
人丸前駅 (SY 16) - 山陽明石駅 (SY 17) - 西新町駅 (SY 18)
1946年まで、人丸前駅と当駅の間に「遊園地前駅」が存在した。
かつて存在した路線[編集]
宇治川電気電鉄部
旧兵庫電気軌道線廃止区間
明石駅前駅(現・山陽明石駅) - 明石駅
参考文献[編集]
神戸新聞総合出版センター『ひょうご懐かしの鉄道 廃線ノスタルジー』 2005年 ISBN 4-343-00322-1
今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図 9号 関西2』新潮社、2008年、pp.54-55.
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、山陽明石駅に関連するカテゴリがあります。
日本の鉄道駅一覧
京成船橋駅・横浜駅(京浜急行電鉄) - 当駅と同じように都心方面への乗客の多くがJRに乗り換える。
脚注[編集]
^ 第92回神戸市統計書 平成27年度版(最終更新日2016年4月7日) 9 陸上運輸・空港、
明石市統計書 平成27年版(2015年) 更新日:2016年3月31日、
播磨町統計書(2013年版)、更新日:2016年3月1日、
平成26年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2015年4月21日、
高砂市統計書(27年度) 9.運輸・通信、更新日: 2016年3月7日、
姫路市統計要覧 - 平成25年(2013年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e 『昭和十七年版 明石市勢一班[第貳拾參回]』 明石市役所 企画弘報課、 昭和17年11月1日發行(橫山印刷)、p.63
^ 『明石市統計書 昭和25年版』 明石市役所 企画弘報課、昭和25年12月1日刊行 (奥付なし)、p.80
^ a b c d e 『明石市統計書 昭和31年版』 明石市秘書課 広報統計係、昭和32年1月1日刊行 (奥付なし)、p.117
^ 『明石市統計書 昭和32年版』 明石市秘書課 広報統計係、昭和32年12月1日刊行 (奥付なし)、p.117
^ 『明石市統計書 昭和35年版』 明石市役所 秘書課広報統計係、昭和35年12月1日刊行 (奥付なし)、p.143
^ 『明石市統計書 昭和36年版』 明石市役所 秘書課広報統計係、昭和36年12月1日刊行 (奥付なし)、p.150
^ a b c d e 『明石市統計書 昭和41年版』 明石市企画室、昭和42年1月刊行 (奥付なし)、p.146
^ a b c d e 『明石市統計書1971年版』 企画室、昭和46年9月刊行 (奥付なし)、p.138
^ 『明石市統計書1972年版』 昭和47年9月刊行 (奥付なし)、pp.152-153
^ 『明石市統計書(昭和48年版)』 昭和48年9月刊行 (奥付なし)、pp.129-131
^ 『明石市統計書(昭和49年版)』 昭和49年9月刊行 (奥付なし)、pp.158-159
^ 『明石市統計書(昭和50年版)』 昭和50年12月刊行 (奥付なし)、pp.186-187
^ 『明石市統計書(昭和51年版)』 昭和51年11月刊行 (奥付なし)、pp.232-233
^ 『明石市統計書(昭和52年版)』 昭和52年11月刊行 (奥付なし)、pp.239-240
^ 『昭和53年版 明石市統計書』 明石市市役所総務部企画課統計係、昭和53年12月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.245-246
^ 『昭和54年版 明石市統計書』 明石市市役所総務部企画課統計係、昭和54年12月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.235-236
^ 『昭和55年版 明石市統計書』 明石市役所総務部企画課統計係、昭和56年3月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.261-262
^ 『昭和56年版 明石市統計書』 明石市総務部企画課統計係、昭和57年1月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.261-262
^ 『昭和57年版 明石市統計書』 明石市総務部企画課統計係、昭和58年3月印刷発行(明光印刷有限会社)、pp.265-266
^ a b c d e 『明石市統計書(昭和62年版)』 明石市企画部企画課統計係、昭和63年3月印刷発行(明光印刷有限会社)、p.212
^ a b c d 『明石市統計書(平成4年版)』 兵庫県明石市企画財政部企画課統計係、平成5年3月印刷発行(株式会社 ソーエイ)、p.212
^ a b c d e 『明石市統計書(平成8年版)』 兵庫県明石市企画財政部企画課統計係、平成9年3月印刷発行(株式会社 ソーエイ)、p.216
^ a b c d e 『第74回 神戸市統計書(平成9年度版)』 神戸市震災復興本部総括局復興推進部企画課、平成10年3月印刷発行(交友印刷株式会社)、pp.143-144
^ a b c d e f g h i 『播磨町統計書(平成13年度版)』 兵庫県播磨町企画調整課、平成13年7月発行、p.27
^ a b c 『加古川市統計書(平成7年度版)』 編集:加古川市総務部総務課(平成8年2月)、発行:兵庫県加古川市役所(平成8年3月)、p.105
^ 『高砂市統計書 平成8年版』 編集:総務部総務課、発行:高砂市役所(平成8年11月)、p.49
^ 『姫路市統計要覧 平成5年版』 姫路市総務局総務部情報管理課、平成6年3月発行、pp.102-103
^ a b c d 『高砂市統計書 平成12年版』 高砂市総務部文書課、平成13年2月発行、p.49
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成10年(1998年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e 『加古川市統計書(平成12年度版)』 兵庫県加古川市総務部総務課、平成13年3月発行、p.107
^ a b c d e 明石市統計書 平成13年版(2001年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e 『第79回 神戸市統計書(平成14年度版)』 神戸市企画調整局企画調整部総合計画課、平成15年3月印刷発行(有限会社 わかばやし印刷)、pp.151-152
^ a b c d e f g 高砂市統計書(16年度) 9.運輸・通信、更新日: 2008年3月14日
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成15年(2003年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e 平成17年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2014年12月24日
^ a b c d e 明石市統計書 平成18年版(2006年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e f 播磨町統計書(2007年版)、更新日:2016年3月1日
^ a b c d e 『第84回 神戸市統計書(平成19年度版)』 神戸市企画調整局企画調整部総合計画課、平成20年3月印刷発行(有限会社 わかばやし印刷)、pp.127-128
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成20年(2008年)版 10.運輸・通信
^ a b c d e f g 高砂市統計書(23年度) 9.運輸・通信、更新日: 2012年2月29日
^ a b c d e 平成22年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2014年12月23日
^ a b c d e 明石市統計書 平成23年版(2011年) 更新日:2016年4月22日
^ a b c d e 第89回神戸市統計書 平成24年度版(最終更新日2013年4月8日) 9 陸上運輸・空港
^ a b c d e f 播磨町統計書(2013年版)、更新日:2016年3月1日
^ a b c d e 姫路市統計要覧 - 平成25年(2013年)版 10.運輸・通信
^ a b c d 平成26年度版加古川市統計書(web版)運輸及び通信、更新日:2015年4月21日
^ a b c 明石市統計書 平成27年版(2015年) 更新日:2016年3月31日
^ a b c 高砂市統計書(27年度) 9.運輸・通信、更新日: 2016年3月7日
^ a b 第92回神戸市統計書 平成27年度版(最終更新日2016年4月7日) 9 陸上運輸・空港
^ 播磨町統計書(2015年版)、更新日:2016年3月1日
^ 姫路市統計要覧 - 平成26年(2014年)版 10.運輸・通信
^ そのため、当駅構内には中間駅でありながら0キロポストが存在する。なお、旧兵庫電気軌道の区間は電鉄兵庫駅~西代駅が廃止となった現在でも電鉄兵庫駅起点でキロポストが打たれており、山陽電鉄本線では唯一の0キロポストとなっている。
外部リンク[編集]
山陽明石駅(山陽電気鉄道)
[隠す] Sanyo electric railway logo-2.svg 山陽電気鉄道 本線
(阪神梅田・新開地方面)西代 - 板宿 - 東須磨 - 月見山 - 須磨寺 - 山陽須磨 - 須磨浦公園 - 山陽塩屋 - 滝の茶屋 - 東垂水 - 山陽垂水 - 霞ヶ丘 - 舞子公園 - 西舞子 - 大蔵谷 - 人丸前 - 山陽明石 - 西新町 - 林崎松江海岸 - 藤江 - 中八木 - 江井ヶ島 - 西江井ヶ島 - 山陽魚住 - 東二見 - 西二見 - 播磨町 - 別府 - 浜の宮 - 尾上の松 - 高砂 - 荒井 - 伊保 - 山陽曽根 - 大塩 - 的形 - 八家 - 白浜の宮 - 妻鹿 - 飾磨 - 亀山 - 手柄 - 山陽姫路
(廃線区間)電鉄兵庫 - 長田 - 西代
カテゴリ: 日本の鉄道駅 さ山陽電気鉄道の鉄道駅明石市の鉄道駅1917年開業の鉄道駅
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